ライター伊達直太/取材後記2018

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取材後記 2019

器用さについて 4月某日 晴れ

久しぶりに外で飲んだ。
ここ数年、外で飲むのは年に1回か、多くて2回である。
毎日のように飲み歩いていた過去を振り返ると、大きな変化である。
生活パターンは変わるものだ。毎日飲み歩いていた日々が、家で毎日飲むようになっただけで、飲んでいること自体はあまり変わっていないとも言えるけど。
会話があちこち飛び、終電がなくなり、さて朝まで飲むかと腹を据えかけたころ、友人の一人が、伊達(俺)は器用、というようなことを言った。それは褒め言葉というよりは、器用さに甘えて小さくまとまっているのではないか、という忠告のようなものであった。
思い当たる節はある。小さくまとまっているかどうかはわからず、個人的にはこれくらいの人生の規模感が居心地が良いのだが、現状に満足感はあるし、野心やハングリーさはいつしかなくなっているし、それで良いと思う反面、良いんだっけと思うところも少なからずある。
付き合いそのものが古く、そいつがもともと優秀だということもあるが、最近は年に1回も会っていないのに鋭いところを突く。
ところで、私は周りからは器用に見えているのかもしれないが、それには理由がある。
それは、半分は無意識だが、半分は意図的に、器用にこなせることしかやらないからである。つまり、うまくできることや、できそうなことだけやっているから、器用にこなしているように見える。
例えば、私はほとんど運動しない。ゲームもほとんどやらない。もともと好きではないということもあるが、やっても多分そこまでうまくないとわかっているから、やらない。物書き商売も同じで、たまたま物書きになり、やってみたらそこそこうまくできたと見られがちだ。しかし実際は、他の商売や職業よりうまくいく可能性が高いだろうとわかっていただけである。種明かしは単純で、期待値が高いところを選んでいる。
そういう実情を話しても良いのだが、器用だねと言われている方が気分が良いので、もうしばらく黙っておくことにしよう。
年1回のペースで会うとしても、あと数年は隠せると思う。

性格について 4月某日 晴れ

私は自信過剰な人間である。
今さら何を言ってるんだエゴイスト、と言われそうだが、自覚しているだけマシだと思ってほしい。自分で言うのもおかしいが、なんとなく上から目線なのも、なんとなく嫌味っぽいのも、すべての原因は自信過剰な性格によるものと思う。友達が少ないのも、稼ぎが少ないのも、人望が薄いのも、あらゆることが自信過剰に起因するものであり、そろそろ涙が出てきそうだから自己分析はこの辺でやめておく。
なぜこういう性格になったのだろうか。環境要因である。
私は小さい時から割とよくできた子であった。(すでに嫌味っぽい)。
大人になってからも特に苦労はせず、気づいたらフリーランスという半分無職で半分ニートの生活になったが、それでも日々の生活がどうにか成り立つくらいには仕事がくる。(ほら、上から目線)。
そういう環境で育ったから、人間性はあまり育っていないが、根拠のない自信は成長し、肥大化した。
自信はあるけど根拠がないから、過去にどんな仕事をしたのですか、という質問が一番困る。なんでそんなに自信家なのと聞かれているように感じるし、実際にそう聞かれているとしたら、返す言葉がない。
仕方がないので、たいてい「たいしたことしていません」と答えるのだが、中には心根の優しい人がいて、謙遜してるのかなと思ってくれる。そうではない。自信過剰な人間が謙遜できるはずがないのである。
環境要因としてもう1つ自信を肥大化させているのは、1人で仕事をしているため、誰にも注意されることがないという点だ。先輩や上司などがいると、注意されたり、教わったり、この人すげえと感じることが目の前で起きたりして、そこで自信が良い感じに調整される。私はそれがないので自信が自家培養される。若いときはミスしたりして、そこで自信を失うこともあるが、年をとるとミスしなくなる。(どうだ、この自信)。
こういう性格ではまずいと思う気持ちはある。謙虚さがないと学べないし、学ばない人は成長しない。習い事でもしてみようか。武道なんかどうだろう。多分、先生と喧嘩してやめちゃうだろう。本でも読むか。

