ライター伊達直太/取材後記2020

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取材後記 2020

ゆり戻しについて 5月某日 晴れ

ゆり戻し、という言葉がある。
漢字では揺り戻しと書き、右に大きく振れた振り子が左に大きく戻る、というようなことである。
この現象は株とか為替ではリバウンドと呼ばれ、大きく下がった株価はたいてい上に大きく戻る。
一方向に行き過ぎた時に反対方向に戻ろうとする力が発生するのは物理とか力学では当たり前の話だが、日常生活や心理面でも似たようなことは起きる。
例えば、アベノミクスによる景気回復でタワマンが飛ぶように売れた。今は物件が余りつつあって価格も下がっている。
SNSが流行れば知り合いが増え過ぎてSNS疲れする人が増えるし、一世風靡した仮想通貨はもはや誰も話題にしないし、お客さんを神様扱いするとカスハラが増えるし、韓流ブームは嫌韓に変わるし、学歴社会はゆとり教育を生むし、古今東西、多分、不易流行の流行の部分はゆり戻しが起きる。多分ね。
流行りのYouTubeも不易流行の流行であるから、そのうちそうなるのだろうと思う。
ほんの少し前まではシェアが流行りだった。車も家も労働力も、あらゆるものがシェアされてきた。
これは必ずしも流行ではないのだけれど、行き過ぎたのだと思う。
だから少なからずゆり戻しが起きる。
従来のように何でも所有する世の中には戻らないだろうけど、全てシェアで済ますライフスタイルもおそらく実現しないだろう。
見方を変えると、以前が全て所有するライフスタイルだったから、そのゆり戻しがシェアエコノミーの流行だったのかもしれない。
テレワークはどうだろう。現状は流行のような普及ぶりだが、私は不易に分類されるものだと思っている。だから案外ゆり戻すことなく定着するのではないかと期待もしている。満員電車に乗って出社し、常に対面で仕事をするという旧来のやり方には戻らないということだ。
仮にそうなるとすれば、それは置き換えである。刷新や改革と言っても良い。
つまり、ゆり戻しがないものは置き換えられるのである。多分ね。

パチンコのカオスについて 5月某日 晴れ

パチンコがカオスだ。
自粛要請に応じずに営業を続ける店があり、営業中なら打ちに行こうという人がいて、自粛警察とメディアが「なんたることか」と叩き、その様子を「なんか揉めてるぞ」と野次馬する人がいる。
このカオスが面白いのは、関係者全員にそれぞれの主張と、その主張を裏付ける事情があることだろう。
国は自粛を要請する。だって三密だから。
店は自粛に応じない。だって稼がないと潰れるから。
客は店に通う。だって開いているから。
自粛警察とメディアと野次馬はカオスを面白がる。だって揉めごとは面白いし、面白いものを報じればお金になるから。
だから、誰も悪くない。悪いかどうかはさておき、誰の主張も間違っていない。だからずっと決着しない。
1つわかっていることがあるとすれば、需要と供給で成り立っている市場に、需給と無関係の人が入ってきても議論は平行線になるということである。
私は以前、パチンコ屋に学ぶ経済学という本を書かせてもらったことがあって、そのころまでは自分自身もパチンコファンであったため、この分野のネタにはつい引かれてしまう。
ただ「なんか揉めてるぞ」と野次馬する人の4歩くらい後ろから「カオスだなあ」と傍観している。それがカオスを見る上で正しい姿勢であるように思う。
逆にいうと、カオスとは一定の距離を保たなければいけないと思う。
「なんで国が営業自粛を要請するのだ」と怒ったところで、国相手に何を言ったって無駄だろう。
「国難の時期にパチンコを打つなんてけしからん」と怒る人もいるが、他人の行動をコントロールすることなどできない。
それなら、わざわざ踏み込んでいってイライラするより、野次馬からさらに4歩引いて傍観した方が自分の健康的に良いはずである。
「カオスだなあ」と思う。他人事として見る。
それがカオスにおいて、最もストレスなくカオスと接する方法なのだと思う。

景気の悪化について 5月某日 晴れ

景気とは何なのか。
株とか為替とか投資とかの仕事に携わっていると、景気という言葉は日常的に使う。自分の仕事に関しても、自営業は景気の波に乗ったり溺れたりするものだから、いやでも景気には敏感になる。
それくらい身近なものなのだけど、ところで景気とは何なのか。
景は景色のことだ。気は気持ちである。
風景や光景を見てどんな気持ちになるか。
情景の移り変わりの中でどんな気分になるか。
漢字の組み合わせとしてはそんな意味の単語だ。
それが経済の状態や良し悪しを表す一般的な言葉として認知されているのは不思議な感じがする。
英語に訳すと、ビジネスとかビジネスコンディションとなるらしい。
これもしっくりこない。
景気は確かにビジネス(事業)の状態を表す。景気動向指数など数値化されるものもビジネスコンディションを表している。
しかし、景気そのものは、状態として表面に現れている部分のみならず、その根底にある期待や不安とか、背景にある事情や課題とか、そういうものまでひっくるめたものである気がする。
だから、売上が良いのにいつも不景気な顔をしているジジイがいる。
一方には、貯金ゼロでも景気よく飲み歩いている若造もいる。
つまり、業績とか貯金とか目に見える部分を景色とすると、目に見えない部分が気持ちである。ビジネスコンディションは景色を切り取るが、景気は景色だけでなく、気持ちの部分も含め、この2つがどう組み合わさっているかを表す(のだと思う)。
今年の景気はどうだろう。景色の部分は絶望的だ。どの業界も減収減益である。
気持ちの部分も厳しい。飲みにいく気分でもないし、浪費する気分でもない。
ただ、景気回復に向けてどうにかできるとしたら気持ちの方だ。
好況よし、不況なおよし。そんな気持ちになれれば、枯れたように見える景色が少し違って見えてくるのかもしれない。

