ライター伊達直太/取材後記2018

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取材後記 2018

月間収支について 3月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

ちょいプラであった。
短期はちょいプラ。ちょい長めで持っている別口座もちょいプラ。合わせてちょいプラである。
月の後半は、ボウズが春休みになったのと、仕事が立て込んだこともあってほとんど何も触っていない。結果として、指数も為替も複雑な値動きだったので、避難して正解だった。参加していたら、おそらくちょいプラがちょいマイナになり、大きいマイナスを食らっていたかもしれない。
それはそうと、来月早々に著名な投資家さんと会うことになった。株をやっている人なら誰もが名前を知っている人である。
こういう機会に恵まれるのが、この仕事をしていてよかったと思うことの1つだ。世の中には、会いたいと思っていても会えない人がたくさんいる。そのような人と、私は仕事を通じて会うことができる。
普通なら会うことができず、話を聞けるとすればこちらがいくらか払わなければならない。しかし、仕事であるがゆえ、会う機会をセッティングしてもらえるだけでなく、お金までもらえる。
こんな上手い話があるのだろうか。あるのだ。
真面目に仕事をしていると、たまにそういうご褒美があるのである。
過去にも、この人すげえなあと思う投資家やトレーダーの方と会う機会があった。そういう環境にあるにもかかわらず、今月の収支がちょいプラであったのはなぜなのかという疑問はあるのが、さらに大きな疑問なのは、彼らが快く取材を受けてくれることである。
人前に出ることが仕事ではない人にとって、取材を受けるメリットはほぼない。
しかし、彼らは丁寧に応じてくれる。知っていることを惜しげもなく教えてくれる。それはおそらく器が大きいからである。
そういう人がいるから、媒体商売が成り立つのであり、我々のような物書き商売も飯が食える。そのことを、業界全体が意識しなければならないと思うし、私自身ももっと強く認識しなければならないと思う。
ということで、襟を正して話を聞かせてもらう。尚、その取材の内容などは、5月くらいに出版される雑誌に載るらしい。

激務について 3月某日 晴れ

今日は何日で、何曜日なのだろうか。
そんなことを考えるくらい、かつてないほどに仕事に追われた日々であった。
なぜにこんなに仕事があるのか。
世の中はどうやら好景気であり、私はバブルである。
気づけばフリーランスという根無し草になって18年くらいになる。
過去を振り返ってみても、今月ほど仕事に追われたときはなかったと思う。
私は怠け者であるから、仕事をしたいと熱望することはない。
実際、過去には仕事がなく、暇を持て余した時期もあったが、だからといって焦るわけでもなく、営業する気もなく、むしろ暇を満喫していたタイプである。
一方で、仕事があることをありがたいなあと思う気持ちは常に根底にある。
怠け者のくせによく働くのは、そういう気持ちがあるからだろう。
いま付き合いのあるお客さんのほとんどは、フリーになったときには全く付き合いがなかったお客さんである。
人が人を呼び、縁が縁を呼び、気づけばいまのつながりになっている。
この広がりを作り出しているダイナミズムは個人の力ではない。
ビジネス書などを読んでいると、仕事を増やしたいならコネを作ろう、積極的に人に会おうなどという主張を見かけることがあるが、それは表面的な取り組みでしかなく、たいした効果も生まない。私自身、そういう取り組みをまったくしたことがなく、それでいて、付き合いの範囲が自分の手に負えないほどのレベルにまで勝手に広がっている。
人のつながりや、そこから生まれる仕事の広がりには、理屈では説明しづらい縁の相互作用があり、だから私は、常々自分は運がいいと思う。
運を味方にするには、運に身を任すのが一番である。
そうやって人生が進んで行くから運命である。
そろそろ新年度である。理想と現実、期待と失望が交錯する時期である。
環境の変化に戸惑ったり、プレッシャーに潰されそうになる時があるかもしれないが、気負ったって仕方ない。
自分がやらねばならないこと、やった方がよいことをやっていけば、あとは運がどうにかしてくれるはずだ。多分。

