ライター伊達直太/取材後記2018

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取材後記 2018

高いところについて 10月某日 晴れ

高いところが苦手である。
世の中にはタワマンなど高いところにある家を好む人もいるようだが、到底理解できない。ジェットコースターとかフリーフォールなどは意味不明である。
たまに打ち合わせなどで十階建てとかそれ以上のビルにお邪魔することがあるが、私の限界は歩道橋くらいの高さであるから、そういう時はたいていビビっている。取材相手が大物でも緊張することはほぼないが、ここは地上十階かなどと考えると、鼓動が早くなり視点が定まらなくなる。間違っても窓際には近づかない。急に窓が割れたらどうする。いきなり瞬間移動して窓の外側に出たらどうなる。みんなそんなことは考えないのだろうか。私は考えてしまうので足がすくむ。
知り合いの心理学の先生によると、そういうものは後天的であるという。つまり、生まれながらにして高所恐怖症の人はいないから、おそらく今まで生きてきた何十年かの間に高いところはヤバいという意識を強く持つようになった。
どこかから落ちた記憶とかはないから、きっと映画とかそういうのを見て怖いと思ったのが最初なのだろう。
それはさておき、私は棒切れのような尖ったものも怖いし、人形も怖いし、虫とか小動物も、血も、ツブツブが集まったものも、魚の目も、宇宙も果てみたいな未知の世界も苦手だ。
いい年こいたおっさんが何を言っているんだと思うかもしれないが、怖いのだから仕方がない。付け加えると、いい年こいたおっさんも苦手である。ただ、それは恐怖感というよりはただ嫌いというだけなのだが。
こういうのも、これまでの人生のどこかで怖いと思ったことがあったからなのだろう。そういう心理的なハンデを背負いながら、今日もボウズが振り回すおもちゃの刀で切られ、チビが可愛がっている人形で一緒に遊ぶ。刀の先端が目に刺さったらどうするのか。人形が突如笑ったりしたらどうなるのか。そんな考えが自然と湧いてくるのを抑えながら、心を無にして遊ぶのである。
ついに最近はジェットコースターに乗ってみたい、とまで言いだすようになった。このことからも恐怖症は後天的であり遺伝ではないと言える。
もしジェットコースターに付き添うことになったら付き添いのバイトを頼むことにしよう。

代行業について 10月某日 晴れ

企業の平均寿命は20年ちょっとであるそうだ。
平均であるから、10年もたない会社もあるし100年続く老舗もあるわけだが、これは割と衝撃的な数字だと私は思う。
何しろ、会社員はだいたい40年くらい働くわけだが、働く場である会社が先になくなってしまう。
単純に考えれば、20歳ちょっとから働いて、40歳ちょっとで転職を強いられることになる。一般的に会社員は安心と安定を象徴するような仕事だと思われているが、実際はそんなことはない。企業は一種の器であり、どんな器にも耐用年数があるのだ。
そう考えれば、転職する人や転職を考える人が増えるのは当然のことだと思うし、転職エージェントみたいな商売が流行るのも当然のことと言えるだろう。
最近は退職代行という仕事もあるらしい。
辞めたいけど言い出せない。そんな人が利用するのだという。
気持ちはわかる。辞めたいと思うということは、その会社から離れたいということだ。二度と近寄りたくない、とすら思っている可能性もある。
しかし、現実には後処理とか手続きなんかがあって顔を出さないといけない。
それは面倒だ。気まずい。そういう心理的負担がかかる状況を誰かに代わってもらえるなら、おそらく私も利用するだろう。
状況としては、カップルの破局や夫婦の離婚にも似ているのかもしれない。
辞めたいを別れたいに置き換えてみると、別れたいと思うということは、その相手から離れたいということであり、二度と近寄りたくない状態だとも言える。しかし現実には、別れる際に、別れましょう、どうしてなのといった不毛な話し合いが行われる。これは面倒だ。気まずい。そういうわけで、退職代行が流行るのなら破局代行も流行るのではないか。
我ながらいいアイデアである。
アイデア料はいらないので、ビジネス案で困っている人は遠慮せずどんどんやってほしい。ひょっとしたら企業の寿命がもうちょっと伸びる可能性もある。
ただ、修羅場に巻き込まれたり逆恨みされるなどして自分の寿命が縮んだとしても私は責任取らないが。

お節介について 9月某日 晴れ

カミさんに言わせると、私はお節介であるらしい。
まったく自覚はない。
自分ではむしろ、人は人、自分は自分という考えが強い方だと思っている。
ただ、堂々とお節介だと指摘されると、そうかもなと思うところもある。
稀にだけど誰かに相談を受けるようなことがあれば、全力で答えるし、聞かれていないことも答える。それがお節介稼働かはわからんが、相談を受けた者の礼儀であると思っている節はある。
なぜだろう。多分、あまり相談される機会がないから、嬉しさのあまり張り切って答えてしまうのだと思う。そういうところがカミさんにはお節介に見えるのだろう。
アドバイスを求めている人の多くは、実は自分なりの答えがすでに決まっていて、アドバイスよりも話を聞いてほしがっている。何かの本にそう書いてあった。
だとすれば、張り切って答えてもなんの意味もない。余計なことを言わず、黙って聞く。それで付き合いがうまくいく。
単なる世間話や社交辞令で相談していることもある。その場合も、詳細な回答などいらない。
そんなこともありますねえ、世の中って大変ですなあ、とか返しておけば会話が難なく進んでいくだろう。
いわゆるコミュニケーションがうまい人というのは、そういう付き合い方がうまい。
逆にコミュ障と呼ばれるような人たちは、受け流して良いところで過度に引っかかったり、真剣に受け止めるところを聞き流したりする。
そんなことを考えていたら、コミュニケーションというものが絶望的に難しく感じてきた。
私は、物書き商売がサービス業だと思っている。サービス業はコミュニケーションの上に成り立っているところがあるから、コミュニケーションが下手というのは割と致命的なような気もするのだが。

割れ窓について 9月某日 晴れ

割れ窓理論が好きだ。
治安改善には小さなことを放っておかないことが大事であるというような理論であり、小さなことを放っておくと治安が悪化するという話にもなる。
この理屈は治安の話だけに止まらないと思う。
例えば、部屋のちょっとした汚れを放置しておく。すると、いつの間にか部屋全体が散らかっている。1日サボると1週間になるし、100円の無駄遣いが1万円になる。
根底にあるのは心理の変化であるから、学校教育とか勉強法とか資産運用とか職場の風紀維持などにも、この理論に通じるものが意識的または無意識的に活用されているのだろう。知らんけど。
私はこれを過度に信じているところがある。細かい、神経質、小言が多いなどと言われることが多いのも小さなことを放っておかないからであるし、遅刻する人とか連絡がマメでない人とか頼まれたことをすぐにやらない人などをいっさい信用しないのもそういう思考のせいであると思う。
さて、治安である。
割れ窓理論はジュリアーニ市長のように広いエリアの治安改善につながるわけだが、私は市長ではないので気にするところといえば半径100メートルくらいのご近所のことである。具体的に何を気にしているかというと迷惑駐車だ。
かねてから家の前に堂々と停める人がいて困っている。こういうのを放置するとご近所の治安が乱れると信じて疑わない私は、そういう車をいちいちチェックしている。我ながら気持ち悪い。しかしこれが治安維持活動なのだ。
何しろ家の目の前のことであるから、たまに、ちょうど停めようとしているところを目撃することもある。たいていのドライバーは視線に気づいてそそくさと移動させる。移動させるということは、そこが駐車してはいけない場所であるとわかっているということだ。だったら最初から停めるなという話である。
わかっている。でも、やっちゃう。その根性が私は嫌いなのだ。
そんなことを知人と話していたら、迷惑駐車のせいで自分の車が出せないなどの実害がある場合は迷わず110番してよいのだという。これはいいことを聞いた。ヘタレの味方は警察である。そう思ってさっきから窓の外をチラチラ見ているのだが、こういうときに限って誰も停めない。今日もご近所は平和である。

