ライター伊達直太/取材後記2022

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取材後記 2022

感謝について 5月某日 晴れ

良いの反対は悪い、美味しいの反対はマズい。
反対語は色々とあって、光と影、行くと帰る、金持ちと貧乏、株高と株安など、世の中のあらゆることに反対語があり、ペアの関係で存在している。
もちろんペアの相手がない言葉もある。例えば、名詞には反対語がない。これは当たり前で、タケノコの反対語もパソコンの反対語もない。そんなことをぼんやり考えていて、ふと「ありがとう」の反対語は何なのだろうと思った。怒りなら許し、笑いなら退屈、悲しみなら癒しみたいな、そういうハマる言葉があるのではないか、と思ったわけである。
そんなことを考えていたら、過日、取材相手の方と話をしていて、偶然にもその答えを教えてもらった。その答えとは「当たり前」。感謝の気持ちがなくなると、自分が享受しているあらゆることを「やってもらって当たり前」と思うようになる、ということである。
これは唸った。物書き商売をやっていてよかったと思った。私は取材で色々な人と会い、色々な話の中で発見とか学びを得ているわけだが、感謝の反対は当たり前、という考えは、多分、マザーテレサさんが言った、愛の反対は無関心、と同じくらいのインパクトがあった。
その視点で世の中を見渡してみると、「やってもらって当たり前」と何の疑いもなく考え、行動している人が多いことに気づく。つまり、感謝の気持ちがない人たちである。
私はいろんなタイプの人を許容するし、自分で言うのもおかしいが、それなりにうまく人と付き合える。むしろ自分と考え方や価値観などが違う人と出会うことで、そういう人もいるのか、面白いなあと感じるタイプである。ただ、ほぼ唯一と言っていいくらい苦手なのが、感謝の気持ちがない人である。それはきっと潜在的に嫌悪感があって、ここだけの話、過去に縁を切った友人も、付き合っていてお別れした女性も、そのほとんどが感謝しない人か、できない人だった。感謝せず、当たり前と思うタイプの人と、感謝の気持ちを大事にしたい私がペアになれるはずがなかったんである。
そんな過去を思い出しつつ、最近の自分を省みてみれば、感謝の気持ちを忘れていることも多い。仕事があることも、子供らと楽しく毎日を過ごせていることも、決して当たり前と思ってはいけない。そんなふうに自戒した今日この頃です。

気合いと根性について 4月某日 晴れ

気合いと根性はいまだに根強い価値観である。
部活はこの2つで成り立っているし、大人になっても、職種で言えば営業(昔ながらの)もそうだし、業界的には不動産とか飲食とか商社とかもその匂いを残しているし、出版や執筆もそうである。自分自身も気合と根性である。
気合いと根性はそれなりに大事だ。我々のようなフリーランス商売は、常識を超えた量の仕事を短期間でこなさなければならない時がある。引き受けられない量なら断ればいい、と思うかもしれないが、我々は恩とか義理が大事な商売であるがゆえ、安易に「忙しいので無理です」とも言えないわけで、だからたまに常識を越えることがあり、気合いで乗り切り根性で耐え切らなければならない時が来る。最近はそういう状況になる機会が減ったが、年に1、2回はある。
振り返ってみると、過去にはそういう機会が年に5、6回はあった。2ヶ月に1回のペースで修羅場が来るイメージである。それでも案外平気だったのは若くて体力があったからだろう。あとはITである。物書き商売はIT化が遅れている旧態依然とした商売であるが、最近は少なからずITが普及してきた。例えば、取材や打ち合わせはリモートが増えたし、取材の音声も自動でテキスト化できるようになった。おかげで気合いと根性で乗り切らなければならない場面が減って、その結果、徹夜する夜は以前の半分以下になったし、年々弱っているはずの体力でもどうにかなっている。そういう点で、ある程度ラクさせてくれるようになったITには感謝しかない。
どんな商売も、最終的には気合いと根性だと思っている。ただ、最初から最後まで気合いと根性だけではどうにもならない。武器が少なすぎる。武器とは、例えばITなどによる合理化や効率化とかであり、一般的に、年をとるほど「経験則でどうにかなる」「ITなんぞに頼らなくても大丈夫」と思う人が増えるのだが、それは全く逆で、老いるからこそITのような合理化の仕組みに頼る必要がある。
IT化のような取り組みと気合いや根性のような精神論は、プラスとマイナスみたいな関係性に捉えられがちがだが、そうではない。組み見合わせることが大事。気合いがいらないことはITに任せて、残りを気合いで乗り切る。この2つの組み合わせというか棲み分けというか、その塩梅がこれからのフリーランスの生き残りにおいて重要なポイントだと思っている。私はまだまだ気合いで乗り切っているところが多いわけだけれども。

