ライター伊達直太/取材後記2014

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取材後記 2014

取材を受けることについて 7月某日 晴れ

 知人の投資家が、メディアについて次のようなことを書いていた。
 以下、ブログ記事からポイントだけ要約するので、だいたいの意図をつかんでいただければ幸いである。
 過日、氏は刻み値の変更(一部銘柄の取引値を1円から10銭にするといった東証の変更)について新聞の取材を受けた。そして、多くの銘柄については取引がしづらくなるだけで、意味がある変更とは思えないと答えた。また、この変更をよいと考えるトレーダーはほとんどいないと強調した。
 しかし、掲載された記事に、氏の主張は反映されなかった。記事は刻み値を肯定しつつ、氏の主張については「板が見づらくなったとこぼすトレーダーがいる」程度の扱いとした。そういう話である。
 刻み値の変更についてはいったん脇に置く。問題は、せっかく時間を作り、丁寧に答えた人の立場を考えず、都合のよいように記事を作る大手メディアの姿勢とあり方である。
 記事を制作する側に片足の小指くらい突っ込んでいる立場から言うと、いまさらあまり驚かないというのが正直な感想である。過去にも、同じような目にあい、落胆したり怒りを感じて「取材嫌いになった人」たちと会ったことがある。
 そして、そんなことが繰り返される製作者側の理由もアテがつく。制作時間がなかった(無能な人の常套句)。先に記事の方向性が決まっており、それを肉付けするための取材を行った(本来は逆でなければならない)。東証という大手を非難する勇気がなかった(ジャーナリズム精神の欠如)。編集長や会社としての編集方針に逆らえなかった(社畜の弁)。そんなところだろう。
 むろん、大手メディアのあり方を私がどうこういう身分ではないし、言ったところでどうしようもない。ただ、私はたまに、取材をする側から受ける側になることがある。過去には氏のような経験をしたこともあり、そこで自己防衛策を考えた。具体的には、以下の4つである。
 まずは原稿をチェックさせてもらうことだ。ギョーカイではゲラチェックというが、記事として印刷される前に、確認、修正する機会をもらう。そうすれば、発言を間違って解釈されたり、言ってもいないことが活字になってばらまかれるリスクは防げる。ただ、制作時間がない場合は対応してもらえないことがある。また、記事の内容が大きく違っている場合には、修正する手間と時間がかかるのも難点である。
 2つめは、ギャラをもらうことだ。2、3時間の取材を受けるのであれば、相場はだいたい1万円というところだろう。お金をもらうなら、仮に記事の内容におかしなところがあっても、多少は目をつぶることができる。1万円もらったし、まあいいか。そういう気になる人もいるだろう。私はそう感じる。だから、たいていこの方法で対処している。
 3つめは、断ることだ。つまり、触らぬ「紙」に祟りなしである。ただ、これは人間関係の広がりを制限してしまうことに繋がるので、「他人なんてどうでもいいじゃん」と思う私のような人にはおすすめだが、人脈や見識を深めたい人にはおすすめしない。
 4つめは、できあがった記事を見ないという方法だ。これも、私はよく使う。ゲラチェックできず、ギャラもなく、断るのにちょうどよい理由が見つからなかったときなどは、これしかない。自分が関わった仕事を最後まで見届けたいという責任感が強い人には向かないが、知らなければ不快にならずに済むというのも事実だろう。
 ということで、私は基本的に2番目をすすめるが、大切なのは、今回の氏のように嫌な思いをさせられることがないように、あらかじめ自己防衛策を持っておくことだ。いつ、誰から取材依頼がくるかわからないものだ。備えあれば憂いなし、である。記事を作る側に問題があることは明らかだ。しかし、これは制作する側の勝手な希望かもしれないが、そういう状況のなかでも、取材を通じて貴重な意見を述べてくれる人が減らないことを切に願っている。

