ライター伊達直太/取材後記2020

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取材後記 2020

9年経ったことについて 3月11日 晴れ

あの日から何年経ったか。
うちはボウズが震災の年に生まれたからすぐにわかる。もう9年だ。
あの日、あの時、「もしかしたら死ぬな」と思ったけれど、9年経ってもこうして生きている。ありがたいことだ。
あの危機を生き延びられたおかげで、数ヶ月後に生まれたボウズと会えた。その数年後に生まれたチビにも会えた。そういう幸せな人生がどうして生まれたかというと、あの日の私を助けてくれたJRとかスーパーマーケットとか病院の先生などのおかげである。その節はありがとうございました。
それはそうと、9年経ってまた国難である。
コロナみたいな感染症は地震とは性質が違うが、自然災害という大きなくくりでは同じだと思っている。自然災害とはつまり、誰のせいでもない災害である。
一方で、自然災害が人災に発展することもある。
例えば、マスコミである。震災はパニックだったからマスコミが役に立たなかったことは仕方ないにしても、不安を煽り、風評を増長させたのはマスコミである。
明らかな人災だった。
または著名人である。国難や人々の不安にすら便乗して名前を売るのが彼らの使命なのかもしれないが、震災の時は目立とう精神がすぎる下品な人がいて驚いた。てめえが目立つために利用され、被害を受ける人たちがどれだけ腹立たしかったことか。ストレス増長という点でこれも人災だろうと思う。
そして政治である。いろいろと語るのも億劫になるくらい、これが最も大きな人災だった。
当時は、当事者である被災者のど真ん中ではないけど、割と近いところにいたので色々と腹立たしく感じた。あれから9年経ち、少しは世の中が優しくなっているのかと思ったら、相変わらず色々と腹立たしい。
マスコミも著名人も政治も、9年経ってプレーヤーが変わっているにもかかわらず体質が変わらないのは、ある意味ではすごいし、ある意味では絶望的である。
国難なんてない方が良いに決まっているのだけど、あえて1つ良いところをあげるとすれば、信用できるやつと、人災を起こすような絶対に信用してはいけないやつを見分けるフィルターにはなるのかな、とは思う。

デマについて 3月某日 晴れ

デマは何の略語か。
私はずっと、デマは口から「出ま」かせを略してデマだと思っていた。
実は違うらしい。デマゴギーというドイツ語なんだとか。
まさかのドイツ語である。ドイツ語なんてソーセージとビールくらいしか知らないぜ。そう思って調べてみたら、ソーセージは英語で、ビールはオランダ語由来であるという。
もう何がなんだかわからん。
わかっているのは、デマは迷惑でビールはうまいということくらいだろうか。
コロナのせいなのかデマが多くて困る。
テレビなどで根拠の怪しい情報を知った子供らが「お父さん、これって知ってる?」と、トンデモナイな情報を伝えてくる。
私は「なんだそりゃ」となるので、その話は嘘かもしれないよ、こう考えると嘘の可能性が高いよ、などと説明する。
例えば、トイレットペーパーがなくなるといった話を子供たちが信じ、私がそんなことはないから大丈夫、と説明するようなもんである。
この作業が割と時間を食う。
正しい情報を子供たちに教えることは大事だと思うけれど、そもそも嘘を言う誰かがいなければ正しいことを教える必要性も生まれない。
テレビの人たちには安易に嘘を報じないでほしいと切に願う。
情報化社会という言葉がある。
あらゆる情報が出回り、自ら情報を取りに行いかなくても勝手に情報の方からこっちに飛び込んでくる。少し手間をかければ、新聞とかテレビを中継せずに情報源にたどり着くこともできるようになった。
でも、現状はまだ情報が飛び込んでくる状態で止まっていて、情報源まで確認する人はすごく少ないんだろうなと思う。
マーク・トゥエインの「健康本を読むときは注意したほうがいい。誤植一つで死にかねない」という言葉を思い出す。
情報と向き合う上で、これこそが正しい姿勢なのだと思う。
無論、この言葉ですら誰かの捏造である可能性もあるのだけれど。

