ライター伊達直太/取材後記2020

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取材後記 2021

節約について(2) 4月某日 晴れ

続き。
節約は宗教である。
よほどの事情がある場合は別だけど、節約なんかしなくていい。
「手元に1万円しかない」「大変だ」
「1日1000円に減らそう」「500円にしよう」
それが節約教の考え方。江戸時代の概念。
今は令和だ。基本的な考え方が違う。
どこかで働いたりして、追加の1万円を稼ぐ。それができるのが今の時代。
近所でアルバイトさせてもらえば、2、3日で1万円くらいになる。機会はいっぱいある。(しつこいようだけど特別な事情がある場合は除くよ)
その可能性を見られないのだとすれば、あるいは、あえて見ないようにしているのだとすれば、その節約は怠け者の言い訳であるということだ。
世に出回っている節約本は、そのほとんどが「楽にお金をセーブしましょう」という内容である。その点からも節約は怠け者の手段であることがわかってもらえると思う。
もちろん、無駄遣いはよくない。無駄遣いは、例えば、100円で買えるものを200円で買うようなものだ。または、不要なものを買うのも無駄遣いである。
それはアホな子がすることで、アホな子は、今風には情弱という。
そうじゃなくて、必要なものを我慢したり、欲しいものを我慢したり、その結果としてお金が残ることを「頑張った成果」とか「努力の結果」と考えるのであれば、それは宗教的であり、間違いだと言いたいのである。
だって人生の満足感が下がるでしょう。
だから私は無駄遣いはしないけど節約もしない。
例えば、洋服は最安値でいい(ほとんどリモートになったから服を買う必要性すらない)。でも、肉はいつもヒレだしマグロはいつも本マグロである。
1着数十万の服を着て、日々、硬い肉を食う人生とどっちがいいか。
私はヒレ肉を選ぶ。本マグロを推奨する。
ただ、エンゲル係数が跳ね上がるため、楽しいけども、ずっと貧乏なのだが。

節約について(1) 4月某日 晴れ

節約は宗教である。
尚、ここでいう宗教は「集狂」のことで、悪い意味での洗脳を指しているので、真面目に宗教に取り組んでいる人は気分を悪くしないでいただきたい。
さて、本題。
私はお金関係とか投資関係とか資産運用に関連した仕事をいただくことが多い。
その際の打ち合わせで、ほぼ毎回、間違いなく登場するのが「節約」というキーワードである。
声を大にして言いたい。
節約は無用である。人をダメにする。
なんでか。例えば、手元に1万円あるとする。その1万円を1日で使うより、2日持たせるのが良い、というのが節約の考え方である。
これがおかしいのは「1万円しかない」という前提に囚われていることだ。
だって、1万円しかないなら、追加の1万円を稼ぐ方法を考えればいいわけだから。
そっちを見ない。見なくなる。稼ごうとしない。稼ぐ気を失わせる。
だから節約は無用である。だから節約は人をダメにする。
特別な事情がある場合は除いて、節約で生き長らえようとしている人は、追加の1万円稼ぐことを拒否するという意味で、その労力から逃げているダメ人間といっても良いとすら思う。
節約が正義、みたいな考え方はどこからきているのだろうか。
江戸時代にはすでに「倹約が美徳」という考えがあったらしい。
それは、わかる。だって当時は士農工商の時代だから、追加の1万円を稼ぎたいと思い、その手段を思いついたとしても、「この商売は武士限定です」みたいな強烈な参入障壁があったはずだからである。今でいう利権だ。
でも、身分制度がない今は、多少の利権はあるけれども、なんでもできる。
追加の1万円をあらゆる手段で調達できる。
そう考えると、そっちを見ずに手元の1万円を長持ちさせる節約の考え方は宗教的だ。つまり、意味不明である。
もうちょい言いたいことがあるので、次回に続く。