自称について 7月某日 晴れ

 不愉快きわまりない事件が起きた。
 小学生を誘拐し監禁するという変態による事件である。
 今回のケースでいえば、少女が救出されたのがせめてもの救いである。もちろん、大きな不幸中の小さな幸いというだけであり、当人が心に負った傷の大きさ、深さは想像だにできない。両親、親族の心境もしかりである。拙宅にはボーズがいるが、お嬢もいるので、こういう事件は心底不快でおそろしい。すぐにでも日本版ミーガン法を導入してもらいたいと思う。
 それはそうと、報道によれば容疑者は自称イラストレーターであるという。その伝え方に、ほんのりと報じる側の悪意と蔑みを感じるのは私だけであろうか。
 そもそも、イラストレーターは、事務所などに属さないフリーランスであれば、基本的に自称である。士業ではないから資格はないし、会社員のような身分もない。その点は、私のような物書き商売も同じで「絵を描いて喰います」と言えばその時点でイラストレーターとなり「文字で喰っています」と言えばライターである。逆に言えば、医師免許を持たない人が医者だと名乗るのが自称医者である。自分はどこどこ社の社員だと名乗るフリーターは自称会社員だ。自称が当たり前の商売に、わざわざ自称とつけ加える必要性は見当たらない。
 では、なぜあえて自称とつけるのか。
 あくまで私の想像ではあるが、その理由は、大手出版社やテレビ局といった、安定的で、社会的に比較的高い身分を持って生きている人たちが「フリーランスだかなんだか知らないが、会社に所属せず、ふらふらと生活している身分の人たち」と見下したものの見方をしているからではないだろうか。さらには「ニュースを見ているみなさん、自称で商売しているような人たちって、やっぱり根本的な部分で信用ならんですよね」というメッセージすら込められているような気もする。
 同じことが、ろくでなし子という芸術家についても言えるだろう。彼女は自称芸術家として報じられた。芸術家も、自称が当たり前の存在である。そこにあえて自称とつけることにも、報じる側の視点の歪みがあるのではないか。
 むろん、監禁した犯罪者はしかるべき罰を受けるべきである。芸術家によるアレの3Dデータ配布は、芸術家でも法律家でもない私には犯罪に相当するのかどうかすらよくわからない。そういう話とはまったく切り離したうえで、報道に歪んだフィルターがかかっていると感じるのは私だけではないだろう。こういう報じられ方が当たり前に横行するということは、世間にはいまだ肩書きで人を判断するという古すぎるフレームワークでものごとを判断する人がたくさんいることの表れなのかもしれない。無職とほぼ変わらない私から見れば、肩書きほど信用できないものはないと思うのだけれど。

反転について 6月某日 晴れ

 日本株が反転したようだ。
 毎夜、ニュース番組の画面端っこに前日比80円とか100円などといった数字が出る。たまにマイナス30とか70といったローパスが出る日があっても、翌日にはNYが気持ちよく高いパスを戻してくれるから、ちゃっかりプラ100くらいのゴールが決まって前々日を上回ったりしている。サッカーのことはなんにも知らないが、小気味よいパスワークが決まっているように見える。
 しかし、である。己の買い持ち銘柄に限っていえば、どういうわけか含み損がふくらんでいる。私が選りすぐった代表メンバー(銘柄)たちは、なぜにこうも不調なのか。サッカーなら曲げ球を蹴れる人がよいのだろうが、相場の曲げ師ではどうしようもない。
 見ている売買のポイントは昨年末から変わっていない。そのときは、ここだけの話だが、儲かった。勢い余ってレクサスでも試乗しに行こうかと思ったほどである。結論からいうと、行かなくてよかった。いまは中古のコンパクトカーですら高くて手が出ないと感じる。さて、この現状はどう説明できるのか。
 おそらく、売買のトレンドや大口の手法やテーマの選別基準が変わったのだろう。いろいろなものが大きく、すごいスピードで変化している。そのなかで、自分はなにも変わっていない。そこが根本的な問題であるということだ。お笑いに喩えるなら、10年前に流行ったギャグを全力で披露しているようなものかもしれない。だとすれば、儲からなくて当然である。ある事情通によると、ジャージ姿で歌って躍る2人組コメディアンが、10年前のギャグでいまなお稼ぎまくっているらしいが、そういうミラクルも起きそうにない。なんでだろう。
 まあ、いま儲けなくていつ儲けるんだという気がする一方、下手に動くと骨折が複雑骨折になって引退に追い込まれそうな気もするので、ここはとりあえず「放ったらかし投資法」、別名、相場という見えない力にお任せいたします法という最終手段に出ることにする。私にとっての相場は、基本的かつ全面的に「他力本願」である。思えば、これまでの人生も他力本願でどうにかなってきた。ならば株もどうにかなる。その日に備えて、歓喜のカズダンス(古いよ)は少し練習しておこう。