やりがいについて 4月某日 晴れ

やりがいという言葉がある。
仕事柄、私は取材相手にやりがいを聞いたりすることがある。ある人はお客様の笑顔を見ることだと答え、ある人は世の中に貢献することと答える。
いずれも素晴らしいことである。やりがいという言葉にふさわしい。
ただ、そういう質問を投げておきながら、私自身はやりがいというものを意識したことがほとんどない。仕事に関していえば、自分自身が「これがやりがい」と断言できるようなものを感じていないか、感じていたとしても言語化できていないから、やりがいという言葉の意味もいまいちよくわかっていない。
やりがいとはなんなのか。
その答えを探していたら、サンタクロースがヒントになった。
サンタの仕事は何か。プレゼントを揃えて、配って回ることだ。簡単にいえば、仕入れと納品である。そう考えるとサンタの仕事はあまり面白くない。いくら仕入れを効率化しても、50年連続で納期(クリスマスの朝、子供が目を覚ますまで)を守ったとしても、おそらくやりがいは感じないだろうと思う。
でも、サンタはサンタの仕事にやりがいを感じている。
なぜそう感じるかというと、自分がやっている仕入れと納品という仕事が子供たちを幸せにしているという絶対的な自信があるからだ。
これは単に私が思っていることだから、やりがいの源泉はもしかしたら違うところにあるのかもしれない。本当のことはサンタしか知らない。
ただ、今の仕事にやりがいが感じられないのであれば、その仕事が誰を幸せにするか想像してみると、少し感覚が変わるかもしれない。
4月は新入社員の季節である。入社前に想像していた仕事と入社後に実際に担当する仕事にギャップがあって悩んだり、こんなはずじゃなかった、やりがいのある仕事ができると思ったと悩む若い人もいる。
そう感じた時、サンタ目線で仕事と向き合ってみると、やりがいがないと感じていた仕事が、案外やりがいのある仕事のように思えたり、その結果として仕事が楽しくなったりすることもある。
ちなみに私はちゃんと就職したことがないので、新入社員の悩みは単なる想像でしかないのだけれど。

感情について 3月某日 晴れ

感情とどう向き合うか。
これは毎日を楽しく過ごす上で重要なことである。QOL向上のカギとして、あるいは幸せに生きるための学問的な課題としても、感情との向き合い方は全ての人類にとって重要なことの1つだと思う。
私がこの課題にどう対処してきたかというと「無」で対処してきた。つまり、できる限り感情を排除することによって不快や不満を遠ざけてきた。
ただ、これには弊害もあって、悲しい、辛い、悔しい、羨ましい、腹が立つといったネガティブな気持ちにはなりにくいが(その割にはしょっちゅうイライラしているのだけど)、その反面、嬉しい、楽しい、裸になって雄叫びをあげたいといったポジティブな気持ちになることも減る。
いわゆる、リスクとリターンの大きさは同じです、みたいな理屈と同じで、喜怒哀楽の振れ幅が小さくなる。
そういう暮らしを続けてきたら、昔はもっとチャラかったはずであるが、いまはすっかりスカしたシラケ野郎になった。
誰かに相談されることが少ないのは、悩みや辛さといった負の感情を共感する力が弱いからだろう。友達が少ないのは、楽しい時に一緒にウェイウェイやらないからだと思う。
仕事に関しても同じ姿勢で向き合ってきた。
転職斡旋屋がいいそうな「好きなことを仕事にするのは幸せなことである」的なフレーズは、耳触りがよく、多くの人がなんとなく「そうだろうなあ」と思っている。でも、私はそうは思っていなくて、大変だろうなあと思っている。
仕事は毎日のことであるから、感情を入れ込むほど、ちょっとしたことで歓喜し、ちょっとしたことで落胆することになる。私はその落差に耐えられる自信がない。だから基本的に無感情で向き合う。依頼された仕事の内容や担当者が好きだから引き受けることもないし、嫌いだから断ることもない。
一番好きな相手は恋人にして、二番目に好きな人と結婚するのが幸せ、という浅いライフハック的な論があるが、私の仕事との向き合い方は、それとちょっと近い。あるいは、結婚相手は顔や性格より経済力で選ぶ的な発想に近いのかもしれない。それが悪いことだとは思わないが、ちょっと寂しいとは思う。

