ライター伊達直太/取材後記2020

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取材後記 2020

延長戦について 12月31日 晴れ

今年の仕事は終わった。
あとは仕事場の掃除をして、家の片付けをして、車でも洗って、ちょっと寒いけども子供らと公園で遊んで、などと余裕で構えていたら、いくつか追加で依頼をいただくことになった。
まだ12月も2020年も終わっていないらしい。
みんな働き者だ。ありがたいことである。延長戦も大歓迎だ。
今年は仕事が多かった。フリーランスになってからの20年を振り返ってみると、過去、もっとも売り上げが多かったのが震災の年で、その次に多かったのが震災の翌年だった。
多分、今年は多分、その次くらいだと思う。
震災の時は世の中が不景気で、今年はコロナ禍で、やはり不景気だった。
そういうときに、なぜかうちは仕事が増える。
理由はおそらく、景気が良いときに踊らないからだろう。
踊らないから好景気の恩恵はない。ただ、踊るリスクもとらないから不景気にも巻き込まれない。むしろ、不景気の時は踊りが続かずに潰れていく物書き商売の人が多いので、そういう人に行くはずだった仕事が、ひっそり生き残っている私のところに回ってくる。
簡単に言えば、世の中に対して無関心な社会不適合者だから(←)、不景気の時ほど調子がいいということである。
リーマンショックとか震災とかコロナ禍のような突発的な不景気は、最近の傾向を見る限りだと10年に1度くらいのペースで起きる。もうちょっと短いサイクルかもしれないけども、いずれにしても、不景気がこない世の中はないわけで、だとすれば、私には定期的にバブルがくる。
市場とか経済とかいろいろと見てきたけど、景気動向などというものはそれくらいの距離感を持って見ておくのがちょうど良いような気がする。景気の良し悪しに関係なく、生き延びることが最優先だとするならば、不景気は予測できないから、不景気に耐えられる業態にしておくことは割と重要なのかもしれない。その点では、自分の天邪鬼な性格にあらためて感謝する。
さて、年明けは6日から仕事である。
みなさん、良いお年をお迎えくださいませ。

お世話になった皆様、今年もどうもありがとうございました。
2021年もよろしくお願いします。

1年が終わることについて 12月某日 晴れ

今年も1年を総括する時期がやってきた。
毎年、この時期は記憶がなくなるくらいにばたつく。
そういう年末を何回も繰り返してきて、ようやく少し学んだ。
だから今年は早め早めで仕事をして、大掃除も少しずつ手をつけ始め、年賀状もすべて書き終えた。そして、いまは少し落ち着いている。(思っていたより早く片付きすぎたかもしれない。だって今日、まだ12月13日だもの)
さて、総括なのだが、今年はコロナにはじまりコロナに終わったようなものだ。
春先、緊急事態宣言の時はどうなるかと思った。
幼稚園や学校が休みになった子供らと毎日ドンジャラしたりトランプしたりして過ごす臨時休暇は、おそらく今後ないだろう。
子供が生まれて以来、夏休みに旅行しなかったのは今年が初めてのことだ。
毎年ディズニーランドに行くのも恒例だったが、今年はそれもなかった。
今年は正月旅行もない。家で年越ししてお正月を過ごす。これも初である。
そう考えると、思い出深い1年だったが思い出そのものは少ない。
実際、何をして過ごしていたか思い出そうとしているのだが、子供らと遊んだことを除くと、あとは仕事と家事くらいしか思い浮かばない。
よいことはあったか。もちろん、たくさんあった。
まず、子供らが病気も怪我もしなかった。これが何よりである。
投資は、コロナショックで致命傷を負ったが、その一方では、仕事でリモートが普及し、自由に使える時間が増えた。お金は激減したわけだが、時間は、2倍とは言わないが1.2倍くらいにはなった。時間主義の私には最大の利益だ。
30年ぶりくらいに昔の知り合いともつながれた。ありがとう、ネット社会。
本音を言えば、やりたいことはもっとあった。しかし、欲張っても仕方がない。
自由に使える時間が増えたということは寿命が延びたのと同じである。
焦らなくても、やりたいことはそのうちできる。会いたい人には会える。できないこともできるようになる。
まさか師走になって、こんな落ち着いた心持ちになるとは思ってもみなかった。

お世話になった皆様、今年もどうもありがとうございました。
2021年もよろしくお願いします。

健康体について 12月某日 晴れ

健康には自信がある。
フリーの物書き商売をはじめて20年になるが、風邪を引いたことも怪我をしたこともない。
機嫌が悪いことはしょっちゅうだが、具合が悪い時はない。たまに記憶や理性や自分を見失ったりすることはあるが、それは頭の問題であって、体は丈夫だ。
これは親に感謝である。丈夫な体に生んでくれてありがとうございます。
おかげで毎日おいしい酒が飲める。
子供らを寝かせて、洗濯物をして、皿を洗って、夕食の余りをつまみに一番搾りを味わう。ここから4時間くらいが至福の時間だ(あらためて考えると4時間は長げえなw)。
この4時間に何を飲むかというと、去年まではビールの後に白ワインを1本飲んでいたが、今はバーボンソーダを飲んでいる。
理由は、体重が増えたからである。
去年の年末から今年の初めにかけて、一時期、70キロ台に乗っていた。
生まれて初めての70キロに、生まれて初めて自分の目を疑った。
霊的なものは一切信じないが、この時ばかりは、背後霊とか守護霊とかが一緒に体重計に乗っているのだろう、と思った。
そんな折、「バーボンはカロリーが少ない」という噂を聞いて、さっそくワインをやめてバーボンにしたというわけである。
それから間も無くして、体重は67キロまで戻った。
本来は65キロであるはずなので、あと2キロだ。
どうやら、もうちょっとバーボンソーダを飲んだほうがいいらしい。
さて、健康には何の不安もないのだが、年に1回だけ区の無料の健康診断に行く。当然、今年の結果は、肝臓も肺も血液検査も、だいたいAだった。
昔はオールAだったと思うが、だいたいAならオールAである。
尚、総合判定はCだった。
もちろん自分の目を疑った。ただ、あれは多分、背後霊とか守護霊とかの体調が悪いか、またはバーボンソーダを飲みすぎて見間違えたのだと思う。
健康には自信があるのだ。

散歩について 12月某日 晴れ

散歩を始めた。
もはやジジイのようだが、本当である。
夕方、時間を作って、近所をウロウロと歩く。
もはや不審者だが、物書き商売はだいたい不審者だ(←)。
世の中ではコロナ太りして散歩やジョギングを始める人が増えているという。
私はコロナ以前から運動不足で、ひきこもり生活なのでコロナ太りではないのだが、コロナ禍になったことで、ただでさえ少なかった外出機会がほぼゼロになった。
取材はリモート、打ち合わせもリモートである。
出かける先といえば幼稚園の送り迎えと近所のスーパーだけだし、幼稚園は自転車(しかも電動)、スーパーへは車でいくことが多いので、外出しても運動量はほとんどない。
試しに、スマホの歩数計機能みたいなやつを使ってみたら、日々の歩数は1000歩くらいだった。たまに200歩くらいの時もある。
もはやナマケモノと同レベルだ。実際、怠け者なのだから仕方がない。
その後、なんとなく歩数が気になり初めて、「じゃあ散歩でもするか」となった。
思いついたことは、とりあえずやってみる。それが私のよいところである。
ところで、散歩とは変な言葉だ。歩き散らす。なんだそれ。
語源を調べてみたら、昔の中国貴族の間でドラッグのようなものが流行り、その毒が体に溜まらないように歩いて散らしたのだそうだ。
つまり、歩き散らすのではなくて、毒を散らすために歩く。現代人の生活で言うなら、運動不足や過食やストレスによる毒を散らすというところか。
それはそれで重要だと思う。
ただ、実際に散歩をしてみて思うのは、まったく面白くない、ということだ。
散歩をしてアイデアを練るとか、外に出たらよい案を思いついた、みたいな効果を期待していたが、実際には何も浮かばない。発見もなく、美女との出会いもなく、たまに猫とすれ違いながら、ただただ1人テクテクと毒を散らす。
実に面白くないので、きっと今年でやめると思う。
思いついたことをやってみるのが私のよいところなのだが、続かないのが私の欠点だ。

甘えについて 12月某日 晴れ

自己責任の社会である。
自己責任論に懐疑的な人もいるのだろうけども、私はフリーランス商売なので、当然、自己責任論を支持する派である。
自分に返ってくるすべての結果は、良くも悪くも自分の責任であるし、その責任を負うのも自分だ。努力する人は努力しない人より報われる。甘えてばかりの人はひたすらだめになる。
実際、周りを見てみても、誰かや何かに甘えている人にろくな人はいない(と思う)。国が、会社が、社会が、時代が、などと文句を重ねながら責任転嫁している人たちを見れば、それがよくわかる。だめな人の典型だ。
でも、ふと思うのだけれど、人がだめ人間になっていく過程を考えてみると、甘える人にはもちろん問題があるわけだが、甘やかす方にも問題があるのかもしれない。誰かの甘やかしでだめになる人だって、甘えさせてくれる誰かがいなければ自力でなんとかするだろう。そう考えると、甘やかす人、甘えられる環境、甘い制度なども、責任が全くないというわけではない。
私は、自分に甘いが、人にも甘い。つい甘くなる。過保護になる。
そのせいで、弟がだめになり、かみさんがだめになった。
だめ、と断じるのは語弊があるが、少なくとも自分で自分の責任を負えない人間になった。
それは突き詰めて言えば本人の問題だし、大人なのだから私がどうこういうことではないのだが、だめ人間になっていく環境があるとすれば、甘やかし気質の私がそのような環境を構築する一因(もしかしたら主因かも)になった可能性は十分にあって、それはそれで罪深い気がする。
言い換えれば、私は甘やかすことと優しさを勘違いしていたということだ。
そのことにようやく気づき、甘やかすのをやめた。
唯一、いまも甘やかしているのは子供らである。
なぜなら、子供は自己責任の世界の住人ではないし、甘える権利を持っているからである。うちの子供らに限らず、どこの家の子供もいつかは大人になる。大人になったら甘えられない。
だとすれば、甘えは期間限定だ。自己責任の観点から見て、だめな大人はたくさんいるが、だめな子供は1人もいないということである。

中間管理職について 11月某日 晴れ

問屋無用論、というのがある。
東大の先生が60年代に唱えた論で、物流においてインパクトが大きいのは生産力であるメーカーと販売力である小売店であるから、この2つの直接取引が増えれば、中継どころである卸問屋はいらなくなりますよね、という話だ。
言わんとすることはわからなくはない。どの業界にも言えることだが、いわゆる中抜きができれば消費者目線のメリットは大きい。
ただ、現状はどうかというと、問屋はある。
表通りにも裏通りにも物流のトラックがたくさん走っている。
この現実が示しているのは、流通過程における問屋は実は強者であり、ボトルネックどころか、物流の喉元にナイフを突きつけるような支配者だったということなのだろう。そういえば、そうは問屋が卸さない、という言い回しがある。
ところで、これと似た構造なのが会社である。
会社の構造を、意思決定層の経営、営業や販売の実行部隊である現場、両者をつなぐ中間管理職に分けて見ると、経営と現場が直接やり取りする形にすることで、中間管理職は無用になる。
問屋は無用にはならなかったが、中間管理職は無用になっていく気がする。
テクノロジー的には経営層が現場の動きを把握するのは簡単だ。現場の動きがリアルタイムで確認できるし、意思決定に必要な情報やデータも集められる。
情報の収集、整理、伝達が中間管理職の役目だとすれば、そこはデジタルに置き換えられる。デジタルの方が速いし正確だし安い。
仮にそういう組織構造に変わっていくとしたら、会社員としては現場で生き残れるだけの成果を出す能力を発揮するか、経営層まで駆け上る能力を身につける必要になる。
どちらにも振り切れない場合はどうなるか。誰が先に課長になるか、みたいな中間管理職の出世争いの中に取り残されて、その競争とともに無価値になる。
テクノロジーが次にディスラプトするのは、会社という古典的な組織の仕組みかもしれない。