異常気象について 9月某日 晴れ

それにしても暑かった。
猛暑を超えた酷暑であったし、またかというくらい台風もきた。
私は専門家ではないから、それを異常気象と呼ぶのかどうかはわからん。
ただ、何かしら不安に感じたらしいカミさんがネットで防災用品などを買い込んでいたから、普通の感覚で暮らしている人にとって今年の夏は異常だったのだと思う。
私は会社員という枠組みから外れて随分経つ。社会人という枠組みからもそろそろ片足はみ出しつつあるかもしれない。
だから所詮、戯言にすぎないのだが、暑過ぎる日や台風がくる日は家にこもっているのが自然だと思う。同様に、寒い日、雪の日、風が強い日なども、外に出たところでケガするリスクが増すだけだろう。
だから動物は巣にこもっている。人も家にこもっている方が良いと思う。
異常とは、正常ではないという意味だ。仮に今が異常気象なのであれば、その状況の中で正常に働こうとすることが異常ではないか。
ニュースを見ていたら、台風に備えて会社の近くのホテルを予約した人がいるのだという。そういう姿勢を仕事熱心と評価する人もいるが、私は素直には頷けない。警察、消防、自衛隊、医者など、誰かを守る仕事に就いている人たちを除けば、そこまでしてやらなければならない仕事って何なのだろうと思ってしまうからである。
スポーツに例えるなら、大雨の中で泥まみれになって練習するようなものだ。
やっている方は充実感があるのだろう。しかし、練習の効果という点から見ると屋内で筋トレしたり攻め方のミーティングなどした方がきっと良いはずである。
世の中には、過酷な状況で頑張る人を過剰に高く評価する傾向があるように思う。いわゆる根性論や精神論などもそこから生まれているように思う。
お前は根性がないからそう思うだけだ。そういう人もいるだろう。その通りである。私は根性がない。でも、別に構わないと思っている。
あらゆる生き物が存在している中で、根性を求めるのは人間だけだ。生き抜くために必要なのは変化に対応することであり、強さや賢さでもなく、無論、根性でもない。変化への対応とは何か。例えば、異常の時に、異常のときなりの暮らし方をすることである。

お酒について 9月某日 晴れ

ずっと飲んでいる。
私はもともとお酒が好きだから、なければ飲まないが、あれば飲む。そしてうちには、だいたいお酒が常備されている。
ただ、気の向くままに飲んでいると体に悪いような気がするので、一応、飲む日、飲まない日を決めている。一種の生活パターンのようなものだ。ウチは私が食事を作る係なので、飲む日、飲まない日によってメニューが変わる。飲む日はつまみに近いおかずを作り、飲まない日は白米に合うおかずを作るといったようなパターンである。
ところが、今夏は暑かった。ひっきりなしだった仕事が少し落ち着いたし、家族もみんな元気だ。
理由が3つ揃ったときは、やろうと思っていることをやっていいし、むしろやらなければならないという私の独自の判断基準により、この何ヶ月かはずっとお酒を飲んでいる。
暑い日はビールがうまいし、余裕がある時は明日を心配せず飲めるし、元気だから飲んでいて楽しい。3つ揃ったから今日は一杯飲もうということになり、今日もいっぱい飲むわけである。
そのせいもあって、ここ何ヶ月の間、米を食べていない。日々、米は炊くのだけれど、それは家族用で私はたいてい豆腐である。ちなみに、巷には米を食わない低炭水化物ダイエットなるものがあるらしいが、私の体重は春先と同じである。炭水化物を抜くと体力が落ちたりぼーっとするという人もいるようだが、そういう実感もない。米がない外国での暮らしも私はおそらく大丈夫だる。外国と縁がない超ドメスティックな仕事をしていることが残念である。
ビールを飲み、ワインを飲む。それがいつものパターンである。いつもこの2種類で、ウィスキーとか焼酎とか日本酒はほとんど飲まない。
これという理由はないのだが、ワインは楽しく飲むお酒というイメージがある。辛いことがあった時などに日本酒で酔い潰れたり、焼酎でやけ酒する話はよく聞くが、ビールやワインで涙酒という話は聞かない。
そこが好きだ。楽しく飲むことが大前提であり、ビールとワインは楽しい場によく似合う。そんなことを書いていたら無性に喉が乾いてきた。
今日も楽しく一杯いただくことにしよう。

耐えることについて 8月某日 晴れ

ようやく落ち着いたのかもしれない。
一時は20個くらい抱えていた仕事が10個ほどになった。
その努力が経済的な余裕につながるのは後々のことだが、少なくとも精神的な余裕は回復した。
墓参りもできたし、年一回の恒例となっている外国暮らしの友人と飲むこともできた。
やべえなあと思う時があっても、結局はうまくいく収まるもんである。
自分の人生を振り返っても、なんだかんだありつつ、最後はしっかり着地する。
こういうのも運である。私は生まれついての豪運である。
あらゆることをギリギリまで攻めることができるのも、首の皮一枚の状態になってパニックに陥らないのも、最後は運でどうにかなるだろうという根拠のない自信があるからであり、実際に運が味方するからなのである。
何が言いたいかというと、もうダメだと思っても、実際はまだダメじゃないということである。
生きていれば辛いこともある。私にもあったような気がする。
破滅する恐怖にちびりそうになることもある。私もちびったことがあるかもしれない。
でも、どうにかなるんじゃねえかと思っていると、どうにかなる。
だから諦めないほうがいい場合もあるということを諦めそうになっている人たちに伝えたいんである。
最近また1人知り合いがトンだ。この業界では珍しくないことだ。
逃げたら負けだとか、そんなきれいごとをいうつもりはない。
精神的に病むくらいならトンだほうがいい。
世の中には命をかけてでもやらなければならない仕事があるかもしれないが、私がいる業界にはないと思う。
ただ、人生はゲームのようでゲームとは違うから、リセットボタンを連発することはできない。トぶしかないならトんでもいいのだが、もしかしたら多少はましな選択があったのではないかと思うと残念である。
結果として今が幸せなら、それはそれでいいんだろうけども。

孤独と愛について 8月某日 晴れ

オフレコの話をしよう。
私の知り合いに、なかなか仕事ができる人がいる。その能力が会社で評価され、成果を出したご褒美で社長に美味いもんを食わせてもらったらしい。
羨ましいことである。
評価されるのは良いことだし、ご褒美が出る会社も良い会社だ。私はそう思った。
ところが、当人は不満だ。なんで社長と飯を食わなければならないのか。そう言いたげな顔をして、実際、そう言っていた。
褒められているのが自分だったとしても、社長には気を使う。そういう人と会食しても本来なら美味いはずの飯や酒が喉を通らないというわけだ。
そう聞いて、なんだか気の毒になった。ご褒美を受けた当人も気の毒だが、社長も気の毒だ。せっかくご褒美を用意したのに、実はその好意が煙たがられている。もしかしたらそれが社長と従業員のスタンダードな関係なのかもしれない。
私は仕事柄、社長から話を聞くことが多い。社長は優秀な人ばかりであり、いろんなことを話してくれる。なかにはなぜか私を気に入ってくれる人もいて、取材とは直接的には関係ない話もたくさんしてくれる。
私はそういう機会をとても楽しく感じるのだが、それもおそらく社長と従業員という関係ではないからなのだろう。
そう考えると社長は孤独だ。
世の中では社長は憧れの存在の1つで、富と名声もついてくる仕事であるが、社長という肩書きのせいで無条件に壁を作られる。そんな風に考えたら、憧れの気持ちが少し薄れ、同情の気持ちが少し芽生えた。
もしかしたら親子も似た関係なのかもしれない。
親が子にすることは、あらゆることが愛情に基づいている。この子のためと思ってやっているし、一緒に成果を喜びたいと願っている。
でも、子供が嬉しいとは限らない。あらゆる好意と行為を煙たいと感じる子もいるだろうし、そういう記憶は思春期だった私自身にもあるし、親には富と名声はついてこない。圧倒的な片思いであり、圧倒的な奉仕である。
こういうのを無償の愛と呼ぶのだろう。
そういえば無償の愛を説いたマザーテレサは、シスターではなくマザーである。