投資の持続可能性について 4月某日 晴れ

たまには株の話。
私は、ほぼ毎日株を売買する。ただ、いわゆるデイトレであり、今日買って今日売るか、買った翌日の朝に売るトレードがほとんどで、売買する会社が何をしている会社か、ほとんど知らない。何をしているかもあまり気にならない。
そういう投資に抵抗感や違和感や嫌悪感を持つ人もいるかもしれないが、投資することと投資先を知ることは必ずしもイコールではない、と思っている。それは投資とトレードの違いかもしれないし、投資と投機の違いなのかもしれないが、個人的に、そこに何の違和感もないのは、私がパチンコ出身だからだろう。パチンコやパチスロが特徴的なのは、パチンコは釘、パチスロは設定が変わるため、今日出た台が明日も出るとは限らないということだ。そういう世界に馴染んだせいもあって、株の値動きもそんな視点で見ている。昨日上がった株が今日は暴落しても、そういうもんと思う。設定が変わったな、くらいの感覚である。また、何をしている会社か調べ、そこに可能性や将来性を見つけたとしても、それって今の経営方針であって、明日はどうなっているかわかんないよね、と思う。だから、会社や事業そのものにもあまり興味が湧かない。
自己分析として私が会社員に向いていないと思うのは、そこに原因がある。尊敬できる経営者が切り盛りする会社でも、明日にはその経営者が交代するかもしれない。企業には理念やイデオロギーがあって、それが世代を超えて受け継がれていくのだろうし、だからホンダとかソニーは強いのだろう。ただ、それはごく一部の企業だとも思っていて、世の中には、創業当初とは全く違う方針で事業に参入し、迷走している企業がいくつもある。
世の中のサラリーマンの多くは、生活のためやお金のために働くのだという。私はサラリーマン経験がないが、その気持ちは分かる。会社や経営者の思想に共感して入った会社で思想に共感できなくなった場合、仕事をする理由は、おそらく生活とかお金に向かうだろうと思うからである。
何の話か。株の話だった。今月も損切りが多い。気兼ねなく損切りできるのは、その株の値動きには興味があっても、事業内容や戦略は知らないし、固執してもいないからだろう。株価が下がっても決算が悪くても何のストレスもない。
ただ、最近はどの株も恐ろしいくらいに下がる岸田禍なので、損切りが多すぎることと、全然儲からないことにストレスを感じるのだが。

感謝について 4月某日 晴れ

持続可能性は普遍的なテーマである。
あらゆることに関連するから話題が色々と広がる。心理学的には現状維持バイアスとか、経済学的には人口減少の話とか、実はあらゆることがサステナブルかどうかを問われているような気がしている。
それはそれとして、商売と持続可能性という点で考えてみると、物書き商売は持続可能性が低い。私が知っているだけでも、フリーランスをやめて会社員に戻った人はたくさんいるし、フリーランスになって、その後の音信が途絶えている人もいる。そういう業界であることを踏まえれば、なんだかんだ20年超に渡ってフリーの物書き商売をさせてもらっている現状はありがたいことである。
どういう因果で20年超になったかは分からない。運としか言いようがない。
1つ言えることがあるとすれば、私の実力ではないということだ。
物書き商売をやっていて思うのは、あまりにも文章力がない場合は別だけど、実力はそれほど大きな問題ではないということだ。80点くらいの文章が書けるのであれば、あとはその力を評価する人がいるかどうかである。
たまたま私の周りには、私が書く文章を気に入ってくれている人がいる。インタビューのやり方なのか文章なのか分からないが、いいねと思って発注してくれる人がいて、リピートしてくれる人がいる。そういう人に恵まれたという点で、20年超に渡って商売を持続できている理由は実力ではなく人である。突き詰めれば、そういう人との出会いに恵まれたのは運であるから、だから、運としか言いようがない。
では、どうやったら運が良くなるかというと、そんなことは分からない。ただ、最近ある方と話をしていて心に刺さった言葉があった。それは、感謝の対義語は当たり前、という言葉である。
世の中には横柄な人がいる。例えば、コンビニとか飲食店に行くと、そんな横柄な言い方するのかよ、と驚くくらい、お客様は神様なのだと勘違いした無礼で品のない振る舞いをする人を見かける。なんでそうなるかというと、店員さんへの感謝がないから。言い換えれば、ペコペコされて当たり前という感覚があるから。つまり、感謝の対義語は当たり前。そういう態度の人は、周りに人が集まらないだろうと思うし、万人に寛容な私(←)ですら、男として、親として、人として、そういう人には近づきたくないから、触れないでおこうと思う。
そう考えれば、物書き商売の持続可能性が低いことも感謝である。それが分かっているから、私は仕事をいただけることを当たり前と思わないし、思ったこともない。それが感謝の気持ちを持つことにつながり、対人関係をよくし、仕事が増える一因にもなっているのではないかな、と最近思っている。