バブルについて 11月某日 晴れ

バブルである。
日本のバブル経済は80年代後半から90年にかけてだった。
私は年代的にそのときの状況を知らない。
社会人として知っているのは失われた30年であって、その直前の「円安で日本の輸出業が儲かりました」「米国に次ぐ世界のナンバー2になりました」みたいなことは、教科書で読んだことしか知らない。
私はそのとき、たまたまアメリカにいたので、日本的なバブルの逸話(1万円札をヒラヒラさせてタクシーをつかまえる、とか)はよく知らないけれども、アメリカでもそれなりの規模の日本人コミュニティができていたし、当時は米ソ冷戦の影響もあったけれど、「ソ連のミサイルより日本のマネーの方が脅威だ」と煽るニュース番組を目にしたりすることがあって(その頃からメディアはテキトーだったw)、細かいことはわからないが、日本が確変に入っていたことはよくわかった。
それから何十年か経って、「なるほど、これがバブルか」と感じているのが、いまである。
例年、月に1、2日は休みの日があるけれど、今年は緊急事態宣言が明けてから今日まで休みがない。
「もう少ししたら、おとーさん、仕事終わる? 一緒に公園に行ける?」(byチビ6歳)
「オレ、久々におとーさんとキャッチボールしたい」(byボウズ9歳)
そんなことを言われて、危うく涙が出るところだった今夜の晩飯である。
もちろん、仕事をたくさんいただけるのは最高にありがたい。
バブルを否定しているわけではなく、むしろ大歓迎だ。依頼を受けたら、可能な限り、全て引き受けさせていただく。全力でやる。
でもね、嬉しいような寂しいような、そんな感覚がある。
バブルとはつまり、瞬間的であり刹那の現象であるから、今だけのことさ。
来年はきっと仕事が少なくなって、子供らと遊ぶ時間が増えるだろう。
そんなことを思い、そんなことを子供らに伝える。
いやいや、待てよ。それもそれで、嬉しいようで寂しい。
つまり、子育てと仕事の最適なバランスはない、ということか。

アジャイルについて 11月某日 晴れ

アジャイル、という言葉がある。
システム開発におけるウォーターフォールに対する言葉で、かいつまんで言えば、システムを作りながら、PDCAを回しつつ、納期ありきで最高を追求しましょう、みたいなことだ。
その話を、いつ、誰から聞いたか完全に忘れたのだけど、そのときに「これだ」と思った感覚は鮮明に覚えている。
何で「これだ」かというと、社会全体の価値観の変化が、ウォーターフォールからアジャイルへの移行にぴったり合う、と思ったからである。
ウォーターフォールは、最初に計画をガッチリと決めて、その計画を細かな手順に落とし込み、1つ1つ進めていくやり方である。
一方のアジャイルは、ざっくりと計画を作り、あとで修正することを前提として、できるところ、着手できるところから取り掛かる。
結婚を例にすると、結婚相手のこと、家柄、出自、将来の子育て家まで、あらかじめ検証して結婚に至る政略結婚的な結婚がウォーターフォール型である。
一方、まずは同棲してみて、不満があれば解決しながら結婚に向かうのがアジャイル型だ。
仕事も同じで、この会社で何をして、どんな風に仕事をするか、出世するか計画して想像した上で終身雇用前提で就職するのがウォーターフォール型とすれば、アジャイル型は転職するかもしれないという前提で仕事を探す。
どっちが良いか、という話ではない。
ただ、世の中の大きなトレンドとして、離婚、再婚、転職はもはや珍しくない。そう考えると、人生設計やキャリアプランもウォーターフォールではなくアジャイルで考えたほうが良いのだろうな、と思う。
そう考えると、究極のアジャイルは子育てかもしれない。
だって、子育ての計画なんて修正の繰り返しが大前提だからね。
ところが、一部の親は、子育てがウォーターフォールでいけると考えてしまう。計画通り、想定通り、期待通りになると思ってしまう。
それが親子の不仲を生む。場合によって虐待を生む。
システム構築でさえ修正前提なのに、子育てが計画通りにいくいくはずがないのにね。

本のDXについて 11月某日 晴れ

DX関連の仕事が増えた。
社会的に、そういう流れなのだろう。
私は決してDXやITに詳しいわけではないが、グーグル先生のおかげで仕事がいただけるし、出不精だから(デブ性ではない)買い物もネットで済ませたいし、PCとmacとネットワークさえあればどうにか稼げるような生活をしているので、ITには人一倍感謝している。
この感謝の気持ちは誰に伝えれば良いのだろうか。
ビルゲイツに会うことがあったらお礼を言おう。それともラリーペイジか。でも、出不精(デブではないと思う)の私が彼らに会うことはなさそうだし、スティーブジョブスは他界してしまったし、ネットワークもwifiも姿が見えないので、とりあえず目の前のmacにお礼でもいうか。ありがとうございます。
ところで、DXとかデジタル化の文脈でいうとGAFAという巨人4社があるわけだが、私はこのうちAmazonとだけ全く縁がない。
Amazonより前に別のネットショップを使うようになっていたので、使うタイミングがなかったし、出不精(デブかもしない)のくせにテレビ、動画、映画などもほとんど見ないからアマゾンプライムも使わないし。
強引に接点を考えるとすれば、Amazonが本のネット販売からスタートしたことと、私が本を作る仕事をしていることくらいだろうか。
なぜAmazonは本からスタートしたのだろう。
理由はおそらく、ありとあらゆる業界の中で、出版や書店といった本関連の業界がずば抜けてデジタル化に遅れていたからだろうと思う。
本の業界にはITで効率化できる領域がたくさんある。
そこを攻めたとしても、本の業界の人は効率化よりもアナログであることに価値を感じているから、きっと反撃してこない。
実際、その通りだった。DXが流行りの今も、DXの本はたくさんあるが、本業界のDX事例はほとんど耳にしない。
見方を変えると、そういう業界だから、少しITがわかる程度の私が食べていくことができている。ディスラプトのおかげで私の今がある。
そう考えるとAmazonのサービスを全然使っていないことが申し訳なく感じてきた。いつか会う機会があったらお礼を言おう。デブだけど。

尊敬と感謝について 10月某日 晴れ

「すごいねえ」
周りから、そんなふうに言われる人を目指していた時期があった。
ふと気がついたら、目指さなくなっていた。
いつからだろう。ハタチくらいか。もうちょっと後か。もしかしたらつい最近のことなのかもしれない。
「じゃあ、今は何て言われたら嬉しいのだろう」とあらためて考えてみたら、「ありがとう」だった。
「すごい」を集めるのをやめて、「ありがとう」を集めるようになっていた。
そもそも、私は「すごい」と言われるような人間ではない。
すごくない人間が「すごい」を求めるのは矛盾であり、不幸だ。
それがきっと過去の自分にはプレッシャーだった。だから、ほとんど無意識なのだけど「すごい」を求めない生き方に変わって、心理的に楽になった。
一方、「ありがとう」と言われる人間にはなれる。
私に限らず、誰もがなれる。困っている人に手を差し伸べればいい。
それは「すごい」と言われるよりもだいぶハードルが低い。それでいて、価値がある。
Twitterは、アカウントがあるのでたまに(いや、毎日)見るのだけど、色々見ていて思うのは「すごい」を求めるツイートが多いなあ、ということだ。分かりやすい例として、お金を配って「すごい」と言われたがっている人がいる。
Instagramはアカウントがないのでよくわからないが、その傾向がさらに強くて、「すごい」と言われるためにキラキラ画像をアップするメディアなのかな? と思ったりする。
それを否定するわけでない。「すごいねえ」のひとことがエネルギーになる人がいれば、「ありがとう」のひとことがエネルギーになる人もいる、という話である。
もしかした「すごい」も「ありがとう」も求めない、さらに上があるのかもしれない。それが何かは想像もつかないが。

月間収支について 10月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

どっちでもいいよ。
アメリカ大統領選の話である。
トランプさん2期目か、はたまたバイデンさんが勝って政権交代か。
世間はそういう話題で盛り上がっているのだけれど、どっちに転んでも、盛り上がっている人の実生活には多分ほとんど影響がない。
そう思うのは(私がもともとノンポリだからということもあるのだけれど)、オバマさんやクリントンさんがトップになった時も何かが変わったとは思わなかったからだ。
そもそもアメリカの政治は、基本的に右に寄っている中での右と左だから、相対的に左巻きでもよく見ると右だったりして、だからやっぱり「どっちでもいい」と思う。
少し視点を変えると、世間が「どっちでもいい」と思っているからこそ、世間は「どっちが勝つんだろうか」と盛り上がるのかもしれない。
つまり、見知らぬ人の喧嘩だから楽しめるということだ。自分や家族の命がかかっていたら「赤勝て、白勝て」とかやっている場合じゃないからね。
そういう野次馬根性以外の理由でアメリカ大統領選に注目するとしたら、お金がかかっている時である。
クリントン夫人とトランプさんの勝負の時は強烈なボラティリティ(値動き)が生まれた。あれからもう4年も経つのか。そりゃあ子供らも成長するし、俺も老いるわけだ。
あの日は楽しかった。ジェットコースターの値動きの中、アドレナリンの海に溺れるかと思ったくらいだ。
じゃあ、今回もそんな日がくるか。4年に1度のこのチャンスで、もしかしたらコロナ禍で食らった超絶の負けを取り返せるかもしれない。
そう思ってカレンダーを見たら、アメリカ大統領選の日は日本は祝日で、相場も休みであるらしい。
つまり、選挙動向のボラティリティで稼げるチャンスはないということである。さて、選挙はどっちが勝つんだろうね。(どっちでもいいよ)。

作文のコツに浮いて 10月某日 晴れ

たまには役に立つ話をしよう。
原稿を書いたり、提案書を作ったり、子供だったら作文したりする上で、書き出しに迷う時は多いだろうと思う。
そんな時は、文章全体の真ん中の部分から書きはじめると良いと思う。
真ん中とは、文章全体として伝えたいメインメッセージのことだ。
読書感想文なら、真ん中に書く要素はだいたい決まっているから、それほど迷わず書き進められる。どんなストーリーで、どうなったか書けば良い。
提案書も同様に、真ん中に書く要素は提案内容の具体的な話であるはずだから、ここもすんなり書き始められる。どんな長所があり、どんなメリットが期待できるか書けば良い。
ここを着々とこなしていくと、分量としては、文章の8割くらいが完成する。
出だしの数行が書けていなくても「8割できている」という事実が安心感になり、落ち着いて出だしの文章を考えられる。
つまり、文章を書く上で難しいのは出だしの部分であり、そこを乗り越えればいいということだ。出だしの一文が難しいからこそ、そこに時間をかけられるような段取りをすればいい、ということでもある。
出だしの一文が大事であるとは、川端先生のトンネルの一文からもわかるだろうし、音楽のイントロについても同じことが言える。名曲はたいていサビが素晴らしいが、それと同じくらい、イントロが耳に残る曲も多い。
出だしの一文が重要であることはほとんどの人が無意識に知っていて、そこでと悩んでいると、いつまで経っても先に進めない。1日、2日経っても1割もできない。それがプレッシャーになって、書くことがさらに難しくなる。
だから、書けるところから手をつける。
書いているうちに情報が整理でき、いい出だしの一文が浮かぶこともあるし、そもそも書く作業は勢いが大事だから、簡単に書ける8割を書いているうちに、出だしに使えるキャッチーな文言が浮かぶこともある。
そう考えると「たまには役に立つ話をしよう」という本項の出だしは、まあまあである。
あまり役に立たないと思う人もいるだろう。それはまた別の話である。