猛暑について 8月某日 晴れ

暑くてたまらん。
ニュースによると猛暑であるらしい。そんなこと言われなくてもわかっているし、聞くと余計に暑くなる。
エアコンのきいたスタジオでどうでも良いことを言ってるんじゃねえ。
そんな苛立ちも感じてしまうのも暑さのせいだろう。
こういう季節になると会社員の人たちはさぞ辛かろうと思う。
世間的には夏休みであるが、一般的な会社員はお盆休みという超短期の休みしかない。外を出歩くだけでも命に関わりそうな猛暑なのだから、もう少し融通してやってはどうか。
1ヶ月くらい仕事を休んだところで、GDPが急落することはないだろう。
暑いときは涼しい部屋で過ごす。寒すぎるときも同様に暖かい部屋にこもる。冬眠する動物だってそんな風にしているし、動物が不況で困ったなんて話も聞かない。自然を大事になどと環境原理主義的な主張を説くよりも前に、自然に合わせる暮らし方を考えた方がいいんじゃねえかと思う。
そう考えると学校は自然だ。子供がそもそも自然に近い生き物だからかもしれないが、夏も冬も休みが長い。
ただ、最近は6月も9月もそれなりに暑い。
そこで学校にエアコンを入れようという話が出てくる。
自然に合わせるなら当然の選択だろう。昔よりも春と秋が暑く、かといって休みを増やすわけにもいかないのだからエアコンで対応する。
これは知恵であり工夫である。誰だか知らんがエアコンを考え出した人はとてつもない貢献をしている。
しかし一方には、子供にエアコンはいらん、贅沢だなどという人がいる。暑さ、寒さは耐えるものだと考える自然原理主義であり、私が思うに、そういう人は自然と共存することと自然に適応することの区別がついていない。あるいは、知恵と工夫が足りない。
そういうたわごとは、エアコンのきいた部屋の中から出て、炎天下で議論したらいいのではないか。そんな意地悪いことすら思ってしまうのも暑さのせいなのだろう。

サマータイムについて 8月某日 晴れ

久しぶりにサマータイムという言葉を聞いた。
いまさらジャニス・ジョップリンなのかと思ったら、そうではないらしい。渡辺美里でもない。
夏場に時計の針を早めるアレである。
夏は暑いから欧米でやっているサマータイムを日本でも導入したらどうかということらしい。
私は過去にサマータイムがある場所に住んでいたことがある。
その時に思ったのは、さすがアメリカは合理的だと賞賛する人がいたが、それほどの効果は感じられず、誰か遅刻してくる人がいるだろうなと思ったが、意外とみんな適応するということである。
つまり効果もないが混乱もないので、あってもなくてもどちらでもいい。時計の針を合わせるのが多少の面倒ではあるが、負担になるというほどでもない。
ただ、サマータイムの導入は働き方改革と逆行するのではないかとも思う。
就業時間が早くなり、明るいうちに会社を出られるようになるのがサマータイムの長所の1つであるが、長年の習慣を変えるのは難しい。
明るいからまだ仕事ができるとか、明るいうちから遊ぶのは抵抗があるなどと考える人が増え、残業時間が延び、労働時間そのものも増えるだろうと思うからである。
プレミアムフライデーが良い例だろう。早い時間から遊べるはずだが、実際に遊んでいる人が果たしてどれくらいいるだろうか。
そう考えると、順番としては、まず働き方改革の普及が先だ。
誰もが「お先に」と気兼ねなく帰れるようになれば、早く退社した人が飲んだり遊んだりすることで経済効果も生まれやすくなる。
欧米(特にアメリカ)でサマータイムが機能するのは、自分のペースで働くことが当たり前になっているからだとも言えるだろう。定時で働いている人は別だが、フレックスさえまともに定着していない日本では、単に始業時間が1時間早くなるだけの罰ゲームになるのではないか。
人には習慣があり、物事には順序がある。そこを無視して変化を起こすことはできないと思うのだが。

夏休みについて 7月某日 晴れ

子供らが夏休みになった。
私は、例年のような状態なら一足先に夏休みになっているはずなのだが、今年は仕事が多いため、または自分の能力が低下したせいで、いまだ夏休みに入れるめどはつかず、多分このまま秋を迎えることになる。
そういう事情もあり、せっかく子供らが休みなのだが、遊びに行けない。
いつでも遊べるのがこの仕事の良いところであり、実はそれほど遊べないのがこの仕事の悪いところだ。
なんのためにフリーランスになったのか。
そんなニーチェ的なことを考えたりする。尚、たまたまニーチェという名前が浮かんだだけで、果たしてニーチェ的であるかどうかは知らない。
せめてもの遊びとなっているのが、近所の散歩とコンビニやスーパーに買い物にゆくことである。
大人から見ると、沖縄旅行とコンビニは別次元のものであり、スーパーに行くのも面倒な時がある。
しかし、子供はあまりそういう感覚がないらしく、コンビニやスーパーでもそこそこ喜んでくれる。最近はセルフレジの店が増え、自分でピッピとやれるのを楽しんでくれる。
そこに甘えて、私は子供らを連れ出し、遊んでやったと自分を誤魔化す。
我ながらひどい父親だと思うが、許してくれ。お父さんも本心は遊びたいのだが、遊んでばかりでは沖縄旅行代が稼げないのだ。
私は子供らとスーパーに行くのが好きである。
小さい手で豆腐やら桃やらを持ってきたり、お菓子コーナーで真剣に選んでいる様子などを見ていると愛おしくてたまらない気持ちになる。
そういう時期も長くは続かないだろう。やがて子供らは大きくなり、散歩や買い物より1人でゲームすることを選ぶようになる。沖縄ですら喜んでくれないかもしれない。
そう考えると、時間はますます貴重であり、親としてできることも有限である。
果たして自分は何をすれば良いのだろうか。
暇になったらそんなことを考えようと思うので、誰かニーチェの電話番号を教えてくれないか。

多忙であることについて 6月某日 晴れ

どうやら世の中は本格的に好景気であるらしい。
通常、私の商売は年末から3月末くらいまでが忙しく、春から暇になる。
ところが、今年は異常だ。
4月になり、なかなか仕事が片付かないなと思っているうちに、5月になった。
今は6月である。そして相変わらずほぼ全力で走らないといけないくらいの仕事がたまっている。
この世の中に愛が溢れているとは思わないが、仕事は想像以上に溢れている。
この商売を始めて18年になるが、こんなことは初めてである。
春風が吹き始めたころから、なんか今年は仕事が多いなという感覚があった。
理由はよくわからなかったが、そういう時もあるのだろうという程度の感覚でコツコツ取り組んだ。
追い風にはとりあえず身をまかせる性分である。
ところが、追い風は思ったより強かった。
おかげで、引き受けきれない仕事を断らなければならない。もったいないことだが仕方がない。
過剰に引き受けると他の仕事の質が低下する。修正依頼が増えて、さらに時間が足りなくなる。締め切りを超えるものが出るだろうから信用も落ちる。
だから仕方ないと割り切るのだが、自分がもう1人いればよかったという気持ちも捨てきれない。
せめてもの救いは、自営業であることだ。やればやった分だけ儲かるのがこの仕事の数少ない長所である。
固定給の社員だったら、おそらく私は逃亡していただろう。
フリーランスでよかった。18年目にしておそらく初めてそう思っている。
そういうわけで、この春はあらゆる予定をキャンセルし、積もり積もっている仕事を減らそうとしている。
ここはぜひ強調しておきたい。
つまり、預かっている仕事の納期が多少遅れたり、3日でできそうな仕事で1週間くれというようなリクエストをするが、そこは大目に見てくれという業界関係者に対するメッセージであり、心からのお願いである。

