ライター伊達直太/取材後記2023

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取材後記 2023

確定申告について 2月某日 晴れ

確定申告の時期である。
確定申告が不思議なのは、毎年やっているにも関わらず、毎年何からやるんだったか忘れることだろう。領収書を並べて、ソフトと国税庁のサイトを立ち上げるまではやってみるが、次に何をするんだったか迷う。
とりあえず領収書をコツコツと入力していくと、少しずつ記憶がよみがえってくる。そういえば、ここに入力するんだったなとか、ふるさと納税は寄附金控除だったとか思い出しつつ、どうにか2日くらいかけて申告が終わる。
去年は3月15日ギリギリの申告になった。ようやく出来上がったころ、国税庁のサーバーが落ちたのかなんなのか、申告書を送信できない時間がしばらく続き、焦った。
今年は同じ轍を踏まないように早めにやる。そう心に決めていたのだが、ずるずると時間が過ぎている。小学校の頃は夏休みの宿題をさっさと終わらせるタイプだったのだが、日々の仕事と家事でやることが多いという理由(言い訳ともいう)を掲げてギリギリで生きるカトゥーンみたいになった。
去年からの変化として、コロナ禍が少し落ち着きつつあるせいか旅費や接待交際費の経費が増えた。去年は取材で地方に行く機会が何度かあり、泊まりがけで大阪や福岡にも行った。これはコロナ禍になってからは初だ。ただ、その分、収入も増えたかというと増えていないのが不思議だ。ざっくりとしか計算していないが、去年(今年の申告)は収入が減っているはずである。収入が減るのは東日本大震災の時以来だから12年ぶりのことだ。
フリーで活動している知り合いなどからは、税理士さんに頼めばいいのにと言われる。確かにその方がラクだ。ただ、自分で申告する意味もあると思っている。
例えば、源泉徴収票や月々の売上を見ながら、誰からどんな仕事をもらったのかを振り返る。引き続き長く付き合っているお客さんもいるし、新たに仕事がスタートして、いい付き合いになっているお客さんもいる。一方には、単発の仕事で終わったお客さんもいる。そんな振り返りをしながら、感謝したり反省したりする機会は確定申告くらいしかない。その点で、フリーにとっての確定申告は個人にとっての大晦日のようなものだ。大晦日と違ってお酒抜きで振り返らないといけない点がネックではあるのだが。
ちなみに、確定申告について本稿を書いてはいるが、まだ終わっていない。むしろ、

自然について 2月某日 晴れ

虫を食べるというおぞましい話の続き。
この件については、正直な感想として、驚くというよりゾワッとしている。私は虫が苦手だし、虫がいそうな自然豊かな環境も苦手だから、余計にそう感じるのかもしれない。
ところで、最近は都会暮らしに疲れて田舎に移住する人が増えているという。都会は常に忙しいし人が多すぎるから、それに耐えられない人は一定数いるのだろう。環境に馴染めないのは不幸だし、それがストレスになると精神的に病むことにもなりかねないから、そういう人は田舎に住むのがいいのかもしれない。
ただ、虫を食べる話の文脈で言うと、私は田舎で暮らしたいという気持ちも実はよく分からない。都市部は人が多いけれど、その分、お互いとの関係性が希薄だから気にならないし、気にしなくていい。日頃から付き合いがある人を除けば、街ですれ違う人が誰であろうと何をしてようと気にならないし、感覚的には街の風景の一部のようですらある。
田舎はそうはいかないだろう。自治体やら町内会やらの付き合いが心労になりそうだ。コミュニティが小さいほど知り合い度合いが増し、干渉し合う関係性ができるため、誰かにどこかで見られているような緊張感がある。
田舎暮らしに魅力を感じないそもそも理由は、海や山がそれほど好きではないからかもしれない。海で泳ぐならプールの方がいい。山で遊ぶならキャンプくらいで十分だ。私にとっての海や山は遊びに行く場所であって生活拠点にあるものではないということだ。
自然が好きだという人もいる。それが理由で田舎暮らしをする人もいる。
それはその人の好みだろうけれど、自然が好きなら子育てするか、近所の子供と接したらいいのに、とは思う。子供は自然そのものだ。人の個性は年齢や経験によって薄められるが、子供はそれがないから個性そのものでもある。わざわざ引っ越さなくても自然との接点ができる。
田舎や自然を下に見ているわけではない。自然は大事だ。田舎も大事である。
ただ、都市部で暮らしている人の特徴なのか、田舎や自然の価値は都会のおいて過大評価されているようにも思う。あるいは、田舎の人が都会に憧れ、都市部の人が田舎を目指すという関係を考えると、ないものねだりなのかもしれない。だとすれば、大事なのは老子がいうところの「足るを知る」こととも言える。