休校について 3月某日 晴れ

新型コロナ懸念で学校が休みになった。
うちの場合、チビが通う幼稚園は時短、ボウズが通う小学校は完全休校である。
コロナはおそらく夏には収束するのだろうけど、ワクチンができなれば来年の冬も同じことが起きるのだろうなあ。
そうなった場合、子供がいる家庭は子供の予定に合わせるので、仕事の仕方などを見直さなければならない。
春から秋にかけてたくさん働き、冬はあまり働かない。そんなスタイルが生まれるかもしれない。
実際、ボウズが休みになってからの実感として、仕事はほとんどできなくなった。
子供の勉強を見たり、昼飯を作ったり、スキを見てYouTubeを見始めた現場を押さえ、こちょこちょの刑に処すことなどに時間を取られるからである。
ただ、そういう日々もなんだかんだ楽しい。
ボウズも、学校へ行けず、友達ともほとんど遊べないのでストレスをためているとは思うのだが、案外毎日楽しそうだ。
例外なのはカミさんで、子供が余計なことをするので日に日にイライラを募らせている。
子供は何かと弱い存在であるが、ストレス耐性という点では大人より強いのかもしれない。そう考えれば、私が毎日楽しく感じているのも説明がつく。精神年齢が子供だからである。ほっといてくれ。
あるいは、柔軟性の話なのかもしれない。
大人は既存のやり方を変えることに抵抗感を持つことが多く、柔軟に対応するのが苦手だ。変えられるのかもしれないけど、変えたくないと思っているところがある。一方、子供は変化の代名詞のような生き物である。何かが変わることにストレスを感じにくく、柔軟性も高く、むしろ変化を喜んでいるところもある。
時差通勤もテレビ会議もフレックスも、働き方改革という文脈の中でずっと議題に上っていたが、進んでいるようで進んでいなかった。コロナくらい強烈な状況になり、ようやくテレワークが進んだ。
社会の仕組みを変えるためには、これくらいのインパクトが必要なんだなと思う。
ほとんどノーワークの私がテレワークについて語れる身分ではないのだけれど。

約束について 2月某日 晴れ

私は約束を守る方だ。
厳密にいうと、守れそうにない約束はしないので、必然的に守れる約束ばかりになり、約束を守っていることになる。
例えば、提示された締め切りが厳しければ、その時に「あと3日ないとできませんよ」という。遊びも同じで、7時集合の約束が難しければ「8時に行くから」と伝える。
こういうのが精神的にも肉体的にも結構大事だ。
無理しなくても約束を守れるから頑張らなくていい。必要最低限のやることだけやっておけば信用を失うことがない。
小耳に挟んだ話だが、人は頑張ったり無理したり、難しいことに挑戦することにいよって成長するんだそうである。
道理で私は成長しないわけだ。
それはそうと、中には、できそうだけど、もしかしたらできない、といった微妙な約束もある。
例えば、仕事が早く終われば7時に行けるし、終わらなければ8時になるといった時の7時集合とか、調子が良ければできるし、悪ければできないといった時の3日後締め切りなどである。
そういう時、私は基本的には「行けたら行く」とか「できたらやる」といった答えかたをする。
ところが、これも小耳に挟んだ話なのだが「行けたら行く」は「行かない」というメッセージをオブラートで包んだものであるという。
「できたらやる」も同様、「やらない」と断るとカドが立つため、やんわりと伝える時の言い方と受け止められるらしい。
言われてみれば、私は潜在的にそう思っているのかもしれない。
飲み会などは、行けたら行こうと思っているけど、実はあまり行きたくない。
与えられた仕事はできる限り真面目にやるが、やらずに済むならやらないでおこうという気持ちもある。
でも、たまに掛け値なしに「行けたら行く」「できたらやる」と思っているときもある。そういう時はなんと言えばいいのだろうか。日本語は難しい。