弱点について 3月某日 晴れ

気づけばもう3月も終わりである。
つい先日「新年になったなあ」と思っていたら、1年の4分の1が終わった。
時間が経つのが早い。その予兆は去年の今ごろから始まっていた。
昨春は子供ら(小学校と幼稚園)が急に休みになったので、2ヶ月くらいに渡り、日々、子供らとトランプしたりドンジャラしたり散歩したりして過ごしていた。一方で、仕事はどうだったかというと、割と減ることなく、むしろこの頃から増えた。「コロナ禍で仕事が減るだろう」という予想は良い意味で裏切られ、あっという間に目一杯になり、目一杯に対応していたら1年が経っていた。
そこであらためて思うのは、物書き商売(フリーの物書き商売)は需給の急激な変動に弱いということである。
そもそも物書き商売はオーダーメイドである。
製造業のような作り置きができ図、小売業のような在庫もできない(ここが作家とライターの違いでもあるのです)
需要が増えたらどうなるか。嬉しいことではあるが、フリーランスはマンパワー的に限界があるため、あるラインを越えると物理的に対応できなくなる。対応できない依頼はやむをえず断ることになり、機会損失になる。
では、需要が減るとどうなるか。対応できる仕事は増え、1つの仕事にかける時間は増えるのだけどキャッシュフローが悪化する暇を利用して在庫を作るわけだが、アテもなく原稿を在庫してもキャッシュにはならない。
この波を平準化するには、長期と短期の仕事を組み合わせるのが最も良い(と、思う)。つまり、単発の仕事でキャッシュをいただき、リードタイムが長い仕事でマンパワー不足を補う。
この仕組みを作ろうと思ったのが実は震災の年で、当時は仕事が減ったので、色々考えることができた。
そう考えると、現状は次の打ち手を考える時間すらないわけで、これは非常にまずい。変化に対応できなくなる。ダーウィンの進化論に照らせば、適応できずに進化が止まる。
さて、次の一手をどうするか。
さっきから考えているのだが、何にも浮かばない。

確定申告について 3月某日 晴れ

ようやく終わった。
毎年恒例の確定申告の話である。
この仕事を初めて20年になる。つまり、今回を含めて過去に20回、確定申告をしているわけだが、期日までに終わらなかったのは初めてのことだ。
厳密には、幸いにも(幸いといえるかどうか微妙だが)確定申告の期限が4月15日まで延長になっているのでペナルティ対象ではないのだが、20年の習慣として確定申告は3月15日までと思っている。その期日を超えてしまった。
少し前から予感はあった。
昨年からずっとやることが多い日が続いていて「申告書を作る時間がねえ」と思っていたからだ。
やることというのは、とてもありがたいことに仕事も増えているのだけれど、家の中でやることも増えた。
自分の性分として、家のこと、とくに子供のことはなるべく関わりたいので、誰かに任せるのをためらってしまう。勉強を見たり習い事の送り迎えをしたり、ご飯を一緒に食べたり遊んだり、そんなことをやっているうちに寝る時間になり、寝かしつけ終わったら、もう細かな請求書を精査する体力も気力もない。
今日は目一杯なので、明日か明後日くらいにやればいいか。
そんなふうに思っていたら今日になってしまった。
周りのフリーランスや自営業の人たちに聞くと、税理士さんに頼めばいいという人が多く、実際に頼んでいる人も多い。
正しいアドバイスである。餅は餅屋だ。
ただ、これもやっぱり自分の性分なのだけど、仕事のこともなるべく全部把握していたいので、誰かに任せるのをためらってしまう。
さて、どうするか。この状況を解決する最適解は、パーマンのコピーロボットである。コピーロボットが2体ほどあれば、私は自分が関わりたいことに、思う存分関わることができる。
AI時代の今なら、コピーロボットの開発は決して夢物語ではないだろう。
藤子不二雄先生の時代にはAIという言葉もなかったわけだが、きっと確定申告に追われてコピーロボットを発想したのだろう。多分、違う。