変化について 10月某日 晴れ

結局、半年くらいしか続かなかったか。
コロナ禍でリモートが増えた。
緊急事態宣言の前後で見ると、最後に対面の打ち合わせをしたのが4月だったから、半年近くの間、あらゆる打ち合わせや取材がリモートで完結していた。
これが非常に快適だった。
多少のやりづらさと慣れていない故の違和感はあったけれども、時間効率がいいし(私は時間第一主義なので)、体力的にも移動コスト的にも楽だ。
もはや名刺なんかいらないし、カバンや革靴もいらない。
インターネットという世界的な発明がコロナと化学反応を起こし、ニューノーマルという生活様式を生み、フリーの物書きの日常が超絶に快適になった。
ところが、やはり世の中は急激な変化を嫌う。
9月になって、久しぶりの対面の打ち合わせが入った。
電車に乗るのも都心に出るのも久しぶりだなあ、とか感じながらの打ち合わせだった。
そういう打ち合わせが、その時は週1ペースだったのだが、間もなく週2になった。10月に入って週3になり、来週は週4である。
こうなると、もはや「久しぶりだ」「新鮮だ」などとはいっていられない。
ニューノーマルの普及はたしかに早かったが、戻りも早すぎないか。
電車運んでいるし街も混んでいる。変わったことといえば、みんながマスクをつけるようになったことくらいか。
「そうじゃねえだろう」と憂い、とりあえず休憩しようと飛び込む喫茶店もことごとく混んでいる。
変化を受け入れることって、想像以上に難しいことなのだろうね。
コロナという大きなきっかけがあっても、パラダイムシフトは起きない。
これはかなり残念な衝撃で、悲観的に考えると、誰が抵抗勢力なのかはわからないが、働き方改革なんてもんは夢物語なんだろうなと思う。
ただ、そうは入っても、弱小フリーの物書き商売は、世の中のコロナ前に戻ろうとしているトレンドに合わせるまでである。
とりあえず名刺でも発注しようかな。

DXについて 9月某日 晴れ

DXである。
私の記憶が確かならば、DX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉は数年前からあった。
2年くらい前に関わった本もDXがテーマの1つだったし、株の世界でもDX関連は数年前から注目されていた。
そんなことを思い出しつつ、今、DX関連の仕事が急に増えている。
ざっと数えてみたら、今日現在で抱えている仕事のうち、約半分がDX関連だった。
私はとくにITに詳しいというわけではないのだけれど、そっち方面にはずっと関心を持っていた。感謝もしている。
感謝しているのは、たまたまだけど、私がフリーとしての安定的な収入を得られるようになった要因として、手書き原稿がデータになったり、原稿や資料のやりとりがオンラインになったことが大きいからだ。営業に関しても、私がどこかに「仕事ください」と営業することはない(できない)のだけど、HP(このサイト)が代わりをしてくれるし、Google先生が検索サイト経由でここまでお客さんを連れてきてくれる。
このような環境ができて、私のような個人の物書きが持つ弱小リソースがかなり効率化された。さらに最近はコロナ影響でリモートが増え、時間的、体力的に楽になった。
ITとかDX関連の書き仕事が増えて、それが売り上げ面で直接的に恩恵を生んでくれているのは事実なのだけど、個人的には、物書き商売をする根底というか環境を効率化してくれたことが大きい。
そう考えると、リソースが少ない中小企業や個人こそDXに取り組む必要性は大きい。
余談だけど、私は今バブルである。フリーの物書き商売を始めて今年で20年目になるが、この20年で今がもっとも仕事が多い。それも全て、IT化とかDXのおかげである。
そこで思うのは、この状況を切り抜けるために、私のコピーロボットが欲しいということだ。そこもDXでなんとかならないだろうか。

イライラについて 9月某日 晴れ

年をとると丸くなる。
体型の話ではない。性格とか言動とかの話である。
一般論として、若い時は尖っていて、年とともに丸くなるみたいな話がある。自分自身の恥ずかしい過去を振り返ってみても、「まあ、そうだな」と思い当たるところはある。(あくまでも体型の話ではない)
思い返すと、昔の自分はなんであんなにイライラしていたんだろう、と思う。
逆にいえば、なんで今の自分はイライラしなくなったんだろう、とも思う。
思い当たる理由としては、ニュース番組とか新聞を見なくなったことは大きな要因だと思う。
私は基本的には完璧主義だし神経質なので(基本的にね)、どこかで誰かが適当なことをしていると知ると、それでイラっとする。ニュースは突き詰めればそういう情報の発信源だから、そこの接点がなくなったことでイラッとするきっかけはなくなった。
もっと根本的には、自分がどう働きかけようと、他人をコントロールすることはできないと理解したことも、イライラしなくなった要因かもしれない。
人は人、俺は俺。ヨソはヨソ、ウチはウチ。
年とともにそういう思いが強くなったのは、他人のことに体力、時間、神経を使うことがアホらしいと思うようになったからかもしれないし、他人のことを気にする体力的、時間的、精神的な余裕がなくなったからかもしれない。
究極的には、もっとも身近な他人であるカミさんが何をしていようとどうも思わない。他人に期待しなくなった。多分、そういう変化なのだろう。
そう考えれば、自分の子供らが適当なことをしているのを見た時にイラッとする理由もわかる。カミさんは他人だが子供らは他人ではないからである。
年をとって丸くなるのには、きっと2つ方向性があって、1つは許容度が大きくなる精神の成熟的な方向で、もう1つはあらゆることに無関心になるニヒル的な方向だと思う。私の場合は、後者である。「どうでもいい」と思っているので、表面的には丸くなる。丸くなったように見える。
無関心は罪です、というようなことを言っていた人がいた人(スーチーさんだっけか)。ただ、イライラが減って精神的に健康になるのであれば、無関心からの丸さだっていいだろうと思う(体型の話ではない)。

肩書きについて 9月某日 晴れ

肩書きって何だろう。
前回(良い本って何だろう)に続いて「何だろう」の話。
肩書きといえば、世の中には業務独占とか名称独占とかの仕事があって、肩書きがなければ仕事ができない場合がある。
お医者さん、看護婦さん、弁護士さんとかがわかりやすいかもしれない。
これらは業務独占と呼ばれる分野で、資格(医師免許、看護師免許、弁護士免許など)がないと、医療、看護、弁護などの仕事ができないようになっている。無免許でやっちゃうとブラックジャックである。つまり捕まる。
名称独占はもう少し甘く、例えば、調理師ではない人が調理師的な仕事をしても良いのだけれど、「調理師です」と名乗ると処罰対象になる可能性がある、という話だ。
こういう仕組みは便利だ。例えば、体の具合が悪い時は病院に行く。診察してくれる医者が本物の医者かはわからないが、診察してもらう際にいちいち「医師免許を見せてくれ」と確認する人はいないだろう。なぜかというと、医師免許なしで医療行為をすると罰せられるということが、患者側はわかっていなかったとしても、医師(を名乗る側)はわかっているため、偽物の医者は医者を名乗らないからだ。
その点から見ると物書き商売の肩書きは幅広い。ピューリッツァー賞や芥川賞をとっている人も物書きだし、昨日からライターになった人も物書きだ。
そういう分野に関しては(つまり、どんな肩書きを名乗ろうと法的な処罰がない分に関しては)今後、肩書きを持つ意味と価値が薄れるだろうと思っている。
コミュニケーション上、「こんな分野の仕事をしています」とわかる肩書きはあっても良いのだろうけれど「自分が何屋か」を名乗って商売する時代はそのうち終わるのではないか。肩書だけでは仕事は取れない。きっとこれからは肩書きはあまり重要ではなくなり、何ができるかが重視される。
「あなたは誰ですか」という問いに対して「物書きです」とか「○○会社の部長です」といったことは答えになない。
「こういう課題を、こんなふうに解決するのが得意です」などと言える人が評価され、重宝されるのだろう。

良い本について 9月某日 晴れ

良い本って何だろう。
これは意外と難しい問題である。
未知の世界だからわからないけど、多分、良いセールスマンはたくさん売るセールスマンであり、良い研究者は素晴らしい論文を書いた研究者なのだと思う。
しかし、その基準に当てはめると、本の場合はしっくりこない。
売れる本が良い本か。タレント本はよく売れるが、必ずしも良書とはいえないだろう。ならば、専門性が高いほど良い本か。ある分野の第一人者が書いた本は「よくぞここまで掘り下げた」とは思うけど、だいたい3ページくらい読んで迷子になるので、これらも良書と呼ぶのは難しい。
この問題は、広さと深さのどちらが大事かという話でもある。公約数が多い最大の数を探すか、あるいは最大の素数を探すか、みたいな話かもしれない。
広く世間に売れる本(ただし、深みがないので2回読もうとは思わない)が良いのか、あるいはコアな人たちに深く刺さる本(ただし、広さは出ないので認知されない)が良いのか。
単純に考えると「広くて深い本が良い本じゃん」という結論になるわけだが、実はそれも違う、ような気がする。
例えば、この世で最も売れている本は聖書であるらしい。しかも、聖書はキリスト教の分野では最も深く掘り下げている本であるから、広くて深い本である。
じゃあ、良書か。一部の人は「良書だ」というだろうけど、なんか違う。
辞書はどうだろう。深さがある。それでいて誰もが1回は使ったことがあるだろうし、その存在は広く認知されている。
じゃあ、良書か。一部の人が「良書だ」といっても、やっぱりしっくりこない。
本づくりの仕事をしていると、しばしばこの問題にぶち当たる。
大衆受けしそうな文章を書きながら「浅いこと書いているなあ」と感じる。
専門分野を掘り下げながら「この話のどこがおもしろいんだろう」と感じる。
よく考えてみると、「良書です」と人に勧められる本を作ったことがない気がする。さらによく考えてみると「これは良書だ」と感じたこともない気がする。
定義にこだわりすぎなのだろうか。良書って何なのだろう。

判断について 8月某日 晴れ

気づけば8月も終わりだ。
そろそろ秋だ。秋のビールが店頭に並んでいる。
ふと数ヶ月前の日記を見返してみたら、緊急事態宣言のころ、すなわち、ボウズは小学校が休みになり、チビは幼稚園が休みになって、日々、3人でトランプとか人生ゲームとかして過ごしていたころ、私は「夏ごろには収束しているだろう」みたいな楽観論を書いていた。
大ハズレである。
現状がどうなっているかというと、収束とはほど遠く、日々、東京で200人以上が新規で感染しているらしい。
ワクチンはないし、感染防止に向けた方向性も定まらないし、自粛とGoToが同時進行しているし、これって心理的にはともかく、状況としては何も変わっていない割と強めのパニックだよね。
個人的には、いったんロックダウンしてみたらいいと思う。
そんなことしたら経済がー、という人はいるけども、経済が大事だっつっても、現状でできることって旅行と飲食関連を促進するくらいで、多分だけどGDP的にそれほど大きいとは思えない。
目先の安さに釣られる人はそれなりにいるのだろうけど、それって結局、閉店前のスーパーで割引シールがついたお惣菜を買うのと同じだからね。在庫処分にはなるけど経済活性化とは違う。
そこで無理にお金を動かそうとするより(多分、結局そんなに動いていない)、いったん腹をくくって、目先の経済成長をいったん諦めたほうがいいと思う。
あっちを立てればこっちが立たない、という状況は世の中に割と結構あって、賢い人とか、自分は賢いと思っている人は両方立ててやると思うのだけど、現実はそんなに甘くない。それは震災後の日本がどうなったか振り返ればよく分かる。
どっちかを捨てなければならない時があって、どっちを捨てるか決めるのが政治判断であり経営判断だと思う。
それができないなら責任ある立場につくんじゃねえよ、とか理想論を考えつつ、とりあえずスーパーで割引シール付きのお惣菜とキリンの秋味を買いに行ってきます。

目的について 8月某日 晴れ

俺にはコレしかない。
そう思える何かがある人は強い。
私はいろんなことを器用にこなすタイプだと思うけど(←)、決定的に欠けているのはそこだと思う。
「コレだ!」と思える何かに全身全霊を注ぎ込めない。
そもそも、そういうものを探していないような気がする。
なんでだろうか。
怖いんだな。
「コレしかない」と思うものに裏切られたらどうしようとか、「コレだ」と思ったものが成果にならなかったら最悪じゃんとか、そういうことを考えてしまう。
実際、私は1つのことをずっと続けてきた経験がないし、ぜーんぶ中途半端だ。途中で諦めるか、なんか理由を作って逃げている。
逆説的に、私が尊敬する人は、旧知の友人から初見の人まで、みんな「コレだ!」と思うものを明確に持っていて、そこに突き進んでいる。
例えば、ある人は家業を継ぐという目的があって、そこに向かって勉強している。ある人は「この仕事が最高」という意識を持って頑張っている。
数十年来にわたって仲がいい友人は高校の時のガールフレンドと結婚して今も仲良くやっている。恋愛も大事で「コイツしかいない」と思う相手のために生きられるというのは、俺にはできないが、カッコいいと思うし、尊敬する。
そんなふうに思うのは、取材などで会う人が、ことごとく明確な目的を持って生きているからかもしれない。
成功する人は「俺にはコレしかない」と思う何かがある。
当人の勝手な思い込みかもしれないが、思い込めれば強い。
「そのうち見つかるといいなあ」という気持ちでは、おそらく見つからない。
「絶対に見つけてやる」という意識が必要なのだろう。
そういうものが、果たしてこの先見つかるだろうか。
全て中途半端な人生ってどうなのか。
そう考えると、どこからともなく不安と悲しさが湧き出てくる。
あれ、おかしいな。画面が滲んで、よく見えないぞ。