運動不足について 3月某日 晴れ

引越しの時期である。
最近引越しした知り合いは、クリーニング屋を探し、スポーツジムを探しているという。
クリーニング屋を探すのはワイシャツなどを洗うからだろう。そういう感覚は会社員でなければわからない。
もっとわからないのはジムである。お金と時間と体力を使ってまで運動しようと考える人は、もはや別世界の住人である。
最後に運動らしい運動をしたのはいつだったか。
数年前まで、たまにゴルフをしていた。頭のどこかで、運動不足を解消しなければいけないという意識があったからだ。
しかし、きっぱりやめた。
時間主義であるとともに、短期的なリスク・リターンで物事を考える私にとって、そもそもゴルフは向かない運動だったのかもしれない。
やるとなれば1日がかりである。うちからだと千葉や神奈川まで行くから、移動距離も長い。帰り道に渋滞に巻き込まれることもある。幸い、事故に巻き込まれたことはないが、そういうリスクもゼロではない。
打算的な私は、その見返りを考える。
ゴルフは楽しいスポーツではあるが、時間効率の面でもリスク・リターンの面でも、自分には向かない。そう考えて、やめることにした。
残ったのは、クラブ一式、ウェア一式、そして、運動不足を解消しなければいけないという意識である。
運動はした方がいい。それは事実だろう。できる限りインドアを好む私でも、足腰が弱るのは避けたい。厳密にいうと、足腰が弱ったりすることで、誰かに迷惑をかけるのを避けたい。
そう考える人は多いだろうから、短時間で適度な運動効果が得られるものがあればおそらく大ヒットする。
知人は、だからスポーツジムなのだという。しかし、私からみればまだまだ時間効率が悪く、リスク・リターンのバランスも悪い。それなら、引越し屋のバイトをした方がはるかに良いと思うのである。

7年前の記憶について 3月11日 晴れ

丸7年が経った。
今年の3.11は日曜日だったから、被害にあった人、なくなった人、なくなった人の家族のことなどを考えつつ、子供らと遊んで過ごした。
うちのボウズは震災の年に生まれた。世の中がまだ動揺していて、復旧も復興も永遠に先の話だと思われていたときのことである。
当時は色々とやることがあり、例えば実家の心配をしたり、妊娠と出産の手伝いをしたり、仕事もそれなりにあったのでコツコツこなしていたりしたのだが、不思議なことに、あまりよく覚えていない。
記憶力が悪いせいか。それもあるだろう。
私はあらゆることをすぐに忘れる。人の名前や顔は覚えられない。買い物を頼まれれば、必ず何か買い忘れる。
最近はそれを防ぐために、スマホに買う物のリストを入れて出かけるのだが、残念なことに出先でスマホを見ることを忘れる。
何かしようと思ってリビングにいき、何をするのか思い出せずに戻ってくるのが日課である。
それはそうなのだが、2011年のことをあまり覚えていないのは、何か別の理油があるように思う。別の理由とは、辛い経験、きついこと、絶望感といったネガティブな記憶が過度な精神的負担にならないように、脳が記憶の濃淡を自動的に処理しているというようなことである。
私は医者でも脳科学者でもないので、脳にそういう機能があるのかどうか知らない。ただ、そういうメカニズムになっているのだと考えると、当時の記憶が薄いことに納得がゆく。
震災のことについては、忘れたいこともあるが、忘れてはならないこともある。年に1度、こうして当時のことを振り返るのも、放っておけば自然に忘れ、のほほんと生きてしまうであろう自分を戒めるためである。
混乱の中を生きながらえ、その数ヶ月後に出会ったボウズは、すくすく育ち、来月から小学校に通う。震災から丸7年が経ち、ボウズももう時期7歳になる。東北の街と人が力強く立ち上がったように、ボウズにもたくましく生きてほしいと思う。