商売の持続可能性について 4月某日 晴れ

持続可能性についての続き。
商売の組み立て方が変わった気がしている。最初にそう思ったのは、サブスクが普及し始めた時である。サブスクは、定期購入の仕組みとしては昔からあるが、それが急に注目されるようになった背景が気になっていた。
これは事業者側の視点から見るとわかる。サブスクは、会員制などの囲い込み制度も含めて、長期で収入が安定する。つまり収益性という点で持続可能性が高く、そこにサステナビリティ時代の新たな事業価値があり、時流の変化の中で事業の組み立て方も変わった、ということである。
決算書の視点から見ると、売上と利益を見るPL的な思考から、経営の安定性を見るBSや、現金の流れを重視するCFの思考に変わっているのかもしれない。
従来の経営は、今期の売上額と前期比との増減に注目してきた。期間内にたくさん稼ぎ、たくさん残すのが正解で、前期比でマイナスになりそうであれば決算前に駆け込みで売上を作った。巷でよく目にする決算セールは、その典型例。
これは収益を単年で考える思考で、サステナブルではない。決算直前で追い込まれる経営や営業が辛いし、決算後は再び1から売上を積み上げなければならない。そのプロセスに多くの人が漠然とした疑問を抱いているところにSDGsがきて、単年の売上ではなく、来期以降も見据えて、売上、資産、現金が増加していくプロセスがいいのではないか、という流れになってきた。サブスクはまさにそれで、期中の売上は少ないが、翌年以降の売上が確保できる。
ここで難しいのは、サブスク的な商売なら生き延びられるかというと、そうでもない。定期購読の代表的存在である新聞は年々購読部数が下がっている。サブスクテレビのNetflixは好調だけど、強制サブスクのNHKは厳しい。NetflixとNHKの明暗を分けている要素はコンテンツの質だろう。つまり、サブスク的な持続可能性を実現する大前提として、消費者がお金を払いたいと思う価値を提供しないといけない。それが実は持続可能性の鍵で、サブスク動向に関係なく、おそらく数百年前から変わっていないし、数百年後も変わらないのだと思う。
物書き商売の持続可能性、ということを一時期よく考えたけれど、以上のような考察から、生き延びるために重要なのは原稿の質を高めることであり、そのための努力が不可欠であることがわかった。そろそろ真面目に仕事をしようと思う。

家計の持続可能性について 3月某日 晴れ

SDGsのS。サステナブル。サステナビリティ。持続可能性。
一般的には、持続可能性というと環境の話になるが、私はどちらかというと経済的な持続可能性のほうがソソられる。例えば、給料制で働いている会社員は給持続可能性が高い。安定的な収入があり、金額は基本的には増えていく。これは羨ましい。参考までに、私の今月の収入は、先月の約1割である。フリーランスの物書き商売は、持続可能性という点で最弱だと思う。
それはさておき、金額も大事ではあるが、価値も見る必要があるだろう。例えば、岸田政治は会社員の給料引き上げ方針なので、月給が30万円から40万円になるかもしれない。これは大きな増収だ。ただ、価値はどうか。今の円安トレンドで考えると、円安傾向の対ドルベースでは、実は10万円の増額ではない。4月以降は食料品や生活用品が値上がりし、「あれ、給料10万増えたはずなのに、お金が……」となる未来が待っているかもしれず、インフレを加味すると、増額はとても少ないかもしれず、もしかしたら減額かもしれない、という話。
こういう話は、今どきの言葉でいえば金融リテラシーやマネーリテラシーということになり、リテラシーが高い人たちは「現預金ではダメ」「投資しましょう」という論調になる。
興味深いのは、30年前は全く逆の現象が起きていたことである。当時は、預金や貯金で年5%くらいの利息がつき、株の値上がりや配当なんてほとんどなかった。つまり、当時は、働く、稼ぐ、預金する、という方法が最も効率的で、多くの人が、言われるまでもなく、その方法を実践していた。この「言われるまでもなく」というところが大事。去年の話だけれども、マネックス証券さんの松本さんから話を聞く機会があり、一般市民のリテラシーは高い、とおっしゃっていた。その根拠は、失われた30年に突入する際、つまり、バブル崩壊の直前直後に、銀行や証券界隈が現金以外の資産を買い越した一方で、一般市民は逆に資産を現金化し、その後の円高とデフレで資産価値を上げたところまで含めて、正しいアセットロケーションをした、ということ。その結果は周知の通りで、つまり、日本人はリテラシーが低いと言われるが、実はそんなことはなくて、お金の嗅覚が優れている。いくつもの銀行が消えた一方で家計がしぶとく耐えた過去も、株安円安の岸田禍で一般家庭のダメージが小さいように感じられる現在も、一般市民のマネーリテラシーが高く、経済的な持続可能性が高い。のかもしれない。