8年経ったことについて 3月11日 晴れ

時間が経つのはあっという間だ。
震災の年に生まれたボウズは、間もなく1年生を終え、2年生になる。
子育ては連続性があって、私の場合は日々、何かしらの世話をしているから、いつ、どのタイミングで、どんなことができるようになったのか逐一覚えているわけではない。
喋るようになった。1人でトイレに行けるようになった。幼稚園で泣かなくなった。自転車に乗れるようになった。逆上がりできるようになった。掛け算が解けるようになった。
ちょっと振り返るだけでもいろんなことができるようになっているのだが、その瞬間瞬間の感動はだんだんと薄れ、次の「できた」「すごい」の感動により、上書きはされないが、希薄化される。
もちろん、それは良いことだと思う。次々と新しいことができるようになることが成長そのものだからである。
最近はすっかり生意気になりカミさんの手を焼かせることもしょっちゅうであるが、それも成長だと思えば微笑ましい。
ただ、本当に微笑んで見守っているとカミさんの怒りがこっちに向く可能性があるから、あくまで「いかんぞ」「いうこと聞いた方がいいぞ」というスタンスは維持するわけだけど。
震災の記憶も似たような感じでだんだんと薄れていくのだろう。
風化させてはいけないと主張する人は多い。
ただ、街は人の手によって育っていく。家を建て直し、電車を動かし、暮らしを取り戻し、街を復興させていく。その積み重ねによって辛い記憶が薄れていくのは、いわゆる風化とは違って、必ずしも悪いことではないように思う。
時間とともに景色は変わる。
その景色を見る人も、実は時間とともに変化している。
私の身の回りの景色は、子供らの成長によって年々変わっている。8年前とは全く違った景色が目の前に広がっている。色々なものが変わるが、そういう景色を見られることを感謝する気持ちは不変だ。
3月11日は、自分がこうして生きていることに感謝する日である。

恥について 3月某日 晴れ

恥の多い生涯を送って来ました。
言わずと知れた、太宰治の一文である。
あまり深く考えたことがなかったが、私の人生も恥だらけだ。
恥かしい過去は、おそらく青春の頃に集中している人が多いと思う。
いわゆる黒歴史とか厨二病などといわれるものである。
たまにあの頃のことを思い出す。恥ずかしさのあまり鼓動が早くなる。いっそ記憶喪失にならねえかなと思う。
私の場合、その時期を抜けた後も恥ばかりである。会社員をやり、独立し、家族を持った。社会的な立場は色々と変わったが、どの時期を振り返っても恥しか見当たらない。恥の金太郎飴だ。太宰さんは恥が多かったらしいが、私は今のところ恥のみの生涯である。
何か誇れることもしたような気がするが、考えても思い出せないから、おそらく気のせいなのだろう。
全く、よくも堂々と生きてこられたもんである。
前向きに生きよう。ポジティブにいこう。そんな風にいう人がいる。
私はもともと前向きに生きているから、あえて前向きに、などと考えたことはない。前を向いて生きることが自然だった。前しか向いたことがない。
その理由が今になってよくわかった。
後ろを向くと恥と後悔しかなくて人生が嫌になってしまうから、それを避けるために前を向いていたのである。
そう考えると、たまには後ろを振り返った方が良い気もする。恥と後悔を反省することによって学べることもあるはずだからである。
たまに偉そうに説教する人を見かけるが、あの手の人はどういう神経なのか。
恥や後悔がない人生を送ってきたとは思えないから、恥や後悔を感じないくらい図太い神経を持っているのだろう。
私もたまに偉そうなことを言っている。
それをみた人には、なんて厚顔無恥なヤロウなんだと思われているのだろう。
そう考えると、また恥ずかしさで息が苦しくなる。いよいよ人間失格の気がしている。