月間収支について 2月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

ひでえ月だった。
まだ月末ではないのだけど、今月はもう閉めてしまおう。
2月はあと数日あるが、取材と打ち合わせで出ずっぱりになるので、実質的に今月の相場は終わったようなもんである。
仮に残り数日でいくらか儲かったとしても、焼け石に水であり、複雑骨折に冷えピタくらいにしかならない。
それくらいひどい月だった。
何ショックか名前もわからない急落で、1月分の利益をおまけをつけて返すことになった。マジ卍(使い方あってる?)。
株価は、上りはコツコツで下りが早い。2ヶ月かけて上がってきた分が、2日で帳消しになったりする。
それは重々承知のはずなのだが、なぜに毎度巻き込まれるのか。
人間は欲の生き物である。「こうしたい」「ああなりたい」という欲がモチベーションになり、人は成長し、社会が発展してきた。
私は存在そのものが欲の塊であるわけだが、欲深さゆえにリスクを取りすぎ、欲に目が眩んで同じミスをする。
理屈で考えると、欲が人を成長させるのだから、欲深いほうがより成長するはずである。
しかし、私の場合は欲が成長を阻む要因になっている。生物的観点から見ても歴史的観点から見ても、これは説明のつかないマジ卍な状態であろう。
それはそうと、今月は仮想通貨界隈の人と話す機会があり、とても勉強になった。
何事においても、その業界でトップクラスの人から話を聞くのがもっとも勉強になる。勉強の効率もいい。知識や情報はトップに向かって集約されるから、トップを知れば全体がわかるのである。
その経験を生かしながら、3月もめげずに投機に励もうと思う。
マジ卍な時があれば、マジ卍ではない時もある。冬季五輪で金(きん)をとる人がいるなら、投機で金(かね)を得る人もいる。奇しくも今日は五輪の閉会式であり、マジ卍の意味はいまだにわからない。

ミスについて 2月某日 晴れ

とある方からメールが来た。
「次回もまた原稿をいらいらさせていただきたいと思います」と書いてあった。
「依頼」と打ったつもりが「いらいら」になったのだろう。
言いたいことはわかるが、笑ってしまった。
誤字脱字には気をつけないといけない。
最近はPCで原稿を書くのが当たり前だから漢字の誤用などはほとんど起きない。ソフトがとても優秀だから、同音異義語なども「こっちが正解だぜ」と教えてくれる。
ただ、打ち損じはある。「打ち損じ」と書いた(打った)つもりが、「打ち損じじ」になっていたりする。ソフトが余計な忖度して「打ち損時事」と変換してくれたりすることもある。
wordは、そういうのを見つけて「ここ違くない?」と指摘してくれたりもするが、気づかれない場合もある。ちなみに、この文章もwordで打っているわけだが、「打ち損じじ」の部分には「ここ違くない?」の赤線アラートが出るが、打ち損時事はスルーされるようだ。基準がよくわからん。
最終的に本や雑誌になる原稿は、出版社が見つけて直してくれるので「打ち損じじ」のような間違いが世の中に出ることはほとんどないと思う。
ただ、日々のメールなどは何度も文面は読み返したりしないから、誤字脱字のまま相手に送ってしまうこともある。
自分では気づいていないだけで、私も意味不明のメールを送り、相手に笑われているかもしれない。もの書き商売としては恥ずかしいことである。
もしかすると、打ち損じにもフロイト的失言みたいなものもあるのかもしれない。つまり、無意識で思っていることが打ち損じという形で表に出るということである。
だとすれば、単純な打ち損じに見える「いらいらさせていただきたい」もあながち無視できない。
ひょっとして私はその人をいらつかせているのかもしれない。
理由や背景はわからないが、とりあえず、すまん。