1年の節目について 3月某日 晴れ

3月になったら、いろいろやろう。
そう思っていて、やりたいこと、やらなければならないことがいくつも頭に浮かんでいた。ところが、気づけば3月になっている。なぜもこう時間が経つのが早いのか。
この時期にいつも思うのは、今年こそ確定申告を早く終わらせよう、ということである。いつも思うということは、いつもできていないということである。案の定、今年もまだ何も手をつけていない。
私は自分で確定申告する。書類を作って送るまでに1日か2日かかかるが、フリーランスになった時からずっと自分でやっている。
たまに、同業者や似た業種の人に、税理士さんに頼めばとアドバイスを受ける。たしかに、その方が楽だ。税理士さんに頼んで1、2日空けば、仕事も進むし、子供らと遊ぶ時間も作れる。
しかし、自分でやる意味もある。その1つは、自分の仕事の振り返りができることだ。
3月になって1年を振り返ると気には、1年前の4月とか5月に単発で引き受けた仕事についてはほぼ忘れている。源泉徴収額が書かれている支払い調書が送られてきたのを見て、これは何の仕事だっけ、こんな会社からお仕事いただいたっけ、と思うことも多い。
税理士さんにお願いすると、そういう振り返りはできない。どういう縁で仕事をいただいたか、単発で終わり、2回目、3回目に繋がらなかった理由は何か、といったことに考えが及ばない。これは、自分の改善点や修正点を把握するという点でもったいないことだと思う。
逆も然りで、1年を通じて収入を振り返ると、どの会社からたくさんお金をもらったかがわかる。それを知ることで感謝できるし、リピートが多いということは自分のどこかが気に入られているということだから、それを知ることも大事だ。
確定申告をする際には、そういう振り返りをいちいちやっている。だから時間がかかるのだが、来年の方針とか戦略を考えるためには過去を踏まえなければならない。そのために確定申告は重要であり、税理士さんに任せる方がラクだったとしても、自分でやろうと思う。まだ、やっていないけれども。
ところで、私は3月生まれなので年齢的な区切りとして1つ老いる。3.11を経験したことで人生観が変わったので、来年の3.11まで全力で行くぞと決意を改めるという点で、精神的な区切りも3月である。そして、経済的には確定申告で去年を振り返る。厳密には、申告する分は昨年の12月末までの収支だが、振り返るという点では3月だから、そこが心機一転のタイミングになる。
一般的には「一年の計は元旦にあり」で、お正月にいろいろと振り返ったり、次の目標を立てたりすることが多いのかもしれない。しかし、私の場合、肉体的にも精神的にも経済的にも3月が区切りやすい。3月になったらいろいろやろうと思うのも、色々な個人的理由で、「一年の計は3月にあり」となっているからかもしれない。

11年経ったことについて 3月11日 晴れ

11年が経った。
人が常に新しいものに興味を示す生き物であるとすれば、11年前の震災について語られる機会が減っていくのは仕方がないことだと思っている。自分の周りを見ても、震災の年に生まれた長男は当時の状況を知らないし、長女は生まれてもいないわけだから話のしようがない。そういう世代に向けて震災の辛苦を語り継ぐのが大人の役目であり、振り返りと考えるきっかけを与えるのがメディアの役目であると思っているけれど、今年はロシアが荒れている。メディア的に、視聴率的に美味しいのは過去の思い出より鮮度が高い旬のトラブルである。
愚かな人は経験に学び、賢い人は歴史に学ぶ、という論がある。ビスマルクの言葉だったと思う。
自分で経験してみなければわからない。経験してみてようやくわかった。それは愚かな人のやり方。賢い人は、わざわざ自分で経験してみなくても、他人が経験した事実、つまり歴史を知ることで知見を得る、という意味である。
これは意外と深い。例えば、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」は、他人に危害を及ぼすような人は愚かな人であり、愚かな人には、同じ目にあわせて、どういう気持ちになるかわからせるという原則を指す。これも要するに、愚かな人は経験させて学ぶしかない、という前提に立っている。
偉そうなことを言うつもりはなくて、私は自分が愚者の部類だと思っている。震災についてあれこれ言うのも、私が、ど真ん中ではないけれど、それなりに被害を受けた1人だからである。つまり、経験から学んだ。もし何の被害もなく、震災についてメディアなどで知っただけだったとしたら、私はここまで震災について考えることはなかったと思う。実際、その20年前には神戸で震災が起きているわけだが、私は当事者ではないし、歴史から学べる賢者でもないので、3.11に見舞われるまで震災について深く考えることがなかった。
実際に経験するのが最も学びになる。それは事実だと思う。
ただ、震災のようなものは経験しないほうがいいに決まっている。だからこそ、私は愚者の1人として、年に1回くらいではあるけれど、震災の危険性と防災の大事さを伝えたいと思っている。一般的には、学びとは愚者が賢者から学ぶわけだが、経験者である愚者が説得力を持って賢者に伝えられることもある。備蓄したり、避難場所を決めたり、家具などの転倒防止を考えるなど、防災対策はきちんとやっておきましょう。

