ライター伊達直太/取材後記2020

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取材後記 2021

やらないことについて 5月某日 晴れ

やらないことを決める。
「何をやろうか」を決める前に、やることではなく、やらないことを決める。
真面目な人とか、そこそこデキる人は、いろいろとやろうとする。いろいろできる力もある。
だから「できた」という経験が自信になり、できるはず、やらないといけないという思考が習慣になって、やることが増えていく。ToDoリストの項目が半永久的に増殖する。
できることとやることがリンクするのは、基本的にはいいことだ。
ただ、できることがやりたいこととは限らない。できることよりも、やりたいことをするほうがきっと幸せである。さらにいうと、できることとやりたいこととやることが全て合致すると最高である。
ここにずれがあると、やりたいことのために使える時間が減る。
私は時間主義だからそう思うのかもしれないが、それを避けるに、やらないことを決める必要があると思う。
私は真面目ではなく、そこそこデキる人でもないので、「いろいろやろう」という気持ちがほとんどない。趣味らしい趣味はなく、人間付き合いも狭く、ミニマムでミニマルを目指していたら、時間と労力の使い方という点ではかなりダイエットが効いた暮らしになった。
たまに「休日は何をしているのか」と聞かれることがある。休日の概念がない仕事だから答えにくいということもあるけど、これは答えに困る。
仕事と家事と子供の相手以外、何もしていない。
恵まれていると思うのは、仕事と家事と子供の相手は、いずれも、できることであり、やりたいことであるということだ。それが、日々のやることだから日々の満足度は高い。
やりたくないことは、やらない。できないことは、やらない。
そう書くと、わがままに聞こえるかもしれない。
ただ、やらないことを決めると、おのずとやることが絞られる。その点から見れば、何をやるか決めることも、何をやらないか決めることも、アプローチが違うだけで、取捨選択している点では同じである。

■言葉のライフハック「東京五輪株」

東京五輪開催によって、変異株(東京五輪株)が世界に広がるのではないか、という懸念。心理学に「コンコルドの誤謬」というものがある。投資済みの資金などがもったいないと感じて、今さら撤退できなくなる、という話。数年後に東京五輪の誤謬に変わっていないことを祈る。

投資本の読み方について 5月某日 晴れ

投資関連の仕事をよくいただく。
株の仕事は以前から多く、最近は不動産投資や金融関連の仕事も増えた。
必然的に、投資関連の本をよく読む。その中で、自分の実体験と照らし合わせて少々疑問に思うことがあるので、ここに書いておく。
1つ目。投資本によく書いてある「投資は難しくない」という主張。
そんなわけない。投資が簡単にできるなら誰もがやっているし、誰もが儲けているはずだ。世の中がそうなっていないことが、投資は難しいことの証である。
やり方はいろいろあるので、例えば、積み立て感覚でインデックスのETFを買うくらいのことであれば、手間がかからないという点では難しくはないのかもしれない。ただ、簡単ではない。「インデックスファンドだから簡単」と安易に投資すると、大金を失うことも十分にあり得る。
2つ目も投資本でよく見るもので、「投資は余剰資金でやりましょう」という話。
余剰資金は、老後や子供の教育費などに必要なお金を確保し、さらに余っているお金のことである。わかりやすくいえば、なくなっても困らないお金。
これも強烈な違和感がある。老後2000万円問題が問題になるような一般世帯の家計において、なくなっても困らないお金などないと思うからである。
余剰資金ができるまで待っていたら、ほとんどの人は一生投資できないのではないか。つまり、投資したければ生きていくために必要なお金を賭ける必要がある。少なくとも覚悟の上では、投資の成果が生活に支障をきたすことまで考えておく必要がある。それも含めて、投資は難しい。
3つ目は「買って放置でオッケー」や「複利で雪だるま式に増える」といった話。
これも耳障りがいいのだけれど現実はそんなに甘くない。Buy & Holdで増えることもあるけれど、景気が悪ければお金は減る。複利の話は、ゼロ金利の銀行預金よりもマシ、という文脈で語られることが多いが、「それはいい」と思った人が、再投資なしの毎月分配型の投資信託を買っていたりする。
他にも投資初心者にとってミスリードとなりそうな要素はあるが、少なくともこの3点は、投資本を読む際に十分に気をつけた方がいい。
健康本は注意して読まないと死ぬ。そう言ったのはマーク・トゥエインだったか。
同じことが投資本にも言える。注意して読まないと破産まである。

時間と人生について 5月某日 晴れ

時間を無駄にしないように。
おそらく1日に3回くらいはそう言っている。ボウズに1回、ムスメに1回、そして自分に1回。自分には、たまに2回か3回。
私は時間主義者だから、時間を無駄にすることがとても嫌なのだ。
時間を無駄にするということは、人生を無駄にするということである。
「100年人生」とか「日本人は寿命が長い」とか、人生は短いとか長いとか、人生についていろんな話はあるが、何の話をしているかというと、時間である。つまり、時間とは人生であり、時間の浪費は人生の浪費。
私が納期を守るのは(たまに遅れますけど)、人の人生を浪費させてはいけないという思いがあるからであり、私が約束を守らない人や無駄な打ち合わせなどで時間を使わせる人を信用しないのは、自分の人生を浪費させられるのが嫌だからである。
さらに掘り下げると、時間を考えることは生きている意味を考えることである。なぜなら、時間は人生であり、人生は要するに生きることの価値を見出すことだからである。
何のために生きているのか。そんなことはわからない。
自分が生まれた意味を、生まれた時に授かっている人はいない。
自分の知らないところで親が恋愛し、その結果として自分が生まれて、気づいたら人生がスタートしていた。普通はそんな感覚だろう。
ただ、どういう背景であれ、生きているのであれば、そこに何かしらの意味とか意義を見つけ出さないといけない、というのが私の基本的な考えである。
虫とか動物のように、生きることを最大目標として日々エサを探すこともできるけれども、知能が高い人間はそれ以上のことができる。それ以上のこととは何だろうかと考えると、生きるための手段ではなく、いま、こうして生きていることの意味を見出すことだと思うわけである。
あらゆることはランダムで、そこに特別な意味はない。
そんなふうにシニカルに考えるのもいいけれど、何も意味がないのだとしても、そこに意味を見出すことができるのは人であり、それができるのも人しかいない。その能力を軽視してはいけないし、だから時間は無駄にできない。