虫について 2月某日 晴れ

私は虫が苦手だ。
嫌いというわけではない。昔から苦手なのだ。
幼い頃はカブトムシやらセミやらトンボやらを採ったこともあった。しかし、その頃もあまり触りたいとは思わなかった。周りがノコギリクワガタだのミヤマクワガタだの盛り上がっている様子もちょっと引いてみていたし、雑木林などに虫取りに行くと目当ての虫以外もいるし得体の知れない生き物もいるため、そういう場に行くことも苦手だった。
大人になると虫が苦手でも日常生活には支障がない。都会に住んでいると虫を見る機会もほとんどないし、蚊はいるが蚊取り線香をつけておけばいい。どういうわけか私は蚊に刺されないので、子供らがいなければおそらく蚊取り線香もつけなかっただろう。
そういう平穏かつ平和的な日常を過ごしてきた中で、これは問題だなと思う話が出てきた。コオロギを食べようと推奨する人や団体が現れたらしい。
これもSDGsの一環なのだろうか。たしかSDGsには「飢餓をゼロに」という目標がある。しかし、飢餓は重要な社会課題だとしても虫を食べなくてもいいだろう。そもそもコオロギは食べられるのだろうか。養殖してまで食糧にするらしいが、そこまでしなければならないほど世界は飢えているのか。
少なくとも日本は飢えていない。コンビニにもスーパーにも美味しい食べ物や食材がたくさんある。むしろ弁当や惣菜などは賞味期限切れで捨てられ、フードロスをどうにかしようという話が盛り上がっていた時期もあったほどだ。今もそういう議論はあるだろうと思う。
もちろんコオロギをそのままの姿で食べるわけではない。それは地獄絵図だ。しかし、だとしても原料としてコオロギを使っていると知って食べたいと思う人は少ないだろうし、いわゆるゲテモノ好きな奇特な人だと思う。
ラーメンを注文してコオロギが浮かんでいたら誰だって返品するだろう。ハエ1匹だったクレームになる。極度に虫が苦手な人なら失神するかもしれないし、まさか美味しそうなトッピングと思う人はいない。
感覚的なものだと言われればそれまでだ。しかし、食に関しては食べたいと思うかどうかが大事だ。私は食べたいとは思わないし、食べられる自信がない。