10年経ったことについて 3月11日 晴れ

10年ひと昔という。
最近、とある仕事で、人は1、2、3、5を意識する、という話を聞いた。
10(1のグループ)はキリがいいから、区切りとしてまとめやすい。
英語でも10年を意味するdecadeとか100年を意味するcenturyという単語があって、1のグループは万国共通の区切りなのだろうと思う。
うちのボウズは震災の年に生まれたので、現時点で9歳、間もなく10歳である。ということは、ボウズの同級生は、というか彼らの親は、ほぼ全員が震災禍が続く中で子供を産み、育ててきたということである。
10年ひと昔、の文脈で振り返ると、今さらだけど大変だったよね。
大変だったからこそ、あの状況で子育てを頑張った親の皆さんは尊敬するし、あの状況からすくすく育ってきた子供らは、そのまま安全にすくすく育ってほしいと願う。
震災後の対応などについて、思うところがないわけではない。
この10年で何か変わったかというと、何も変わっていない気もする。
色々と変わらなければならないと思う一方で、変わらないほうが良いものとしては、あの日の恐怖と混乱を伝え続けていく姿勢なのだろう。
10年を区切りにして、今年は多くの人が当時のことを振り返る。
ただ、来年は節目としては中途半端な年だから、振り返る人が減り、深さは浅くなる。次に多くの人が震災を振り返るのは、人が1、2、3、5を意識するという説を踏まえるなら、15年目とか20年目になるのだろう。
私はそれではいけないと思っているので、11年目もあの日のことを考え、生き延びたことに感謝し、2時46分に黙祷するだろうし、8年目の今日も9年目の今日も、今年の今日と同じような1日を過ごした。
考えてみると、めったに過去を振り返らない(つまり反省しない)私がそういう振り返りをするのは、1年のうちで大晦日と今日だけかもしれない。
話が散らかっていて何が言いたいかわからないかもしれないが、私自身、何が言いたいかわかっていない。言いたいことは特にないのかもしれない。
気持ちや思考が散らかる。
それが3月11日なのであって、それは毎年繰り返すということなのだ。

■言葉のライフハック「ジェンダー論」

男女平等は当たり前。でも、平等かどうかの判断は難しくて、例えば、ある分野では男性優位、こっちの分野は女性優位みたいなことがあって、総合的に見て平等だよね、というのが現実的な平等であって、一部の人たちが主張するような全ての細かなことで完全平等は現実的ではないと思うし、無理だろう。

■言葉のライフハック「緊急事態宣言」

現状、都市部は緊急事態宣言下にあるわけだが、街中の危機感や警戒心は薄い。理由は明らかで、緊急と名付けている割に長い。緊急の緊には「さし迫る」という意味があって、それが緊迫感を生み、緊張感を生む。でも、長引くとだらける。気が緩む。そしてまた感染者が増えて緊急事態宣言が延びる悪循環。

チャンスについて 3月某日 晴れ

私は時間を大事にする。
子供らにも、しょっちゅう「時間がもったいないよ」「だらだらしないように」「今やれることをやりなさい」と小言を言っている。
子供らからすれば「うるせえなあ」「だらだらしたっていいじゃねえか」と思うかもしれない。
気持ちはわかる。だらだらしたいのだろう。そういう人はたくさんいる。
でも、だめなのだ。なぜなら、時間は取り返せないからである。
お金は、失ったとしてもまた稼げばいい。人間関係も信用も、失うことがあるかもしれないが、頑張りようによっては回復できる。
だから私は、子供らがお金を無駄遣いしても別に何も言わない。人間関係や信用を失うようなことをしたら(今のところはないけども)、「頑張って回復しなさいね」とはいうのだろうけど、それ以上はうるさく言わないと思う。
しかし、時間は二度と戻らないから無駄にしたらだめだ。
そのことを知ってほしいから「テレビじゃなくて時計を見なさい」などと、つい言ってしまうのだ。
ところで、私が昔から時間と同じくらい大事にしてきたのがチャンスである。
チャンスも時間と同様に、失ったら取り返せない。
一過性であるという点で、時間とチャンスは同種であり、だからこそこの2つには神経を尖らせなければならないのである。
物心ついてからというもの(もうちょっと後かな)、私は時間とチャンスの2つを最優先にして物事を判断してきた。
今、私がそれなりに幸せに暮らせているのは、時間とチャンスを追っかけた結果である。
今、私がそれなりにしか幸せではないのは、無駄に過ごした時間がそれなりにあり、見逃したチャンスがそれなりにあるからである。
「それなり」の人生に着地してほしくないから、時間を無駄にしないように。チャンスを無駄にしないように。
ことあるごとに子供らにそう言うのだけど、それって実は、「それなり」の一歩先に行きたがっている自分に向けて言っているような気もする。