株式市場について 8月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

もはや戦後ではない。
これは、終戦から11年ほど経った1956年の経済白書で記述された一文であるらしい。
私が生まれるだいぶ前の話だから、詳細は知らん。
ただ、データを見る限りだと、この時すでに、国民一人当たりの所得とか輸出輸入の量が戦前の水準くらいまで戻っている。
10年ちょっとかけて、当時の日本人は焼け野原からだった日本を復興させた。
10年が長いのかどうかはわからないが、復興に向けて頑張った先人がいたからこそ、我々は今日、こうして平和に暮らし、美味しいビールを飲めるのだという因果は頭の片隅に置いておかなければならないと思う。
人はたまに、今の自分があるのは自分だけの努力によるものだと勘違いする。
私はしょっちゅう、そう勘違いする。
でも、違う。個人の努力は大事だし、努力した方が良い結果は生まれやすくなるけれども、その背景とか根底には、自分以外の人の力がこれでもかというくらい作用しているんである。
何の話だっけか。投資の話だ。
株価を見ると、気づけばコロナ影響が深刻化する前の水準に戻っている。
もはやコロナではない。
市場に限って言えば、まさにそんな状態だ。
ムーアの法則に当てはめると、市場の耐性も指数関数的に高まっているのかもしれないが、それにしても速い。
早く収束するなら、それは嬉しいことだ。
でも、過去を踏まえると、リーマンショックからアベノミクスまでは5年ほどかかった。コロナショックはたった数ヶ月で回復している。いくら環境の変化が速いとは言っても、さすがに速すぎないかと思ってしまう。
そう言えば今日は終戦記念の日である。
日本は何と戦い、何を得たのだろう。
俺らは今、何と戦い、何を得るのだろう。

コロナ禍で感じたことについて 8月某日 晴れ

表題の通りである。
コロナ影響が深刻化してから、個人として感じたことをメモしようと思う。

トイレットペーパーとカップ麺は買いだめ不要。
マスメディアは大袈裟でパニックを生む。
政治はほぼ無力。
野党はむしろ邪魔。
コンビニは最強。
ジジババは言うこと聞かない。
ピンポン営業は無視でOK。
文句言う人は文句しか言わない。
声がでかい人ほど賢くない。
突飛な意見で目立とうとする奴は信用できない。
中韓は嫌われがち。
台湾は仲間。
自粛は3日ですら耐えられない人が多い。
医療関係の人の給料は低すぎる。
学校、幼稚園の先生も頑張ってくれている。
自力で稼ぐ力がない人ほど給付金にこだわる。
自営業と経営者は会社員の1.5倍くらい稼がないとリスクヘッジできない。
離婚予備軍はいっぱいいる。
満員電車の苦痛は「仕事してる感」。
電車の混雑はひと段落するとすぐに戻る。
日銭商売の夜の街とパチンコは変わらない。
想定外を想定していないところから倒れる。
マスクのせいなのか、みんな美人に見える。

ほかにもいろいろあるのだけれど、思いついたことだけ羅列してみました。
「こんなのもあるぜ」という方は、ぜひ教えてください。

時間主義と仕事について(5) 7月某日 晴れ

自分の力でどれだけ稼げるか。
それがフリーランスの価値に直結する。そう思っている人は多いと思う。
でもね、多分違うんだな。
稼ぐ力は必要なのだけれど、それが最優先事項ではない。
自分の時間をどれだけ作れるか。
それが大事で、自由に使える時間を作るための手段として、それなりに暮らすためのお金と、そのお金を稼ぐ能力が必要になるという順番なのだと思う。
物書き商売を始めて実感したのは、放っておくと自分の時間が無限に奪われるということである。
一般論として資本家層は労働者層の労力を搾取すると言われているが、そこも微妙に違うと思っている。資本家は労働者をとことん働かせることにより、労働者個人の時間を奪う。
奪った時間はマネタイズできるが、そこが本質ではなくて、労働者個人の時間を買い上げることにより、自分の人生や将来について考える時間を奪う。
考えるための時間的な余裕が無くなれば、必然的に目先のお金に目が向きやすくなる。そこである種の奴隷化が完成する。
仮にそれが搾取の本質だとすれば、この仕組みを考えた人は悪い意味で天才だろう。お金がないのは苦しいが、自我を失うことの方がもっと苦しいはずである。自分で考えることができない人や、考える時間や機能を奪われて、考えられなくなった人は、わかりやすく言えばロボットと同じだ。
それは避けなければならない。だって人間はロボットじゃないからね。
ロボット化を避けるためには、人らしく生きるための多少のお金は必要だが、多少でもお金があるのであれば、自分の今や過去や未来について考える時間をどうにかして確保しなければならないだろう。
つまり、フリーランスとして生き残るのであれば、金銭的搾取よりも時間の搾取に注意する必要があるということだ。
自分について考える時間を軽視してはいけない。
その時間を小銭のために安売りしてはいけない。
ところで、物書き商売は、良い文章を書くという芸術家的な側面からも時間を搾取されがちである。その話はまた次回にしよう。

時間主義と仕事について(4) 7月某日 晴れ

久しぶりに続きを書いてみる。
新しい仕事を受けるとき、フリーで仕事をしている人は金額を見て引き受けるかどうか考える人が多いと思う。
3万円の仕事なら、迷う。100万円なら即答で引き受ける。
金額の大小はともかく、基本姿勢はそんな感じだろうし、売り上げがないときは、なおさらそう判断するだろう。
私も原稿1本3万円からスタートしたタイプであるから、かつては金額で決めていた。そのせいで散々苦しい目を見てきた。
少し考えれば当たり前のことなのだけど、金額だけでは係数が足らない。
労力、品質、時間、宣伝効果などを踏まえて、ようやくその仕事を引き受けるかどうかが正しく判断できるからである。
例えば、手持ちの知識や情報で文章化でき、しかもそれが良い宣伝効果になるのであれば、3万円でも美味しい。逆に、一から情報を調べ、手間や時間がかかるのであれば、100万円でも引き受けない方が良い仕事もある。
自分本意で言っているのではなく、依頼者側も同じだと思っている。
専門的知見が見込める文章が短期で安価で手に入るなら嬉しい。
しかし、アマチュアの意見を得るためにコストと時間をかける合理性はない。
私が幸運なのは、かつては依頼者側で、いまは受託者側であることだと思う。
依頼者だった時は金額を第一に考えた。会社が決める予算があるからだ。
受託者になってからは時間を第一に考えるようになった。依頼者に経費という制限があるように、受託者には時間という有限なリソースがあると理解できたからだ。
そんなふうに思って、金額ではなく時間で仕事を検討するようになったのが、フリーになって5年くらい経った時だと思う。
おかげで収入は減ったが、時間の余裕ができ、精神的な余裕も持てるようになった。
フリーにとって辛いのは、仕事がないことではない。
誰のためにもならない非効率的な仕事を引き受け、中途半端な成果で自分の評価を下げたり、想定以上の時間を取られ、別の仕事を引き受けられなくなり、ストレスを溜メルことが辛い。それが分かったのも、この頃のことだった。

周りの評価について 7月某日 雨

人にはいろんな評価がある。
優しい人、かわいい人、賢い人、面白い人、かっこ良い人などは良い評価であるし、その一方には、かわいそうな人、嘘つき、バカな人、怖い人、意地悪な人、エロい人など、あまり良いとはいえないような評価もある。
こういう評価は基本的には他人が決める。
ただ、自分の言動をコントロールすることによって、ある程度までは他人の評価を変えることができる。これを最近では自分ブランディングなどという。
芸能の世界の人はこれが結構大事で、世の中の評価を踏まえて俳優仕事の役が決まることがある。俳優側から見ると、狙いたい役に合わせた振る舞いをすることで、業界の中での評価が定着し、役を獲得できたりする。
わかりやすいのがバカキャラだと思う。
「あの人、バカだよね」という評価が得られれば、当人が実は賢かったとしても、それとは関係なく、バカ役の仕事がくる。バカ役の仕事が集中する。『男はつらいよ』の渥美清さんとか『ROOKIES』の佐藤隆太くんなどがそのタイプではないだろうか。
実際は賢い人なのだ。しかし、賢いことが周りに認知されたら、バカキャラはハマらない。観ている人が「この人、実は賢いんだよね」と思ってしまうからだ。
かわいいキャラや怖いキャラなど、他の評価で立っている人もハマらない。
「かわいい」「怖い」といった評価によってバカキャラのバカさが薄れてしまう。
そういう因果は、実は芸能の世界だけではなく、一般社会にも家庭にも通じると思っている。
例えば、社員にバカ社長と思われている人が賢そうなことを言っても説得力はない。賢いと思われている社長がバカなことを言っても「きっと何か別の目的があってわざとバカなことを言っているんだろう」と思われる。
「この世は舞台」「人間は役者だ」と書いたのはシェイクスピアだったか。
私はたまに賢い人と評価されることがある。
ここだけの話だが、実際は全く賢くない。
どちらかというとバカの方だ。しかも、エロい。とてもエロい。
ただ、賢いと評価されて仕事をいただくこともあるので、とりあえず賢い人として自分をブランディングしようと思う。

第3の選択肢について 7月某日 晴れ

久しぶりに電車に乗った。
直近で乗ったのは緊急事態宣言が出る3月か4月くらいのことだったので、実に3ヶ月ぶりである。
間が空いたからかもしれないが、駅や電車の様子は以前と変わっていなかった。
混んでいるし、他人との距離は近いし、マスクをしていない人もいる。
きっと私が知らない3ヶ月間は、空いていて、他人との距離が取れて、みんなマスクをしていたのだろう。つまり、世界的危機は依然として継続中だが、人の緊張感は3ヶ月くらいしか持たないということだ。
以前、スキャ(ルピング)の神であるテスタさんが、投資家は基本的には3ヶ月先までしか待てない、というようなことを言っていた。
その背景には企業の四半期決算が3ヶ月ごとだったり、季節要因が3ヶ月ごとだったりするといった事情もあるわけだが、別次元の要因として、人は3ヶ月くらいしか我慢できないのだろうな、とも思う。
石の上にも3年だったり、3日天下だったり、格言的なものは3と絡むものが多い。それも結局は心理であり、心理ゆえの真理なのだろう。
仏の顔も3度とか、3年目の浮気などは我慢の実態を表している。
3度目の正直と、2度あることは3度あるは、我慢の分岐点を表している。
何の話だっけか。コロナ禍における電車の話だ。
重要なのは、3つ目の選択肢なのだと思う。
行く、行かない、やる、やらない、辞める、辞めない、会う、会わないといった二択ではなく、もう1つ新しい選択肢を持つ。コロナはそれを作ったと思う。
例えば、電車に乗って出勤していた人は、「満員電車に乗って出社しろ」と「それが嫌なら辞めちまえ」という二択しかなかった。
そこに3つ目の選択肢としてリモートが誕生した。
これは大きな変化だ。
難しいのは、世の中が3つ目をなかなか受け入れてくれないことだ。
久しぶりに電車に乗った。
混んでいる電車に揺られつつ、リモートや在宅という第3の選択肢ができたにもかかわらず、世の中は従前の二択に戻ろうとしているんだなあと思った。