領土の拡大について 1月某日

いつまで続けるんだろうか。
ロシアがウクライナを侵攻したのは去年のこの時期だった。当初は、どうせすぐに終わるだろう、西側社会が許しておかないだろう、などと楽観的な見方もあった。しかし、気づけば1年が経つ。気にしてないわけではないが、気にしなくても日々の生活には支障がない私などは、すでに侵攻の大義すら忘れてしまった。プーチンも忘れているのではないか。それくらいこの侵攻は無意味であると思うし、無意味だからとっととやめたらいいのにと思う。
大義がなんであれ、侵攻の狙いは領土の拡大だと私は思っている。ロシアは狡猾な国だ。念のため断っておくとロシア人がどうこうではなく、ロシア政府の話。
第二次世界大戦の末期、ロシア(ソ連)は日ソ中立条約を覆して日本に宣戦布告した。日本に原爆が落とされたのを知った後のことで、終戦の数日前だ。
このタイミングで急に敵側につくのは普通の神経ではない。そもそも戦争が普通の神経ではないのだが、急に寝返り、そして領土不拡大の原則をも無視して北方領土を持っていくとは狡猾だなあと感心する。もちろん悪い意味で。
そうまでしてでも領土を南に広げたかったのだろう。ロシアはでかいが、その半分くらいは極寒で使いようがない。そう考えると、沖縄は返ってきたが、残念ながら北方領土が返ってくる可能性は非常に小さいように思う。ウクライナ信仰でしくじってロシアが解体するようなことがあれば話は別だけれども。
それはそうと、戦争が終わって80年近く経つわけだが、ロシアはいまだに領土拡大を狙っているらしい。その点ではウイグルなどの自治区や台湾への侵攻をやめない中国も同じだ(中国人がどうこうではなく、北京政府の話)。
今どきはネット社会であり、なんならメタバースの世界でもあるから仮想空間ではいくらでも領土が作れる。しかし、ロシアと中国は物理的な領土がほしいらしい。
冷戦が終わってベルリンの壁が壊れた。ソ連がなくなって東側社会と左寄りの政治は思想的に崩壊した。でも、実際には崩壊していない。時代が変わっていることを認識し、彼らの頭にこびりついている80年前の価値観が壊れない限り、戦争は続くし今後も起きる。つくづく無意味だなあと思う。

道徳について 1月某日 晴れ

自業自得だなという気もするし、ネットは怖いなあとも思う。
開店寿司チェーンで悪事を働く人たちの動画がSNSで拡散されている。カラオケ店で暴れたり、バイト先でイタズラしたりする人の動画もあっという間に拡散される。
私は性格的にも思考的には決して品行方正ではないので、中高生の時代にスマホがあったとしたら調子に乗って似たようなことをやって人生が終わっていたかもしれない。そう思うと恐怖はなおさらである。時代に追いつかれなくてよかった。
そういう素養が自分の中にあったとしても、なんだかんだ品行方正に生きているのは、それが人として、大人として当たり前だということはもちろんだが、ルールは守るものという意識が頭のどこかにあるからだろう。
私は、ルールと約束と子供は守ると決めている。いつからそう考えるようになったのか。子供については子供が生まれてからだが、ルールと約束に関してはもう少し前から守っているように思う。おかげでルールという点では交通違反などはないし、約束に関しても集合時間に遅れたことはない。原稿の締切についてはたまに遅れるが、自分なりの言い訳として、勝手に遅れるのではなく相手の許可を得てから遅れているので、その点では約束を守らなかったことにはならないと思っている。
言い換えると、守っているのはこの3つくらいで、あとはどうでもいいと思っている。例えば、世の中にはプライドやメンツを守ろうとする人がいるが、私はそれらはどうでもいい。プライドを持てるような人生ではなかったことや、肩書きが裏打ちするメンツなどがないというのも理由だろう。
それはそうと、日本はこれから人口が減っていく。日本には資源もない。その中で国力を維持し、成長させていくためには、子供を増やす(減らさないようにする)か教育レベルを高めるか道徳心を磨くしかないと思っている。実際、それで日本は世界2位の経済大国にまでなった。
今の日本が衰退途上国に成り下がっているのは、この3つが欠けているからではないか。例えば、SNSで子供たちが炎上する原因は教育と道徳が足りないからだと読むことができる。要するに、幼いときの教育と家庭教育に日本再興の引き金があるような気がするのである。

自分について 1月某日 晴れ

エゴサーチという言葉がある。
生まれて初めて、ふとエゴサーチしたい気持ちが盛り上がった。ChatGPTの存在を知ったからである。
ネットという無限の宇宙から私に関する情報を集めると果たしてどうなるのか。そんなことを考えて、ChatGPTさんに自分のプロフィールを書いてほしいとお願いした結果が以下(コピペ)である。