買い占めについて 2月某日 晴れ

マスクの品切れが続いている。
ドラッグストアやコンビニは連日の人だかりで、ついにはトイレットペーパーを求める人がスーパーマーケットに並び始めたらしい。
小学校のころだったか、オイルショックについて習った。トイレットペーパーを買う客で店がごった返したらしい。何してんの?
そして、いまも同じことをやっている。有事の時にトイレットペーパーを買いに走るのはもはや習性なのかな。マジで何してんの?
雰囲気的には震災後に近い。あの時は水不安で大勢の人がスーパーに水を買いに走っていた。
そんなことになっているとは全然知らず、当時は妊婦で動けなかったカミさんから「み、水を……」と頼まれ、買いに行った。出がけに「スーパーはもう売り切れで……」と聞いたので、とりあえず歩いてコンビニに行ってみたら、運なのかタイミングなのか、ペットボトルの水が何本かあった。買い占めちゃまずいと思って、2、3本買って帰った。重たかったなあ。
以来、いざというときに足りないと困るし、パニックの中で買ってこられる自信もないので、水はなんとなく買い置きするようにしている。
水不足(何時代なんだ)の教訓を生かして、トイペとかティッシュとか生活必需品もなんとなく全てストックするようになった。
うちはボウズと俺が花粉症なのでマスクの買い置きもいくらかある。だから、今は世の中はパニックらしいけど、焦って買いに行くこともない。
偉そうな言い回しになるが、世間がマスクやトイレットペーパーを買いに走っている様子を見て思うことがある。
急いで買いに走るのが大人ではない。
急いで買いに走らなくてもいいように、あらかじめ買っておくのが大人だということである。
仮に手持ちが不足していたとしても、買い占める必要はないだろう。
誰の言葉か忘れたけど、奪い合えば足らない、分け合えば余る。
余るというのが大事。余すでもいい。
足るを知る。余裕とはつまり余りから生まれるのである(←偉そう)。

コロナショックについて 2月某日 晴れ

たまには投資の話でもしようかな。
一般論として、株価は半年先を折り込みにいくという論がある。投資家の敏感さとか信用取引が半年後に決済するとか理由は複数あるけれど、要するに株価は一種の未来予想としての指数になるということだ。
現在、新型コロナによって株価が下落中である。
なんで下がるかというと、売りたい人がたくさんいて、買いたい人が少ないからだ。それが半年後を示唆するのだとすれば、半年後に行われる東京五輪開催時の景気もかなり厳しい。
つまり、日本売りである。東京五輪に向かって日本経済が右肩上がりに伸びていくというおおかたの予想を、半年前の時点で否定する人が増えたということである。
どうするんだろうね、これ。
利下げしようにもすでにゼロ金利だから手が打てない。日銀がたくさん買って買い支える手はあるけど、すでに700億買っている。1つあるとすれば消費税を下げることだけど、上げたばかりですぐ下げるのも難しそうだ。むしろ、セオリー的には消費税をさらに上げて国民からお金をもらわないといけないのだが、それをやったらいよいよ消費は冷え込む。消費税増税で負担が増えたときに、まさか株を買おうと考える人は少ない。
暴落は、普通はバブル化している時に起きるので、打つ手がいくつかある。バブル期には金利とか不動産価格が上がっているから、下げたとしても吸収できる。
バブった分が消えるだけだ。
そこが今回は違うところである。金利は上がっていない。不動産は、都市部ではバブルだけど、全国的には上がっていないか下がっている。底値近いところで暴落が起きた時に、何か手はあるんだろうか。震災のような国内限定の要因なら五輪で外需が見込めるけど、コロナは世界規模だから五輪観戦にくる人も減る。
多分だけど、私は今、歴史に例がない暴落を見ている。
言い方を変えると、この危機を乗り越えるスキームができれば、おそらく日本経済は永遠に安定する、と思う。