リモートワークについて 5月某日 晴れ

 やればできる。
GWが終わり、さっそくzoomとかgoogle meetの打ち合わせが入った。
今週だけで5つ。来週はすでに4つである。
もしかしたらコロナ以前より件数が多いのではないか。
世の中は本気だ。コロナ以前はリモート化も働き方改革も遅々として進まなかったが、やらざるを得なくなり、やればできると認識し、実感しはじめている。
そよ風でふき飛ぶような弱小フリーランスの私としては、どういう形であれ仕事をいただけるのはありがたい。
個人的にもあらゆることをリモート化・ネット化してほしいと思う出不精であるから、後出しジャンケンになるのだけれど、コロナ以前からできるだけ移動や外出の時間が少ない働き方が理想だと思っていたし、そのような働き方を目指してきた。
用がなければ外に出ない。誰とも会わず、誰とも話さない日もある。
よく言えばラプンツェル的、実態に即して言うとニート的な生活である。
時間主義の観点から言うと、このような生活の良いところは自由に使える時間が増えることだ。
結果、仕事の効率はよくなる。実際、弱小フリーランスの私がそこそこ食べてこられたのも、時間の浪費を減らし、その時間を実務にあてることによって時間の換金性を高めていたからだ。
自由な時間が増えると幸福度も高まる。時間は計測可能、幸福度は計測不可能なので必ずしも等価交換になっているとは言えないけれど、今、この瞬間を何をして過ごすか判断できることは大事で、何をして過ごすかを自分で判断して生きることこそが人生なのではないかとも思う(壮大な話になってきたぞ)。
コロナという魔物は、表面的にはリモート化によって人と人のフィジカルな接点を減らし、距離を広げた。
もう一段深いところでは、自分の時間や人生と向き合う機会を増やしたのだと思う。
つまり、人と人とのつながり方を変えたのではなく、社会や会社や世間といったものと自分とのつながり方を変えるきっかけを生み出したということである。

コロナ離婚について 5月某日 晴れ

離婚が増えているらしい。
震災の時は結婚する人が増えた。今はその逆である。
いずれも大きな国難なのに、人の行動が逆になるのは興味深い。
離婚する夫婦の半分以上は結婚から10年以内に別れているというデータを見た記憶がある。震災から10年くらい経っていることを考えると、あの時に生じた不安や孤独といった感情の揺らぎで一緒になり、10年経って別れたパターンもあるかもしれない。
なぜコロナは離婚を呼ぶのだろうか。
評論家筋の説明によると、テレワークの普及で夫婦や家族が一緒に過ごす時間が増えたり、経済の先行きが不透明になってストレスが溜まりやすくなったことで、イライラが溜まりやすくなり、不仲になるのだという。
それはそうだろう。誰かと一緒に過ごす時間が増えれば、相手の言葉や行動に苛立つ機会も増える。人は基本的には変化に対してストレスを感じるから、気晴らしに出かけることもできず、テレワークや社会的距離を取るといった新しい生活様式を求められると余計にイライラする。そこに家計や未来の不安も加わる。
ただ、そこに至るまでの過程も考えなければならないと思う。
イライラが増えるということは、もともとイライラを感じる要素があったということだ。経済や家計の不安も同じで、コロナによって不安が増した側面はあるが、コロナ以前の家計が盤石だったわけではなく、そもそも不安はあった。
そう考えると、イライラと不安が爆発し、不仲になり、離婚に至る流れはコロナ以前からの蓄積なのだと思う。コロナはたまたま決定打になったが、仮にコロナが来なかったとしても、いずれ別の要因で同じ道を辿っただろうと思うのだ。
コロナ倒産やコロナ破綻のニュースなどを見ていても、同じことを感じる。
コロナが原因で潰れるのではなくて、もともと経営や事業モデルやリソース管理の欠陥があった会社が、コロナにとどめを刺されるということなのだと思う。
そういう意味では不運ともいえるし、遅かれ早かれという気もする。
良し悪しを抜きにして必然的に起きる変化のタイミングだったと考えれば、単純にコロナが悪いとは言えないんだよね。もちろん、コロナなんてないほうが良いわけだけども。