■言葉のライフハック「フリー」

フリーランスやフリーランサーのこと。組織に所属せずに仕事を請け負う個人事業主のことで、私もその1人。わかりやすく言えば、武家時代の浪人。主や、誰かへの絶対的な忠誠心を持たずに働いている人で、自助努力と自己責任の意識さえあればフリー(自由)に究極的に近い最高の働き方、だと思う。

五輪について 5月某日 晴れ

すんのかい、せんのかい。
どこかで見て「面白いなあ」と思った芸人さんのネタ。
かなり似たことが、東京オリンピックで起きている。
やるのか、それとも、やらないのか。
偉い人たちはやる気だし、世論はやらない派だし、利権で食っている人はやらないといけないのだろうし、人権派で食っている人は中止させないといけないのだろうし。多分やるんだろうけど、一進一退の様相は一種のエンターテイメントである。「すんのかい、せんのかい」ほどは面白くないけども。
念のために私の立ち位置を明らかにしておくと、正直なところ、どっちでもいい。やるならやればいいし、かといって私に何か恩恵があるわけではなく、中止なら中止でいいし、かといって私に損害もない。そもそも私はノンポリなので話題が何であれ政治色が見えたら、もうどうでもいい。
そんな感覚で、つまり吉本新喜劇を見るような感覚で動向を観察している。
むしろ私は運動を頑張ってきたわけでもないし、コロナ患者さんを診るわけでもないので、だいぶ遠くで「どうなるんだろうねえ」と見ているスタンスが正解だと思っている。
言い換えると、世の中の人たちは、開催派にせよ中止派にせよ、当事者でないことに色々いう元気(またはストレス)が有り余っているということである。あるいは、世の中の人たちは実は私と同様に「どっちでもいい」と思っていて、ごく一部の開催派の声と中止派の声が、マスコミという拡声器によって議論っぽくなっているだけなのかもしれない。
それなら、五輪の「すんのかい、せんのかい」は、声がでかい人同士の討論会だからいよいよ意味がない。
そもそも五輪の「すんのかい、せんのかい」の議論は、五輪開催を前提とした炎上マーケティングなのかもしれない。
だとすれば、なおさらどうでもいい。
議論に参加する価値がないし、議論に巻き込まれるアスリートや医療関係者が気の毒だなあという気持ちしかない。

■言葉のライフハック「FIRE」

FIRE(Financial Independence, Retire Early)。経済的に自立して早期退職すること。悩ましいのは、いくらあればリタイアできるかという点。貯金で対応しようと考えると多分FIREできない。現金が入ってくる仕組みを作るFIREしやすい。つまりストックではなくてフロー。その視点の違いが日本でFIREが少ない理由の1つ。

組織について 4月某日 晴れ

組織は文化であり信仰である。
組織に属さないフリーランスとして、数多の組織を外から観察してきて、そう思う。
文化は、企業文化という言葉があるように、企業特有の価値観でありルールである。例えば、大阪界隈では「面白い人が偉い」という価値観があり、誰かがボケたらツッコミを入れるというルールがある(らしい)。組織も同じで、一般常識とは異なるローカルレベルで文化という独自性がある。出世とはつまり、大阪文化に馴染んだ人が界隈の人気者になるようなものである。
信仰としての側面は、要するに愛社精神である。例えば、日本の会社には社章があるが、欧米にはない(か、あっても少ない)。その根底には、おそらく集団(組織)と個人のどちらを重んじるかという差がある。アメリカの軍人はたくさん勲章をつけているが、それも組織へのロイヤリティというより功績を通じて個人の価値を示すものであるように思える。
社歌も、おそらく日本企業にしかない。そういえば、日本の学校は校歌があるが、アメリカの学校にはない。私が通っていた頃は、毎朝、国歌がかかった。友達は毎週日曜日に教会で讃美歌を歌っていた。こういう違いが、信仰という意味で何を信じるかに影響する。だからきっと、日本人が学校や会社に帰属意識を持ち、アメリカ人は国と宗教に帰属意識を持つ。
個人より集団を重んじ、文化への理解と信仰に基づく帰属意識の見返りとして年功序列と終身雇用が機能してきた日本において、昨今は転職や起業や副業やフリーランスが増えた。それは言い換えれば、欧米化とか働き方の多様化によって「日本は起業家が少ないよね」と言われてきたことから脱却しつつあることを表すわけだが、さらにもう一階層低いところで、企業の文化の魅力と、信仰による求心力が低下したように思える。老舗の大手を中心にオーナー社長が減って雇われ社長(サラリーマン社長)が増えているせいもあってか、良くも悪くも個性的な組織が減った。だから大手よりもユニコーン系の特徴あるベンチャーを志望する人や、ユーチューバーになりたい子供が増えるのかもしれない。あるいはSDGs。国や宗教より普遍的な地球や自然や未来といったところを志向する人が増えるのを見ると、いよいよ組織は文化でも信仰でもなくなっていくのだなと思う。