老いについて 3月某日 晴れ

就活のない人生だった。
履歴書や面接とは縁がなく、リクルートスーツを買ったこともなく、エントリーシートの意味はいまだに知らない。
そういう裏道みたいな生き方だったから、この時期よく耳にする入社式や新入社員といった言葉にときめく。新しいスーツを着てかしこまっている彼らの様子がとても初々しく、とても可愛い。
ジジババには何の期待もないが、若い人には期待しかない。
若い人たちには世界中のあらゆる幸せが訪れてほしいと思う。
そう思うのは、新入社員に対してだけではない。仕事で一緒になる20代くらいの人たちもとても可愛い。幸い、そういう女子が周りに結構いるので、勝手に妹分だと思って応援している。もちろん、可愛いと思うのは女子限定で、男どもについては、たまに「頑張れよ」くらいに思う程度である。
ところで、仕事で一緒になる人たちが、自分より若い人たちばかりになった。
年上の人といえば、取材対象になるようなエライ社長とかである。取材対象ですら、最近は年下の人が増えている気がする。
老害、老害、と唾を吐いている自分が、もしかしたら老害そのものなのかもしれない。そんな可能性を考えると、もはや恐怖しか感じない。
気持ち的には20歳である。身長、体重、体型はほぼ20年前のままだし、考えることも発想も全く成長していない(それはそれで問題だが)。
しかし、明らかに老いている。いったい何が変わり、何のせいでおっさん化するのだろう。シワか。白髪か。声か。あるいは、それらのフルコンボか。
フリーランスにとって老化はマイナス要因になることが多い。実年齢はともかく、老けて見える人だと「こんな安い仕事を頼むのは失礼だろう」と遠慮され、仕事が減る。見た目と実力が伴っていないと「おっさんのくせにこんなこともできないのか」と思われ、さらに仕事が減る。
会社員は、それがない(と思う)。おっさんには、おっさんにふさわしい立場や役職があてがわれ、社会が一応の居場所を作ってくれる。新橋という町がそのアイコン的な存在かもしれない。
そういう生き方を放棄してしまった以上、フリーのおっさんは自分の立場や居場所を自力で構築しなければならない。
運動とかして若返りに取り組むか。あるいは、おっさんにふさわしい知力を鍛えるか。うぅん、どっちもめんどい。どこかに裏道はないか。

押し売りと集狂について 2月某日 晴れ

マンションが苦手である。
学生の時に数年だけマンションで暮らしたことがあったが、あとはずっと一軒家である。それがマンションを苦手と感じる理由なのだと思う。
あるいは、集合生活的なところが合わないのかもしれない。
高所恐怖症であるから、高層マンションという響きに恐怖を感じる部分もある。だとすれば、それはわがままとビビりに起因する苦手であり、性格の話であるから変えようがない。
ちなみに、学生の時のマンションで夜な夜な友人と騒いでいたら、下の階の人がうるさいと怒鳴り込んできたことがある。
ナンシー関のような女性であった。その出来事によってますますマンションが苦手になったし、以来、ナンシー関が嫌いになった。
そういうわけだから今も一軒家なのだが、最近になってマンションの良いところが1つわかった。
それは、押し売り営業や宗教の勧誘が来ないという点だ。
私は基本的には家で仕事をしている。
一応、仕事中は集中しているわけなので、ピンポンとやられるとイラッとくる。用のない相手だった場合、飛び蹴りを食らわせてやろうかと思う。
うちは知っている人以外は100%居留守である。
だから、無駄な対応したりして時間を奪われるような実害はないのであるが、それでもやっぱり気分は悪いし気持ちも悪い。
マンション住みの知人によれば、オートロックのマンションはそういうことがないのだという。
それなら多少高かったとしても管理費を払う価値はあるだろう。
ナンシー関問題がネックだが、それさえなければマンションに引っ越したいとすら思う。
そもそも、なぜ気安く人の家のインターフォンを押すのだろうか。
その神経がわからん。他人のことを考える神経がないから無神経というのだろう。内田先生のこんな言葉を思い出す。
「世の中に 人の来るこそ嬉しけれ とは云うものの お前ではなし」