眠れない夜について 3月某日 晴れ

また大きな地震が起きた。
東北で震度6強。東京は4強くらいで、それなりに揺れた。
ただ、それなりには揺れたけれども、それなりであったから、寝かしつけたばかりだった子供らは起きることなく、緊急地震速報(あの音はいつ聞いても怖い)も鳴ることなく、久しぶりに揺れたなあ、くらいの感想で終わった。
実家がある仙台では、部屋の中のものが倒れたり落ちたりして大変だったようだ。ただ、現地の人の捉え方もそれなりであったようで、震災を経験しているからそれほどショックは大きくなかったらしい。そういえば、3.11の時はまだ祖母が健在で、ひと通り落ち着いた頃に大丈夫だったかと聞いたところ、戦争を経験しているからたいしたことない、と言っていたのを思い出した。
ストレスやパニックへの耐性という点で、人は経験で強くなる。東北の高齢者は最強だなと思った。東北魂は、私の血にも流れている、はずである。
11年前と違うのは、親がLINEをやるようになって、状況がすぐにわかるようになったことだ。当時は電話がつながらずに不安が膨らんだが、今回はメールやSNSで連絡できる。これからの老人世代は自分を含めネットとスマホを使い慣れた世代だから、電話1本でしかつながっていない人は減っているわけだし、3.11の時のように連絡不能になるようなケースは減っていくのだろう。
言い換えれば、マスメディアはいよいよ不要であるということだ。とくに震災のような非常時において、マスメディアが果たせる役目は非常に小さい。
地震が起きて、親族にメッセージを送ったりTwitterを見て情報を読んだりしたのち、久しぶりにテレビをつけた。何か有益な情報があるかな、と思ったからである。しかし、1、2時間ほど見て、いくつかチャンネルを回してみたけれど、得られる情報は既知のものばかりである。5分前に放映済みの情報を繰り返すだけで、そもそもが二次情報のメディアだから仕方がないけれども、それにしても何の更新もなく、義理的、義務的に地震の番組を垂れ流しているだけ。
あんなもの、誰の役に立つのだろうか。そもそも電気が止まったエリアではテレビがつかないし、スマホは充電さえあれば停電関係なく情報を入手し続けられるわけで、そう考えると、ますます緊急情報の発信役としてのテレビ番組の価値はないな、と思う。公共性があるから、という理由でお金を取るテレビ局もあるけれど、若い人が払いたがらないのも頷ける。SNSのように、テレビより有益で役に立つ情報を、無料で早く入手できるメディアがあるのだから、テレビ番組にお金を払う必要はないと思って当然である。
テレビが悪いということではない。ドラマとかお笑い番組とかは、私は興味ないから見ないけれど、きっと面白い。ただ、情報の発信源という点での価値とランクは低い。かつてのテレビは生活に欠かせない情報源だったかもしれない。今はYouTubeやネットフリックスと同様に、趣味で見るものなのだなあ、というようなことを、地震後の緊張で眠れない中で考えていました。

勝負について その2 2月某日 晴れ

勝負ごとが嫌い、という話の続き。
私は誰かと勝負する対人の勝負が嫌いであり苦手である。その理由は3つあり、そのうちの2つは前回書いたので、3つめの理由。
3つ目の理由は、勝負して勝った時に、相手が気の毒に思えてしまうから。その感情が嫌なのだ。
例えば、会社の中で誰かと部長の座を争うとする。私は、前述の通り、勝負するとなったら勝つためにあらゆる準備をするので、おそらく勝つ。部長になる。
しかし、本心としては、部長になることなどどうでもいいと思っている。どうでもいいと思っている私が、勝負に勝って、部長になる。
一方で、負けた人は人生をかけて部長になりたいと思っていたかもしれない。そういうことを考えるから、勝ったとしても全然嬉しくないし、むしろ、ごめんね……という気持ちになる。それが嫌なのだ。
何を言ってんだ、こいつ。そう思う人もいるだろう。
私自身、自分が勝負を嫌う理由を整理したつもりなのだが、いざ文章にすると、何言ってんだ俺、と思う。
ただ、それなりに筋も通るのである。
例えば、私はパチスロや株は大好物である。嬉々として挑む。なぜなら、それは誰かとの勝負ではないからである。負ける恥ずかしさもないし、誰かに嫌な感情を抱く相手もいないし、負けた人に申し訳ないと思う気持ちも生まれない。だから、そういう勝負は気兼ねなく挑める。とても心地いい。
また、私はフリーランスの物書き商売だから、出世争いとか成績争いとかは無縁である。これも実に心地いい。
私の座右の銘は「勝つまでやれば負けません」である。実際、そう思う。負けても再挑戦すればいいし、諦めなければいつかは勝てる、と思う。
ただ、今の自分を内観してみると、「勝つまでやれば負けません」というよりは「勝負しなければ負けません」に近いかもしれない。フリーの商売は自分との戦いであり、誰かとの戦いではない。私のような性格の人には転職だと思う。
ところで、ロシアがウクライナに軍事侵攻し、戦争が始まった。
全く関係ないことのように思えるだろうけど、勝負に関する私のどうでもいい話と戦争の話は実はリンクする。これも勝負の話なのだ。
戦争を仕掛ける人はどういう人か。
勝つことだけ考えて、負けた時のことは考えていない。
勝つために、勝率が少しでも高くなるように、相手の不幸を願う。
負けた相手の感情を考えない。
この3点において、私とは全く逆である。だから、私は戦争する人が理解できないし、もっと日常的なところで、ケンカする人も理解できない。
もちろん、受験とか出世争いのように、誰も傷つけることなく行われている勝負についてはなんとも思わない。むしろ、私にはできない勝負の世界を渡り歩いているわけだから、受験生の子たちも会社員の方も経営者の方もすごいなあと思う
でも、戦争はそうじゃない。人が死ぬ。
だから、私は戦争には反対である。
戦争する人を理解しないし、理解する気もないし、認めない。