脳の使い方について 6月某日 晴れ

たまには取材でも話をしようか。
少し前に取材で会った方がいうには、私は物事を感覚的に捉え、論理的に表現するタイプであるらしい。わかりやすく言えば、インプットが右脳(感覚的)、アウトプットが左脳(論理的)ということだ。
インプットが右脳というのは、例えば、雨が降っているのを見て切なさを感じたり、飯を食って美味しいと感じるといったことである。梅雨前線がとか、うま味はアミノ酸だからどうこう、とか、そういうことよりも前に感覚的に理解する。
アウトプットが左脳というのは、切なさの要因を分析して伝えたり、美味しさの理由を解明して説明するといったことである。雨を見て絵を描いたり、美味さを踊りで表現したりはしない。
全く意図していなかったが、この論を踏まえるとするならば、私の性質は物書き商売に向いている。物書き商売は、取材対象が発する言葉の背景にある事情や動機などを感覚的に捉えることが重要だ。また、そこで得た感覚を他人でも理解できるように論理的な文章として説明することが求められる。
脳の使い方と職業適性の理屈はおそらく他の職業でも通用する。
例えば、画家や音楽家や俳優などはインプットとアウトプットが両方とも右である方が良いと思うし、医師や弁護士は両方とも左である方が成功しやすいと思う。職業じゃないけれど、恋愛上手は両方とも右だろうし、結婚生活がうまくいく人は両方とも左なのだと思う。子育ては右左だろうか。株や投資は、短期であるほどインプットもアウトプットも右右で、時間軸が長くなるほどインプットもアウトプットも左左な人の方が儲かっている気がする。
料理人は右左、政治家は左右、詐欺師も左右、ものづくりとデザイン系は右右、評論系は左左、メディアは右右と見せかけて左左、科学者も右右に見えるけど左左、営業とマーケは左左に見えて右右、経営者は右左などなど、もちろん例外はあって、職業の詳細にもよるのだけれど、脳の使い方と職業という文脈で成功しやすい人はパターン化できるのではないかと思う。
さて、皆さんはどのタイプでしょうか。自然に両手を組み合わせて、親指が下になる方がインプット(右の親指が下ならインプットが右)、自然に腕を組み、内側(腹にくっつく)方がアウトプット(左腕が内側ならアウトプットが左)です。

半年終わったことについて 6月某日 晴れ

あっという間である。
2020年が半分終わった。本来であれば今ごろは東京五輪目前で国内が盛り上がっていたはずであった。
街中では英語の看板が増え、飲食店などでは外国人向けのメニューができたりして、インターナショナルな雰囲気が漂っていたのだろう。
「おもてなし」で獲得した五輪であるから、各店や施設などでは接客の最終チェックに入っていたのではなかろうか。
現実は全く違っている。
街中に外国人の姿はなく、マスクをした日本人が黙々と行き来している。飲食店は閑古鳥で、忙しいのは医療関係の方々だ。もはや「おもてなし」のことなんて誰も覚えていないだろう。緊急事態下で誰かをもてなしている余裕などない。
あっという間である。たった半年でこうも世の中は変わるものなのか。
学校や幼稚園が休みになり、仕事はリモートになり、外出は最低限になり、国からお金が配られた(あ、そろそろ手続きしないと)。
生きているといろんなことが起きるものだ。
震災の時もそう思ったが、日常は一瞬で変わる。スタンダードは一瞬でひっくり返る。働き方が変わり、暮らしの優先順位が変わった。
社会はつまり脳である、というのが私の持論である。この半年は、あらゆることを判断する自分たちの脳を短期間で再構築した半年だったのではないか。
脳の再構築とはどういうことか。
例えば、明日、久しぶりに電車に乗る3ヶ月ぶりの電車だ。その間、zoomでの打ち合わせがいろいろとあり、これが快適すぎたので、久々のリアルの打ち合わせが億劫に感じたりする。つまり、たった数ヶ月であるのだが、自分の脳がコロナ時代の脳に勝手に再構築されている。
コロナ影響で会えなくなった人もいる。これも面白い変化で、コロナがなければ会いたくて会えない気持ちで悶々としていたのだろうけれど、今はコロナ時代だから「会えなくても仕方がない」という気持ちで整理がつく。
あっという間の半年だったが、いろんなことを、いろんなふうに考える半年だった気はする。

テイクアウトについて 6月某日 晴れ

冷やし中華はじめました。
世間的には、そんな告知が店頭に出ることが夏のはじまりのサインであるという。季節の移ろいを感じられる風景があるのは素敵なことだ。
最近は、テイクアウトはじめましたが多い。
コロナ影響で飲食店のお客さんが減っている対応策として、持ち帰りで売上を確保するのは戦略としてとても有効なのだろう。
でも、だよ。
これまで店内飲食でやってきた店が急にテイクアウト対応をするというのは果たして衛生的に大丈夫なのか。
特にこれから梅雨時である。魚とか野菜とか生物をテイクアウトして大丈夫なのか(神経質)。
コロナは怖いが、ノロをはじめとする別の怖いウイルスもある。
アレルギー管理も怖い。一周回ってコロナもやっぱり怖い(怖がり)。
保健所的には、テイクアウトを始めるにあたって特別な許可や届出は必要ないということらしい。これも怖いことである。だって、もし何かあったとしても、持ち帰って食う側の責任ですよ、ということだからね。
世の中は防腐剤とか添加物に強烈な拒絶感を持っている。
それはよくわかる。今は防腐剤は使わないだろうけど、いわゆる化学的な何かを食わなくていいなら、食わない方がいいとも思う。
でも、だよ。
湿気と熱気で腐るかもしれない料理と、腐らせないための化学的な何かを使っている料理だったら、後者を選ぶ人の方が多いのではないか。
そんなふうに思うので、最近はもっぱらコンビニとかファーストフードのテイクアウトが増えた。くら寿司、ケンタッキー、ドミノピザ、マックのローテーションである。
おかげで太った。コロナは全く別次元の健康被害をもたらす。
ダイエットはじめました。

ストレスについて 6月某日 雨

私はあまりストレスを感じない。
それは多分、フリーランスの物書きというストレスがない働き方をしているからだろう。好きなことを、好きな時に、好きな分だけやっているからストレス(悪いストレス)なんてあるはずがない。
実際、世の中の人たちは仕事とか社内の人間関係とかお金とかがストレスになるというけど、そういうストレスはない。
多少なりとも仕事や一緒に仕事をする相手を選べるようになったからかもしれない(偉くなったもんだ)。あるいは、仕事を選ぶようになり、安い仕事で時間を取られる貧乏暇なしのストレスがなくなったのかもしれない(偉すぎるな)。
子育てでストレスを感じる人もいる。でも、私の場合はそれもない。子供はむしろストレスを吹き飛ばしてくれる存在である。
そういう恵まれた環境で生きているから説得力に欠けるのだけど、ストレスと向き合う最善の方法は、距離をとって放っておくことだと思う。
世の中には自分の力ではどうにもならないことがある。
自分の性格や行動が原因なら多少はどうにかできそうだけど、他人起因のストレスはどうしようもない。他人を変えることはできないからである。
その現実を無視してどうにかしようとすると、余計にストレスが溜まる。
それなら、最適解は放置か無視だろう。
それってつまりコロナとの付き合い方に似ている。コロナを終わらせる力は自分にはないので、うまく付き合う方法を見つけるしかない。アフターコロナではなくてwithコロナの考え方である。
結局、ストレスは自分の中で生まれる。ストレスを生み出しているのは自分である。ならば、自分が変わればストレスも変わる。
「自分は自分、人は人」という割り切りは大事だ。何か気に入らないことがあったとしても、自分の力でどうしようもないのであれば、「そういうもん」と思っておくくらいが、日々を楽しく暮らす上で大事なのだと思う。
概念的で何をいっているかわからない人も多いかもしれない。
私自身、自分が何をいっているのかわからない。
わからないというのも、ストレスの1つなのである。

ゆり戻しについて 5月某日 晴れ

ゆり戻し、という言葉がある。
漢字では揺り戻しと書き、右に大きく振れた振り子が左に大きく戻る、というようなことである。
この現象は株とか為替ではリバウンドと呼ばれ、大きく下がった株価はたいてい上に大きく戻る。
一方向に行き過ぎた時に反対方向に戻ろうとする力が発生するのは物理とか力学では当たり前の話だが、日常生活や心理面でも似たようなことは起きる。
例えば、アベノミクスによる景気回復でタワマンが飛ぶように売れた。今は物件が余りつつあって価格も下がっている。
SNSが流行れば知り合いが増え過ぎてSNS疲れする人が増えるし、一世風靡した仮想通貨はもはや誰も話題にしないし、お客さんを神様扱いするとカスハラが増えるし、韓流ブームは嫌韓に変わるし、学歴社会はゆとり教育を生むし、古今東西、多分、不易流行の流行の部分はゆり戻しが起きる。多分ね。
流行りのYouTubeも不易流行の流行であるから、そのうちそうなるのだろうと思う。
ほんの少し前まではシェアが流行りだった。車も家も労働力も、あらゆるものがシェアされてきた。
これは必ずしも流行ではないのだけれど、行き過ぎたのだと思う。
だから少なからずゆり戻しが起きる。
従来のように何でも所有する世の中には戻らないだろうけど、全てシェアで済ますライフスタイルもおそらく実現しないだろう。
見方を変えると、以前が全て所有するライフスタイルだったから、そのゆり戻しがシェアエコノミーの流行だったのかもしれない。
テレワークはどうだろう。現状は流行のような普及ぶりだが、私は不易に分類されるものだと思っている。だから案外ゆり戻すことなく定着するのではないかと期待もしている。満員電車に乗って出社し、常に対面で仕事をするという旧来のやり方には戻らないということだ。
仮にそうなるとすれば、それは置き換えである。刷新や改革と言っても良い。
つまり、ゆり戻しがないものは置き換えられるのである。多分ね。

パチンコのカオスについて 5月某日 晴れ

パチンコがカオスだ。
自粛要請に応じずに営業を続ける店があり、営業中なら打ちに行こうという人がいて、自粛警察とメディアが「なんたることか」と叩き、その様子を「なんか揉めてるぞ」と野次馬する人がいる。
このカオスが面白いのは、関係者全員にそれぞれの主張と、その主張を裏付ける事情があることだろう。
国は自粛を要請する。だって三密だから。
店は自粛に応じない。だって稼がないと潰れるから。
客は店に通う。だって開いているから。
自粛警察とメディアと野次馬はカオスを面白がる。だって揉めごとは面白いし、面白いものを報じればお金になるから。
だから、誰も悪くない。悪いかどうかはさておき、誰の主張も間違っていない。だからずっと決着しない。
1つわかっていることがあるとすれば、需要と供給で成り立っている市場に、需給と無関係の人が入ってきても議論は平行線になるということである。
私は以前、パチンコ屋に学ぶ経済学という本を書かせてもらったことがあって、そのころまでは自分自身もパチンコファンであったため、この分野のネタにはつい引かれてしまう。
ただ「なんか揉めてるぞ」と野次馬する人の4歩くらい後ろから「カオスだなあ」と傍観している。それがカオスを見る上で正しい姿勢であるように思う。
逆にいうと、カオスとは一定の距離を保たなければいけないと思う。
「なんで国が営業自粛を要請するのだ」と怒ったところで、国相手に何を言ったって無駄だろう。
「国難の時期にパチンコを打つなんてけしからん」と怒る人もいるが、他人の行動をコントロールすることなどできない。
それなら、わざわざ踏み込んでいってイライラするより、野次馬からさらに4歩引いて傍観した方が自分の健康的に良いはずである。
「カオスだなあ」と思う。他人事として見る。
それがカオスにおいて、最もストレスなくカオスと接する方法なのだと思う。