食事について 2月某日 晴れ

日々、買い物をする。
パンと牛乳を買うだけのはずだったのに、レジに着く頃には買い物かごが満タンになっている。
「お父さん、また今日も買いすぎちゃったね」
いつも買い物に付き合ってくれるチビが言う。
「そうだねえ。このクセはなかなか治らないねえ」と、私は返す。
つい買いすぎてしまうクセは、すでにチビにもバレているらしい。
ボウズと一緒に買い物をした時も、高確率で同じことを言われる。
私は、洋服とか雑貨とか、そういうものには一切興味がない(ので、必要最低限のものしか買わない)のだけれど、スーパーの買い物は好きだ。
今日は、マキシマムなる調味料を見つけ、買ってきた。
これをスペアリブ用の豚肉に振りかけて焼く。ここだけの話、超絶、美味い。
「お父さん、これ、美味い」
育ち盛りのボウズが肉にかじりつきながら言う。
「美味いねえ。これはクセになるねえ」と、私は返す。
「美味しいねえ。買ってよかったねえ」
チビもそう言い、一口大に切った肉を頬張る。
「そうだねえ。また作ろうねえ」と、私は返す。
スーパーでの買い物が好きというよりは、そういう時間が好きなのかもしれない。最近はボウズが習い事で忙しくなって、みんなで揃って夕飯をいただく機会が少ない。チビは料理を手伝ってくれるようになり、一緒に作るのも楽しい。
そういう変化が色々とあるから、「美味いねえ」を子供らと共有できる時間にしたいし、それゆえ、買い物も手当たり次第になる。
食事の価値って何だろう。
今まではエネルギー補給のために食う、くらいにしか考えていなかった。
でも、本質的な価値は美味しさどうこうではなくて、「美味い」を共有できる人がいることや、美味しい料理を一緒に作ることなのかもしれないねえ、と思う。
そう思いつつあるせいで、お金は減るし体重は増えるわけだけども。

■言葉のライフハック「DX」

アナログ情報のデータ化とかデジタルツールの導入から、データを活用する業務改善とか新たな事業創出といったところまで幅広く含む言葉。データ活用に至らないと真の意味でのDXにはならず、そこにどうやってたどり着くかが鍵。手段(ツールの導入)が目的化しやすいという点では「手段の目的化」という意味でサブスクに似た誤解と落とし穴が生じやすい。

■言葉のライフハック「男女差」

女性蔑視発言で五輪の会の会長が問題になり、辞職した。国際社会において「これはまずい」ということで女性の偉い人が後任になった。男とか女とか、そういう議論をしている時点ですでに周回遅れなんだけどねえ。属性に関係なく、実力で勝負できるフェアな時代はまだ遠いことを象徴するできごと。

■言葉のライフハック「100年人生」

人生100年と考えると、定年退職してから死ぬまで40年くらいある。40年は、生まれたてのかわいい赤ちゃんが疲れた中年のおじさんになるくらい長い。働くか(能力が必要)、遊ぶか(お金が必要)、後進の育成や地域社会に貢献するか(人望が必要)、何をやるにしても何かが必要で、その何かがないと老害になる人生。