べき論について 5月某日 晴れ

私が物書き仕事の中で、ほぼ使わない言葉がある。
それは、なになにすべきのべきという言葉である。そういう物言いを、私はべき論と読んでいる。
べき論は強力だ。高圧的で暴力的だとも思う。
するべき、やるべきなど、なになにすべきと言い切れる人は相当な自信があるのだろう。そう考えると、べき論は独善的で傲慢とも言える。
私が携わる仕事においても、企画書や提案書の随所にべきべき書かれている。
例えば、30代で考えるべきこととか、いまこそ投資すべきとかである。企画書としては、それくらい言い切ったほうが通りがいいのだろう。インパクトや印象を強めるという点で、記事のサブタイトルなどとしてもべき論は使いやすいのかもしれない。
でも、世の中にすべきと断言できることはほぼないように思う。
考えるべきなのだろうか。いや、別に考えなくてもいいかもしれない。
投資すべきか。そうとは言い切れまい。
私が読者だったら、べきべき言われたら辟易とするだろうなと感じる。なので、企画書などはさらっと読み流し、原稿の中にそういう強い表現は入れない。
たまに、ゲラ(出版前の文字チェック用原稿)の中にべきが生き残っていたりすると、こっそり消したり、書き換えたりもする。例えば、考えるべきと書かれていたら、考えた方がいいかもしれないよくらいのニュアンスに変える。
そのあとで、編集の人などが再度べき論に戻すのかもしれないが、仕上がったものは見ないので、どうなっているかは知らない。
なんでべき論が嫌なのだろうか。
おそらく私の性格的に、高圧的で暴力的で傲慢な人が嫌いだからなのだと思う。
相手が誰であれ、人にはそれぞれの事情がある。主張や価値観は様々であり、自分と相手は常に対等であるという意識が、平和をもたらし、絆を強くする。
逆にいえば、戦争やいじめやハラスメントなどあらゆる社会問題の根底にべき論がある。
そう考えると、べき論は世界平和のためにならない。
つまり、避けるべきである。いや、避けたほうがいいのではないかと個人的に思うことがあったりなかったりするかもしれないのである。

発信者と代弁者について 5月某日 晴れ

物書き商売は大きく2つに分けられる。
1つは、自分の頭の中にある発想や世界を文字にして発信する物書き。もう1つは、自分以外の人の頭の中にある発想などを文字にして発信する物書きである。
簡単にいえば、前者が発信者であり、後者は代弁者である。
もっとわかりやすくいうと、小説家や詩人のようなプロダクトアウトの物書きが前者であり、ライターのようなマーケットインの物書きは後者である。
話が複雑になるので、エッセイストやコラムニストのような微妙な立ち位置の物書きはここでは無視することにする。
物書き商売では、出版社などから依頼される仕事も、この2つに分けられる。
小説を書いてくれというのが前者のタイプの依頼で、インタビュー記事を書いてくれというのは後者のタイプの依頼である。
依頼のタイプが違うということは、求められる原稿も違うということなので、引き受ける側としては、まずはどっちのタイプの依頼なのかを把握することが大事である。
さらに大事なのは、引き受けた仕事のタイプに自分を合わせることである。
インタビュー記事を頼まれているにもかかわらず、自己主張が強い発信者の原稿を書いたらどうなるか。おそらくボツになる。逆に、小説の仕事を代弁者の意識で書くと、オリジナリティがなくなるかパクリになる。
多分だけど、よく書けているなあと思う原稿は、小説であれ記事であれ、発信する仕事を発信者として書いているか、または、代弁する仕事を代弁者として書いているかのどちらかに当てはまると思う。
物書き商売の人は、私を含め、発信と代弁の両方のタイプの仕事を受けるので、その時々で意識や考え方や書き方を切り替えることができれば、普通に食べるくらいの稼ぎは得られるのではないかとも思う。
実際、私にはこれといった技術や知識もないわけだが、この切り替えだけで生き延びている。
求められている仕事に自分を合わせ、切り替えるという点は、物書き商売に限らず、異業種においても共通するだろうと思う。仕事を役割と言い換えれば、主婦や親という立場に立った場合も、切り替えさえできればたいていのことはうまくいくのではないかとも思う。

働き方について 5月某日 晴れ

働き方改革である。
この言葉が私は好きだ。自慢ではないが、だいぶ早い時期から古き良き時代の働き方は変えた方がいいと思っていた。独立してフリーランスになったのも、それが働き方改革の方法だと思ったからである。実際は、独立という方法しか思いつかなかったのだが。
なんで働き方を変えようと思ったか。理由は2つある。
1つは、残業という現象がおかしいと思ったからである。
残業が発生するのは、規定の時間内で終わらない仕事を課せられているからであろう。8時間働くとして、それで仕事が終わらないのであれば、それは残業している人のせいではなく、仕事を割り当てている会社のせいである。
そう気づいて、私は会社都合ではなく、自分都合で働きたいと思った。
ちなみに、私は以前から出版業界にいて、この業界には残業代がつかないという悪しき慣習がある。つまりタダ働きである。その点で、業界の労働システムはだいぶ前から破綻している。それでもシステムが壊れないのは、嬉々として居残りするモノズキな編集者や、意味なく徹夜する変わり者が多いからだろう。そういう人たちと私は考え方が違うから、一緒には働けない。
働き方を変えたほうがいいと思った2つ目の理由は、残業してまで働く価値があるのかどうか疑問に思ったからである。
社員が残業するのは、仕事に忠実であるからだ。会社に忠実と言っても良いかもしれない。その見返りとして、会社は社員に何をしてくれるだろう。以前は終身雇用という仕組みがあったが、それが崩壊するだろうということは私が独立を考え始めたときにすでに明らかだった。
そうなると、忠誠は一方的だ。
片思いを覚悟で会社が好きになれるか。私はなれない。
そんな風に考えて、自由にやろうと思ったところ、根無し草になった。
結果、どうなったかというと、労働時間が以前より減り、収入は以前より増えた。そういう効果を政策によって全国の会社員にももたらしてほしいと思う。
ただ、どうやって実現するのだろうか。根無し草になること以外、私にはいい方法が思い浮かばない。根無し草か片想いか。結局はその選択なのではないかとも思う。