晴れネット社会について 4月某日 晴れ

 小人閑居して不善をなす。
つまらない人間ほど、暇があるとロクなことをしない、というような意味である。
私はたまたま子供やカミさんの監視の目(←)があるから、それなりに真面目に暮らしている。
しかし、根が小人だから、誰も見ていなければ不善をなす。むしろ、不善しかしない自信がある。そう考えると、監視は私が社会人として問題なく暮らしていくために不可欠である。監視社会万歳だ。
それはそうと、閑居は、辞書によると暇のことであり、世間の騒がしさから離れた静かな住居や、世俗を離れて静かに暮らすこと、である。
素晴らしいじゃないか。私が求めているのは、それである。
そう思うのは私が時間主義だからかもしれないが、とにかく閑居がほしい。
暇が欲しいために、日々、朝から晩まで忙しくしている気さえする。
コロナ禍になって、すこぶる暇になった。
記憶が確かなら、3月に投資家のJACKさんに会いに行く機会があって、それが直近で最後の取材である。
zoomとかgoogle meetの取材を除けば、実際に面と向かって取材する機会は、それが今年の上半期の最後になるだろう。もしかしたら今年最後の対面取材になる可能性すらある。
面白いなあと思うのは、従来のような「取材は対面が当たり前」という概念が一気に消えて、オンライン取材ばかりになっていることだ。
現場に行かなくても、ネットがつながっていれば取材も打ち合わせもできる。
従来の「会う」という概念とは違うし、恋人とか友人とかの「会う」とも違うのだけれど、仕事で「会う」程度の「会う」はネットで十分なのかもしれない。
これってもしかしてすごい変化ではないか。
だって、対面するために出張したり移動したり、対面した時のために名刺を作ったりきれいな格好をしたりする必要性が思い切り下がるからね。
ネットで完結できるのに、なぜ会うのですか。なぜ集まるのですか。
そんな問いかけが定着しそうな気がする。

余剰について 4月某日 晴れ

必要最低限で暮らす。
これは私のライフスタイルのテーマで、できる限り必要最低限を目指してきた。
贅沢、華美、過剰、余分はいらない。実際、私はスーツは2着(夏用と冬用ね)しか持っていないし、私服とかパンツも、日々選択することを想定して2着くらいしかない。PCは、仕事上、ぶっ壊れた時に困るので2つあるが、それ以外のものは、必需品だとしても1つ持たないし、必要がなければ持たないし、財布の中には常に500円しかないし、冷蔵庫はスカスカだし、友達は少ないし、奥さんも1人である。
これは一種の思想的、または宗教的なもので、いわゆるミニマム主義みたいな、断捨離的な生き方は追求していくと割と楽しい。
極限をどこまで追求できるか。そんな楽しさがある。
ところが、やっぱりミニマムには限界があるのだ。
それは平時にはわからないのだけれど、コロナ禍のような有事になるとミニマムが裏目に出る。必要最低限に絞り込んで、贅肉が全くない暮らしをしているわけだからね。
ミニマムは、必要最低限のものが常時、滞りなく手に入る状態で実現するライフスタイルなので、物流が止まると一気にピンチに追い込まれる。
今がまさにその状態で、外出機会が減っているから服が少なくても構わないのだけれど、冷蔵庫がスカスカだと困ってしまう。
平時には贅肉に思える余分も、有事には貴重な生命源になったりする。余剰があるから安心感が生まれ、余分を困っている誰かに提供することもできる。
最近は感染者のうち軽症な人をホテルに収容しているらしいけど、それも空きがないとできない。つまり余剰である。
必要最低限で暮らす。
それは理想的だし、引き続き追求したいのだけれど、どんなかっこいいスタイルにも弱点はあるのだ。
言い換えれば、最近、私は腹が贅肉で膨らんでいるのだが、それは必要最低限の弱点を補うための余分なようで余分ではない保険的な肉であり、無理して消す必要はないのではないか、と思うんだけど、どうだろう。

自粛について 4月某日 晴れ

日々、子供らと遊んでいる。
トランプして、ドンジャラして、一緒におやつを食って、人生ゲームをする。
暇を見てメールを返信したり原稿を書き進めたりするけれど、そうはいっても、できることは限られる。
ならばいっそ、子供らと遊べる良い機会だと思って、ずっと遊んでいる。
時の流れに身を任せて、どうにかなるだろうと思って生きてきたら、とりあえず過去20年くらいはどうにかなった。
それなら今回もきっとどうにかなる。そう思っているから、今を楽しむ。
刹那主義は昔からだ。
刹那主義と無計画と表裏一体だが、今のようなカオスの時には役に立つ。少なくとも「来月どうしよう」「来年はどうなっているのだろう」といったような、考えたところで答えが出ない不安を一掃できる、という点ではね。
不安かといえば不安である。ただ、楽しいかと問われればとても楽しい。
人間万事塞翁が馬。そんな感覚である。意味はよく知らないけど。
それはそうと、経験則として、考えても答えが出ないことや、悩んでも解決しないことはあると思っている。
そう割り切るのはわりと大事だとも思う。
実際、私ができることは限られる。目先の仕事をとりにいく努力もできるのだろうけど、開いていない店のシャッターを叩いたところでどうにかなるものではないだろう。
織田信長ファンは、そこで特攻するのだろう。
家康タイプは一歩引いて、おいしいところを総取りする計画を立てる。
私はどちらのタイプでもなく、どちらかになろうともしていない卑怯なタイプですみません。
でも、STAYHOMEするだけで社会に貢献できるなら、こんな簡単な社会貢献はない。
家にいろ。マスクしろ。手を洗おう。
美味しいもの食べて、毎日を楽しんで、よく寝よう。
自粛期間とはつまり、動物的に身勝手に暮らして、それでも誰かの役に立ててしまう極めて希少な期間なのだ。多分。