組織について 4月某日 晴れ

最大の弱点はうぬぼれである。
自分に惚れる、または己に惚れると書いて、うぬぼれ(自惚れ、己惚れ)。
恋は盲目とかあばたもえくぼなんて表現があるが、それを自己愛に当てはめるものがうぬぼれである。自己評価の角度や深さを間違うと、人は簡単にうぬぼれる。
最近、仕事の依頼を受ける回数が増えた。昨年の秋くらいから目に見えて増えていて、現状、大きな依頼は今年の秋まで待っていただいているくらいのコロナバブルである。
問題は、私が基本的にうぬぼれる性分であることだ。そもそも起業したりフリーランスになったりする人はそれなりに自分に自信があるわけだが、そういう背景を考慮した上でも、私は自分で惚れっぽいと思うし、そこが弱点であることもわかっている。
だから、仕事の依頼が増えるのは家計的には助かるが、成長の面ではよくない。
自分のおかげ、自分はすごいなどと考え始めた時が終わりの始まりである。
そんなふうに考えないように、現状のコロナバブルは罠だと思うようにしている。誰かが私をうぬぼれさせようとしている。誰なんだ。誰であろうが、私は負けない。公の場でこういう話をすると「……忙しさでイカれたか」と思われるので、そっとここに書いておくことにする。
それはさておき、昨今の社会は優しい社会だ。子供のわがままは許し、若者は褒めて育て、老人と女性は十分にいたわる。悪いことではないと思うが、この風潮はうぬぼれを助長し、人をダメにする気がする。横柄な若者が多いのも高慢なジジイが多いのも、過保護なくらいに優しい社会が生み出しているのではないか。ドヤ顔といった表現が生まれるのも、社会全体がうぬぼれ社会になっているからだと思う。
みんなが卑屈な世の中は気分悪いが、みんなが自信満々の世の中も気持ち悪い。

■言葉のライフハック「デジタルネイティブ」

生まれた時、あるいは物心ついた時からインターネット環境が整っていた人たち。最近「仕事がやりやすくなったなあ」と感じるのは、機器と環境がデジタル的に充実してきたこともあるが、一緒に仕事をする人たちのデジタルネイティブの比率が増えたことも大きな一因。論理的で効率的。若い世代に学ぶことは多い。

節約について(2) 4月某日 晴れ

続き。
節約は宗教である。
よほどの事情がある場合は別だけど、節約なんかしなくていい。
「手元に1万円しかない」「大変だ」
「1日1000円に減らそう」「500円にしよう」
それが節約教の考え方。江戸時代の概念。
今は令和だ。基本的な考え方が違う。
どこかで働いたりして、追加の1万円を稼ぐ。それができるのが今の時代。
近所でアルバイトさせてもらえば、2、3日で1万円くらいになる。機会はいっぱいある。(しつこいようだけど特別な事情がある場合は除くよ)
その可能性を見られないのだとすれば、あるいは、あえて見ないようにしているのだとすれば、その節約は怠け者の言い訳であるということだ。
世に出回っている節約本は、そのほとんどが「楽にお金をセーブしましょう」という内容である。その点からも節約は怠け者の手段であることがわかってもらえると思う。
もちろん、無駄遣いはよくない。無駄遣いは、例えば、100円で買えるものを200円で買うようなものだ。または、不要なものを買うのも無駄遣いである。
それはアホな子がすることで、アホな子は、今風には情弱という。
そうじゃなくて、必要なものを我慢したり、欲しいものを我慢したり、その結果としてお金が残ることを「頑張った成果」とか「努力の結果」と考えるのであれば、それは宗教的であり、間違いだと言いたいのである。
だって人生の満足感が下がるでしょう。
だから私は無駄遣いはしないけど節約もしない。
例えば、洋服は最安値でいい(ほとんどリモートになったから服を買う必要性すらない)。でも、肉はいつもヒレだしマグロはいつも本マグロである。
1着数十万の服を着て、日々、硬い肉を食う人生とどっちがいいか。
私はヒレ肉を選ぶ。本マグロを推奨する。
ただ、エンゲル係数が跳ね上がるため、楽しいけども、ずっと貧乏なのだが。

節約について(1) 4月某日 晴れ

節約は宗教である。
尚、ここでいう宗教は「集狂」のことで、悪い意味での洗脳を指しているので、真面目に宗教に取り組んでいる人は気分を悪くしないでいただきたい。
さて、本題。
私はお金関係とか投資関係とか資産運用に関連した仕事をいただくことが多い。
その際の打ち合わせで、ほぼ毎回、間違いなく登場するのが「節約」というキーワードである。
声を大にして言いたい。
節約は無用である。人をダメにする。
なんでか。例えば、手元に1万円あるとする。その1万円を1日で使うより、2日持たせるのが良い、というのが節約の考え方である。
これがおかしいのは「1万円しかない」という前提に囚われていることだ。
だって、1万円しかないなら、追加の1万円を稼ぐ方法を考えればいいわけだから。
そっちを見ない。見なくなる。稼ごうとしない。稼ぐ気を失わせる。
だから節約は無用である。だから節約は人をダメにする。
特別な事情がある場合は除いて、節約で生き長らえようとしている人は、追加の1万円稼ぐことを拒否するという意味で、その労力から逃げているダメ人間といっても良いとすら思う。
節約が正義、みたいな考え方はどこからきているのだろうか。
江戸時代にはすでに「倹約が美徳」という考えがあったらしい。
それは、わかる。だって当時は士農工商の時代だから、追加の1万円を稼ぎたいと思い、その手段を思いついたとしても、「この商売は武士限定です」みたいな強烈な参入障壁があったはずだからである。今でいう利権だ。
でも、身分制度がない今は、多少の利権はあるけれども、なんでもできる。
追加の1万円をあらゆる手段で調達できる。
そう考えると、そっちを見ずに手元の1万円を長持ちさせる節約の考え方は宗教的だ。つまり、意味不明である。
もうちょい言いたいことがあるので、次回に続く。