モテ期について 2月某日 晴れ

人生で3回くらいモテ期(モテモテの時期)が来るらしい。
モテ期を「異性にちやほやされる時期」と捉えると、残念ながら、私にはかつてそのような時期はなかった。
ただ、最近になって見方が変わった。
なぜなら、過去にモテ期がなかったということは、私はこれから(おじさんであるにも関わらず)若くて可愛くてセクシーな女性にモテまくる時期が3度も来る、と解釈できると気づいたからである。
元来、私は楽しみを後にとっておくタイプだ。好きなものも最後に食べる。
この性格が奏功したのだろう。モテ期とはつまり生きる希望なのである。
果たしてその時期はいつ来るのだろうか。
その時に備えて多少は腹が引っ込むように腹筋でもしようか。
そんなふうに思って数年が経つ。
そして、期待したモテ期はいっこうにやってこない。
そこで、ある不安が思い浮かぶ。
ふと考えると、フリーの物書き商売を始めて今年で20年になる。長く続いているということは、それなりに評価してもらっているということだ。ありがたいことだ。非常に嬉しい。
子供らと公園や買い物に行くと、子供らの友達や、幼稚園や小学校で顔見知りの保護者の方々が声をかけてくれる。これもとても嬉しい。
ただ、そこに不安があるのだ。なぜなら、こういうことも3回のモテ期にカウントされているかもしれない気がするからである。
さらに、もう1つ不安に思うことがある。
最近、朝、窓を開けるとスズメが寄ってくる。ぶらぶら散歩していると、猫が寄ってきて、散歩中の犬まで寄ってくる。
仮にそれもモテ期に含めるとしたら、私のモテ期はもう残っていない。残りの人生、ずっとモテない。そんな考えが浮かび、私は今、絶望に伏している。
つきましては「モテ期は3回」と設定している神様にお願いしたいことがあります。
モテ期とカウントする対象は、仕事がらみ、子供がらみ、動物がらみは除いていただき、若くて可愛くてセクシーな女性に限定し、話が面白く、お尻は小さ(文字数)

■言葉のライフハック「DX」

アナログ情報のデータ化とかデジタルツールの導入から、データを活用する業務改善とか新たな事業創出といったところまで幅広く含む言葉。データ活用に至らないと真の意味でのDXにはならず、そこにどうやってたどり着くかが鍵。手段(ツールの導入)が目的化しやすいという点では「手段の目的化」という意味でサブスクに似た誤解と落とし穴が生じやすい。

継続することについて 2月某日 晴れ

間もなくチビ6歳が卒園する。
その幼稚園は、上の子(ボウズ9歳)も通っていた幼稚園なので、ボウズが通っていた3年間と、ボウスの卒園と入れ違いで入園したチビの3年間を合わせて、私は送り迎え(厳密にいうと、ほとんど送りのみだけど)を通じて、通算6年、その幼稚園に通ったことになる。
振り返ってみれば、同じところに6年毎日通い続けたのは小学生以来である。
ただ、小学校の時は、5年生の時にはすでに「長え」と感じていた。
中、高は3年だし、大学は4年だ。
一般的には会社勤めが長期になるのだろうけれど、私はその経験もない。
その時々で彼女の家には通ったことがあるけれど、毎日通うわけではないし、そもそも6年も続いた人はいなかった。
そう考えると、着々と蓄積してきた6年という期間は貴重であり、個人的に偉業である。縁か運かわからないけども、いい幼稚園に出会えてよかったなあと、あらためて思う。
卒園したら幼稚園に行く機会も理由もなくなるので、この場でお礼をしておきたい。
何の苦もなく心配ごともなく、むしろ日々の送り迎えを楽しみながら6年間を過ごせたのは、幼稚園の先生がたと、仲良くしてくれた保護者の皆さんのおかげです。本当にありがとうございました。
ところで「継続は力なり」という言葉がある。
この格言の「力」って何だろうと、ずっと疑問だった。
辞書的には、日々コツコツと努力することで、いずれ成果が出る、ということになっている。私はそこに懐疑的だった。成果に結びつかない努力もあるのが現実だからである。
でも、ようやくわかったような気がしている。ここでいう「力」は自信なんだろうと思う。つまり、何かを長く続けることで、自分に対する肯定感が生まれる。自己評価が上がる。それが力になって、次の挑戦ができる。
そのことに気づかせてくれたのも幼稚園であり、子供である。
あらためて、ありがとうございます。