血液型について 2月某日 晴れ

私はA型である。
100人いれば、100人が間違いなく「伊達さんはA型ですね」という。
血液型による分類が果たしてどこまで的確かはわからないが、一般的に言われるようなA型の特徴はすべからく満たしていると自分でも思う。
A型の特徴としては、良い点として、几帳面であり計画性があるのだという。その通りだと思う。
悪い点としては、本音を話さない、柔軟性にかける、細かい、周囲を気にしすぎるといった特徴もあるようだ。それも否めない。
うちには子供が2人いて、確率的には彼らもA型である可能性が高い。
ただ、調べていないのでわからない。
それが私には気持ち悪いのだが、カミさんによれば、最近は調べない子供が多いのだと言う。
調べない人が増えている理由は、事故や病気で輸血が必要になったときには、仮に血液型がわかっていたとしても、そのときにきちんと調べるのであらかじめ検査する必要がないということらしい。
そういうもんなんのか、と一瞬、納得しそうになった。危ない。
そうじゃないだろうと思う。事故や病気を想定して考えるなら不要かもしれないが、血液型はそのためだけにあるわけではない。親が子を理解し、楽しく勉強したり、育て方を工夫したりするために、血液型は1つの情報としてわかっていた方が良い。
自分のことを振り返っても、自分はA型であるという情報が、物事を考えたり判断する際に多少なりとも影響しているように思う。例えば部屋を片付けるのが面倒と感じる時があっても、自分はA型だから片付けが得意なのだと思えばさっさと取りかかれる。勉強にしても旅行の計画を立てるときにしても、血液型を意識する場面は多い。
そういうことをカミさんに熱弁したのだが、返ってきた反応はとても薄かった。相変わらず細かい男だ、とでも言いたそうな表情であった。
なぜに放っておけるのかが不思議でならない。
カミさんはA型である。しかし、私は実はO型なんじゃねえかと疑っている。

老いについて 2月某日 晴れ

年をとるのは嫌なものだ。
そう思う理由は、目である。具体的には、目が悪くなり、涙もろくなった。
目が悪いというのはいわゆる老眼で、ここ数年、細かな字が読めなくなった。
最近は読めないのが当たり前になってきたので、読もうという気もなくなっている。薬瓶とか食品のラベルなどは、かつては細かく読んでいたが、いまはもう読まない。
ふと老眼のレーシックでもやろうかと思ったのだが、眼科のサイトを見ていたら、老眼は45歳くらいからなる人が多いというようなことが書いてあったので、それくらいの年齢になってからあらためて考えることにした。そのときにはサイトを読む力すら衰えているかもしれない。
もう1つの涙もろさについては、もともと涙もろい性格ではあるのだが、それが輪をかけてひどくなっている。
動物が出てくるドキュメンタリー番組などは、まず泣く。はじめてのおつかいシリーズは鉄板だ。最近は、メロディアスな曲も危ないし、ツイッターでちょっとした感動話を読むだけでうるっとくることもある。
きわめつけは、自分が書いた原稿で涙ぐんでしまうことだ。
過日、とある仕事で病気の人とその家族についての原稿を書いた。ドラマティックに書いてくださいというオーダーを受けていたので、ちょっと感動色を強めにして書いた。
その原稿を書いている途中に、自分で書いているにもかかわらず、涙が出た。
読み手の涙を誘うつもりが、自分が真っ先に泣いている。その情けない姿を客観的に認識しながら、つくづく年をとるのが嫌だと思うのである。
老眼と涙腺はいずれも目の話であるのだが、老眼は筋肉の話で、涙腺は脳の話なので、根本は別である。どちらが困るかというと涙腺の方だが、それは涙腺の開け閉めというより、過剰に感動するところに問題がある。
筋肉が衰えることについてはある程度諦めているが、脳の方はもう少し粘りたい。なんとかならないものかと思い、夜な夜なスマホで調べていたところ、涙もろくなるのはストレスのせいかもしれないという説があることを知った。
これは詳細を読まなければならない。
そう思ったのだが、細かい字が読めないのでやめた。