電話の必要性について 2月某日 晴れ

電話はもういらないのではないか。
そう思い始めている。
押し売りと集狂のピンポン凸が迷惑だ、ということを書きながら思い出したのだが、家の電話にかかってくる押し売り電話にも私はイライラさせられている。
最近は、似たような電話が携帯にもかかってくるようになった。
家の固定電話に限らず、携帯の通話機能もそろそろいらないのではないかと思っている。
私は基本的に居留守であると同時に、電話にも出ない。
公言するようなことではないが、カミさんと親族からの電話には出るが、それ以外の着信は、仕事関係の人であってもほぼ出ない。
重要なことなら留守電を残すかメールなどで連絡してくるだろう。
そんな風に思っている。
実際、テキストベースのやりとりで、たいていのことは片付く。
電話が発明されたのは今から150年くらい前のことだ。
当時は画期的なことだったのだろう。それはわかる。
しかし、時代は変わる。
あらゆる技術やサービスが栄枯盛衰で、ニーズがなければ不要になる。現状、電話には一定のニーズがあるが、それは話したい人にとってニーズがあるという話で、電話を受ける人はニーズを感じていない。
営業電話を例にすると、電話を必要としているのは何かを売りつけたい人である。売りつけられる側のニーズは留守電サービスや着信拒否という機能にあるということだ。
むしろ電話については、通話機能や電話線というインフラが必要かどうか、という話ではなくて、会話する習慣や声のコミュニケーションの価値の話だと思う。
私は多分、会話するという行為そのものが得意ではないのだと思う。
それはもしかしたら、一方的に何かを発信する物書き商売だからかもしれないし、他人にあまり興味がないからかもしれない。
つまり、少なくとも私には電話はほぼ不要なので、固定電話を解約しようか検討中である。

時間と浦島太郎について 2月某日 晴れ

時間は逆回転できない。
大げさかもしれないが、人生のあらゆる大事な選択をする際に、この当たり前のことをしっかり踏まえなければならないと思う。
例えば、お金は使えば減るわけだが、働いて貯めればまた増える。
人間関係はそれほど簡単ではないが、ケンカしたとしても仲直りすれば関係性は回復する。
だいたいのことは、そういうリカバリーができる。つまり逆回転できる。
しかし、時間は一方通行であって、チャンス、後悔、老いなど様々なものがこの一方通行の中で生まれる。
あの時こうしていれば、という後悔とか、あの時は楽しかった、という思い出とか、人生のいろんな悩みとか喜びも、結局のところ、一方通行の流れをうまく捉えたかどうかである。
育休が2年くらい取れる会社がある。最近は大手を中心にそういう制度が増えているし、休暇を取る男性も増えつつあるのだという。
私はフリーランスという体裁の良いニートであるから、毎日が育休のようなものであり、子供が0歳から2歳くらいに育っていく過程にも割としっかり関わることができた。その期間がとても楽しかったから、こういう制度は積極的に使った方が良いと思う。
2年も仕事を休んだら浦島太郎になっちゃうじゃん、という不安もあるだろう
でも、これも結局リカバリーできるかどうかの話で、仕事はリカバリーできるけど、2歳になった子供が0歳に戻ることはないという話なのだ。
子供は、戸籍上は永遠に子供である。しかし、実態としては大人になるから、子供ではなくなる。一方通行の時間の流れの中で、少年や少女になって自分の世界を広げ、親との距離が遠ざかっていく。
浦島太郎は、海から戻ってパニックになった。玉手箱オープンでジジイになったため、中年期が丸ごと消えた。でも、竜宮城で過ごした時間はきっとかけがえのないもので、経験してよかったはずである。浦島太郎の話の教訓は、人生のあらゆるものを賭けてでも経験した方が良い刹那がある、ということなのではないだろうか。