■言葉のライフハック「サブスク」

商品やサービスが使い放題になる定額サービスで、実は古くからあるけど(雑誌の定期購読とか)、コスパと利便性の面で評価が急上昇している事業モデル。モノからコト、所有から利用といった価値観の変化が追い風。コト売りに適した手段で、コト買いを求める若者が支持する事業モデルなので、モノ売りのために安易にサブスクを作ると痛い目にあうのよね。

■煽り
他人を刺激したり利用することによって個人的な優越感、満足感、実利を得る行為の1つ。根底にあるのは歪んだ自己実現の欲求。株クラ界隈では昔からある下品な行為で、煽る方がクズであることは当然だが、煽られて乗るほうも、もうちょっと冷静に受け流したらいいのに、と思う次第です。品格に欠ける人は相手にしない。そんな意識が大事。

競争について 2月某日 晴れ

勉強は競争ではない。
子供といろんな話をする中で、よく伝えていることの1つがこれである。
テストの順位とか受験とかは競争そのものではないか。
そう言う人もいる。たしかに、受験戦争という言葉もあるくらいだ。
でも、勉強の本質はテストでもないし受験でもない。
勉強は、結局は自分のためにやることだ。勉強を頑張って100点を目指すのは、誰かに勝つためではない。頑張った成果が自分に返ってくるからなのだ。本質を外れた勉強は役に立たない。逆に言うと、受験で学んだことが役に立たないのは、本質から外れている勉強であるからなのだ。
仕事はどうだろうか。
会社員の世界には、派閥争いや出世争いなどがある。しかし、それもやっぱり仕事の本質ではない。仕事は、偉くなるためにするものではなく、誰かの役に立つためにするものだからである(おお、いいこと言うね)。そう考えると、仕事も競走ではない。
本質とは何なのか、という人は、何のために勉強や仕事をしているのか考えれば良いと思う。競争に勝つため、という答えにはおそらく至らない。スポーツ選手のように勝負の世界に身を置く人だって、勝つためとは答えず、感動を与える、勇気を与える、スポーツを盛り立てるなどと答えるだろう。
勉強と仕事が競走でないなら、人生も競走ではない。つまり、誰かと比べる必要などなく、自分が満足していればいいじゃないか、ということだ。
ところで、巷のニュースは、どこが優勢で、誰が勝ち組で、誰が勝ち馬なのか、みたいなことを熱心に取り上げる。
無論、それは本質から大きく外れている。それでもメディアが競走に焦点を当てるのは、世の中が全員参加の競走であるという前提で話を作るほうが、盛り上がりやすいし、わかりやすく描けるからだろう。エンターテイメント視点で考えた報じ方のギミックといっても良いと思う。
世の中は競争だ、みたいな論調は注意した方がいい。
それはつまり、自由に牧場を跳ね回れるはずの馬を、競走馬に仕立て上げる扇動的な論であるかもしれないのだ。

言葉のライフハック「おにーちゃん」

女性が少し年上の男性(いい人で、割と慕っている。おごってくれるし)を「おにーちゃん」と呼ぶ場合、女性は兄妹を意識させることで男女関係はありえないという強いメッセージを発しているということを、あわよくば一発を狙ってる全国の「おにーちゃん」たちに教えてあげたい。