反省について 6月某日 晴れ

 日々バタバタしていると、反省する時間がなくなるものだ。
 しかし、幸いなことに、私にはボウズを寝かしつける時間がある。暗闇のなか、とくにしゃべることもなく、スマホを見たりするわけでもないこの時間は、反省するのにちょうどよい。さらに幸いなことに、反省することは山ほどあるからネタにも困らない。今日はこれができなかった。今日はこんなことをしてしまった。そういうことを鬱々と考えていると、気づけばボウズは夢のなか。私は自己嫌悪を通り過ぎ「明日こそは」という希望に包まれる。他人がそういう時間を作っているのかは知らないし、とくに興味もないが、私は案外大切だと思っている。
 とはいえ、せっかくの反省ではあるが、案外翌日には生きていない。たいてい、反省したはずのことをくり返す。つまり、やってはならぬことをやり、やらなければならないことをやらない。そして、再度反省の夜を迎えることになる。我ながら自分のふがいなさに辟易とするが、そうなる原因も分かった気がしている。
 要は、寝てから起きるまでの間に、反省したことを忘れているのである。
 だから、最近は朝起きてから昨日の自分を反省することにしている。布団のなかで目覚めてから、ボウズが目を覚まし、走り回り出すまでの時間であれこれ反省し、今日はこれをやろう、これはやらないようにしようと考えるわけだ。私は寝付きは悪いが目覚めはよい。二度寝することもない。血圧も低くないから、頭はすっきりしている。目覚めて3秒もすれば、3桁のかけ算くらいならできる。同じような体質の人がいたら、ぜひこの方法はオススメである。
 習慣が変われば人格が変わる。
 賢い誰かがそのようなことを言っていた気がする。むろん、俗塵と私欲にまみれた私はそこまでの高望みはしないが、少なくとも1日の満足度は少し高くなった気がする。それで十分だろう。ちなみに今日は、昨日の反省点をしっかり踏まえて生きている。いまのところ100点の1日である。まだ朝の9時だけど。

変えることについて 6月某日 晴れ

 数年来のお付き合いがある会社が、今春から社名を変えた。
 社会的には珍しいことではないかもしれないが、よくよく考えると面倒なことだ。手間もかかるしコストもかかる。看板は掛けかえなければならないし、名刺も刷り直しである。その会社は自社製品も持っているからパッケージも作り直す必要があるし、メールアドレスも変えなければならない。
 それだけの資源を投じてでも社名を変更すると決めた理由はなんなのか。それを聞く取材が今日の仕事であった。
 理由は、すでに業界内でよく知られている自社ブランドがあり、それをさらに普及させるために、社名をブランド名に変えたのだという。すごくわかりやすくいうと、赤木乳業といってもピンとくる人が少ないので、社名をガリガリ君にするというようなことだ。
 ブランドは、会社の財産であり、資源である。それを有効活用するために、資源を投じて効率化する。頭がよくない私にも、その戦略はすんなり理解できた。
 ここでもう1つ重要なのが、業績がよいときにそのような変化を取り入れるということだ。近年、その会社は業績をV字回復している。業績が落ち込んでいるときではなく、右肩上がりになってからそれを行った。そこが重要だ。というのも、何かしらの変化を取入れ、あるいは新たな挑戦をして、業績などのブレの幅が大きくなっても、業績がよければ吸収できるからである。また、調子がよいときほど思考がポジティブになりやすく、自信が生まれ、積極的な姿勢になる。それもよい結果につながる要因になる。だから、何かを変えるなら、調子がよいときにやる。逆に言えば、調子がよくないときはじっとしておく。これは、社名に限らず、商売のあらゆる点、ひいては人生のあらゆることに通じる重要なセオリーなのではないか。
 社名についても、業績悪化から抜け出す転換点を作るために変えるケースがよくある。わかりやすい例が、事件や事故によって悪いイメージで社名が世に広まったので、心機一転をはかるために社名を変えるといったケースである。しかし、セオリー的に言えば、その効果はあまり期待できない。調子が悪いときは、下手にじたばたするよりも、雨がやむのを待つほうが多分よいのである。
 話はそれるが、ギャンブルも同じである。当たるときはどんどん当たる。外れるときは何をやっても外れる。そこに感覚を向けると、勝ちやすくなるし、負けづらくなる。私があまりギャンブルで負けないのも、多分そこに理由がある。経営はギャンブルではないし、ギャンブルは経営ではないが、調子を読んで行動を考え、コントロールするという点で共通する部分もあるのではないか。
 むろん、ずば抜けた才能と運を持つ人は、調子の良し悪しなど関係なく突き進み常勝する。でも、そういう人はごく一部であり、自分がその一部ではないことを前向きに自覚することも大切である。と、最近調子がよい私は、謙虚さという新しい要素を取り入れて、多少の変化を取り入れてみたい。