弱点について 3月某日 晴れ

気づけばもう3月も終わりである。
つい先日「新年になったなあ」と思っていたら、1年の4分の1が終わった。
時間が経つのが早い。その予兆は去年の今ごろから始まっていた。
昨春は子供ら(小学校と幼稚園)が急に休みになったので、2ヶ月くらいに渡り、日々、子供らとトランプしたりドンジャラしたり散歩したりして過ごしていた。一方で、仕事はどうだったかというと、割と減ることなく、むしろこの頃から増えた。「コロナ禍で仕事が減るだろう」という予想は良い意味で裏切られ、あっという間に目一杯になり、目一杯に対応していたら1年が経っていた。
そこであらためて思うのは、物書き商売(フリーの物書き商売)は需給の急激な変動に弱いということである。
そもそも物書き商売はオーダーメイドである。
製造業のような作り置きができ図、小売業のような在庫もできない(ここが作家とライターの違いでもあるのです)
需要が増えたらどうなるか。嬉しいことではあるが、フリーランスはマンパワー的に限界があるため、あるラインを越えると物理的に対応できなくなる。対応できない依頼はやむをえず断ることになり、機会損失になる。
では、需要が減るとどうなるか。対応できる仕事は増え、1つの仕事にかける時間は増えるのだけどキャッシュフローが悪化する暇を利用して在庫を作るわけだが、アテもなく原稿を在庫してもキャッシュにはならない。
この波を平準化するには、長期と短期の仕事を組み合わせるのが最も良い(と、思う)。つまり、単発の仕事でキャッシュをいただき、リードタイムが長い仕事でマンパワー不足を補う。
この仕組みを作ろうと思ったのが実は震災の年で、当時は仕事が減ったので、色々考えることができた。
そう考えると、現状は次の打ち手を考える時間すらないわけで、これは非常にまずい。変化に対応できなくなる。ダーウィンの進化論に照らせば、適応できずに進化が止まる。
さて、次の一手をどうするか。
さっきから考えているのだが、何にも浮かばない。

確定申告について 3月某日 晴れ

ようやく終わった。
毎年恒例の確定申告の話である。
この仕事を初めて20年になる。つまり、今回を含めて過去に20回、確定申告をしているわけだが、期日までに終わらなかったのは初めてのことだ。
厳密には、幸いにも(幸いといえるかどうか微妙だが)確定申告の期限が4月15日まで延長になっているのでペナルティ対象ではないのだが、20年の習慣として確定申告は3月15日までと思っている。その期日を超えてしまった。
少し前から予感はあった。
昨年からずっとやることが多い日が続いていて「申告書を作る時間がねえ」と思っていたからだ。
やることというのは、とてもありがたいことに仕事も増えているのだけれど、家の中でやることも増えた。
自分の性分として、家のこと、とくに子供のことはなるべく関わりたいので、誰かに任せるのをためらってしまう。勉強を見たり習い事の送り迎えをしたり、ご飯を一緒に食べたり遊んだり、そんなことをやっているうちに寝る時間になり、寝かしつけ終わったら、もう細かな請求書を精査する体力も気力もない。
今日は目一杯なので、明日か明後日くらいにやればいいか。
そんなふうに思っていたら今日になってしまった。
周りのフリーランスや自営業の人たちに聞くと、税理士さんに頼めばいいという人が多く、実際に頼んでいる人も多い。
正しいアドバイスである。餅は餅屋だ。
ただ、これもやっぱり自分の性分なのだけど、仕事のこともなるべく全部把握していたいので、誰かに任せるのをためらってしまう。
さて、どうするか。この状況を解決する最適解は、パーマンのコピーロボットである。コピーロボットが2体ほどあれば、私は自分が関わりたいことに、思う存分関わることができる。
AI時代の今なら、コピーロボットの開発は決して夢物語ではないだろう。
藤子不二雄先生の時代にはAIという言葉もなかったわけだが、きっと確定申告に追われてコピーロボットを発想したのだろう。多分、違う。

10年経ったことについて 3月11日 晴れ

10年ひと昔という。
最近、とある仕事で、人は1、2、3、5を意識する、という話を聞いた。
10(1のグループ)はキリがいいから、区切りとしてまとめやすい。
英語でも10年を意味するdecadeとか100年を意味するcenturyという単語があって、1のグループは万国共通の区切りなのだろうと思う。
うちのボウズは震災の年に生まれたので、現時点で9歳、間もなく10歳である。ということは、ボウズの同級生は、というか彼らの親は、ほぼ全員が震災禍が続く中で子供を産み、育ててきたということである。
10年ひと昔、の文脈で振り返ると、今さらだけど大変だったよね。
大変だったからこそ、あの状況で子育てを頑張った親の皆さんは尊敬するし、あの状況からすくすく育ってきた子供らは、そのまま安全にすくすく育ってほしいと願う。
震災後の対応などについて、思うところがないわけではない。
この10年で何か変わったかというと、何も変わっていない気もする。
色々と変わらなければならないと思う一方で、変わらないほうが良いものとしては、あの日の恐怖と混乱を伝え続けていく姿勢なのだろう。
10年を区切りにして、今年は多くの人が当時のことを振り返る。
ただ、来年は節目としては中途半端な年だから、振り返る人が減り、深さは浅くなる。次に多くの人が震災を振り返るのは、人が1、2、3、5を意識するという説を踏まえるなら、15年目とか20年目になるのだろう。
私はそれではいけないと思っているので、11年目もあの日のことを考え、生き延びたことに感謝し、2時46分に黙祷するだろうし、8年目の今日も9年目の今日も、今年の今日と同じような1日を過ごした。
考えてみると、めったに過去を振り返らない(つまり反省しない)私がそういう振り返りをするのは、1年のうちで大晦日と今日だけかもしれない。
話が散らかっていて何が言いたいかわからないかもしれないが、私自身、何が言いたいかわかっていない。言いたいことは特にないのかもしれない。
気持ちや思考が散らかる。
それが3月11日なのであって、それは毎年繰り返すということなのだ。