やりがいについて 1月某日 晴れ

「やりがい」という言葉がある。
似た言葉に「自己実現」という言葉もある。
かねてから、こういう言葉は危ないと思っている。
やりがいを求め、自己実現を目指すのは良いことだと思うのだが、社会はお花畑ではない。古今東西、人の純粋さを利用する人はいるものだ。ブラック企業による「やりがい搾取」がわかりやすい例だろう。ピンポン突で布教に勤しむ集狂の人たちも、やりがいを求め、自己実現を目指して、搾取されている人たちだと個人的には思っている。
物書き商売をしていると、たまにやりがいや目標を聞かれることがある。
これは、答えに困る。
そういうことは、あまり深く考えない方が良いと思っているからである。
「あまり深く考えない」は「全く考えない」ということではない。考えすぎると搾取されるが、全く考えない人もやっぱり搾取されてしまうからだ。
だから、ぼんやり考えるくらいがちょうどいい。
この塩梅が、人によっては難しいのかもしれない。
例えば、私の場合は出版社や代理店や企業の広報担当の方々から依頼をいただく。依頼を受けるのは嬉しい。それに応えるのも嬉しい。そこでやりがいっぽいものは見つかる。それくらいがちょうどいいのではないか。
自己実現についても、なんとなく食えている現状を確認したりして、自由に生きるという漠然とした目標(自己実現ぽいもの)を実現できているのかもしれないなあ、くらいに思っておくのがちょうどいいと思っている。
やりがいの大小で言えば、子供らに勉強を教えたり、飯を作ったりしている時の方が大きい。子供らが何かを学んだり、美味しく食事している姿が目の前で見られるからね。
あらゆることが満たされている世の中だから、物質面では満足できず、無形の理想を追い求めるようになる。それが正解なのだと錯覚する。
理想に溺れてはいけないし、現実に腐ってもいけない。
そのためには塩梅とかバランス感覚が重要なのだと思うけど、突き詰めていくと「足るを知る」ことが大事、という話なのかもしれない。

言葉のライフハック「老害」

組織における少子高齢化の悪影響の1つは、労働力不足を補うためなどに定年を延長した高齢者層が現場に居残るようになり、若い人の意見が通りにくくなること。高齢者目線に立って雇用を守ることは、企業の老化促進と同義であり、組織の成長促進と対立する大義名分なので、リーダー層は若いほうがいい。

会社勤めについて 1月某日 晴れ

会社員、最強か。
コロナ禍で、ずっとそう感じている。
(業種や業態によって差が大きいことは知っているので、あくまでも一般論としての会社員、です)
例えば、今までは毎朝、満員電車で会社に通っていた。終電の時間が迫るまで、社内とか社外のお付き合いにお付き合いしなければならなかった。
でも、今は違う。リモートが正義で通勤は悪だ。上司や取引先との宴会もないし、時間の無駄だと思う付き合いを断る合理的かつ社会的な理由もできた。
報酬制度は能力主義に傾きつつあって、それが会社員の長期的な不安要素にはなっているのだけれど、そうはいっても終身雇用の年功序列はちゃっかりあって、しかも労組が強いからベースアップもあって、その率は、当面のインフレ率よりも大きい。
それに加えて、サラリーマン向けの減税政策もつく。給料は変わらず、全員一律の給付金ももらえる。ちなみに、コロナ禍だけど株価が30年ぶりくらいの高値で、ビットコインも高値更新中で、投資用不動産の価格も超絶高い。そりゃ、そうだろう。だって、給料が減らず、かつ国から給付金が出るのだから、余ったお金はリスクマネー(投資資金)になるさ。
とか、いろんなことを考えて、あらためて組織に属することの価値が浮き彫りになったのが今だと思う。
きついのは経営者だろう。経営側から見ると、社員の雇用はサブスクに近い。つまり、給料という定額費用で一定のリターンが見込めるし、労働力の効率と能力は基本的にアップデートされる。その恩恵を受けるのが資本主義の原点だとすれば、それが根幹から揺らぐ。
サブスク視点で言うと、技術(リモート環境とか)が向上するほど利用料は安くなるのが当たり前である。
しかし、雇用に関してはそうはならない。むしろ高くなるのが現状である。
私は雇用者と従業員が両方わかる弱小個人事業者だから、現状は圧倒的に被雇用者である会社員が強いんだろうなあ、とか思いながら世の中を見ている。
会社員、羨ましいなあ。
そう感じつつ、会社員向きではない自分の性格を悔やんだりしている。