勝負について その1 2月某日 晴れ

勝負ごとが嫌いだ。
私を知る人たちは「嘘つけ」「勝負ごとが大好物だろう」というかもしれない。
違うんである。ここでいう勝負は、ギャンブルとかの勝負ではなくて、対人の勝負の話。つまり、誰かと戦う勝負。
私はそれが苦手で、それを避けて生きて続けている、という話である。
あらためて、誰かと勝負するのがなぜ嫌なのか考えてみた。
結果、3つの理由が思い浮かんだ。
1つは、勝ってしまうからである。
生意気に聞こえるだろうけども、大抵のことなら、私は勝つ。なぜなら、勝負する、勝負しなければならないと決まったら、私は案外真面目だし、負けず嫌いのところもあるので、勝つための準備や練習をするから。
例えば、相手が毎日100回素振りするなら、私は105回くらい素振りする。勝敗は、そういう小さな差の積み重ねで決まるところが大きいし、私はそのことを知っているから、勝つと決めたら勝つための準備をする。だから勝つ。
これが実は問題。勝つならいいじゃないか、という人もいるけれど、そうじゃない。勝つとわかっていると、勝たないといけない。勝たないといけない状態で負けると、かなり落ち込む。しかも恥ずかしい。
これは、リスク、リワードのバランスで考えると非常に不利だ。勝っても当たり前という評価だし、負けたらなんでだ、ということになる。そう考えると、勝負する意味がない。価値もない。だから、私は勝負が嫌なのだ。
2つ目の理由は、相手に対して嫌な感情を持ってしまうから。
例えば、絶対に負けられない勝負となった時、相手に対して「負けろ」と思う人は多いと思う。その気持ちが行き過ぎて、勝負前にケガしたりお腹を壊したりすることを望んだり、彼女に振られてメンタルを壊してしまえと祈ったりする人もいるかもしれない。これは、人として最低である。最低なのだ。そして、私は器が小さい人間だから、勝負が差し迫ってきたら、きっとそういう最低の思考になる。そうなる自分が嫌だし、そうなりたくないから、勝負をしたくないのである。
3つ目。これも多くの人に共感してもらえると思う。
ただ、文字量が限界になったので、次回に続く。
(2回に分けるような話でもない気はするが)

親ガチャについて 2月某日 晴れ

親ガチャという言葉がある。
子供は親を選べない。親がどうしようもない人間だった場合に、「こんな家に生まれちゃったオレ/ワタシって不幸だよね」というような話。
確かに、不幸なのだ。例えば、虐待をするような親のもとに生まれた場合、子供は逃げ道がない。何千分の1か、何万分の1かわからないけれど、そういう家に生まれたのは不幸でしかないし、親ガチャ失敗は言い得て妙だし、どうにもできない現状があるとすれば、それを想像するだけで胸が痛い。
一方で、最近は親ガチャという言葉が一人歩きを始めていて、おそらく理解力が低い一部のメディアのせいでそうなっているんだろうけど、経済力とか学力がない親の元に生まれることが、親ガチャ外れた、という議論になりつつある。
そこで、たまには真面目な話をしよう。
あのな、子供たちよ。そういう視点で「親ガチャがイマイチ」だと思うのだとしたら、ごちゃごちゃ言う前に自分でなんとかしなさい。
「うちの親は貧乏だから」というのであれば、君が頑張ってお金持ちになりなさい。「うちの親は無学」というのであれば、君が頑張って勉強するのです。
人のせいにすんな。親のせいにすんな。
カースト制度がある国と違って、日本は自由だ。今どき、士農工商もない。
なんでもできる。なんでもできるのだから、あとは、やるか、やらないか。
誰かのせいにし始めたら、自分には何のプラスにもならない。時流に流されて人のせいにしている人は、20年、30年後に、「親ガチャ外れた」って言われる側の人間になっているだろう。
それより情けないと思うのは、親である。子供に「親ガチャはずれ」と言われている親のほう。
しっかりしてくれ。もっとできることがあるだろう。
「貧乏だから」と言われるならもっと稼げばいいし、「学力が」と言われるなら勉強すればいいし。
「子供は好き勝手言うもんだ」みたいなニヒリズムはいらない。「子供は何もわかってない」みたいなシニシズムもいらない。
かっこいい親になろう。「親ガチャあたり」と、言われなかったとしても、思われる親になろう、と、僕は今日思いました。