■言葉のライフハック「ジェンダー論」

男女平等は当たり前。でも、平等かどうかの判断は難しくて、例えば、ある分野では男性優位、こっちの分野は女性優位みたいなことがあって、総合的に見て平等だよね、というのが現実的な平等であって、一部の人たちが主張するような全ての細かなことで完全平等は現実的ではないと思うし、無理だろう。

■言葉のライフハック「緊急事態宣言」

現状、都市部は緊急事態宣言下にあるわけだが、街中の危機感や警戒心は薄い。理由は明らかで、緊急と名付けている割に長い。緊急の緊には「さし迫る」という意味があって、それが緊迫感を生み、緊張感を生む。でも、長引くとだらける。気が緩む。そしてまた感染者が増えて緊急事態宣言が延びる悪循環。

チャンスについて 3月某日 晴れ

私は時間を大事にする。
子供らにも、しょっちゅう「時間がもったいないよ」「だらだらしないように」「今やれることをやりなさい」と小言を言っている。
子供らからすれば「うるせえなあ」「だらだらしたっていいじゃねえか」と思うかもしれない。
気持ちはわかる。だらだらしたいのだろう。そういう人はたくさんいる。
でも、だめなのだ。なぜなら、時間は取り返せないからである。
お金は、失ったとしてもまた稼げばいい。人間関係も信用も、失うことがあるかもしれないが、頑張りようによっては回復できる。
だから私は、子供らがお金を無駄遣いしても別に何も言わない。人間関係や信用を失うようなことをしたら(今のところはないけども)、「頑張って回復しなさいね」とはいうのだろうけど、それ以上はうるさく言わないと思う。
しかし、時間は二度と戻らないから無駄にしたらだめだ。
そのことを知ってほしいから「テレビじゃなくて時計を見なさい」などと、つい言ってしまうのだ。
ところで、私が昔から時間と同じくらい大事にしてきたのがチャンスである。
チャンスも時間と同様に、失ったら取り返せない。
一過性であるという点で、時間とチャンスは同種であり、だからこそこの2つには神経を尖らせなければならないのである。
物心ついてからというもの(もうちょっと後かな)、私は時間とチャンスの2つを最優先にして物事を判断してきた。
今、私がそれなりに幸せに暮らせているのは、時間とチャンスを追っかけた結果である。
今、私がそれなりにしか幸せではないのは、無駄に過ごした時間がそれなりにあり、見逃したチャンスがそれなりにあるからである。
「それなり」の人生に着地してほしくないから、時間を無駄にしないように。チャンスを無駄にしないように。
ことあるごとに子供らにそう言うのだけど、それって実は、「それなり」の一歩先に行きたがっている自分に向けて言っているような気もする。

食事について 2月某日 晴れ

日々、買い物をする。
パンと牛乳を買うだけのはずだったのに、レジに着く頃には買い物かごが満タンになっている。
「お父さん、また今日も買いすぎちゃったね」
いつも買い物に付き合ってくれるチビが言う。
「そうだねえ。このクセはなかなか治らないねえ」と、私は返す。
つい買いすぎてしまうクセは、すでにチビにもバレているらしい。
ボウズと一緒に買い物をした時も、高確率で同じことを言われる。
私は、洋服とか雑貨とか、そういうものには一切興味がない(ので、必要最低限のものしか買わない)のだけれど、スーパーの買い物は好きだ。
今日は、マキシマムなる調味料を見つけ、買ってきた。
これをスペアリブ用の豚肉に振りかけて焼く。ここだけの話、超絶、美味い。
「お父さん、これ、美味い」
育ち盛りのボウズが肉にかじりつきながら言う。
「美味いねえ。これはクセになるねえ」と、私は返す。
「美味しいねえ。買ってよかったねえ」
チビもそう言い、一口大に切った肉を頬張る。
「そうだねえ。また作ろうねえ」と、私は返す。
スーパーでの買い物が好きというよりは、そういう時間が好きなのかもしれない。最近はボウズが習い事で忙しくなって、みんなで揃って夕飯をいただく機会が少ない。チビは料理を手伝ってくれるようになり、一緒に作るのも楽しい。
そういう変化が色々とあるから、「美味いねえ」を子供らと共有できる時間にしたいし、それゆえ、買い物も手当たり次第になる。
食事の価値って何だろう。
今まではエネルギー補給のために食う、くらいにしか考えていなかった。
でも、本質的な価値は美味しさどうこうではなくて、「美味い」を共有できる人がいることや、美味しい料理を一緒に作ることなのかもしれないねえ、と思う。
そう思いつつあるせいで、お金は減るし体重は増えるわけだけども。

■言葉のライフハック「DX」

アナログ情報のデータ化とかデジタルツールの導入から、データを活用する業務改善とか新たな事業創出といったところまで幅広く含む言葉。データ活用に至らないと真の意味でのDXにはならず、そこにどうやってたどり着くかが鍵。手段(ツールの導入)が目的化しやすいという点では「手段の目的化」という意味でサブスクに似た誤解と落とし穴が生じやすい。