経済と健康の狭間について 1月某日 晴れ

二度目の緊急事態宣言である。
ただ、今回は学校も幼稚園も休みにならないようなので、前回とはそこが違う。
昨年の春は子供らが家にいたので、ずっと遊んでいた。
おかげで仕事面でのダメージはでかかったが、遊んでいる時間は楽しい。
得体の知れないウイルスが存在している環境に子供らを放り込むなら、仕事が減ることのほうが1億倍マシだと思った。
今回は逆で、仕事は通常通りに取り組めるが、子供らのことで気をもむ。
子供を持つということは、世界に人質を出すようなものだ。そう言ったのはヘミングウェイだったか。
経済的な負担か、それとも心理的な負担か。
どちらかを選択せざるを得ないコロナは、今さらながら強敵だと思う。
コロナ対応を巡る世の中の議論も、そこが噛み合わないのだろう。つまり、経済を止めて感染を防ぐか、それとも感染を仕方ないと捉えて経済を守るか。
どちらも思想であるから、これは噛み合わない。
国と国の宗教戦争が永遠に終わらないのと同じで、決着はつかないし、勝ち負けも決まらない。そもそも思想には勝敗がない。
そう考えると、コロナは潜在的な思想の境界線を可視化したのかもしれない。
例えば、意思決定層は経済、市民層は健康を重視する(人が多いように見える)。若い層ほど経済、高齢になるほど健康を重視する(多分)。
そういう差は、従来はぼんやりとしていた。
労使が揉めたり、高齢者と若者がぶつかることはしょっちゅうあり、実はその背景にも経済か健康かの議論があったりするわけだが、しばらくすると「どっちのも言い分も正しいよね」「共存共栄を考えようね」みたいなところでソフトランディングさせてきた。
そこにあった曖昧な境界線がコロナによって明確になった。思想という基準で敵と味方が明らかになった。
この分断は大きな変化で、重大なコロナ影響の1つである気がする。
多様性がまだまだ浸透していない社会で、相互理解とか協力する意識などを奪うことにより、コロナは人を本質的に弱体化させている気さえするのだ。

一年のはじまりについて 1月某日 晴れ

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

年賀状を読み、ラインとかメールとかツイッターの「あけおめ」メッセージを読んで、「ああ、みんな元気でよかった」と感じたことのは初めてのことだ。
私のような物書き商売は直接的なコロナ禍の救済や支援はできない。
なので、せめて医療とか宅配便とかコンビニとかスーパーとかで働く人の負担にならないように、おとなしくしておこうと思う。
そんな非アクティブな年始の抱負を立てるのも初めてのことだ。
通常であれば、今年はこれをする、あれをやる、どこに行く、みたいな行動的な抱負を立てる。要するに、新しい年にはなったけれども、依然として通常ではない状態が続いている、ということだ。
そう考えると「おめでとうございます」って挨拶も、今年はなんだか白々しい。
幸い、近い人でコロナになった人はいない。ただ、感染リスクが高いところで頑張っている人は何人かいる。
彼ら、彼女たちが健康を害すことがないよう、ただ祈るばかりである。
自分と子供たち以外の安全、健康、幸福を願った年始は、震災の年に続いて、今年が2度目である。
さて、今年はどんな年になるのだろうか。
予定では五輪開催がある。もしコロナの深刻化が遅れていたら、昨年は予定通りに東京五輪が行われて、日本は感染者で溢れ、国全体がクラスタになっていただろう。そう考えると、五輪延期はファインプレーだった。
英断ついでに、あと1年くらい、おとなしくしていてもいいんじゃねえかと思うし、完全無観客でやるなら、外国人は来ないし(来ても見られないし)、家でテレビを見るステイホームの推進になるかもしれないから、やってもいいような気がしなくもない。感染から観戦、みたいな流れでね。
何にせよ、私にどうにかできることではないので、うがいと手洗いで今年もどうにか生き延びようと思う。長く生きているといろんなことが起きるよね。悪いこともあれば、いいこともあるわけだけど。

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ライター 伊達直太

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