波長について 4月某日 晴れ

日々、スズメにエサをやっている。
きっかけは単純だ。たまたま賞味期限切れが近いパンがあったので、小さくちぎり、家の前にパラパラと撒いただけである。
すると、近くを飛んでいたスズメが気づいたのか、食ったらしい。
数時間後に見るとパンくずがきれいになくなっていた。
私は人間には冷たいが動物には優しい。強いやつがのたれ死んでもなんとも思わないが、弱いやつが苦労しているのは放っておけないタイプの偽善者である。
そういう性格だから「スズメは腹が減っているんだなあ」などと思い、次の日も撒き、その次の日も撒き、気づけば1ヶ月くらいになった。
最近は、パンを投げるために窓を開けると、近くのフェンスにとまってスズメが待っているようになった。1羽だったスズメが2羽になり、3羽に増えた。
窓を開け、軽く「おはよう」といってパンを撒く。
しばらく見ていると、警戒しながら近寄ってきて、パンを食っている。
面白いなあと思うのは、私以外の家族が窓を開けると、3羽とも遠くに飛んでいってしまうことだ。
もしかしたらスズメは顔がわかるのかもしれない。
あんな小さな頭で、顔を認識できているとしたらすごいことである。できるのだろうと私は勝手に信じている。
それと似た話で、私はカラスも顔を認識できると思っている。
いつだったか、ゴミ出し場のゴミをカラスが食い散らかす時期があった。カラスだって生きているのだから、それはそれで仕方ないことだと思うのだが、食い散らかされたゴミを掃除するのは手間だ。
そんな折、主犯格らしきカラスが電線に止まっているのを見つけて、「ダメだぞ」と話しかけたことがある。以来、ゴミは全く荒らされなくなった。
たまにそいつらしきカラスを見かけて「おはよう」と挨拶する。
そいつなのかどうかはわからない。どのカラスも顔は一緒に見える。でも、そいつはたまに「カー」と鳴く。自分と鳥類の間に何があるのかはわからんが、私は鳥となんとなく波長が合うのだろう。
神様は意地悪だ。美女と波長が合う仕様にしてほしかった。

不況について 4月某日 晴れ

デジャヴである。
新型コロナの影響を受けて、引き受けたはずの仕事がいくつか延期や中止になった。震災の時もそうだったなあと思い、確定申告するついでに震災後の収支を振り返ってみたら、2011年はとくに影響なかったが(たまたま前年に売れた本の印税があったので)、12年と13年の売上はその額の半分になっていた。
よく生き残ったよなあ。
その時の教訓を生かしつつ、今は当時よりもクライアントさんが分散されているので、そこまで大きな打撃にはならない(と思う)。とはいえ、消えた仕事もあるので、19年比で減ることは間違いない。今年はあまり影響がないかもしれないが、来年は減るだろう。再来年も危ういぜ。
減っていくらになるか。それが実際の需要なのだと思っている。
ここ数年、売上(PLのトップライン)が伸びていた。新しい仕事を依頼され、仕事を通じて新たな人との接点ができることも嬉しかった。
でも、その中にはバブル需要も含まれる。不況がくればバブルによって装飾されていた部分が剥がれ落ち、素顔になる。その状態が本当の評価なのだと思う。
私は01年にフリーになって、そこから震災までの10年くらいは好況だった。その間に結婚し、家を買い、家のローンを返し終えた。バブルに感謝である。
その後、震災によって急に不安定になったが、2年くらい耐えたらアベノミクスによって再び好況になった。子供が生まれ、特に不自由なく暮らし、こりゃあありがたいと思っていたらコロナ懸念になった。
10年に一度くらい、こういう大きな変化が起きるのだろう。だからデジャヴである。不況とはつまり、真の価値を査定するきっかけであり、調子に乗るなよ、という警告のような気さえする。
そんなふうに思っているから、目先の仕事は消えているのだけれど、あまり焦りはない。震災の年も、生まれたばかりのボウズの面倒を見ていて、あの時間がとても楽しかった。コロナは不安だが、時間主義の私にとっては、暇という資産が大量に増えたような気さえする。
こんな機会は滅多にないから、子供らと目一杯遊ぼうと思っている。
デジャヴですか。いいえ、現実逃避です。