■言葉のライフハック「男女差」

女性蔑視発言で五輪の会の会長が問題になり、辞職した。国際社会において「これはまずい」ということで女性の偉い人が後任になった。男とか女とか、そういう議論をしている時点ですでに周回遅れなんだけどねえ。属性に関係なく、実力で勝負できるフェアな時代はまだ遠いことを象徴するできごと。

■言葉のライフハック「100年人生」

人生100年と考えると、定年退職してから死ぬまで40年くらいある。40年は、生まれたてのかわいい赤ちゃんが疲れた中年のおじさんになるくらい長い。働くか(能力が必要)、遊ぶか(お金が必要)、後進の育成や地域社会に貢献するか(人望が必要)、何をやるにしても何かが必要で、その何かがないと老害になる人生。

モテ期について 2月某日 晴れ

人生で3回くらいモテ期(モテモテの時期)が来るらしい。
モテ期を「異性にちやほやされる時期」と捉えると、残念ながら、私にはかつてそのような時期はなかった。
ただ、最近になって見方が変わった。
なぜなら、過去にモテ期がなかったということは、私はこれから(おじさんであるにも関わらず)若くて可愛くてセクシーな女性にモテまくる時期が3度も来る、と解釈できると気づいたからである。
元来、私は楽しみを後にとっておくタイプだ。好きなものも最後に食べる。
この性格が奏功したのだろう。モテ期とはつまり生きる希望なのである。
果たしてその時期はいつ来るのだろうか。
その時に備えて多少は腹が引っ込むように腹筋でもしようか。
そんなふうに思って数年が経つ。
そして、期待したモテ期はいっこうにやってこない。
そこで、ある不安が思い浮かぶ。
ふと考えると、フリーの物書き商売を始めて今年で20年になる。長く続いているということは、それなりに評価してもらっているということだ。ありがたいことだ。非常に嬉しい。
子供らと公園や買い物に行くと、子供らの友達や、幼稚園や小学校で顔見知りの保護者の方々が声をかけてくれる。これもとても嬉しい。
ただ、そこに不安があるのだ。なぜなら、こういうことも3回のモテ期にカウントされているかもしれない気がするからである。
さらに、もう1つ不安に思うことがある。
最近、朝、窓を開けるとスズメが寄ってくる。ぶらぶら散歩していると、猫が寄ってきて、散歩中の犬まで寄ってくる。
仮にそれもモテ期に含めるとしたら、私のモテ期はもう残っていない。残りの人生、ずっとモテない。そんな考えが浮かび、私は今、絶望に伏している。
つきましては「モテ期は3回」と設定している神様にお願いしたいことがあります。
モテ期とカウントする対象は、仕事がらみ、子供がらみ、動物がらみは除いていただき、若くて可愛くてセクシーな女性に限定し、話が面白く、お尻は小さ(文字数)

■言葉のライフハック「DX」

アナログ情報のデータ化とかデジタルツールの導入から、データを活用する業務改善とか新たな事業創出といったところまで幅広く含む言葉。データ活用に至らないと真の意味でのDXにはならず、そこにどうやってたどり着くかが鍵。手段(ツールの導入)が目的化しやすいという点では「手段の目的化」という意味でサブスクに似た誤解と落とし穴が生じやすい。

継続することについて 2月某日 晴れ

間もなくチビ6歳が卒園する。
その幼稚園は、上の子(ボウズ9歳)も通っていた幼稚園なので、ボウズが通っていた3年間と、ボウスの卒園と入れ違いで入園したチビの3年間を合わせて、私は送り迎え(厳密にいうと、ほとんど送りのみだけど)を通じて、通算6年、その幼稚園に通ったことになる。
振り返ってみれば、同じところに6年毎日通い続けたのは小学生以来である。
ただ、小学校の時は、5年生の時にはすでに「長え」と感じていた。
中、高は3年だし、大学は4年だ。
一般的には会社勤めが長期になるのだろうけれど、私はその経験もない。
その時々で彼女の家には通ったことがあるけれど、毎日通うわけではないし、そもそも6年も続いた人はいなかった。
そう考えると、着々と蓄積してきた6年という期間は貴重であり、個人的に偉業である。縁か運かわからないけども、いい幼稚園に出会えてよかったなあと、あらためて思う。
卒園したら幼稚園に行く機会も理由もなくなるので、この場でお礼をしておきたい。
何の苦もなく心配ごともなく、むしろ日々の送り迎えを楽しみながら6年間を過ごせたのは、幼稚園の先生がたと、仲良くしてくれた保護者の皆さんのおかげです。本当にありがとうございました。
ところで「継続は力なり」という言葉がある。
この格言の「力」って何だろうと、ずっと疑問だった。
辞書的には、日々コツコツと努力することで、いずれ成果が出る、ということになっている。私はそこに懐疑的だった。成果に結びつかない努力もあるのが現実だからである。
でも、ようやくわかったような気がしている。ここでいう「力」は自信なんだろうと思う。つまり、何かを長く続けることで、自分に対する肯定感が生まれる。自己評価が上がる。それが力になって、次の挑戦ができる。
そのことに気づかせてくれたのも幼稚園であり、子供である。
あらためて、ありがとうございます。

■言葉のライフハック「サブスク」

商品やサービスが使い放題になる定額サービスで、実は古くからあるけど(雑誌の定期購読とか)、コスパと利便性の面で評価が急上昇している事業モデル。モノからコト、所有から利用といった価値観の変化が追い風。コト売りに適した手段で、コト買いを求める若者が支持する事業モデルなので、モノ売りのために安易にサブスクを作ると痛い目にあうのよね。