景気の悪化について 5月某日 晴れ

景気とは何なのか。
株とか為替とか投資とかの仕事に携わっていると、景気という言葉は日常的に使う。自分の仕事に関しても、自営業は景気の波に乗ったり溺れたりするものだから、いやでも景気には敏感になる。
それくらい身近なものなのだけど、ところで景気とは何なのか。
景は景色のことだ。気は気持ちである。
風景や光景を見てどんな気持ちになるか。
情景の移り変わりの中でどんな気分になるか。
漢字の組み合わせとしてはそんな意味の単語だ。
それが経済の状態や良し悪しを表す一般的な言葉として認知されているのは不思議な感じがする。
英語に訳すと、ビジネスとかビジネスコンディションとなるらしい。
これもしっくりこない。
景気は確かにビジネス(事業)の状態を表す。景気動向指数など数値化されるものもビジネスコンディションを表している。
しかし、景気そのものは、状態として表面に現れている部分のみならず、その根底にある期待や不安とか、背景にある事情や課題とか、そういうものまでひっくるめたものである気がする。
だから、売上が良いのにいつも不景気な顔をしているジジイがいる。
一方には、貯金ゼロでも景気よく飲み歩いている若造もいる。
つまり、業績とか貯金とか目に見える部分を景色とすると、目に見えない部分が気持ちである。ビジネスコンディションは景色を切り取るが、景気は景色だけでなく、気持ちの部分も含め、この2つがどう組み合わさっているかを表す(のだと思う)。
今年の景気はどうだろう。景色の部分は絶望的だ。どの業界も減収減益である。
気持ちの部分も厳しい。飲みにいく気分でもないし、浪費する気分でもない。
ただ、景気回復に向けてどうにかできるとしたら気持ちの方だ。
好況よし、不況なおよし。そんな気持ちになれれば、枯れたように見える景色が少し違って見えてくるのかもしれない。

リモートワークについて 5月某日 晴れ

 やればできる。
GWが終わり、さっそくzoomとかgoogle meetの打ち合わせが入った。
今週だけで5つ。来週はすでに4つである。
もしかしたらコロナ以前より件数が多いのではないか。
世の中は本気だ。コロナ以前はリモート化も働き方改革も遅々として進まなかったが、やらざるを得なくなり、やればできると認識し、実感しはじめている。
そよ風でふき飛ぶような弱小フリーランスの私としては、どういう形であれ仕事をいただけるのはありがたい。
個人的にもあらゆることをリモート化・ネット化してほしいと思う出不精であるから、後出しジャンケンになるのだけれど、コロナ以前からできるだけ移動や外出の時間が少ない働き方が理想だと思っていたし、そのような働き方を目指してきた。
用がなければ外に出ない。誰とも会わず、誰とも話さない日もある。
よく言えばラプンツェル的、実態に即して言うとニート的な生活である。
時間主義の観点から言うと、このような生活の良いところは自由に使える時間が増えることだ。
結果、仕事の効率はよくなる。実際、弱小フリーランスの私がそこそこ食べてこられたのも、時間の浪費を減らし、その時間を実務にあてることによって時間の換金性を高めていたからだ。
自由な時間が増えると幸福度も高まる。時間は計測可能、幸福度は計測不可能なので必ずしも等価交換になっているとは言えないけれど、今、この瞬間を何をして過ごすか判断できることは大事で、何をして過ごすかを自分で判断して生きることこそが人生なのではないかとも思う(壮大な話になってきたぞ)。
コロナという魔物は、表面的にはリモート化によって人と人のフィジカルな接点を減らし、距離を広げた。
もう一段深いところでは、自分の時間や人生と向き合う機会を増やしたのだと思う。
つまり、人と人とのつながり方を変えたのではなく、社会や会社や世間といったものと自分とのつながり方を変えるきっかけを生み出したということである。

コロナ離婚について 5月某日 晴れ

離婚が増えているらしい。
震災の時は結婚する人が増えた。今はその逆である。
いずれも大きな国難なのに、人の行動が逆になるのは興味深い。
離婚する夫婦の半分以上は結婚から10年以内に別れているというデータを見た記憶がある。震災から10年くらい経っていることを考えると、あの時に生じた不安や孤独といった感情の揺らぎで一緒になり、10年経って別れたパターンもあるかもしれない。
なぜコロナは離婚を呼ぶのだろうか。
評論家筋の説明によると、テレワークの普及で夫婦や家族が一緒に過ごす時間が増えたり、経済の先行きが不透明になってストレスが溜まりやすくなったことで、イライラが溜まりやすくなり、不仲になるのだという。
それはそうだろう。誰かと一緒に過ごす時間が増えれば、相手の言葉や行動に苛立つ機会も増える。人は基本的には変化に対してストレスを感じるから、気晴らしに出かけることもできず、テレワークや社会的距離を取るといった新しい生活様式を求められると余計にイライラする。そこに家計や未来の不安も加わる。
ただ、そこに至るまでの過程も考えなければならないと思う。
イライラが増えるということは、もともとイライラを感じる要素があったということだ。経済や家計の不安も同じで、コロナによって不安が増した側面はあるが、コロナ以前の家計が盤石だったわけではなく、そもそも不安はあった。
そう考えると、イライラと不安が爆発し、不仲になり、離婚に至る流れはコロナ以前からの蓄積なのだと思う。コロナはたまたま決定打になったが、仮にコロナが来なかったとしても、いずれ別の要因で同じ道を辿っただろうと思うのだ。
コロナ倒産やコロナ破綻のニュースなどを見ていても、同じことを感じる。
コロナが原因で潰れるのではなくて、もともと経営や事業モデルやリソース管理の欠陥があった会社が、コロナにとどめを刺されるということなのだと思う。
そういう意味では不運ともいえるし、遅かれ早かれという気もする。
良し悪しを抜きにして必然的に起きる変化のタイミングだったと考えれば、単純にコロナが悪いとは言えないんだよね。もちろん、コロナなんてないほうが良いわけだけども。

晴れネット社会について 4月某日 晴れ

 小人閑居して不善をなす。
つまらない人間ほど、暇があるとロクなことをしない、というような意味である。
私はたまたま子供やカミさんの監視の目(←)があるから、それなりに真面目に暮らしている。
しかし、根が小人だから、誰も見ていなければ不善をなす。むしろ、不善しかしない自信がある。そう考えると、監視は私が社会人として問題なく暮らしていくために不可欠である。監視社会万歳だ。
それはそうと、閑居は、辞書によると暇のことであり、世間の騒がしさから離れた静かな住居や、世俗を離れて静かに暮らすこと、である。
素晴らしいじゃないか。私が求めているのは、それである。
そう思うのは私が時間主義だからかもしれないが、とにかく閑居がほしい。
暇が欲しいために、日々、朝から晩まで忙しくしている気さえする。
コロナ禍になって、すこぶる暇になった。
記憶が確かなら、3月に投資家のJACKさんに会いに行く機会があって、それが直近で最後の取材である。
zoomとかgoogle meetの取材を除けば、実際に面と向かって取材する機会は、それが今年の上半期の最後になるだろう。もしかしたら今年最後の対面取材になる可能性すらある。
面白いなあと思うのは、従来のような「取材は対面が当たり前」という概念が一気に消えて、オンライン取材ばかりになっていることだ。
現場に行かなくても、ネットがつながっていれば取材も打ち合わせもできる。
従来の「会う」という概念とは違うし、恋人とか友人とかの「会う」とも違うのだけれど、仕事で「会う」程度の「会う」はネットで十分なのかもしれない。
これってもしかしてすごい変化ではないか。
だって、対面するために出張したり移動したり、対面した時のために名刺を作ったりきれいな格好をしたりする必要性が思い切り下がるからね。
ネットで完結できるのに、なぜ会うのですか。なぜ集まるのですか。
そんな問いかけが定着しそうな気がする。

余剰について 4月某日 晴れ

必要最低限で暮らす。
これは私のライフスタイルのテーマで、できる限り必要最低限を目指してきた。
贅沢、華美、過剰、余分はいらない。実際、私はスーツは2着(夏用と冬用ね)しか持っていないし、私服とかパンツも、日々選択することを想定して2着くらいしかない。PCは、仕事上、ぶっ壊れた時に困るので2つあるが、それ以外のものは、必需品だとしても1つ持たないし、必要がなければ持たないし、財布の中には常に500円しかないし、冷蔵庫はスカスカだし、友達は少ないし、奥さんも1人である。
これは一種の思想的、または宗教的なもので、いわゆるミニマム主義みたいな、断捨離的な生き方は追求していくと割と楽しい。
極限をどこまで追求できるか。そんな楽しさがある。
ところが、やっぱりミニマムには限界があるのだ。
それは平時にはわからないのだけれど、コロナ禍のような有事になるとミニマムが裏目に出る。必要最低限に絞り込んで、贅肉が全くない暮らしをしているわけだからね。
ミニマムは、必要最低限のものが常時、滞りなく手に入る状態で実現するライフスタイルなので、物流が止まると一気にピンチに追い込まれる。
今がまさにその状態で、外出機会が減っているから服が少なくても構わないのだけれど、冷蔵庫がスカスカだと困ってしまう。
平時には贅肉に思える余分も、有事には貴重な生命源になったりする。余剰があるから安心感が生まれ、余分を困っている誰かに提供することもできる。
最近は感染者のうち軽症な人をホテルに収容しているらしいけど、それも空きがないとできない。つまり余剰である。
必要最低限で暮らす。
それは理想的だし、引き続き追求したいのだけれど、どんなかっこいいスタイルにも弱点はあるのだ。
言い換えれば、最近、私は腹が贅肉で膨らんでいるのだが、それは必要最低限の弱点を補うための余分なようで余分ではない保険的な肉であり、無理して消す必要はないのではないか、と思うんだけど、どうだろう。

自粛について 4月某日 晴れ

日々、子供らと遊んでいる。
トランプして、ドンジャラして、一緒におやつを食って、人生ゲームをする。
暇を見てメールを返信したり原稿を書き進めたりするけれど、そうはいっても、できることは限られる。
ならばいっそ、子供らと遊べる良い機会だと思って、ずっと遊んでいる。
時の流れに身を任せて、どうにかなるだろうと思って生きてきたら、とりあえず過去20年くらいはどうにかなった。
それなら今回もきっとどうにかなる。そう思っているから、今を楽しむ。
刹那主義は昔からだ。
刹那主義と無計画と表裏一体だが、今のようなカオスの時には役に立つ。少なくとも「来月どうしよう」「来年はどうなっているのだろう」といったような、考えたところで答えが出ない不安を一掃できる、という点ではね。
不安かといえば不安である。ただ、楽しいかと問われればとても楽しい。
人間万事塞翁が馬。そんな感覚である。意味はよく知らないけど。
それはそうと、経験則として、考えても答えが出ないことや、悩んでも解決しないことはあると思っている。
そう割り切るのはわりと大事だとも思う。
実際、私ができることは限られる。目先の仕事をとりにいく努力もできるのだろうけど、開いていない店のシャッターを叩いたところでどうにかなるものではないだろう。
織田信長ファンは、そこで特攻するのだろう。
家康タイプは一歩引いて、おいしいところを総取りする計画を立てる。
私はどちらのタイプでもなく、どちらかになろうともしていない卑怯なタイプですみません。
でも、STAYHOMEするだけで社会に貢献できるなら、こんな簡単な社会貢献はない。
家にいろ。マスクしろ。手を洗おう。
美味しいもの食べて、毎日を楽しんで、よく寝よう。
自粛期間とはつまり、動物的に身勝手に暮らして、それでも誰かの役に立ててしまう極めて希少な期間なのだ。多分。

波長について 4月某日 晴れ

日々、スズメにエサをやっている。
きっかけは単純だ。たまたま賞味期限切れが近いパンがあったので、小さくちぎり、家の前にパラパラと撒いただけである。
すると、近くを飛んでいたスズメが気づいたのか、食ったらしい。
数時間後に見るとパンくずがきれいになくなっていた。
私は人間には冷たいが動物には優しい。強いやつがのたれ死んでもなんとも思わないが、弱いやつが苦労しているのは放っておけないタイプの偽善者である。
そういう性格だから「スズメは腹が減っているんだなあ」などと思い、次の日も撒き、その次の日も撒き、気づけば1ヶ月くらいになった。
最近は、パンを投げるために窓を開けると、近くのフェンスにとまってスズメが待っているようになった。1羽だったスズメが2羽になり、3羽に増えた。
窓を開け、軽く「おはよう」といってパンを撒く。
しばらく見ていると、警戒しながら近寄ってきて、パンを食っている。
面白いなあと思うのは、私以外の家族が窓を開けると、3羽とも遠くに飛んでいってしまうことだ。
もしかしたらスズメは顔がわかるのかもしれない。
あんな小さな頭で、顔を認識できているとしたらすごいことである。できるのだろうと私は勝手に信じている。
それと似た話で、私はカラスも顔を認識できると思っている。
いつだったか、ゴミ出し場のゴミをカラスが食い散らかす時期があった。カラスだって生きているのだから、それはそれで仕方ないことだと思うのだが、食い散らかされたゴミを掃除するのは手間だ。
そんな折、主犯格らしきカラスが電線に止まっているのを見つけて、「ダメだぞ」と話しかけたことがある。以来、ゴミは全く荒らされなくなった。
たまにそいつらしきカラスを見かけて「おはよう」と挨拶する。
そいつなのかどうかはわからない。どのカラスも顔は一緒に見える。でも、そいつはたまに「カー」と鳴く。自分と鳥類の間に何があるのかはわからんが、私は鳥となんとなく波長が合うのだろう。
神様は意地悪だ。美女と波長が合う仕様にしてほしかった。