コロナについて 3月某日 晴れ

世の中が変わるのは一瞬だ。
世界大戦のような戦争がないいまだからこそ、人類の目下の敵は環境の変化でも宇宙人でもない。コロナである。
震災の時もこりゃ大変だと思った。しかし、震災の最悪のシナリオは日本の終わりだが、コロナの最悪のシナリオは世界の終わりである。世界規模であるという点で、人類はいま、ものすごく大きな敵と向き合っている、ような気がする。
震災との比較でもう1つ感じるのは、協力体制がとりづらいことだと思う。
震災の時は「人間対自然」という戦いの構図が明らかだったので、人間同士が協力できた。困っている人がいれば手を差し伸べるし、見知らぬ他人でも困っているなら助けてあげたいという気持ちに自然になれた。
でも、コロナのような感染症は違う。手を差し伸べたい気持ちはあっても手を差し伸べることによって自分と身近な人をも危険に晒すことになる。
困っている人も、助けてくれる善意の人を危険に晒してはいけないという気持ちが働くから、困りごとを抱え込まなければならない。
結果、団体戦が個人戦になり、困っている人が孤立する。
これは厳しい。なぜなら、協力するという選択肢を奪われた個人は決して強くないからである。
以上が、私が思うコロナの影響の話。これくらいのことは誰もが思うだろうし、分析するのは簡単である。
でもね、そんなふうに冷静に見ている自分が卑しい人間であるようにも思う。
例えば、電車で見知らぬ人が咳き込んでいたらどうするだろう。
今どきは「咳をするな」と思う人が大半だろう。コロナじゃないかと疑い、マスクをしていなかったら暴言すら浴びせる人もいるらしい。
それって、協力体制がとりづらいから仕方がないことなのだろうか。
私は違うだろうと思ってしまう。
誰も手を差し伸べないなら、せめて自分くらいは「大丈夫ですか」と声を掛けたい。それができなくなったら、いよいよ私はおしまいだと思う。
いまは大きな変化の時なのだけれど、その流れに任せて自分そのものまで変えてしまってはいけないなあ、とも思う。

9年経ったことについて 3月11日 晴れ

あの日から何年経ったか。
うちはボウズが震災の年に生まれたからすぐにわかる。もう9年だ。
あの日、あの時、「もしかしたら死ぬな」と思ったけれど、9年経ってもこうして生きている。ありがたいことだ。
あの危機を生き延びられたおかげで、数ヶ月後に生まれたボウズと会えた。その数年後に生まれたチビにも会えた。そういう幸せな人生がどうして生まれたかというと、あの日の私を助けてくれたJRとかスーパーマーケットとか病院の先生などのおかげである。その節はありがとうございました。
それはそうと、9年経ってまた国難である。
コロナみたいな感染症は地震とは性質が違うが、自然災害という大きなくくりでは同じだと思っている。自然災害とはつまり、誰のせいでもない災害である。
一方で、自然災害が人災に発展することもある。
例えば、マスコミである。震災はパニックだったからマスコミが役に立たなかったことは仕方ないにしても、不安を煽り、風評を増長させたのはマスコミである。
明らかな人災だった。
または著名人である。国難や人々の不安にすら便乗して名前を売るのが彼らの使命なのかもしれないが、震災の時は目立とう精神がすぎる下品な人がいて驚いた。てめえが目立つために利用され、被害を受ける人たちがどれだけ腹立たしかったことか。ストレス増長という点でこれも人災だろうと思う。
そして政治である。いろいろと語るのも億劫になるくらい、これが最も大きな人災だった。
当時は、当事者である被災者のど真ん中ではないけど、割と近いところにいたので色々と腹立たしく感じた。あれから9年経ち、少しは世の中が優しくなっているのかと思ったら、相変わらず色々と腹立たしい。
マスコミも著名人も政治も、9年経ってプレーヤーが変わっているにもかかわらず体質が変わらないのは、ある意味ではすごいし、ある意味では絶望的である。
国難なんてない方が良いに決まっているのだけど、あえて1つ良いところをあげるとすれば、信用できるやつと、人災を起こすような絶対に信用してはいけないやつを見分けるフィルターにはなるのかな、とは思う。

デマについて 3月某日 晴れ

デマは何の略語か。
私はずっと、デマは口から「出ま」かせを略してデマだと思っていた。
実は違うらしい。デマゴギーというドイツ語なんだとか。
まさかのドイツ語である。ドイツ語なんてソーセージとビールくらいしか知らないぜ。そう思って調べてみたら、ソーセージは英語で、ビールはオランダ語由来であるという。
もう何がなんだかわからん。
わかっているのは、デマは迷惑でビールはうまいということくらいだろうか。
コロナのせいなのかデマが多くて困る。
テレビなどで根拠の怪しい情報を知った子供らが「お父さん、これって知ってる?」と、トンデモナイな情報を伝えてくる。
私は「なんだそりゃ」となるので、その話は嘘かもしれないよ、こう考えると嘘の可能性が高いよ、などと説明する。
例えば、トイレットペーパーがなくなるといった話を子供たちが信じ、私がそんなことはないから大丈夫、と説明するようなもんである。
この作業が割と時間を食う。
正しい情報を子供たちに教えることは大事だと思うけれど、そもそも嘘を言う誰かがいなければ正しいことを教える必要性も生まれない。
テレビの人たちには安易に嘘を報じないでほしいと切に願う。
情報化社会という言葉がある。
あらゆる情報が出回り、自ら情報を取りに行いかなくても勝手に情報の方からこっちに飛び込んでくる。少し手間をかければ、新聞とかテレビを中継せずに情報源にたどり着くこともできるようになった。
でも、現状はまだ情報が飛び込んでくる状態で止まっていて、情報源まで確認する人はすごく少ないんだろうなと思う。
マーク・トゥエインの「健康本を読むときは注意したほうがいい。誤植一つで死にかねない」という言葉を思い出す。
情報と向き合う上で、これこそが正しい姿勢なのだと思う。
無論、この言葉ですら誰かの捏造である可能性もあるのだけれど。