2月の短さについて 2月某日 晴れ

2月の短さよ。
過去に100万回くらい言ってきたことなのだが、2月は短い。もはやそれがスタンダードになっているけれども、今年から祝日が2日に増えた。天皇誕生日であるらしい。それなら、仕方がない。おめでとうございますとしかいうより仕方がないのだが。
それはそうと、コロナバブルがありがたいのは、売上面で嬉しいということもあるのだが、1つ1つの仕事の質も良くなるということである。
一般的に、量と質はトレードオフで、量をこなそうと思うと質が下がり、質を追求すると量は稼げない。100円ショップの商品は、たくさん売れるけれども質はそれなりで、ブランド品は、質はいいけれど数は出ない、みたいな話。
ところが、バブルはそのジレンマを超越する。100円ショップとブランドショップで言うと、世の中がバブっているので低品質なものは排除されて、それなりの品質があれば数も出る。つまり、いくら100円でも、これはお金の無駄だと評価されるものは消える。
一方で、今は90年前後のバブルとは違って、貧しい状態でのバブルであるから、価格帯が高い分野においても、この品質で、さすがにこれは高い、と評価されるような、高さと希少性だけを売りにしているような商品は消える。例えば、予約が取れないことがウリだったレストランとかは、予約が取れるようになってプレミアがなくなり、ネームバリューだけでお客さんが集まっていたホテルなども、質実剛健というか節約主義というか、そういうご時世においてコスパが悪いと評価されるようになっている。
その結果として、どこに需要が集まるかというと、中間。それなりに良さそう、という水準で、激安ではないけれども品質がそこそこいいところであり、例えばユニクロとかケンタッキーとかがそんな水準にあって、物書き商売で言えば、たまたま私はその辺りにいるのだと自己評価している。おかげで、売上が増えて、仕事の質も良くなっている。
そういう背景を考えると、コロナバブルはもうちょい続くかもしれない。私はフリーになって今年で22年目になり、浮利を追わないというか、安売りしないというか、そんな方針がようやく時代とマッチしてきた感じがしている。やることが多い。だからこそ、もう1回言っておきたいのだが、2月は短い。

コロナバブルについて 1月某日 晴れ

今年もすでにやることが多い。
ありがたいことである。
コロナ禍になって2年になるが、コロナバブルはまだ続くらしい。
このバブルがありがたいのは、仕事の量が増えて、売上面で嬉しいということもあるのだが、1つ1つの仕事の質も良くなるということである。
一般的に、量と質はトレードオフの関係にあって、量をこなそうと思うと質が下がり、質を追求すると量は稼げない。100円ショップの商品はたくさん売れるけれども質はそれなりで、ブランド品は質はいいけれど数は出ない、みたいな話。
ところが、バブルはそのジレンマを超越する。
世の中がバブって品質重視に傾くため、低品質なものは排除される。つまり、いくら100円でも、これはお金の無駄だと評価されるものは消える。
一方で、価格帯が高い分野も、この品質で、さすがにこれは高い、と評価されるような、高さと希少性だけを売りにしているような商品は消える。それはコロナ禍の影響もあって、例えば、予約が取れないことがウリだったレストランとかは予約が取れるようになってプレミアがなくなって、ネームバリューだけでお客さんが集まっていたホテルなども、質実剛健というか節約主義というか、そういうご時世においてコスパが悪いと評価されるようになっている。
これは考えてみれば当たり前のことで、政府の補助金がついたりして世の中が豊かになったから、安さのみ重視する「安かろう悪かろう」の商品は淘汰されるし、一方で、ネットで色々安く買える時代では、消費者の消費リテラシーが高くなるから「高かろう良かろう」も敬遠される。
どこに需要が集まるかというと、その中間。「それなりに良さそう」という水準で、激安ではないけれども品質がそこそこいいところであり、個人的な感覚だけど、ユニクロとかケンタッキーとかトヨタとかがそんな水準にあって、物書き商売で言えば、たまたま私はその辺りにいるのだと自己評価している。その結果として、売上が増えて、仕事の質も良くなっている。
そういう背景を考えると、コロナバブルはもうちょい続くかもしれない。ならば、今年も限界まで流れに乗ってみる。
私のような弱小フリーランスは、流れに身を任せるのが得策である。

フリーランスの収入について1 1月某日 晴れ

フリーって大変でしょう。
たまにそう言われることがあるのだが、私のような物書き商売については、全然大変だとは思っていない。
大変だろうなあと思うのは、現場があって売り上げが立っているフリーの人。コロナ禍で現場が圧倒的に減っている中では、私にとって身近な職種で言うと、カメラマンとかイベンターとかは大変だろうなと思う。
過日、久しぶりに現場仕事があって、久しぶりに顔見知りのカメラマンと会った。最初に思ったのは、元気そうで何よりだということ。だって、現場がなければ収入がなくなることも十分にあり得るからね。
その人は、もともと能力が高いこともあって、収入は激減したけど、どうにか堪えていると言っていた。
そう考えると、自宅に篭れる物書き商売は恵まれている。イラストレーターとか編集者も割と近くて、現場がなくなってもリモートで仕事ができるから、収入が激減するようなことはない。むしろ、リモートが増えるほど移動時間が減るなどして仕事の効率は上がるので、誰と仕事をするか、どこまで引き受けるかといった個人差はあるだろうけれども、私を含めて、仕事の量が増えたという人は多いはずである。
参考までに、昨年の私の休日は計5日だった。356日のうち360日は仕事をしていたということになる。これがコロナバブルである。
一般的な会社員の出社日数が250日くらいであるらしいから、私は1.5倍くらい働いたわけなので、一般的な会社員よりも収入が多くても誰も文句は言わないだろうと思う。これがフリーの収入の実態である。働いたら、働いた分だけ収入が増える(税金とか保険料とかも増えるから手取りはそんなに増えないけれどね)。
逆に、現状のカメラマンのように、自分の意思に関係なく、働く機会が減ったら収入も減る。
私は、たまたま去年は仕事が多かったが、いつ、何時、何かが起きて、収入が激減するかわからない。そう考えると、「フリーって大変」ということではない。フリーって運だよね、が正解なのだと思う。