■煽り
他人を刺激したり利用することによって個人的な優越感、満足感、実利を得る行為の1つ。根底にあるのは歪んだ自己実現の欲求。株クラ界隈では昔からある下品な行為で、煽る方がクズであることは当然だが、煽られて乗るほうも、もうちょっと冷静に受け流したらいいのに、と思う次第です。品格に欠ける人は相手にしない。そんな意識が大事。

競争について 2月某日 晴れ

勉強は競争ではない。
子供といろんな話をする中で、よく伝えていることの1つがこれである。
テストの順位とか受験とかは競争そのものではないか。
そう言う人もいる。たしかに、受験戦争という言葉もあるくらいだ。
でも、勉強の本質はテストでもないし受験でもない。
勉強は、結局は自分のためにやることだ。勉強を頑張って100点を目指すのは、誰かに勝つためではない。頑張った成果が自分に返ってくるからなのだ。本質を外れた勉強は役に立たない。逆に言うと、受験で学んだことが役に立たないのは、本質から外れている勉強であるからなのだ。
仕事はどうだろうか。
会社員の世界には、派閥争いや出世争いなどがある。しかし、それもやっぱり仕事の本質ではない。仕事は、偉くなるためにするものではなく、誰かの役に立つためにするものだからである(おお、いいこと言うね)。そう考えると、仕事も競走ではない。
本質とは何なのか、という人は、何のために勉強や仕事をしているのか考えれば良いと思う。競争に勝つため、という答えにはおそらく至らない。スポーツ選手のように勝負の世界に身を置く人だって、勝つためとは答えず、感動を与える、勇気を与える、スポーツを盛り立てるなどと答えるだろう。
勉強と仕事が競走でないなら、人生も競走ではない。つまり、誰かと比べる必要などなく、自分が満足していればいいじゃないか、ということだ。
ところで、巷のニュースは、どこが優勢で、誰が勝ち組で、誰が勝ち馬なのか、みたいなことを熱心に取り上げる。
無論、それは本質から大きく外れている。それでもメディアが競走に焦点を当てるのは、世の中が全員参加の競走であるという前提で話を作るほうが、盛り上がりやすいし、わかりやすく描けるからだろう。エンターテイメント視点で考えた報じ方のギミックといっても良いと思う。
世の中は競争だ、みたいな論調は注意した方がいい。
それはつまり、自由に牧場を跳ね回れるはずの馬を、競走馬に仕立て上げる扇動的な論であるかもしれないのだ。

言葉のライフハック「おにーちゃん」

女性が少し年上の男性(いい人で、割と慕っている。おごってくれるし)を「おにーちゃん」と呼ぶ場合、女性は兄妹を意識させることで男女関係はありえないという強いメッセージを発しているということを、あわよくば一発を狙ってる全国の「おにーちゃん」たちに教えてあげたい。

やりがいについて 1月某日 晴れ

「やりがい」という言葉がある。
似た言葉に「自己実現」という言葉もある。
かねてから、こういう言葉は危ないと思っている。
やりがいを求め、自己実現を目指すのは良いことだと思うのだが、社会はお花畑ではない。古今東西、人の純粋さを利用する人はいるものだ。ブラック企業による「やりがい搾取」がわかりやすい例だろう。ピンポン突で布教に勤しむ集狂の人たちも、やりがいを求め、自己実現を目指して、搾取されている人たちだと個人的には思っている。
物書き商売をしていると、たまにやりがいや目標を聞かれることがある。
これは、答えに困る。
そういうことは、あまり深く考えない方が良いと思っているからである。
「あまり深く考えない」は「全く考えない」ということではない。考えすぎると搾取されるが、全く考えない人もやっぱり搾取されてしまうからだ。
だから、ぼんやり考えるくらいがちょうどいい。
この塩梅が、人によっては難しいのかもしれない。
例えば、私の場合は出版社や代理店や企業の広報担当の方々から依頼をいただく。依頼を受けるのは嬉しい。それに応えるのも嬉しい。そこでやりがいっぽいものは見つかる。それくらいがちょうどいいのではないか。
自己実現についても、なんとなく食えている現状を確認したりして、自由に生きるという漠然とした目標(自己実現ぽいもの)を実現できているのかもしれないなあ、くらいに思っておくのがちょうどいいと思っている。
やりがいの大小で言えば、子供らに勉強を教えたり、飯を作ったりしている時の方が大きい。子供らが何かを学んだり、美味しく食事している姿が目の前で見られるからね。
あらゆることが満たされている世の中だから、物質面では満足できず、無形の理想を追い求めるようになる。それが正解なのだと錯覚する。
理想に溺れてはいけないし、現実に腐ってもいけない。
そのためには塩梅とかバランス感覚が重要なのだと思うけど、突き詰めていくと「足るを知る」ことが大事、という話なのかもしれない。

言葉のライフハック「老害」

組織における少子高齢化の悪影響の1つは、労働力不足を補うためなどに定年を延長した高齢者層が現場に居残るようになり、若い人の意見が通りにくくなること。高齢者目線に立って雇用を守ることは、企業の老化促進と同義であり、組織の成長促進と対立する大義名分なので、リーダー層は若いほうがいい。