休校について 3月某日 晴れ

新型コロナ懸念で学校が休みになった。
うちの場合、チビが通う幼稚園は時短、ボウズが通う小学校は完全休校である。
コロナはおそらく夏には収束するのだろうけど、ワクチンができなれば来年の冬も同じことが起きるのだろうなあ。
そうなった場合、子供がいる家庭は子供の予定に合わせるので、仕事の仕方などを見直さなければならない。
春から秋にかけてたくさん働き、冬はあまり働かない。そんなスタイルが生まれるかもしれない。
実際、ボウズが休みになってからの実感として、仕事はほとんどできなくなった。
子供の勉強を見たり、昼飯を作ったり、スキを見てYouTubeを見始めた現場を押さえ、こちょこちょの刑に処すことなどに時間を取られるからである。
ただ、そういう日々もなんだかんだ楽しい。
ボウズも、学校へ行けず、友達ともほとんど遊べないのでストレスをためているとは思うのだが、案外毎日楽しそうだ。
例外なのはカミさんで、子供が余計なことをするので日に日にイライラを募らせている。
子供は何かと弱い存在であるが、ストレス耐性という点では大人より強いのかもしれない。そう考えれば、私が毎日楽しく感じているのも説明がつく。精神年齢が子供だからである。ほっといてくれ。
あるいは、柔軟性の話なのかもしれない。
大人は既存のやり方を変えることに抵抗感を持つことが多く、柔軟に対応するのが苦手だ。変えられるのかもしれないけど、変えたくないと思っているところがある。一方、子供は変化の代名詞のような生き物である。何かが変わることにストレスを感じにくく、柔軟性も高く、むしろ変化を喜んでいるところもある。
時差通勤もテレビ会議もフレックスも、働き方改革という文脈の中でずっと議題に上っていたが、進んでいるようで進んでいなかった。コロナくらい強烈な状況になり、ようやくテレワークが進んだ。
社会の仕組みを変えるためには、これくらいのインパクトが必要なんだなと思う。
ほとんどノーワークの私がテレワークについて語れる身分ではないのだけれど。

約束について 2月某日 晴れ

私は約束を守る方だ。
厳密にいうと、守れそうにない約束はしないので、必然的に守れる約束ばかりになり、約束を守っていることになる。
例えば、提示された締め切りが厳しければ、その時に「あと3日ないとできませんよ」という。遊びも同じで、7時集合の約束が難しければ「8時に行くから」と伝える。
こういうのが精神的にも肉体的にも結構大事だ。
無理しなくても約束を守れるから頑張らなくていい。必要最低限のやることだけやっておけば信用を失うことがない。
小耳に挟んだ話だが、人は頑張ったり無理したり、難しいことに挑戦することにいよって成長するんだそうである。
道理で私は成長しないわけだ。
それはそうと、中には、できそうだけど、もしかしたらできない、といった微妙な約束もある。
例えば、仕事が早く終われば7時に行けるし、終わらなければ8時になるといった時の7時集合とか、調子が良ければできるし、悪ければできないといった時の3日後締め切りなどである。
そういう時、私は基本的には「行けたら行く」とか「できたらやる」といった答えかたをする。
ところが、これも小耳に挟んだ話なのだが「行けたら行く」は「行かない」というメッセージをオブラートで包んだものであるという。
「できたらやる」も同様、「やらない」と断るとカドが立つため、やんわりと伝える時の言い方と受け止められるらしい。
言われてみれば、私は潜在的にそう思っているのかもしれない。
飲み会などは、行けたら行こうと思っているけど、実はあまり行きたくない。
与えられた仕事はできる限り真面目にやるが、やらずに済むならやらないでおこうという気持ちもある。
でも、たまに掛け値なしに「行けたら行く」「できたらやる」と思っているときもある。そういう時はなんと言えばいいのだろうか。日本語は難しい。

買い占めについて 2月某日 晴れ

マスクの品切れが続いている。
ドラッグストアやコンビニは連日の人だかりで、ついにはトイレットペーパーを求める人がスーパーマーケットに並び始めたらしい。
小学校のころだったか、オイルショックについて習った。トイレットペーパーを買う客で店がごった返したらしい。何してんの?
そして、いまも同じことをやっている。有事の時にトイレットペーパーを買いに走るのはもはや習性なのかな。マジで何してんの?
雰囲気的には震災後に近い。あの時は水不安で大勢の人がスーパーに水を買いに走っていた。
そんなことになっているとは全然知らず、当時は妊婦で動けなかったカミさんから「み、水を……」と頼まれ、買いに行った。出がけに「スーパーはもう売り切れで……」と聞いたので、とりあえず歩いてコンビニに行ってみたら、運なのかタイミングなのか、ペットボトルの水が何本かあった。買い占めちゃまずいと思って、2、3本買って帰った。重たかったなあ。
以来、いざというときに足りないと困るし、パニックの中で買ってこられる自信もないので、水はなんとなく買い置きするようにしている。
水不足(何時代なんだ)の教訓を生かして、トイペとかティッシュとか生活必需品もなんとなく全てストックするようになった。
うちはボウズと俺が花粉症なのでマスクの買い置きもいくらかある。だから、今は世の中はパニックらしいけど、焦って買いに行くこともない。
偉そうな言い回しになるが、世間がマスクやトイレットペーパーを買いに走っている様子を見て思うことがある。
急いで買いに走るのが大人ではない。
急いで買いに走らなくてもいいように、あらかじめ買っておくのが大人だということである。
仮に手持ちが不足していたとしても、買い占める必要はないだろう。
誰の言葉か忘れたけど、奪い合えば足らない、分け合えば余る。
余るというのが大事。余すでもいい。
足るを知る。余裕とはつまり余りから生まれるのである(←偉そう)。