役得について 4月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

投資関連の仕事を受けるようになったのは2011年ごろだったと思う。
最初は日本株投資の仕事だった。そこから為替(FX)につながり、年金・個人年金などにつながり、資産運用全般になり、最近は仮想通貨関連の仕事も増えた。
どの分野も魅力的である。仕事としてもギャンブルとしても魅力的だから、仕事で得た知識を生かしているかどうかは別として、ギャンブルの幅も広がった。
ただ、最初が日本株投資の仕事で、個人的にも日本株でギャンブルしている時間がもっとも長いので、やっぱり株が面白い。株関連の仕事で投資家さんと話をする機会に恵まれると、この仕事をやっていて良かったと思う。
その点で、この1ヶ月は実に有意義であった。
都内某所で、テスタ氏と会った。昔からすげえなあと思っていた投資家さんの1人である。私はテスタ氏のことを天才なのだろうと思っていた。投資界隈ではそう思っている人も多いと思う。しかし、話を聞いていてわかったのだが、彼は単なる天才ではなく、人一倍努力する天才であった。
その数日後、久保優太氏と会った。K1ファイターと投資家を両立する鬼才である。私は久保氏のことを器用な人なのだろうと思っていた。そうでなければジャンルの全く違うところで成果は出せない。しかし、彼は器用なのではなく、人一倍自己管理に厳しい人であった。
さらにその数日後、JACK氏と会った。言わずと知れた投資界の重鎮である。JACK氏は投資界のベテランであるがゆえ、スタンダードな手法を重視する人というイメージがある。私もそう思っていた。しかし、実は自分の投資法を進化させようと言う意識が高く、誰よりも新しい手法に貪欲であった。
一流の人には一流になった理由がある。二流の人には一流になれない理由がある。自分にどの程度の実力があるのか把握することも含め、一流と二流以下を分ける理由に目を向けることは、投資に限らず重要なことであろう。なかなか一流になれないとしたら、その理由は、努力が足りなかったり、自己管理が甘かったり、新しいことを取り入れる意識が薄いのかもしれない。
尚、そういう貴重な経験をした4月の株の成績はマイナスであり、月単位ではここ数年でも5本指に入るくらい損した。
偉そうに一流、二流を語っている場合ではない。

生活パターンについて 4月某日 晴れ

生活パターンが大きく変わった。
変わっていないが、変えないといけないと思っている。
理由は、ボウズが小学生になり、チビが幼稚園に通い始めたことである。結果、平日に子供らと遊ぶ時間が減り、週末に凝縮されるようになった。
フリーランス商売は基本的には年中無休であるため、今までは土日祝日にたまっている仕事を片付けてきた。
平日は何かとやることがあり、処理しきれない仕事が着々と仕事がたまる。取材に行ったり、打ち合わせに呼ばれたりする。
一方、土日は取材もないしメールなどもこないので、時間をフルに使って原稿を書く。
つまり、平日の遅れを週末に取り戻すということだ。
その繰り返しが基本であり、そういう生活パターンが18年くらい続いていた。
しかし、子供らと遊ぶ時間が週末に限られるとなると、そうはいかない。平日に発生する遅れをどうにかして減らし、土日の負荷を軽くしなければならないからである。わかりやすく言えば、会社員的な生活パターンに変える。
理屈上はできるはずである。これまでは平日にチビと遊んだり散歩に行ったりしていたわけだが、チビが幼稚園に行くわけだからその時間が空く。そこを仕事に当てれば良い。単に時間配分を変えれば平日の生産性が高まる。
ところが、それが難しい。ちょっとずつ仕事がたまっていることを認識しつつも、土日にやればいいじゃんという思考が抜けない。物理的には遅れが発生しないはずなのだが、仕事がどんどんたまっていくのである。
人は習慣の生き物である。ダーウィン的な視点でみれば、簡単に習慣を変えられる人が、生き残る適応者なのだとも思う。
どこで聞いたか忘れたが、人生を変える方法として有効なのは、住む場所を変えること、付き合う人を変えること、時間の使い方を変えることであるらしい。
それはそうと、日中にカミさんと2人きりになる生活も6年ぶりくらいである。
これはこれで違和感があり緊張感すらある。
夫婦って何を話すんだっけか。

景気が良いことについて 4月某日 晴れ

商売は景気の影響を受ける。
学問的にも経験則としても当たり前のことなのだが、フリーランス商売をしているとその影響をモロに食らうので、つくづく景気は大事だと感じる。
景気が良ければ仕事が舞い込んでくる。舞い込んでこなかったとしても、そこらへんに落ちているのだから、外に出て拾えばいい。そういう状況で重要なのは能力よりも社会との接点である。魚だらけの池に釣り糸を垂らすようなものだから、釣り竿1本の人より100本の人の方が儲かる。
かつてキュレーションサイトが流行ったときにネット記事を書くライターが増えた。魚(仕事)があふれていたから誰でも釣り人になれた。ただ、釣りの技術は低いわけなので、景気が悪くなれば釣れなくなる。質より量の原理が働く状況では、世に出る仕事の質もおぞましいほどに低くなる。
そう考えれば、インチキな記事が増えて問題になったことも、気づけば自称ネット記事ライターがいなくなっていたことも極めて自然である。景気に乗るのは簡単で、乗り続けるのが難しいという話である。
最近、独立するにはどうすればいいか、フリーランサーはどうすれば稼げるかといったことを聞かれる機会が増えた。景気回復時の自然の法則に従って、独立を考える会社員やフリーランス商売に興味を持つ人が増えているらしい。
私みたいなもんにヒントを求めても仕方がないだろうとは思うが、1つだけ知っていることがある。それは、心身ともに超健康でなければならないということだ。普通の健康優良児では持たない。超健康優良児であることが条件である。
会社員も体力がいるだろうが、保証のないフリーランサーは体が資本であるから、病気は致命傷になる。何を食っても消化でき、何も食わなくても3日くらい生きられる体力が必要だ。心身の心の部分では、相談相手がいない孤独さとか、稼ぎの増減が生む不安などに潰されないためのストレス耐性がいる。
たまたま私は生まれながらにして心身が強靭であった。運も強い。だから長く続いている。それだけのことだと思う。
身もふたもない話に聞こえるかもしれないが、フリーランサーに必要なのはそういう先天的な要素であると私は思っている。
自分も健康には自信があると言う人はぜひ独立して人生を切り開いて欲しい。景気が良いときの方が失敗しにくいのは事実である。

距離感について 4月某日 晴れ

おかげさまである。
この4月から、ボウズが小学生になり、チビが幼稚園児になった。
子供が成長するのは早い。私は子供らと接する時間が長いニート的生活者であり、ちょっとした成長を目の当たりにできる立場ではあるが、それでも早いなあと驚く。ニートのように暮らしている自分が、いつの間にか小学生と幼稚園児の親であるという事実にはさらに驚く。
子供は子供なりに苦労するのだろうと思う。
なぜ苦労するかと言うと、学校や幼稚園という集団生活に参加することで、社会が広がるからだろう。
出会う人が増えれば、一緒に楽しい思い出を作れる人とも出会えるが、嫌なやつとも出会う。知識が増えれば、それが生きていく知恵になることもあるが、世の中が理不尽であることに苛立つこともある。
夢がないことを言うようだが、成功すると妬まれ、失敗すると叩かれるのが社会である。かといって社会と距離を置こうとすると簡単に孤立する。それも辛い。
大人になると少し賢くなるので、微妙な間合いが取れるようになる。間合いとは、例えば、素性はわかるけど本性はわからないくらいの距離感のことであり、そういう距離感の知り合いがたくさんできると、毎日がそこそこに楽しく、ストレスもない。
快適と感じる距離感は人によって違うから、もっと間合いを詰めてべったり付き合いたいという人もいるだろう。偏見かもしれないが、スポーツやサークル活動が好きな人はそのタイプだと思う。フリーランスは、適度な間合いが取りやすい働き方で、私の感覚だと、会社員もお互いの距離が近い。上司部下の関係で悩んだりする人も、私と同じで、快適と感じる距離が人よりも長いのではないか。
なんの話だったか。子供の話だ。
子供から見れば、当然、親との距離が快適かどうかも重要である。大きくなれば自然と親がうっとうしい存在になる。うぜえ、うるせえ、近づくな、が挨拶になるときも来るだろう。それは親としては切ないことであるが、家族内に置いていた軸足を社会の方に移したということであり、成長の証ともいえる。
おかげさまで子供にうざいと言われました。そう言える未来が理想である。