納期を守ることについて 1月某日 晴れ

毎年、年の初めに目標を立てる。
今年の目標は3つで、子供らの勉強と遊びに付き合うこと、子供らに病気やけがをさせないこと、納期を守ることである。
はじめの2つはさておき、3つ目の、納期を守る。
これは、フリーになってから常に守ってきたことであり、フリーで食っていけるかもしれないと思った理由の1つでもある。
もう何十年も前の話なのだが、私はかつて仕事を発注する側で、その時に一番困ったのは、納期を守らない人が多いことだった。当時の私は若造だったから、先輩であるフリーの人たちになめられていたのだろうとも思うが、とにかく締め切りを守らない人ばかり。締め切りが近づくと、毎月のように、どうですか、まだですか、いつですか、みたいな連絡をして、散々時間を無駄にした。
あらためて考えると、私が時間主義者になったのも、約束を守らない人を信用しなくなったのも、この時の経験がかなり影響しているように思う。
そんな経験を逆手にとって、これだけ締め切りを守らない人がいるなら、締め切りを守る人なら仕事が重宝されるんじゃないだろか、と考えたのが、フリーになると決めた理由の1つ。
安直ではあるが、間違ってはいなかったと思う。だって、そこから20年ちょいにわたって、これという才能もない私がフリーで仕事を続けてこられた理由は、納期を守るということ以外に特に思いつかないのである。
ところが、人間というのは怖い。気を抜くと調子に乗る。
昨年、いつもよりもたくさん仕事をいただいた私は、何回か納期を守れなかったことがあった。厳密には、納期を超えてしまいそうだと分かった時に連絡をして「あと1週間おなしゃす」と伝えてはいるので、了承済みではあるのだが、相手の予定や約束したスケジュールを乱すという点では、私の頭痛の種だった人たちとほぼ同罪。
幸い、私は人に恵まれている。周りの人たちは、多少の遅れは融通を利かせてくれる人ばかりである。しかし、甘えたら終わりである。甘えによって失職した人を何人も見ている。
そんな自戒を込めて、今年はあらためて納期厳守を目標にした。
初心忘れるべからず。

一年と一歩目のはじまりについて 1月某日 晴れ

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年は挑戦意欲が湧く。
ニヒルに考えれば、カレンダー的には、12月31日が1月1日に変わるだけの話なのだけど、そこに大きな節目があるせいか、今年はこれをやる、今年こそこれを頑張ろう、といった気持ちになれる。
これって結構大事。だって人間は気持ちや意識で行動が変わる生き物だから。
さて、今年は何をやろうか。おかげさまで、フリーランスになって21年が経つ。もはや記憶が曖昧だが、計算してみると、たしかフリーになったのが1月だった記憶があるので、今月から22年目。あと2年で人生のちょうど半分がフリーランスということになる。
私は飽きっぽい人間なのであらゆることが三日坊主だが、まさか今の仕事が自分の半生に至るとは思ってもみなかった。
好きなことは続く。続くからもっと好きになる。
そんなかっこいいことを言うつもりはないけれども、何かに挑戦したいと思っている若い人たちは、念ずれば通ずというか、継続は力なりというか、続けられそうであれば、とりあえず挑戦してみたらいいんじゃないか。
何かに挑戦することについて、一般的には一歩目を踏み出す勇気が大事、といわれるけども、私はそうは思っていない。一歩目は勢いがあれば踏み出せる。それよりも大事なのは、二歩目三歩目。つまり、続けていくこと。歩みを止めないこと。それってつまり持続性でありSDGsかもしれない。二歩目三歩目が続かない挑戦は、一歩目をうまく踏み出してもうまくいかないだろうし、二歩目三歩目が続きそうであるならば、一歩目をどの方向に踏み出そうが、そんなことはたいした問題ではなくて、後からいくらでも修正できると思う。
これは若い人に限ったことではなくて、私のような中年にも言えることだ。
今年は一歩目を躊躇せず、やりたいことをやってみよう。実際、やってみたいことはいくつもある。問題は、その気持ちが時間と共に薄れることだ。
そういう自分の欠点も含めて、今年はもうちょっと頑張ろう。
そんなふうに思う新年の始まりである。

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ライター 伊達直太

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