コロナショックについて 2月某日 晴れ

たまには投資の話でもしようかな。
一般論として、株価は半年先を折り込みにいくという論がある。投資家の敏感さとか信用取引が半年後に決済するとか理由は複数あるけれど、要するに株価は一種の未来予想としての指数になるということだ。
現在、新型コロナによって株価が下落中である。
なんで下がるかというと、売りたい人がたくさんいて、買いたい人が少ないからだ。それが半年後を示唆するのだとすれば、半年後に行われる東京五輪開催時の景気もかなり厳しい。
つまり、日本売りである。東京五輪に向かって日本経済が右肩上がりに伸びていくというおおかたの予想を、半年前の時点で否定する人が増えたということである。
どうするんだろうね、これ。
利下げしようにもすでにゼロ金利だから手が打てない。日銀がたくさん買って買い支える手はあるけど、すでに700億買っている。1つあるとすれば消費税を下げることだけど、上げたばかりですぐ下げるのも難しそうだ。むしろ、セオリー的には消費税をさらに上げて国民からお金をもらわないといけないのだが、それをやったらいよいよ消費は冷え込む。消費税増税で負担が増えたときに、まさか株を買おうと考える人は少ない。
暴落は、普通はバブル化している時に起きるので、打つ手がいくつかある。バブル期には金利とか不動産価格が上がっているから、下げたとしても吸収できる。
バブった分が消えるだけだ。
そこが今回は違うところである。金利は上がっていない。不動産は、都市部ではバブルだけど、全国的には上がっていないか下がっている。底値近いところで暴落が起きた時に、何か手はあるんだろうか。震災のような国内限定の要因なら五輪で外需が見込めるけど、コロナは世界規模だから五輪観戦にくる人も減る。
多分だけど、私は今、歴史に例がない暴落を見ている。
言い方を変えると、この危機を乗り越えるスキームができれば、おそらく日本経済は永遠に安定する、と思う。

声質について 2月某日 晴れ

声は個性だ。
それを最大の武器にし、価値にしているのが歌手なのだと思う。
歌がうまいと思う人は誰かと聞かれると、女性なら中森明菜、男性ならカールスモーキー石井が頭に浮かぶ。
好きかというと、熱心なファンではない。どちらも有名な曲しか知らないし。
だから、声の質である。声の向こう側から滲み出てくる切なさ、はかなさ、もろさ、危うさのような部分を勝手に想像し、勝手に好きになっている。
そういう要素は、聖子ちゃんの声にはない。徳永さんの声にもない。女性の高い声と男性の細い声だとそれが出ない。
明菜ちゃんも、昔はもうちょっと高い声だったから、うまいなあと思うのは後期の歌である。
石井さんは歳をとっても声が変わらない。多分、ロボットなのだと思う。
ロボットで思い出したけど、パフュームのようなデ
何の話か、声の話だ。
生き様は顔に出る、という言い回しがある。苦労や努力などがシワを作り、夢や希望が目と表情を輝かせるといったようなことである。
美人やハンサムが必ずしもいい顔ではない。いい顔だなあと感じる顔は、何かが滲み出ないといけないわけだ。
私は声だと思っている。インチキくさい営業マンの声はインチキくさく聞こえるし、プレイボーイの「愛してる」は声が軽いから浮わつく。偉そうに講釈を垂れるジジイも、自己陶酔して難しい理論を披露するおっさんも、言っていることは立派かもしれないが、声に深みがないから何を言っているのかわからない。 歌詞や言葉を荷物に例えると、声は荷台である。荷台が悪いから歌詞が届かない。荷台がしょぼいから言葉がこぼれる。
原稿には音がない。私が書いたことを明菜ちゃんの声で朗読してくれたら、言わんとしていることがもうちょっと世の中に伝わりそうな気がしないでもない。