不況について 4月某日 晴れ

デジャヴである。
新型コロナの影響を受けて、引き受けたはずの仕事がいくつか延期や中止になった。震災の時もそうだったなあと思い、確定申告するついでに震災後の収支を振り返ってみたら、2011年はとくに影響なかったが(たまたま前年に売れた本の印税があったので)、12年と13年の売上はその額の半分になっていた。
よく生き残ったよなあ。
その時の教訓を生かしつつ、今は当時よりもクライアントさんが分散されているので、そこまで大きな打撃にはならない(と思う)。とはいえ、消えた仕事もあるので、19年比で減ることは間違いない。今年はあまり影響がないかもしれないが、来年は減るだろう。再来年も危ういぜ。
減っていくらになるか。それが実際の需要なのだと思っている。
ここ数年、売上(PLのトップライン)が伸びていた。新しい仕事を依頼され、仕事を通じて新たな人との接点ができることも嬉しかった。
でも、その中にはバブル需要も含まれる。不況がくればバブルによって装飾されていた部分が剥がれ落ち、素顔になる。その状態が本当の評価なのだと思う。
私は01年にフリーになって、そこから震災までの10年くらいは好況だった。その間に結婚し、家を買い、家のローンを返し終えた。バブルに感謝である。
その後、震災によって急に不安定になったが、2年くらい耐えたらアベノミクスによって再び好況になった。子供が生まれ、特に不自由なく暮らし、こりゃあありがたいと思っていたらコロナ懸念になった。
10年に一度くらい、こういう大きな変化が起きるのだろう。だからデジャヴである。不況とはつまり、真の価値を査定するきっかけであり、調子に乗るなよ、という警告のような気さえする。
そんなふうに思っているから、目先の仕事は消えているのだけれど、あまり焦りはない。震災の年も、生まれたばかりのボウズの面倒を見ていて、あの時間がとても楽しかった。コロナは不安だが、時間主義の私にとっては、暇という資産が大量に増えたような気さえする。
こんな機会は滅多にないから、子供らと目一杯遊ぼうと思っている。
デジャヴですか。いいえ、現実逃避です。

コロナについて 3月某日 晴れ

世の中が変わるのは一瞬だ。
世界大戦のような戦争がないいまだからこそ、人類の目下の敵は環境の変化でも宇宙人でもない。コロナである。
震災の時もこりゃ大変だと思った。しかし、震災の最悪のシナリオは日本の終わりだが、コロナの最悪のシナリオは世界の終わりである。世界規模であるという点で、人類はいま、ものすごく大きな敵と向き合っている、ような気がする。
震災との比較でもう1つ感じるのは、協力体制がとりづらいことだと思う。
震災の時は「人間対自然」という戦いの構図が明らかだったので、人間同士が協力できた。困っている人がいれば手を差し伸べるし、見知らぬ他人でも困っているなら助けてあげたいという気持ちに自然になれた。
でも、コロナのような感染症は違う。手を差し伸べたい気持ちはあっても手を差し伸べることによって自分と身近な人をも危険に晒すことになる。
困っている人も、助けてくれる善意の人を危険に晒してはいけないという気持ちが働くから、困りごとを抱え込まなければならない。
結果、団体戦が個人戦になり、困っている人が孤立する。
これは厳しい。なぜなら、協力するという選択肢を奪われた個人は決して強くないからである。
以上が、私が思うコロナの影響の話。これくらいのことは誰もが思うだろうし、分析するのは簡単である。
でもね、そんなふうに冷静に見ている自分が卑しい人間であるようにも思う。
例えば、電車で見知らぬ人が咳き込んでいたらどうするだろう。
今どきは「咳をするな」と思う人が大半だろう。コロナじゃないかと疑い、マスクをしていなかったら暴言すら浴びせる人もいるらしい。
それって、協力体制がとりづらいから仕方がないことなのだろうか。
私は違うだろうと思ってしまう。
誰も手を差し伸べないなら、せめて自分くらいは「大丈夫ですか」と声を掛けたい。それができなくなったら、いよいよ私はおしまいだと思う。
いまは大きな変化の時なのだけれど、その流れに任せて自分そのものまで変えてしまってはいけないなあ、とも思う。

9年経ったことについて 3月11日 晴れ

あの日から何年経ったか。
うちはボウズが震災の年に生まれたからすぐにわかる。もう9年だ。
あの日、あの時、「もしかしたら死ぬな」と思ったけれど、9年経ってもこうして生きている。ありがたいことだ。
あの危機を生き延びられたおかげで、数ヶ月後に生まれたボウズと会えた。その数年後に生まれたチビにも会えた。そういう幸せな人生がどうして生まれたかというと、あの日の私を助けてくれたJRとかスーパーマーケットとか病院の先生などのおかげである。その節はありがとうございました。
それはそうと、9年経ってまた国難である。
コロナみたいな感染症は地震とは性質が違うが、自然災害という大きなくくりでは同じだと思っている。自然災害とはつまり、誰のせいでもない災害である。
一方で、自然災害が人災に発展することもある。
例えば、マスコミである。震災はパニックだったからマスコミが役に立たなかったことは仕方ないにしても、不安を煽り、風評を増長させたのはマスコミである。
明らかな人災だった。
または著名人である。国難や人々の不安にすら便乗して名前を売るのが彼らの使命なのかもしれないが、震災の時は目立とう精神がすぎる下品な人がいて驚いた。てめえが目立つために利用され、被害を受ける人たちがどれだけ腹立たしかったことか。ストレス増長という点でこれも人災だろうと思う。
そして政治である。いろいろと語るのも億劫になるくらい、これが最も大きな人災だった。
当時は、当事者である被災者のど真ん中ではないけど、割と近いところにいたので色々と腹立たしく感じた。あれから9年経ち、少しは世の中が優しくなっているのかと思ったら、相変わらず色々と腹立たしい。
マスコミも著名人も政治も、9年経ってプレーヤーが変わっているにもかかわらず体質が変わらないのは、ある意味ではすごいし、ある意味では絶望的である。
国難なんてない方が良いに決まっているのだけど、あえて1つ良いところをあげるとすれば、信用できるやつと、人災を起こすような絶対に信用してはいけないやつを見分けるフィルターにはなるのかな、とは思う。

デマについて 3月某日 晴れ

デマは何の略語か。
私はずっと、デマは口から「出ま」かせを略してデマだと思っていた。
実は違うらしい。デマゴギーというドイツ語なんだとか。
まさかのドイツ語である。ドイツ語なんてソーセージとビールくらいしか知らないぜ。そう思って調べてみたら、ソーセージは英語で、ビールはオランダ語由来であるという。
もう何がなんだかわからん。
わかっているのは、デマは迷惑でビールはうまいということくらいだろうか。
コロナのせいなのかデマが多くて困る。
テレビなどで根拠の怪しい情報を知った子供らが「お父さん、これって知ってる?」と、トンデモナイな情報を伝えてくる。
私は「なんだそりゃ」となるので、その話は嘘かもしれないよ、こう考えると嘘の可能性が高いよ、などと説明する。
例えば、トイレットペーパーがなくなるといった話を子供たちが信じ、私がそんなことはないから大丈夫、と説明するようなもんである。
この作業が割と時間を食う。
正しい情報を子供たちに教えることは大事だと思うけれど、そもそも嘘を言う誰かがいなければ正しいことを教える必要性も生まれない。
テレビの人たちには安易に嘘を報じないでほしいと切に願う。
情報化社会という言葉がある。
あらゆる情報が出回り、自ら情報を取りに行いかなくても勝手に情報の方からこっちに飛び込んでくる。少し手間をかければ、新聞とかテレビを中継せずに情報源にたどり着くこともできるようになった。
でも、現状はまだ情報が飛び込んでくる状態で止まっていて、情報源まで確認する人はすごく少ないんだろうなと思う。
マーク・トゥエインの「健康本を読むときは注意したほうがいい。誤植一つで死にかねない」という言葉を思い出す。
情報と向き合う上で、これこそが正しい姿勢なのだと思う。
無論、この言葉ですら誰かの捏造である可能性もあるのだけれど。

休校について 3月某日 晴れ

新型コロナ懸念で学校が休みになった。
うちの場合、チビが通う幼稚園は時短、ボウズが通う小学校は完全休校である。
コロナはおそらく夏には収束するのだろうけど、ワクチンができなれば来年の冬も同じことが起きるのだろうなあ。
そうなった場合、子供がいる家庭は子供の予定に合わせるので、仕事の仕方などを見直さなければならない。
春から秋にかけてたくさん働き、冬はあまり働かない。そんなスタイルが生まれるかもしれない。
実際、ボウズが休みになってからの実感として、仕事はほとんどできなくなった。
子供の勉強を見たり、昼飯を作ったり、スキを見てYouTubeを見始めた現場を押さえ、こちょこちょの刑に処すことなどに時間を取られるからである。
ただ、そういう日々もなんだかんだ楽しい。
ボウズも、学校へ行けず、友達ともほとんど遊べないのでストレスをためているとは思うのだが、案外毎日楽しそうだ。
例外なのはカミさんで、子供が余計なことをするので日に日にイライラを募らせている。
子供は何かと弱い存在であるが、ストレス耐性という点では大人より強いのかもしれない。そう考えれば、私が毎日楽しく感じているのも説明がつく。精神年齢が子供だからである。ほっといてくれ。
あるいは、柔軟性の話なのかもしれない。
大人は既存のやり方を変えることに抵抗感を持つことが多く、柔軟に対応するのが苦手だ。変えられるのかもしれないけど、変えたくないと思っているところがある。一方、子供は変化の代名詞のような生き物である。何かが変わることにストレスを感じにくく、柔軟性も高く、むしろ変化を喜んでいるところもある。
時差通勤もテレビ会議もフレックスも、働き方改革という文脈の中でずっと議題に上っていたが、進んでいるようで進んでいなかった。コロナくらい強烈な状況になり、ようやくテレワークが進んだ。
社会の仕組みを変えるためには、これくらいのインパクトが必要なんだなと思う。
ほとんどノーワークの私がテレワークについて語れる身分ではないのだけれど。

約束について 2月某日 晴れ

私は約束を守る方だ。
厳密にいうと、守れそうにない約束はしないので、必然的に守れる約束ばかりになり、約束を守っていることになる。
例えば、提示された締め切りが厳しければ、その時に「あと3日ないとできませんよ」という。遊びも同じで、7時集合の約束が難しければ「8時に行くから」と伝える。
こういうのが精神的にも肉体的にも結構大事だ。
無理しなくても約束を守れるから頑張らなくていい。必要最低限のやることだけやっておけば信用を失うことがない。
小耳に挟んだ話だが、人は頑張ったり無理したり、難しいことに挑戦することにいよって成長するんだそうである。
道理で私は成長しないわけだ。
それはそうと、中には、できそうだけど、もしかしたらできない、といった微妙な約束もある。
例えば、仕事が早く終われば7時に行けるし、終わらなければ8時になるといった時の7時集合とか、調子が良ければできるし、悪ければできないといった時の3日後締め切りなどである。
そういう時、私は基本的には「行けたら行く」とか「できたらやる」といった答えかたをする。
ところが、これも小耳に挟んだ話なのだが「行けたら行く」は「行かない」というメッセージをオブラートで包んだものであるという。
「できたらやる」も同様、「やらない」と断るとカドが立つため、やんわりと伝える時の言い方と受け止められるらしい。
言われてみれば、私は潜在的にそう思っているのかもしれない。
飲み会などは、行けたら行こうと思っているけど、実はあまり行きたくない。
与えられた仕事はできる限り真面目にやるが、やらずに済むならやらないでおこうという気持ちもある。
でも、たまに掛け値なしに「行けたら行く」「できたらやる」と思っているときもある。そういう時はなんと言えばいいのだろうか。日本語は難しい。