ファンダについて 1月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

12月の相場は荒れていた。
なんで急落したのか。
急落そのものは珍しいものではなく年に何度も起きる。過熱しているから下がるという需給要因の場合もあるし、海外の事情、景気や政治の不安定さといったファンダメンタルズ要因で下がることもある。
大きな声では言えないが、私はファンダ関連が全くといってよいほどわからない。指標や決算書の読み方くらいはわかるが、基本的には見ていないし気にしてもいない。
だから勝てないのではないか。そうかもね。
ただ、ファンダを掘り下げても、おそらく私は勝てない。ここはおそらくセンスや向き不向きの問題で、ファンダがどうこうではなく、ファンダを見る自分の能力が著しく劣っていると思うのである。
かつてスターバックスが日本に上陸したとき、私はタバコが吸えない喫茶店などあり得ないと思った。だから、絶対に流行らないだろうと思ったし、100万円かけてもよいと思った。しかし、現実は見ての通りで、スタバはキングオブ喫茶店になった。100万円賭けなくてよかったよ。
他にも、流行らないと思ったものが大流行し、流行ると思ったものが一瞬で廃れた例はいくつもあるが、要するに時流や世の中の動きを先読みするセンスがない。株でいうなら、企業や業界のポテンシャルや本質などを見抜く目が悪い。
そう自覚して以来、ファンダの分析をいっさいやらなくなった。かれこれ10年以上も前のことだ。
ならば、テクニカルなら勝てるのかというと、そうとは言い切れないのだが、過去の流れから次を予測する方が私にとってはやりやすい。1年後のことは微塵も予想がつかないが、1分後のことならなんとなく想像できる。
投資関連の書籍や雑誌などを見ていると、ビギナーはファンダの方がやりやすいと書いてあることが多いが、果たしてそうなのだろうか。
私はテクニカルの方がやりやすいし勝ちやすいと思う。
尚、私の2018年のトレードの収支はマイナスである。

無について 1月某日 晴れ

無であることは尊い。
最近、よくそう思う。何でもかんでも「あって当たり前」の時代だからこそ、無の魅力が際立つのではないかとも思う。
例えば、無欲である。勝負ごとに勝ちたいと念じ、勝つために頑張るのが当たり前かもしれないが、無欲の勝利という言葉もある。
無心や無関心もいい。いまどきは、ぼーっとしているだけでもお腹いっぱいになる量の情報が入ってくる。だからこそ、無関心は心乱さずに暮らすための心構えになるし、その先にあるのが無心なのではないか。
無駄。これもよいではないか。効果と効率を追求し、あらゆる無駄を省くのが時流ではあるが、無駄だなあと思うことに楽しみが潜んでいたりする。私が携わっている物書き商売だって、世の中に不可欠かと言えばそんなことはない。あってもいいし、なくてもいいが、あったらちょっと楽しくなる。そんな仕事である。
無茶や無謀もよいし、無職は、究極的には理想的な生き方であるとすら思う。
先日、ある打合せに参加する機会があった。とはいえ、私が直接引き受ける仕事ではなく、何か気づいたことがあったら自由に意見を言ってくれ、と知り合いに頼まれ、参加した打ち合わせだ。つまり賑やかしである。
気づいたことをいろいろいい、余計なこともいい、打ち合わせは無事に終わった。
その後、打ち合わせに参加していた人と雑談していたら、ふと「ところで、伊達さんて何者なんですか?」と聞かれた。
これにはシビれた。無の存在として認知してくれたような気がしたからだ。
社会生活は、お互いが何者かわかった上で成立している。何者かを定義する要素はいろいろあるが、例えば、肩書き、背景、関係性、出自などがあるし、打ち合わせに参加するなら、参加している理由や役割なども要素になる。
ただ、その時に限って言えば、私は何者でもなかった。何者でもない人が何かいい、なんとなく役に立つ。その状態の心地よさと、心地よいことに気づかせてくれた一言にシビれたのである。
何者かわからないけど、なんとなくそこにいるという意味不明な存在を、私は今後も目指したい。実はそれが、身分を明かすことによって成り立っている社会において、唯一無二の存在となることにつながるのではないかとも思う。