月間収支について 3月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

ちょいプラであった。
短期はちょいプラ。ちょい長めで持っている別口座もちょいプラ。合わせてちょいプラである。
月の後半は、ボウズが春休みになったのと、仕事が立て込んだこともあってほとんど何も触っていない。結果として、指数も為替も複雑な値動きだったので、避難して正解だった。参加していたら、おそらくちょいプラがちょいマイナになり、大きいマイナスを食らっていたかもしれない。
それはそうと、来月早々に著名な投資家さんと会うことになった。株をやっている人なら誰もが名前を知っている人である。
こういう機会に恵まれるのが、この仕事をしていてよかったと思うことの1つだ。世の中には、会いたいと思っていても会えない人がたくさんいる。そのような人と、私は仕事を通じて会うことができる。
普通なら会うことができず、話を聞けるとすればこちらがいくらか払わなければならない。しかし、仕事であるがゆえ、会う機会をセッティングしてもらえるだけでなく、お金までもらえる。
こんな上手い話があるのだろうか。あるのだ。
真面目に仕事をしていると、たまにそういうご褒美があるのである。
過去にも、この人すげえなあと思う投資家やトレーダーの方と会う機会があった。そういう環境にあるにもかかわらず、今月の収支がちょいプラであったのはなぜなのかという疑問はあるのが、さらに大きな疑問なのは、彼らが快く取材を受けてくれることである。
人前に出ることが仕事ではない人にとって、取材を受けるメリットはほぼない。
しかし、彼らは丁寧に応じてくれる。知っていることを惜しげもなく教えてくれる。それはおそらく器が大きいからである。
そういう人がいるから、媒体商売が成り立つのであり、我々のような物書き商売も飯が食える。そのことを、業界全体が意識しなければならないと思うし、私自身ももっと強く認識しなければならないと思う。
ということで、襟を正して話を聞かせてもらう。尚、その取材の内容などは、5月くらいに出版される雑誌に載るらしい。

激務について 3月某日 晴れ

今日は何日で、何曜日なのだろうか。
そんなことを考えるくらい、かつてないほどに仕事に追われた日々であった。
なぜにこんなに仕事があるのか。
世の中はどうやら好景気であり、私はバブルである。
気づけばフリーランスという根無し草になって18年くらいになる。
過去を振り返ってみても、今月ほど仕事に追われたときはなかったと思う。
私は怠け者であるから、仕事をしたいと熱望することはない。
実際、過去には仕事がなく、暇を持て余した時期もあったが、だからといって焦るわけでもなく、営業する気もなく、むしろ暇を満喫していたタイプである。
一方で、仕事があることをありがたいなあと思う気持ちは常に根底にある。
怠け者のくせによく働くのは、そういう気持ちがあるからだろう。
いま付き合いのあるお客さんのほとんどは、フリーになったときには全く付き合いがなかったお客さんである。
人が人を呼び、縁が縁を呼び、気づけばいまのつながりになっている。
この広がりを作り出しているダイナミズムは個人の力ではない。
ビジネス書などを読んでいると、仕事を増やしたいならコネを作ろう、積極的に人に会おうなどという主張を見かけることがあるが、それは表面的な取り組みでしかなく、たいした効果も生まない。私自身、そういう取り組みをまったくしたことがなく、それでいて、付き合いの範囲が自分の手に負えないほどのレベルにまで勝手に広がっている。
人のつながりや、そこから生まれる仕事の広がりには、理屈では説明しづらい縁の相互作用があり、だから私は、常々自分は運がいいと思う。
運を味方にするには、運に身を任すのが一番である。
そうやって人生が進んで行くから運命である。
そろそろ新年度である。理想と現実、期待と失望が交錯する時期である。
環境の変化に戸惑ったり、プレッシャーに潰されそうになる時があるかもしれないが、気負ったって仕方ない。
自分がやらねばならないこと、やった方がよいことをやっていけば、あとは運がどうにかしてくれるはずだ。多分。

運動不足について 3月某日 晴れ

引越しの時期である。
最近引越しした知り合いは、クリーニング屋を探し、スポーツジムを探しているという。
クリーニング屋を探すのはワイシャツなどを洗うからだろう。そういう感覚は会社員でなければわからない。
もっとわからないのはジムである。お金と時間と体力を使ってまで運動しようと考える人は、もはや別世界の住人である。
最後に運動らしい運動をしたのはいつだったか。
数年前まで、たまにゴルフをしていた。頭のどこかで、運動不足を解消しなければいけないという意識があったからだ。
しかし、きっぱりやめた。
時間主義であるとともに、短期的なリスク・リターンで物事を考える私にとって、そもそもゴルフは向かない運動だったのかもしれない。
やるとなれば1日がかりである。うちからだと千葉や神奈川まで行くから、移動距離も長い。帰り道に渋滞に巻き込まれることもある。幸い、事故に巻き込まれたことはないが、そういうリスクもゼロではない。
打算的な私は、その見返りを考える。
ゴルフは楽しいスポーツではあるが、時間効率の面でもリスク・リターンの面でも、自分には向かない。そう考えて、やめることにした。
残ったのは、クラブ一式、ウェア一式、そして、運動不足を解消しなければいけないという意識である。
運動はした方がいい。それは事実だろう。できる限りインドアを好む私でも、足腰が弱るのは避けたい。厳密にいうと、足腰が弱ったりすることで、誰かに迷惑をかけるのを避けたい。
そう考える人は多いだろうから、短時間で適度な運動効果が得られるものがあればおそらく大ヒットする。
知人は、だからスポーツジムなのだという。しかし、私からみればまだまだ時間効率が悪く、リスク・リターンのバランスも悪い。それなら、引越し屋のバイトをした方がはるかに良いと思うのである。

7年前の記憶について 3月11日 晴れ

丸7年が経った。
今年の3.11は日曜日だったから、被害にあった人、なくなった人、なくなった人の家族のことなどを考えつつ、子供らと遊んで過ごした。
うちのボウズは震災の年に生まれた。世の中がまだ動揺していて、復旧も復興も永遠に先の話だと思われていたときのことである。
当時は色々とやることがあり、例えば実家の心配をしたり、妊娠と出産の手伝いをしたり、仕事もそれなりにあったのでコツコツこなしていたりしたのだが、不思議なことに、あまりよく覚えていない。
記憶力が悪いせいか。それもあるだろう。
私はあらゆることをすぐに忘れる。人の名前や顔は覚えられない。買い物を頼まれれば、必ず何か買い忘れる。
最近はそれを防ぐために、スマホに買う物のリストを入れて出かけるのだが、残念なことに出先でスマホを見ることを忘れる。
何かしようと思ってリビングにいき、何をするのか思い出せずに戻ってくるのが日課である。
それはそうなのだが、2011年のことをあまり覚えていないのは、何か別の理油があるように思う。別の理由とは、辛い経験、きついこと、絶望感といったネガティブな記憶が過度な精神的負担にならないように、脳が記憶の濃淡を自動的に処理しているというようなことである。
私は医者でも脳科学者でもないので、脳にそういう機能があるのかどうか知らない。ただ、そういうメカニズムになっているのだと考えると、当時の記憶が薄いことに納得がゆく。
震災のことについては、忘れたいこともあるが、忘れてはならないこともある。年に1度、こうして当時のことを振り返るのも、放っておけば自然に忘れ、のほほんと生きてしまうであろう自分を戒めるためである。
混乱の中を生きながらえ、その数ヶ月後に出会ったボウズは、すくすく育ち、来月から小学校に通う。震災から丸7年が経ち、ボウズももう時期7歳になる。東北の街と人が力強く立ち上がったように、ボウズにもたくましく生きてほしいと思う。