月間収支について 1月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

1月はだいたい勝てるのだ。
今年も例によって、何の工夫もしていなけど、それなりに勝った。
実はこれにはカラクリがある。
年末年始をまたぐ際に、税金の関係で持株が整理されるため、勝ちやすくなるというカラクリである。
投資の利益には2割ちょっとの税金がかかり、その額は12月末で確定する。そのため、利益が出ている場合は節税のために含み損を確定させる。いわゆる損出しである。
これをやることで、まずいらない株を整理できる。含み損のまま何となく持ち越してきてしまった銘柄である。
そういう銘柄は、ほかの人もいらないと思っているから、買い手が弱く、持っていても上がらない。むしろ損が膨らんでいくことが多いので、それが整理できて勝ちやすくなる。
ただ、いらないし、含み損なのだが、一応持っておきたいと思う銘柄もある。そういう株は損切った後で買い直す。つまり底値のあたりで安く買い直すわけなので、そこから上がる可能性が出てくる。運よく年明けに上がったりするとプラスになるので、これも1月に勝ちやすくなる要因になる。
ほかにも、節税を考えて含み益を持ち越すことも勝ちやすくなる要因であるし、相場全体としては、年越しリスクを避けた人が1月に買い始めたり、新年とかお正月が何となく前向きで積極的な雰囲気を作り、相場環境が良くなったりする。そういった環境要因も追い風になるので、よほど変な株さえ掴まなければ、とくに深く考えなくても勝てるのである。
ただし、その先のことを考えると、1月に勝つというのは必要条件であったりもする。というのは、2月から環境要因がなくなり、勝ちにくくなるからである。節分天井という格言にもあるとおり、2月以降を生き延びていくためには、1月に貯金を作っておかなければいけない。
そう考えると、1月だけ投資して、あと11ヶ月は触らないという方法がもっとも簡単で勝率も高いのかもしれない。ギャンブル好きには無理な芸当であるわけだが。

修正することについて 1月某日 晴れ

原稿というものは、なかなか一発オーケーとはならないものである。
書き手としては、自分が100点だと思う原稿を出すわけだが、編集や出版や広告の担当者にとっては50点くらいと思うこともある。
その不足分を埋めるべく、文章の構成を直したり、言い回しを変えたりして、何度かやりとりを経て世の中に出る。修正の出し方としては、「こういう話を入れて」と具体的な指示をする人がいれば、「もっとエキサイティングに」といった雰囲気で指示する人もいる。書き手に修正を指示することなく、担当者の裁量で修正し、それが世の中に出ることもある。
どれがいい、悪いという話ではない。ライターの使い方や記事の作り方には人それぞれの方法があるのだ。
書き手の受け取り方も人それぞれだ。編集者などが勝手に直すことを嫌う人もいるし、好きなように直してもらった方がいいと思っている人もいる。
私は好きなように直してねと思うタイプである。というのは、作稿の作業は野球の先発ピッチャーのようなもんだと思っているからである。
私の役目は、コンディションを整えて先発のマウンドに立ち、全力で投げることである。調子がよければそのまま完投する。
ただ、調子が悪ければ、あるいは、もっと良い結果が期待できるのであれば、中継ぎや抑えに交替してもいい。替えるかどうか決めるのは監督すなわち制作サイドであるから、私がどうこういう話ではない。後続がビシッと抑えればいい原稿ができるし、抑えなければ逆転負けになる。無責任に聞こえるかもしれないが、そういう結果に対する責任も、マウンドを下りた書き手ではなく、交替を決めた監督が持つものだと思っている。
そう思っているので、私は出来上がった本や雑誌をほとんど読み返すことがない。たまに、勝手に直してすみませんと担当者に謝られることがあるが、私は仕上がりを見ていないのでどう直したのか知らない。むしろ直してくれてありがとうございます、である。
誰が、どこまでやり、どこまで責任を持つかという話は、明確になっていないことが多いし、制作会社によっても違う。異業種と比べると、そこが出版関連のおかしなところであるようにも思う。