記憶について 1月某日 晴れ

たまに電車に乗る。
山手線の車窓から上野の公園側の風景を見ていると、初めてデートらしいデートをした時のことを思い出す。16歳の時だったかな。17歳だったかもしれない。
それ以前も女の子と買い物に行ったり食事をしたりすることはあった。
でも、それはデートとは違う。デート風ではあるのだけど、たまたまその時に相思相愛風だった子と一緒に遊びに出かけるという程度のことである。
上野で待ち合わせたその子はちょっと次元が違った。
片想い歴で5年くらいだ。ティーンエイジの5年はとても長い。人生の全てといっても良いと思う。
どういう経緯で会うことになったかは覚えていないが、上野駅の改札口で再会し、2時間くらいのデートが実現した。
ベンチに座って他愛のない会話をした。どういうわけか、デートらしい計画を何一つ立てていなかった。
そのうちに5年間の純粋な思いとティーンの汚れた思いが混ざり合い、頭は思考停止になり行動は制御不能になり、なんやかんやあって、当然のごとく嫌われた。
以来、その子と会うことはなかったし、駅の外に出る機会もなかった。
車窓から見る限りではよくわからないが、アメ横あたりの雰囲気は変わらないにせよ、上野の景色は全体的に変わっているのだと思う。
町が変わるが思い出は変わらない。
パソコンやスマホの機種が変わっても、保存してあるデータは変わらないのと同じである。
不思議なのは、データ(思い出)そのものは変わっていなくても、見方や感じ方は変わるということである。
上野の思い出は、当時の私にとっては苦々しい記憶だったが、今はどちらかというと好感を持って向き合える。もしかしたら、黒い冬の思い出が青い春の思い出に見えるように、記憶そのものが実は脳内で微妙にデフォルメされているのかもしれない。この脳内処理のことを、おそらく老いと呼ぶ。
センチメンタルな話になってしまった(なってない)。

時短について 1月某日 晴れ

時短が好きだ。
できる限り圧縮して、なんでも短時間で終わらせたい。
その観点から見て、私が大発明だと思うものがいくつかある。
その1つがカップ麺である。ラーメンを食いたいと思った時に、ラーメン屋に行き、注文し、食べ、帰ってくるのは、ほとんど小旅行である。
しかし、カップ麺は3分でできる。10分もあれば食べ終わるし、後片付けも終わる。私は2分で食べ始めて3分経ったころには片付け終わっている。
たまに、出来上がるまで5分かかるカップ麺があるが、うまさも大事ではあるが、カップ麺の真の価値は早さである。
1日3食、3分でできるカップ麺を食べている人は、5分のカップ麺を食うことによって1食2分、1日6分、1年なら半日、10年なら5日失う。
3分のカップ麺も完成形ではない。1分で出来るようになれば、1食2分、1日6分、1年で半日、10年で5日の時間が生まれる。
石の上にも3年というけど、3年を1年にする努力は大事、と誰か偉い人が言っていた。松下幸之助かもしれないが、違うかもしれない。2分浮けば、そんなことも十分に調べられる。
コンビニも素晴らしい発明だ。スーパーとか文具店とか薬局とか銀行などを行脚して回る時間をまとめて短縮できる。グーグル検索は図書館に行ったり辞書を引いたりする時間が短縮できるし、電子レンジは煮たり焼いたりする時間が短縮できる。
今後はリニア新幹線ができて通信は5Gになる。もはや期待しかない。
3分が1分になると2分の時間が生まれるように、時短とはつまり、新たな時間を生み出す創造的な活動である。
昔と比べて人間の寿命は伸びたが、様々な時短の発明によって自由に使える時間も増えている。そう考えると、実質的な寿命は平均寿命の伸び(年数)の中に収まらないくらい伸びている。
長生きを目指す方法としては運動したり食事を工夫する手もあるが、積極的に時短術を導入することもできる。仮に時短によって自由に使える時間を倍にできれば、まったりと生きる100年は、時短で生きる50年と時間的には同じなのだと、運動と食事制限をしたくない私は思っている。

感謝について 1月某日 晴れ

ありがたいことである。
今年も新しい年を迎えることができた。年末と正月であっちへこっちへと親族や友人の顔を見にいってみると、万全とは言わないまでも、みんな元気である。ありがたいことだ。
仕事に関しても、昨年から持ち越した仕事がすでに何本もある。とりあえず引き受けたものも含めて見込みだけで計算してみたら、すでに昨年の収入の8割くらいある。無論、見込みに過ぎないわけだから実際にはこれから物書きしなければならない。ただ、正月の時点で年末の収支がある程度見込めている状態は精神的に楽だ。
それはそうと、今だから言えることなのだが、ここ数年の年末年始はトラブル続きだった。火元は私ではない。私はトラブルを起こさないし、そもそもトラブルを起こすほど他人とも世間とも接点がない。
トラブルというものは、こっちが目配りしていないところからやってきて、勝手に火を放つ。気づいた時にはそれなりに炎上している。私には実害はない炎だから放っておいてもいいのだけど、気づいちゃった以上、私はなんとなく火消し役をしてしまう。私は案外、他人思いのところがあるのだ(←!)。
一方で、私は家庭第一主義(←!!)でもあるので、自分が火消し役で関わっているトラブルのことを家には持ち込まない。火消しの苦労を表情に出すこともない。ここが私の素晴らしいところである。(←!!!)
そういうトバッチリを喰らうのがもはや定番になっているかのような気さえしていたのだが、今年は何もなかった。
平穏無事にお正月がやってきた。これもありがたいことだ。
そんなことを思いつつ、正月が明けて何日か経ったときに、ふとカミさんが「今年は平穏ですね」と言った。
要は、家庭には持ち込まず、1人で抱えて処理していたはずの苦悩を、カミさんはわかっていたということである。
私が勝手に苦労を背負い込む一方で、カミさんはその苦労を察し、うまく立ち回ってくれていた。ならば、それも十分にありがたいことだ。
何の話だっけか。そうそう、本年もよろしくお願いします、という挨拶である。

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ライター 伊達直太

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