月間収支について 2月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

ひでえ月だった。
まだ月末ではないのだけど、今月はもう閉めてしまおう。
2月はあと数日あるが、取材と打ち合わせで出ずっぱりになるので、実質的に今月の相場は終わったようなもんである。
仮に残り数日でいくらか儲かったとしても、焼け石に水であり、複雑骨折に冷えピタくらいにしかならない。
それくらいひどい月だった。
何ショックか名前もわからない急落で、1月分の利益をおまけをつけて返すことになった。マジ卍(使い方あってる?)。
株価は、上りはコツコツで下りが早い。2ヶ月かけて上がってきた分が、2日で帳消しになったりする。
それは重々承知のはずなのだが、なぜに毎度巻き込まれるのか。
人間は欲の生き物である。「こうしたい」「ああなりたい」という欲がモチベーションになり、人は成長し、社会が発展してきた。
私は存在そのものが欲の塊であるわけだが、欲深さゆえにリスクを取りすぎ、欲に目が眩んで同じミスをする。
理屈で考えると、欲が人を成長させるのだから、欲深いほうがより成長するはずである。
しかし、私の場合は欲が成長を阻む要因になっている。生物的観点から見ても歴史的観点から見ても、これは説明のつかないマジ卍な状態であろう。
それはそうと、今月は仮想通貨界隈の人と話す機会があり、とても勉強になった。
何事においても、その業界でトップクラスの人から話を聞くのがもっとも勉強になる。勉強の効率もいい。知識や情報はトップに向かって集約されるから、トップを知れば全体がわかるのである。
その経験を生かしながら、3月もめげずに投機に励もうと思う。
マジ卍な時があれば、マジ卍ではない時もある。冬季五輪で金(きん)をとる人がいるなら、投機で金(かね)を得る人もいる。奇しくも今日は五輪の閉会式であり、マジ卍の意味はいまだにわからない。

ミスについて 2月某日 晴れ

とある方からメールが来た。
「次回もまた原稿をいらいらさせていただきたいと思います」と書いてあった。
「依頼」と打ったつもりが「いらいら」になったのだろう。
言いたいことはわかるが、笑ってしまった。
誤字脱字には気をつけないといけない。
最近はPCで原稿を書くのが当たり前だから漢字の誤用などはほとんど起きない。ソフトがとても優秀だから、同音異義語なども「こっちが正解だぜ」と教えてくれる。
ただ、打ち損じはある。「打ち損じ」と書いた(打った)つもりが、「打ち損じじ」になっていたりする。ソフトが余計な忖度して「打ち損時事」と変換してくれたりすることもある。
wordは、そういうのを見つけて「ここ違くない?」と指摘してくれたりもするが、気づかれない場合もある。ちなみに、この文章もwordで打っているわけだが、「打ち損じじ」の部分には「ここ違くない?」の赤線アラートが出るが、打ち損時事はスルーされるようだ。基準がよくわからん。
最終的に本や雑誌になる原稿は、出版社が見つけて直してくれるので「打ち損じじ」のような間違いが世の中に出ることはほとんどないと思う。
ただ、日々のメールなどは何度も文面は読み返したりしないから、誤字脱字のまま相手に送ってしまうこともある。
自分では気づいていないだけで、私も意味不明のメールを送り、相手に笑われているかもしれない。もの書き商売としては恥ずかしいことである。
もしかすると、打ち損じにもフロイト的失言みたいなものもあるのかもしれない。つまり、無意識で思っていることが打ち損じという形で表に出るということである。
だとすれば、単純な打ち損じに見える「いらいらさせていただきたい」もあながち無視できない。
ひょっとして私はその人をいらつかせているのかもしれない。
理由や背景はわからないが、とりあえず、すまん。

血液型について 2月某日 晴れ

私はA型である。
100人いれば、100人が間違いなく「伊達さんはA型ですね」という。
血液型による分類が果たしてどこまで的確かはわからないが、一般的に言われるようなA型の特徴はすべからく満たしていると自分でも思う。
A型の特徴としては、良い点として、几帳面であり計画性があるのだという。その通りだと思う。
悪い点としては、本音を話さない、柔軟性にかける、細かい、周囲を気にしすぎるといった特徴もあるようだ。それも否めない。
うちには子供が2人いて、確率的には彼らもA型である可能性が高い。
ただ、調べていないのでわからない。
それが私には気持ち悪いのだが、カミさんによれば、最近は調べない子供が多いのだと言う。
調べない人が増えている理由は、事故や病気で輸血が必要になったときには、仮に血液型がわかっていたとしても、そのときにきちんと調べるのであらかじめ検査する必要がないということらしい。
そういうもんなんのか、と一瞬、納得しそうになった。危ない。
そうじゃないだろうと思う。事故や病気を想定して考えるなら不要かもしれないが、血液型はそのためだけにあるわけではない。親が子を理解し、楽しく勉強したり、育て方を工夫したりするために、血液型は1つの情報としてわかっていた方が良い。
自分のことを振り返っても、自分はA型であるという情報が、物事を考えたり判断する際に多少なりとも影響しているように思う。例えば部屋を片付けるのが面倒と感じる時があっても、自分はA型だから片付けが得意なのだと思えばさっさと取りかかれる。勉強にしても旅行の計画を立てるときにしても、血液型を意識する場面は多い。
そういうことをカミさんに熱弁したのだが、返ってきた反応はとても薄かった。相変わらず細かい男だ、とでも言いたそうな表情であった。
なぜに放っておけるのかが不思議でならない。
カミさんはA型である。しかし、私は実はO型なんじゃねえかと疑っている。

老いについて 2月某日 晴れ

年をとるのは嫌なものだ。
そう思う理由は、目である。具体的には、目が悪くなり、涙もろくなった。
目が悪いというのはいわゆる老眼で、ここ数年、細かな字が読めなくなった。
最近は読めないのが当たり前になってきたので、読もうという気もなくなっている。薬瓶とか食品のラベルなどは、かつては細かく読んでいたが、いまはもう読まない。
ふと老眼のレーシックでもやろうかと思ったのだが、眼科のサイトを見ていたら、老眼は45歳くらいからなる人が多いというようなことが書いてあったので、それくらいの年齢になってからあらためて考えることにした。そのときにはサイトを読む力すら衰えているかもしれない。
もう1つの涙もろさについては、もともと涙もろい性格ではあるのだが、それが輪をかけてひどくなっている。
動物が出てくるドキュメンタリー番組などは、まず泣く。はじめてのおつかいシリーズは鉄板だ。最近は、メロディアスな曲も危ないし、ツイッターでちょっとした感動話を読むだけでうるっとくることもある。
きわめつけは、自分が書いた原稿で涙ぐんでしまうことだ。
過日、とある仕事で病気の人とその家族についての原稿を書いた。ドラマティックに書いてくださいというオーダーを受けていたので、ちょっと感動色を強めにして書いた。
その原稿を書いている途中に、自分で書いているにもかかわらず、涙が出た。
読み手の涙を誘うつもりが、自分が真っ先に泣いている。その情けない姿を客観的に認識しながら、つくづく年をとるのが嫌だと思うのである。
老眼と涙腺はいずれも目の話であるのだが、老眼は筋肉の話で、涙腺は脳の話なので、根本は別である。どちらが困るかというと涙腺の方だが、それは涙腺の開け閉めというより、過剰に感動するところに問題がある。
筋肉が衰えることについてはある程度諦めているが、脳の方はもう少し粘りたい。なんとかならないものかと思い、夜な夜なスマホで調べていたところ、涙もろくなるのはストレスのせいかもしれないという説があることを知った。
これは詳細を読まなければならない。
そう思ったのだが、細かい字が読めないのでやめた。