「伊達直太(だてなおた)は、日本の小説家・ライターであり、1982年生まれの現役医師でもあります。大学在学中から小説を執筆し、2009年にはデビュー作『掌の小説集』が刊行されました。その後、多数の小説やエッセイを手掛け、2013年には『人間失格』の現代版として話題となった小説『おとなになるということは』を刊行しました。
また、医師としての知識を生かし、健康や医療に関するエッセイやコラムも執筆しており、多くの読者から支持を受けています。近年では、メンタルヘルスに関する著作も手掛けており、『マインドフルネス入門』や『ストレスフリーに生きるための12の習慣』などがあります」

細かく見ると笑っちゃうくらい間違っているのだけれど、重要なのは、一部でも合っているということだ。世の中には70億人くらいいて、そのなかの無名な1人を少しでも特定できるのは、ちょっと恐ろしくもある。
賢い学者先生によれば、AIが人間の能力を超えるシンギュラリティは2045年であるらしい。その頃には、例えば、どこに住み、どんな仕事をして、どんなビールを好むのかなど、個人のあらゆる情報を誰でもどこからでも把握できるようになるのかもしれない。ちなみに私は一番搾りが好きである。こういう情報を進化し続けるAIが拾って、誰かが一番搾りを贈ってくれたりしないだろうか。
ところで、私が書いた(ことになっている)『おとなになるということは』は、ちょっと読んでみたい気がする。もちろん、そんな著書は存在しないが、AIの世界では「話題になる」ことが分かっている。ならば、書けばいいじゃないかとも思う。それはつまりAIの示唆によって人の行動が作られるということであり、AIによる人間の支配は実はすでに始まっているような気もする。

今年の課題について 1月某日 晴れ

新年明けましておめでとうございます。
2023年もよろしくお願いいたします。

おかげさまでバブルが継続中である。
気づいたら年が明けていた。毎年、年末は仕事が重なることが多いのだが、この年末年始は過去最高に重なるミルフィーユであった。
私はリアルタイムでは知らないが「24時間戦えますか」というフレーズが流行語になったバブル経済期のように、24時間体制で原稿を書いている。実際、先日は10年ぶりくらいに徹夜で仕事をした。まさかこの歳になって徹夜することになるとは想像もしていなかったよね。
もちろんバブるのは良いことだ。徹夜覚悟で新人のつもりで頑張ります。そんな気持ちで今年も仕事と向き合いたいし、そういう謙虚な気持ちでスタートする年始は悪くないと思っている。
そんなふうに思う一方で、そろそろ今の事業モデル(というほどものではないけれど)が限界なのかなとも思う。そもそも人(個人)が提供できる資源は限られていて、体、頭、心、時間、お金の5つくらいしかない。体は肉体労働、頭は知的労働、心は接客、時間はアルバイト、お金は投資や運用である。
商売とはつまり、これらを使って人の役に立つことであり、その対価としてお金が入ってくる。物書き商売の事業モデルは、頭、心、時間の3つをお金に変えることだ。時間に追われるということは、この3つのうちの時間というリソースが限界に達しているということである。
私はもともと時間主義なのであらゆる角度からタイムパフォーマンスを高めようとしてきたのだが、この半年はずっと時間(締め切り)に追われた。それも今の事業モデルが限界に近づいていることを示す要因の1つだと思う。
この状態から脱却する方法はいくつかある。例えば、投資はその1つで、投資は、体、頭、心、時間、お金の5要素のうち、頭とお金でお金を生むモデルであるから時間は減らない。そう思って投資を始め、そろそろ歴も10年になるわけだが、これがなかなか儲からない(むしろ損している)から難しい。
さて限界が近づいている感じがする中で物書き障害の事業モデルをどう変えたらいいのか。これを本年の課題にしたいと思う。
そんなわけで2023年もよろしくお願いします。

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ライター 伊達直太

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