声質について 2月某日 晴れ

声は個性だ。
それを最大の武器にし、価値にしているのが歌手なのだと思う。
歌がうまいと思う人は誰かと聞かれると、女性なら中森明菜、男性ならカールスモーキー石井が頭に浮かぶ。
好きかというと、熱心なファンではない。どちらも有名な曲しか知らないし。
だから、声の質である。声の向こう側から滲み出てくる切なさ、はかなさ、もろさ、危うさのような部分を勝手に想像し、勝手に好きになっている。
そういう要素は、聖子ちゃんの声にはない。徳永さんの声にもない。女性の高い声と男性の細い声だとそれが出ない。
明菜ちゃんも、昔はもうちょっと高い声だったから、うまいなあと思うのは後期の歌である。
石井さんは歳をとっても声が変わらない。多分、ロボットなのだと思う。
ロボットで思い出したけど、パフュームのようなデ
何の話か、声の話だ。
生き様は顔に出る、という言い回しがある。苦労や努力などがシワを作り、夢や希望が目と表情を輝かせるといったようなことである。
美人やハンサムが必ずしもいい顔ではない。いい顔だなあと感じる顔は、何かが滲み出ないといけないわけだ。
私は声だと思っている。インチキくさい営業マンの声はインチキくさく聞こえるし、プレイボーイの「愛してる」は声が軽いから浮わつく。偉そうに講釈を垂れるジジイも、自己陶酔して難しい理論を披露するおっさんも、言っていることは立派かもしれないが、声に深みがないから何を言っているのかわからない。 歌詞や言葉を荷物に例えると、声は荷台である。荷台が悪いから歌詞が届かない。荷台がしょぼいから言葉がこぼれる。
原稿には音がない。私が書いたことを明菜ちゃんの声で朗読してくれたら、言わんとしていることがもうちょっと世の中に伝わりそうな気がしないでもない。

記憶について 1月某日 晴れ

たまに電車に乗る。
山手線の車窓から上野の公園側の風景を見ていると、初めてデートらしいデートをした時のことを思い出す。16歳の時だったかな。17歳だったかもしれない。
それ以前も女の子と買い物に行ったり食事をしたりすることはあった。
でも、それはデートとは違う。デート風ではあるのだけど、たまたまその時に相思相愛風だった子と一緒に遊びに出かけるという程度のことである。
上野で待ち合わせたその子はちょっと次元が違った。
片想い歴で5年くらいだ。ティーンエイジの5年はとても長い。人生の全てといっても良いと思う。
どういう経緯で会うことになったかは覚えていないが、上野駅の改札口で再会し、2時間くらいのデートが実現した。
ベンチに座って他愛のない会話をした。どういうわけか、デートらしい計画を何一つ立てていなかった。
そのうちに5年間の純粋な思いとティーンの汚れた思いが混ざり合い、頭は思考停止になり行動は制御不能になり、なんやかんやあって、当然のごとく嫌われた。
以来、その子と会うことはなかったし、駅の外に出る機会もなかった。
車窓から見る限りではよくわからないが、アメ横あたりの雰囲気は変わらないにせよ、上野の景色は全体的に変わっているのだと思う。
町が変わるが思い出は変わらない。
パソコンやスマホの機種が変わっても、保存してあるデータは変わらないのと同じである。
不思議なのは、データ(思い出)そのものは変わっていなくても、見方や感じ方は変わるということである。
上野の思い出は、当時の私にとっては苦々しい記憶だったが、今はどちらかというと好感を持って向き合える。もしかしたら、黒い冬の思い出が青い春の思い出に見えるように、記憶そのものが実は脳内で微妙にデフォルメされているのかもしれない。この脳内処理のことを、おそらく老いと呼ぶ。
センチメンタルな話になってしまった(なってない)。