会社勤めについて 1月某日 晴れ

会社員、最強か。
コロナ禍で、ずっとそう感じている。
(業種や業態によって差が大きいことは知っているので、あくまでも一般論としての会社員、です)
例えば、今までは毎朝、満員電車で会社に通っていた。終電の時間が迫るまで、社内とか社外のお付き合いにお付き合いしなければならなかった。
でも、今は違う。リモートが正義で通勤は悪だ。上司や取引先との宴会もないし、時間の無駄だと思う付き合いを断る合理的かつ社会的な理由もできた。
報酬制度は能力主義に傾きつつあって、それが会社員の長期的な不安要素にはなっているのだけれど、そうはいっても終身雇用の年功序列はちゃっかりあって、しかも労組が強いからベースアップもあって、その率は、当面のインフレ率よりも大きい。
それに加えて、サラリーマン向けの減税政策もつく。給料は変わらず、全員一律の給付金ももらえる。ちなみに、コロナ禍だけど株価が30年ぶりくらいの高値で、ビットコインも高値更新中で、投資用不動産の価格も超絶高い。そりゃ、そうだろう。だって、給料が減らず、かつ国から給付金が出るのだから、余ったお金はリスクマネー(投資資金)になるさ。
とか、いろんなことを考えて、あらためて組織に属することの価値が浮き彫りになったのが今だと思う。
きついのは経営者だろう。経営側から見ると、社員の雇用はサブスクに近い。つまり、給料という定額費用で一定のリターンが見込めるし、労働力の効率と能力は基本的にアップデートされる。その恩恵を受けるのが資本主義の原点だとすれば、それが根幹から揺らぐ。
サブスク視点で言うと、技術(リモート環境とか)が向上するほど利用料は安くなるのが当たり前である。
しかし、雇用に関してはそうはならない。むしろ高くなるのが現状である。
私は雇用者と従業員が両方わかる弱小個人事業者だから、現状は圧倒的に被雇用者である会社員が強いんだろうなあ、とか思いながら世の中を見ている。
会社員、羨ましいなあ。
そう感じつつ、会社員向きではない自分の性格を悔やんだりしている。

経済と健康の狭間について 1月某日 晴れ

二度目の緊急事態宣言である。
ただ、今回は学校も幼稚園も休みにならないようなので、前回とはそこが違う。
昨年の春は子供らが家にいたので、ずっと遊んでいた。
おかげで仕事面でのダメージはでかかったが、遊んでいる時間は楽しい。
得体の知れないウイルスが存在している環境に子供らを放り込むなら、仕事が減ることのほうが1億倍マシだと思った。
今回は逆で、仕事は通常通りに取り組めるが、子供らのことで気をもむ。
子供を持つということは、世界に人質を出すようなものだ。そう言ったのはヘミングウェイだったか。
経済的な負担か、それとも心理的な負担か。
どちらかを選択せざるを得ないコロナは、今さらながら強敵だと思う。
コロナ対応を巡る世の中の議論も、そこが噛み合わないのだろう。つまり、経済を止めて感染を防ぐか、それとも感染を仕方ないと捉えて経済を守るか。
どちらも思想であるから、これは噛み合わない。
国と国の宗教戦争が永遠に終わらないのと同じで、決着はつかないし、勝ち負けも決まらない。そもそも思想には勝敗がない。
そう考えると、コロナは潜在的な思想の境界線を可視化したのかもしれない。
例えば、意思決定層は経済、市民層は健康を重視する(人が多いように見える)。若い層ほど経済、高齢になるほど健康を重視する(多分)。
そういう差は、従来はぼんやりとしていた。
労使が揉めたり、高齢者と若者がぶつかることはしょっちゅうあり、実はその背景にも経済か健康かの議論があったりするわけだが、しばらくすると「どっちのも言い分も正しいよね」「共存共栄を考えようね」みたいなところでソフトランディングさせてきた。
そこにあった曖昧な境界線がコロナによって明確になった。思想という基準で敵と味方が明らかになった。
この分断は大きな変化で、重大なコロナ影響の1つである気がする。
多様性がまだまだ浸透していない社会で、相互理解とか協力する意識などを奪うことにより、コロナは人を本質的に弱体化させている気さえするのだ。

一年のはじまりについて 1月某日 晴れ

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

年賀状を読み、ラインとかメールとかツイッターの「あけおめ」メッセージを読んで、「ああ、みんな元気でよかった」と感じたことのは初めてのことだ。
私のような物書き商売は直接的なコロナ禍の救済や支援はできない。
なので、せめて医療とか宅配便とかコンビニとかスーパーとかで働く人の負担にならないように、おとなしくしておこうと思う。
そんな非アクティブな年始の抱負を立てるのも初めてのことだ。
通常であれば、今年はこれをする、あれをやる、どこに行く、みたいな行動的な抱負を立てる。要するに、新しい年にはなったけれども、依然として通常ではない状態が続いている、ということだ。
そう考えると「おめでとうございます」って挨拶も、今年はなんだか白々しい。
幸い、近い人でコロナになった人はいない。ただ、感染リスクが高いところで頑張っている人は何人かいる。
彼ら、彼女たちが健康を害すことがないよう、ただ祈るばかりである。
自分と子供たち以外の安全、健康、幸福を願った年始は、震災の年に続いて、今年が2度目である。
さて、今年はどんな年になるのだろうか。
予定では五輪開催がある。もしコロナの深刻化が遅れていたら、昨年は予定通りに東京五輪が行われて、日本は感染者で溢れ、国全体がクラスタになっていただろう。そう考えると、五輪延期はファインプレーだった。
英断ついでに、あと1年くらい、おとなしくしていてもいいんじゃねえかと思うし、完全無観客でやるなら、外国人は来ないし(来ても見られないし)、家でテレビを見るステイホームの推進になるかもしれないから、やってもいいような気がしなくもない。感染から観戦、みたいな流れでね。
何にせよ、私にどうにかできることではないので、うがいと手洗いで今年もどうにか生き延びようと思う。長く生きているといろんなことが起きるよね。悪いこともあれば、いいこともあるわけだけど。

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ライター 伊達直太

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