目線について 1月某日 晴れ

相手の目線に合わせよう。
最近、そんな感じの姿勢が流行りだ。
社長は従業員の目線に立って現場を理解する。従業員は経営者になったつもりで視座を高くする。そうすることによってお互いが理解しやすくなり、なんだかんだあって成長につながり、生産性が高まる。そんな話である。ビジネス書や自己啓発本にもそのようなニュアンスのことが書いてあることが多い。
正直なところ、私にはまったく理解不能だ。
ニュースなどでも似たような論調が展開されている。政治家は国民の目線に立つべきだ。そんな話である。こういうのも理解できない。
本当にそれでうまくいくのだろうか。
社長が従業員の目線に合わせるということは、突き詰めていえば、隣の席の同僚が社長になるようなもんである。それで経営がうまくいくか。いくはずがない。
政治家が国民目線を持つということは、公園で日向ぼっこしているおじいちゃんが政治をするということだ。それで国が発展するか。するはずがない。
相手の目線に合わせようとすることは、ある意味では傲慢で、相手を軽んじる行為とも言えるだろう。自分の目線を下げるのは、自分の方が上だと思っていることの現れであるし、自分の目線を上げられると思うのは、誰でも簡単に目線が高い人と同じ景色が見られると思っているからだ。
商売の面から見ても、最大公約数を狙うマス広告が生きていた時代なら、目線を合わせる効果が多少はあったかもしれない。しかし、今は多様性の時代である。マス広告はほとんどお金の無駄遣いだし、他人と違うことが価値を高めている。
それでも目線を合わせたがるのは、頭のどこかに「一緒が安心」「話せばわかる」といった考えがこびりついているからだろう。友達のような母娘とか、上司部下の隔たりをなくすといったことも、根底にあるものは同じであるように思う。
100歩譲って、子供の目線に立つ意味はわかる。子供は理解力や発信力が未発達だから、相手の目線まで下りないと何を言いたいのかがわからない。しかし、子供や社会的弱者でなく、五体満足の大人なら、それぞれが自分の目線でものを見る方が良いのではないか。
さて、「読者目線で書き直し」という修正指示が来ている。どう対処しようか。

抱負について 1月某日 晴れ

1月は短い。
厳密にいうと31日あるから他の月より長いのだが、お正月があり、その翌週には「また休みか」とつっこみたくなる3連休があり、そうこうしているうちに中旬になり、下旬になる。
年末の締め切りで出した仕事が、修正とか校正で一斉に戻ってくるのも1月である。この量がハンパない。それを右から左に流しているだけであっという間に月末である。
だから、1年は実質11ヶ月なのだと思っていた方が体感的にはぴったりくる。
年初に目標を立てたり抱負を語ったりする人は多いが、バタついている間に何をするつもりだったか忘れてしまうのではないか。
そうはいっても節目なので、一応、目標を立ててみる。
さて、今年は何をしようか。
昨年は、ありがたいことにいろいろな仕事をさせてもらった。
質的にも量的にも充実していたし、正直にいえば量的な充実が過剰で、「今日はちょっと暇かな」と、ひと息ついたのは肌寒くなった11月のことだった。
無論、その暇もつかの間で、再び全力で走らなければならない時期になり、そのまま今に至る。
私のような人間になんでそこまで依頼が集まるのかわからん。
おそらく景気が良いのだろう。少なくとも私の周りの会社はどこも景気が良いはずである。つまりお金が余っているから私のところに流れてくる。ありがたい。
そういう波に身を任せるのも処世術の1つだと思うので、頼まれれば二つ返事で引き受ける。据え膳はありがたくいただくスタイルだ。
ただ、それでは申し訳ないとも思うので、せめて期待されたレベルの仕事はする。120点は出せない。でも100点は出せる。100点を目指すと90点になるので、120点を目指して100点をとっていく。110点でたら御の字。そんな感覚で。
それが今年の抱負である。
意識高い系の人にはハードルが低く感じられるかもしれないが、私にはこれくらいのハードルがちょうどいい。
気づけば今年も残すところあと11ヶ月であるが、遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

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