時短について 1月某日 晴れ

時短が好きだ。
できる限り圧縮して、なんでも短時間で終わらせたい。
その観点から見て、私が大発明だと思うものがいくつかある。
その1つがカップ麺である。ラーメンを食いたいと思った時に、ラーメン屋に行き、注文し、食べ、帰ってくるのは、ほとんど小旅行である。
しかし、カップ麺は3分でできる。10分もあれば食べ終わるし、後片付けも終わる。私は2分で食べ始めて3分経ったころには片付け終わっている。
たまに、出来上がるまで5分かかるカップ麺があるが、うまさも大事ではあるが、カップ麺の真の価値は早さである。
1日3食、3分でできるカップ麺を食べている人は、5分のカップ麺を食うことによって1食2分、1日6分、1年なら半日、10年なら5日失う。
3分のカップ麺も完成形ではない。1分で出来るようになれば、1食2分、1日6分、1年で半日、10年で5日の時間が生まれる。
石の上にも3年というけど、3年を1年にする努力は大事、と誰か偉い人が言っていた。松下幸之助かもしれないが、違うかもしれない。2分浮けば、そんなことも十分に調べられる。
コンビニも素晴らしい発明だ。スーパーとか文具店とか薬局とか銀行などを行脚して回る時間をまとめて短縮できる。グーグル検索は図書館に行ったり辞書を引いたりする時間が短縮できるし、電子レンジは煮たり焼いたりする時間が短縮できる。
今後はリニア新幹線ができて通信は5Gになる。もはや期待しかない。
3分が1分になると2分の時間が生まれるように、時短とはつまり、新たな時間を生み出す創造的な活動である。
昔と比べて人間の寿命は伸びたが、様々な時短の発明によって自由に使える時間も増えている。そう考えると、実質的な寿命は平均寿命の伸び(年数)の中に収まらないくらい伸びている。
長生きを目指す方法としては運動したり食事を工夫する手もあるが、積極的に時短術を導入することもできる。仮に時短によって自由に使える時間を倍にできれば、まったりと生きる100年は、時短で生きる50年と時間的には同じなのだと、運動と食事制限をしたくない私は思っている。

感謝について 1月某日 晴れ

ありがたいことである。
今年も新しい年を迎えることができた。年末と正月であっちへこっちへと親族や友人の顔を見にいってみると、万全とは言わないまでも、みんな元気である。ありがたいことだ。
仕事に関しても、昨年から持ち越した仕事がすでに何本もある。とりあえず引き受けたものも含めて見込みだけで計算してみたら、すでに昨年の収入の8割くらいある。無論、見込みに過ぎないわけだから実際にはこれから物書きしなければならない。ただ、正月の時点で年末の収支がある程度見込めている状態は精神的に楽だ。
それはそうと、今だから言えることなのだが、ここ数年の年末年始はトラブル続きだった。火元は私ではない。私はトラブルを起こさないし、そもそもトラブルを起こすほど他人とも世間とも接点がない。
トラブルというものは、こっちが目配りしていないところからやってきて、勝手に火を放つ。気づいた時にはそれなりに炎上している。私には実害はない炎だから放っておいてもいいのだけど、気づいちゃった以上、私はなんとなく火消し役をしてしまう。私は案外、他人思いのところがあるのだ(←!)。
一方で、私は家庭第一主義(←!!)でもあるので、自分が火消し役で関わっているトラブルのことを家には持ち込まない。火消しの苦労を表情に出すこともない。ここが私の素晴らしいところである。(←!!!)
そういうトバッチリを喰らうのがもはや定番になっているかのような気さえしていたのだが、今年は何もなかった。
平穏無事にお正月がやってきた。これもありがたいことだ。
そんなことを思いつつ、正月が明けて何日か経ったときに、ふとカミさんが「今年は平穏ですね」と言った。
要は、家庭には持ち込まず、1人で抱えて処理していたはずの苦悩を、カミさんはわかっていたということである。
私が勝手に苦労を背負い込む一方で、カミさんはその苦労を察し、うまく立ち回ってくれていた。ならば、それも十分にありがたいことだ。
何の話だっけか。そうそう、本年もよろしくお願いします、という挨拶である。

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