買い占めについて 2月某日 晴れ

マスクの品切れが続いている。
ドラッグストアやコンビニは連日の人だかりで、ついにはトイレットペーパーを求める人がスーパーマーケットに並び始めたらしい。
小学校のころだったか、オイルショックについて習った。トイレットペーパーを買う客で店がごった返したらしい。何してんの?
そして、いまも同じことをやっている。有事の時にトイレットペーパーを買いに走るのはもはや習性なのかな。マジで何してんの?
雰囲気的には震災後に近い。あの時は水不安で大勢の人がスーパーに水を買いに走っていた。
そんなことになっているとは全然知らず、当時は妊婦で動けなかったカミさんから「み、水を……」と頼まれ、買いに行った。出がけに「スーパーはもう売り切れで……」と聞いたので、とりあえず歩いてコンビニに行ってみたら、運なのかタイミングなのか、ペットボトルの水が何本かあった。買い占めちゃまずいと思って、2、3本買って帰った。重たかったなあ。
以来、いざというときに足りないと困るし、パニックの中で買ってこられる自信もないので、水はなんとなく買い置きするようにしている。
水不足(何時代なんだ)の教訓を生かして、トイペとかティッシュとか生活必需品もなんとなく全てストックするようになった。
うちはボウズと俺が花粉症なのでマスクの買い置きもいくらかある。だから、今は世の中はパニックらしいけど、焦って買いに行くこともない。
偉そうな言い回しになるが、世間がマスクやトイレットペーパーを買いに走っている様子を見て思うことがある。
急いで買いに走るのが大人ではない。
急いで買いに走らなくてもいいように、あらかじめ買っておくのが大人だということである。
仮に手持ちが不足していたとしても、買い占める必要はないだろう。
誰の言葉か忘れたけど、奪い合えば足らない、分け合えば余る。
余るというのが大事。余すでもいい。
足るを知る。余裕とはつまり余りから生まれるのである(←偉そう)。

コロナショックについて 2月某日 晴れ

たまには投資の話でもしようかな。
一般論として、株価は半年先を折り込みにいくという論がある。投資家の敏感さとか信用取引が半年後に決済するとか理由は複数あるけれど、要するに株価は一種の未来予想としての指数になるということだ。
現在、新型コロナによって株価が下落中である。
なんで下がるかというと、売りたい人がたくさんいて、買いたい人が少ないからだ。それが半年後を示唆するのだとすれば、半年後に行われる東京五輪開催時の景気もかなり厳しい。
つまり、日本売りである。東京五輪に向かって日本経済が右肩上がりに伸びていくというおおかたの予想を、半年前の時点で否定する人が増えたということである。
どうするんだろうね、これ。
利下げしようにもすでにゼロ金利だから手が打てない。日銀がたくさん買って買い支える手はあるけど、すでに700億買っている。1つあるとすれば消費税を下げることだけど、上げたばかりですぐ下げるのも難しそうだ。むしろ、セオリー的には消費税をさらに上げて国民からお金をもらわないといけないのだが、それをやったらいよいよ消費は冷え込む。消費税増税で負担が増えたときに、まさか株を買おうと考える人は少ない。
暴落は、普通はバブル化している時に起きるので、打つ手がいくつかある。バブル期には金利とか不動産価格が上がっているから、下げたとしても吸収できる。
バブった分が消えるだけだ。
そこが今回は違うところである。金利は上がっていない。不動産は、都市部ではバブルだけど、全国的には上がっていないか下がっている。底値近いところで暴落が起きた時に、何か手はあるんだろうか。震災のような国内限定の要因なら五輪で外需が見込めるけど、コロナは世界規模だから五輪観戦にくる人も減る。
多分だけど、私は今、歴史に例がない暴落を見ている。
言い方を変えると、この危機を乗り越えるスキームができれば、おそらく日本経済は永遠に安定する、と思う。

声質について 2月某日 晴れ

声は個性だ。
それを最大の武器にし、価値にしているのが歌手なのだと思う。
歌がうまいと思う人は誰かと聞かれると、女性なら中森明菜、男性ならカールスモーキー石井が頭に浮かぶ。
好きかというと、熱心なファンではない。どちらも有名な曲しか知らないし。
だから、声の質である。声の向こう側から滲み出てくる切なさ、はかなさ、もろさ、危うさのような部分を勝手に想像し、勝手に好きになっている。
そういう要素は、聖子ちゃんの声にはない。徳永さんの声にもない。女性の高い声と男性の細い声だとそれが出ない。
明菜ちゃんも、昔はもうちょっと高い声だったから、うまいなあと思うのは後期の歌である。
石井さんは歳をとっても声が変わらない。多分、ロボットなのだと思う。
ロボットで思い出したけど、パフュームのようなデ
何の話か、声の話だ。
生き様は顔に出る、という言い回しがある。苦労や努力などがシワを作り、夢や希望が目と表情を輝かせるといったようなことである。
美人やハンサムが必ずしもいい顔ではない。いい顔だなあと感じる顔は、何かが滲み出ないといけないわけだ。
私は声だと思っている。インチキくさい営業マンの声はインチキくさく聞こえるし、プレイボーイの「愛してる」は声が軽いから浮わつく。偉そうに講釈を垂れるジジイも、自己陶酔して難しい理論を披露するおっさんも、言っていることは立派かもしれないが、声に深みがないから何を言っているのかわからない。 歌詞や言葉を荷物に例えると、声は荷台である。荷台が悪いから歌詞が届かない。荷台がしょぼいから言葉がこぼれる。
原稿には音がない。私が書いたことを明菜ちゃんの声で朗読してくれたら、言わんとしていることがもうちょっと世の中に伝わりそうな気がしないでもない。

記憶について 1月某日 晴れ

たまに電車に乗る。
山手線の車窓から上野の公園側の風景を見ていると、初めてデートらしいデートをした時のことを思い出す。16歳の時だったかな。17歳だったかもしれない。
それ以前も女の子と買い物に行ったり食事をしたりすることはあった。
でも、それはデートとは違う。デート風ではあるのだけど、たまたまその時に相思相愛風だった子と一緒に遊びに出かけるという程度のことである。
上野で待ち合わせたその子はちょっと次元が違った。
片想い歴で5年くらいだ。ティーンエイジの5年はとても長い。人生の全てといっても良いと思う。
どういう経緯で会うことになったかは覚えていないが、上野駅の改札口で再会し、2時間くらいのデートが実現した。
ベンチに座って他愛のない会話をした。どういうわけか、デートらしい計画を何一つ立てていなかった。
そのうちに5年間の純粋な思いとティーンの汚れた思いが混ざり合い、頭は思考停止になり行動は制御不能になり、なんやかんやあって、当然のごとく嫌われた。
以来、その子と会うことはなかったし、駅の外に出る機会もなかった。
車窓から見る限りではよくわからないが、アメ横あたりの雰囲気は変わらないにせよ、上野の景色は全体的に変わっているのだと思う。
町が変わるが思い出は変わらない。
パソコンやスマホの機種が変わっても、保存してあるデータは変わらないのと同じである。
不思議なのは、データ(思い出)そのものは変わっていなくても、見方や感じ方は変わるということである。
上野の思い出は、当時の私にとっては苦々しい記憶だったが、今はどちらかというと好感を持って向き合える。もしかしたら、黒い冬の思い出が青い春の思い出に見えるように、記憶そのものが実は脳内で微妙にデフォルメされているのかもしれない。この脳内処理のことを、おそらく老いと呼ぶ。
センチメンタルな話になってしまった(なってない)。

時短について 1月某日 晴れ

時短が好きだ。
できる限り圧縮して、なんでも短時間で終わらせたい。
その観点から見て、私が大発明だと思うものがいくつかある。
その1つがカップ麺である。ラーメンを食いたいと思った時に、ラーメン屋に行き、注文し、食べ、帰ってくるのは、ほとんど小旅行である。
しかし、カップ麺は3分でできる。10分もあれば食べ終わるし、後片付けも終わる。私は2分で食べ始めて3分経ったころには片付け終わっている。
たまに、出来上がるまで5分かかるカップ麺があるが、うまさも大事ではあるが、カップ麺の真の価値は早さである。
1日3食、3分でできるカップ麺を食べている人は、5分のカップ麺を食うことによって1食2分、1日6分、1年なら半日、10年なら5日失う。
3分のカップ麺も完成形ではない。1分で出来るようになれば、1食2分、1日6分、1年で半日、10年で5日の時間が生まれる。
石の上にも3年というけど、3年を1年にする努力は大事、と誰か偉い人が言っていた。松下幸之助かもしれないが、違うかもしれない。2分浮けば、そんなことも十分に調べられる。
コンビニも素晴らしい発明だ。スーパーとか文具店とか薬局とか銀行などを行脚して回る時間をまとめて短縮できる。グーグル検索は図書館に行ったり辞書を引いたりする時間が短縮できるし、電子レンジは煮たり焼いたりする時間が短縮できる。
今後はリニア新幹線ができて通信は5Gになる。もはや期待しかない。
3分が1分になると2分の時間が生まれるように、時短とはつまり、新たな時間を生み出す創造的な活動である。
昔と比べて人間の寿命は伸びたが、様々な時短の発明によって自由に使える時間も増えている。そう考えると、実質的な寿命は平均寿命の伸び(年数)の中に収まらないくらい伸びている。
長生きを目指す方法としては運動したり食事を工夫する手もあるが、積極的に時短術を導入することもできる。仮に時短によって自由に使える時間を倍にできれば、まったりと生きる100年は、時短で生きる50年と時間的には同じなのだと、運動と食事制限をしたくない私は思っている。

感謝について 1月某日 晴れ

ありがたいことである。
今年も新しい年を迎えることができた。年末と正月であっちへこっちへと親族や友人の顔を見にいってみると、万全とは言わないまでも、みんな元気である。ありがたいことだ。
仕事に関しても、昨年から持ち越した仕事がすでに何本もある。とりあえず引き受けたものも含めて見込みだけで計算してみたら、すでに昨年の収入の8割くらいある。無論、見込みに過ぎないわけだから実際にはこれから物書きしなければならない。ただ、正月の時点で年末の収支がある程度見込めている状態は精神的に楽だ。
それはそうと、今だから言えることなのだが、ここ数年の年末年始はトラブル続きだった。火元は私ではない。私はトラブルを起こさないし、そもそもトラブルを起こすほど他人とも世間とも接点がない。
トラブルというものは、こっちが目配りしていないところからやってきて、勝手に火を放つ。気づいた時にはそれなりに炎上している。私には実害はない炎だから放っておいてもいいのだけど、気づいちゃった以上、私はなんとなく火消し役をしてしまう。私は案外、他人思いのところがあるのだ(←!)。
一方で、私は家庭第一主義(←!!)でもあるので、自分が火消し役で関わっているトラブルのことを家には持ち込まない。火消しの苦労を表情に出すこともない。ここが私の素晴らしいところである。(←!!!)
そういうトバッチリを喰らうのがもはや定番になっているかのような気さえしていたのだが、今年は何もなかった。
平穏無事にお正月がやってきた。これもありがたいことだ。
そんなことを思いつつ、正月が明けて何日か経ったときに、ふとカミさんが「今年は平穏ですね」と言った。
要は、家庭には持ち込まず、1人で抱えて処理していたはずの苦悩を、カミさんはわかっていたということである。
私が勝手に苦労を背負い込む一方で、カミさんはその苦労を察し、うまく立ち回ってくれていた。ならば、それも十分にありがたいことだ。
何の話だっけか。そうそう、本年もよろしくお願いします、という挨拶である。

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ライター 伊達直太

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