時間について 1月某日 晴れ

人はそれぞれ、いろんな財産を持っている。
お金がその代表的な例であるが、人脈や経験も財産であるし、知識や技術も財産である。そういったものを増やしたいと思う人が多いので、お金や人脈や経験や知識や技術を増やす方法をレクチャーすることが商売になったりする。
財産は色々あるのだけれど、私が大事だと思うのは時間である。
これといった人脈や知識がないにもかかわらず、フリーランスという浮き草商売を選んだのも、数ある財産の中で時間が最も大事だと思ったからである。結果として意外と長く生きながらえているのも、相変わらず人脈とか経験などは増えないわけだが、時間という財産がふんだんにあるからだろう。
最近よく思うのは、人脈や知識などを増やすレクチャーがいい商売になるように、時間を増やすことも商売になるということである。
さらにいうなら、人脈や経験や知識や技術やお金を増やす商売は徐々に廃れて、時間を増やす商売が増えて行くだろうとも思う。なぜなら、どんなことをするにしても時間は必要であり、時間さえ増えれば、人脈や経験や知識や技術やお金を効率よく増やすこともできるはずだからである。
時間を増やすというのは、要するに暇な時間を増やすということだ。1日24時間を25時間にすることはできないが、空いている時間を増やすことはできる。そういうコンセプトの商売がうまくいっているように思うし、これからも伸びるのではないかと思う。
わかりやすい例がコンビニである。遠くのスーパーまで出かけたり、電気屋と文房具屋を回ったりしなくても、コンビニに行けば必要なものが買える。値段が高く、品揃えが少ないかもしれないが、買い回るために必要な時間をセーブできる。だからコンビニは流行るのだと思う。新幹線が満席なのも、アマゾンで買う人が増えるのも、時間が短縮でき、自由に使える時間が増えるからだ。
誰がいったか忘れたが、お金は盗まれたりするけれど、知識とか経験は盗まれないから大事です、という格言があった。
その視点からみると、時間も奪われるものであるので、奪われないようにしなければならない。何が時間を奪っていくかというと、移動や会議である。
フリーランサーは通勤がない分だけまだマシだ。

もらうことと稼ぐことについて 1月某日 晴れ

日本人は節約と貯金が好きなのだそうだ。
先日読んだ雑誌にそんなことが書いてあった。
確かに、書店を見ても貯金術の本がたくさん出ている。
最近は株関連の本なども増えているが、多くの人にとって、それは貯金の一部だけを使うお試し的な運用であり、本腰をいれるつもりは毛頭なく、基本は預金なのだろうと思う。
節約は手元の現金を余らせることであり、預金はその現金を置いておくことだ。
そう考えると、日本人は現金主義であり、通貨の価値に絶対の信頼を置いているとも言える。通貨の価値が不安定な新興国や紛争国などではありえない考えだろうから、日本がとても平和な国であることの証とも言えるだろう。
一方で、節約と貯金を好むことは、運用という点からみると思考停止なのではないかと思う。平和が長く続いたことで、運用の意識が徐々に蝕まれ、末期症状にきているようにも見える。
そもそも節約したり貯めたりするのは、誰かからお金を「もらう」ことがスタートだ。誰からももらえなければ、節約しようがなく、貯めることもできない。
では、お金をもらえるという前提が崩れる可能性はないのだろうか。
当然、ありうる。会社が潰れて給料がもらえなくなる可能性はあるし、クビになる可能性もある。年金制度が崩壊する可能性もあるだろう。
「もらう」という前提が崩れれば、その先にある節約と預金というサイクルも動かなくなる。リスク要因としては小さいかもしれないが、そういう事態になった時のダメージは強烈だ。
話は少し逸れるのだが、牛丼屋で無料キャンペーンをやると、毎度長蛇の列ができる。並んでいる時間を使えば、もしかしたら牛丼代くらい稼ぐことができるかもしれない。しかし、並んでいる人は「もらう」が前提だから、素直に並ぶ。それが末期症状の表れだと思うのである。
だから私は「もらう」という前提は信じないし、もらうのではなく自分の力で稼ぐ力を磨いた方がいいと思う。投資はその中でも最も手軽な手法の1つだろう。牛丼代くらいなら簡単に稼げる。そう思って相場に張り込んだら牛丼100杯分くらい負けた。ちょっと牛丼屋に並んでくる。

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ライター 伊達直太

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