月間収支について 1月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

1月はだいたい勝てるのだ。
今年も例によって、何の工夫もしていなけど、それなりに勝った。
実はこれにはカラクリがある。
年末年始をまたぐ際に、税金の関係で持株が整理されるため、勝ちやすくなるというカラクリである。
投資の利益には2割ちょっとの税金がかかり、その額は12月末で確定する。そのため、利益が出ている場合は節税のために含み損を確定させる。いわゆる損出しである。
これをやることで、まずいらない株を整理できる。含み損のまま何となく持ち越してきてしまった銘柄である。
そういう銘柄は、ほかの人もいらないと思っているから、買い手が弱く、持っていても上がらない。むしろ損が膨らんでいくことが多いので、それが整理できて勝ちやすくなる。
ただ、いらないし、含み損なのだが、一応持っておきたいと思う銘柄もある。そういう株は損切った後で買い直す。つまり底値のあたりで安く買い直すわけなので、そこから上がる可能性が出てくる。運よく年明けに上がったりするとプラスになるので、これも1月に勝ちやすくなる要因になる。
ほかにも、節税を考えて含み益を持ち越すことも勝ちやすくなる要因であるし、相場全体としては、年越しリスクを避けた人が1月に買い始めたり、新年とかお正月が何となく前向きで積極的な雰囲気を作り、相場環境が良くなったりする。そういった環境要因も追い風になるので、よほど変な株さえ掴まなければ、とくに深く考えなくても勝てるのである。
ただし、その先のことを考えると、1月に勝つというのは必要条件であったりもする。というのは、2月から環境要因がなくなり、勝ちにくくなるからである。節分天井という格言にもあるとおり、2月以降を生き延びていくためには、1月に貯金を作っておかなければいけない。
そう考えると、1月だけ投資して、あと11ヶ月は触らないという方法がもっとも簡単で勝率も高いのかもしれない。ギャンブル好きには無理な芸当であるわけだが。

修正することについて 1月某日 晴れ

原稿というものは、なかなか一発オーケーとはならないものである。
書き手としては、自分が100点だと思う原稿を出すわけだが、編集や出版や広告の担当者にとっては50点くらいと思うこともある。
その不足分を埋めるべく、文章の構成を直したり、言い回しを変えたりして、何度かやりとりを経て世の中に出る。修正の出し方としては、「こういう話を入れて」と具体的な指示をする人がいれば、「もっとエキサイティングに」といった雰囲気で指示する人もいる。書き手に修正を指示することなく、担当者の裁量で修正し、それが世の中に出ることもある。
どれがいい、悪いという話ではない。ライターの使い方や記事の作り方には人それぞれの方法があるのだ。
書き手の受け取り方も人それぞれだ。編集者などが勝手に直すことを嫌う人もいるし、好きなように直してもらった方がいいと思っている人もいる。
私は好きなように直してねと思うタイプである。というのは、作稿の作業は野球の先発ピッチャーのようなもんだと思っているからである。
私の役目は、コンディションを整えて先発のマウンドに立ち、全力で投げることである。調子がよければそのまま完投する。
ただ、調子が悪ければ、あるいは、もっと良い結果が期待できるのであれば、中継ぎや抑えに交替してもいい。替えるかどうか決めるのは監督すなわち制作サイドであるから、私がどうこういう話ではない。後続がビシッと抑えればいい原稿ができるし、抑えなければ逆転負けになる。無責任に聞こえるかもしれないが、そういう結果に対する責任も、マウンドを下りた書き手ではなく、交替を決めた監督が持つものだと思っている。
そう思っているので、私は出来上がった本や雑誌をほとんど読み返すことがない。たまに、勝手に直してすみませんと担当者に謝られることがあるが、私は仕上がりを見ていないのでどう直したのか知らない。むしろ直してくれてありがとうございます、である。
誰が、どこまでやり、どこまで責任を持つかという話は、明確になっていないことが多いし、制作会社によっても違う。異業種と比べると、そこが出版関連のおかしなところであるようにも思う。

時間について 1月某日 晴れ

人はそれぞれ、いろんな財産を持っている。
お金がその代表的な例であるが、人脈や経験も財産であるし、知識や技術も財産である。そういったものを増やしたいと思う人が多いので、お金や人脈や経験や知識や技術を増やす方法をレクチャーすることが商売になったりする。
財産は色々あるのだけれど、私が大事だと思うのは時間である。
これといった人脈や知識がないにもかかわらず、フリーランスという浮き草商売を選んだのも、数ある財産の中で時間が最も大事だと思ったからである。結果として意外と長く生きながらえているのも、相変わらず人脈とか経験などは増えないわけだが、時間という財産がふんだんにあるからだろう。
最近よく思うのは、人脈や知識などを増やすレクチャーがいい商売になるように、時間を増やすことも商売になるということである。
さらにいうなら、人脈や経験や知識や技術やお金を増やす商売は徐々に廃れて、時間を増やす商売が増えて行くだろうとも思う。なぜなら、どんなことをするにしても時間は必要であり、時間さえ増えれば、人脈や経験や知識や技術やお金を効率よく増やすこともできるはずだからである。
時間を増やすというのは、要するに暇な時間を増やすということだ。1日24時間を25時間にすることはできないが、空いている時間を増やすことはできる。そういうコンセプトの商売がうまくいっているように思うし、これからも伸びるのではないかと思う。
わかりやすい例がコンビニである。遠くのスーパーまで出かけたり、電気屋と文房具屋を回ったりしなくても、コンビニに行けば必要なものが買える。値段が高く、品揃えが少ないかもしれないが、買い回るために必要な時間をセーブできる。だからコンビニは流行るのだと思う。新幹線が満席なのも、アマゾンで買う人が増えるのも、時間が短縮でき、自由に使える時間が増えるからだ。
誰がいったか忘れたが、お金は盗まれたりするけれど、知識とか経験は盗まれないから大事です、という格言があった。
その視点からみると、時間も奪われるものであるので、奪われないようにしなければならない。何が時間を奪っていくかというと、移動や会議である。
フリーランサーは通勤がない分だけまだマシだ。

もらうことと稼ぐことについて 1月某日 晴れ

日本人は節約と貯金が好きなのだそうだ。
先日読んだ雑誌にそんなことが書いてあった。
確かに、書店を見ても貯金術の本がたくさん出ている。
最近は株関連の本なども増えているが、多くの人にとって、それは貯金の一部だけを使うお試し的な運用であり、本腰をいれるつもりは毛頭なく、基本は預金なのだろうと思う。
節約は手元の現金を余らせることであり、預金はその現金を置いておくことだ。
そう考えると、日本人は現金主義であり、通貨の価値に絶対の信頼を置いているとも言える。通貨の価値が不安定な新興国や紛争国などではありえない考えだろうから、日本がとても平和な国であることの証とも言えるだろう。
一方で、節約と貯金を好むことは、運用という点からみると思考停止なのではないかと思う。平和が長く続いたことで、運用の意識が徐々に蝕まれ、末期症状にきているようにも見える。
そもそも節約したり貯めたりするのは、誰かからお金を「もらう」ことがスタートだ。誰からももらえなければ、節約しようがなく、貯めることもできない。
では、お金をもらえるという前提が崩れる可能性はないのだろうか。
当然、ありうる。会社が潰れて給料がもらえなくなる可能性はあるし、クビになる可能性もある。年金制度が崩壊する可能性もあるだろう。
「もらう」という前提が崩れれば、その先にある節約と預金というサイクルも動かなくなる。リスク要因としては小さいかもしれないが、そういう事態になった時のダメージは強烈だ。
話は少し逸れるのだが、牛丼屋で無料キャンペーンをやると、毎度長蛇の列ができる。並んでいる時間を使えば、もしかしたら牛丼代くらい稼ぐことができるかもしれない。しかし、並んでいる人は「もらう」が前提だから、素直に並ぶ。それが末期症状の表れだと思うのである。
だから私は「もらう」という前提は信じないし、もらうのではなく自分の力で稼ぐ力を磨いた方がいいと思う。投資はその中でも最も手軽な手法の1つだろう。牛丼代くらいなら簡単に稼げる。そう思って相場に張り込んだら牛丼100杯分くらい負けた。ちょっと牛丼屋に並んでくる。

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ライター 伊達直太

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