睡眠時間について 5月某日 晴れ

 取材や打合せがない限り、夕方に1時間ほど公園に行くのが最近の日課である。理由は、自然に触れるためと書けば聞こえがよいが、なんのことはない、走り回りたい盛りであるボウズの世話係である。
 とはいえ、自然のなかに身を置くことを、目的としていないわけではない。「1日10分は自然と触れたほうがよい」という話を、どなたがおっしゃっていたのかは忘れたが、取材で聞いた。成功者の言動を素直に真似るのが私の信条であり、さっそく取り入れたというわけだ。
 公園は人工物ではあるが、木や草や虫や風や日光など、自然のものも存在している。そもそも、ボウズが自然である。公園で過ごしている間に触れる要素の6分の1が自然だとすれば、そこに1時間いれば、1日10分自然と触れたことになるという計算である。
 そんなわけで日々公園に行くようになると、当然、その時間は仕事ができないから、ボウズが寝てからやることになる。おかげで寝る時間は遅くなり、朝は相変わらず、ゴルフに行くときよりも早く起こされるから、結果として睡眠時間は減り、活動時間が増える。
 ただ、おそらくいままでの睡眠時間が長かったのだろう。1、2時間減ってもなんともない。むしろ目覚めはよいし体調は最高である。
 これは、じつはものすごい発見ではないか。なにしろ、人に与えられている時間は平等である。1日1時間多く起きているということは、あと40年生きるとして1万4600時間もの活動時間を手にすることになる。それだけあれば、たいていのことはできる。私は、ヒト、モノ、カネよりも時間という資源がもっとも重要だと思っているクチであるから、これはうれしい。たまっている仕事も、これで片付く算段がつく。借金返済の目処がついたときのような感覚だろうか。
 つまらない映画を見て2時間無駄にすることがある。内容の薄い会議に出たせいで時間を浪費することもある。待ち合わせ時間を守らない野郎のせいで、毎度しつこい営業電話のせいで、愚痴を聞かされるだけの飲み会のせいで、渋滞のせいで消えた時間は膨大だ。しかし、そういうことですら、1万時間以上も手に入ることがわかったいま、苛立たなくなった。
 寝不足でイライラするという人もいるが、それは多分ちがう。
 寝不足はイライラ解消になるのである。

金回りについて 4月某日 晴れ

 我ながら年始から3カ月間くらいはよく働いた。
 例年であれば少々ひまになるはずの時期だが、ありがたいことにあちらこちらから声をかけていただき、よく言えば幅広く、実態は節操なく、多種多様の原稿を書いたり、依頼したり、直したり、組んだりした。関係各所に送りつけた請求書の数もなかなかである。
 しかしながら、そんなこんなでかき集めたお金が、すさまじい勢いで出て行く。最大の原因は相場というブラックホールにあるわけだが、ほかにも、バッテリーがダメになったり、給湯器が壊れたり、ポットが壊れたり、ここぞとばかりにいろいろなものが修理、交換、買い替えである。当初は、シーザーのように「ポット、お前もか」と嘆いていた。追い討ちをかけるように、税金や年金も残額を減らした。
 しかし、人というのはおかしなおもので、不快感が単純に積み重なるわけではないらしい。あるところまでいくと、あきらめがつく。きっと、マイナスとマイナスをかけ算するとプラスになるのと同じ原理だろう(ちげえよ)。あるいは、これが世に言う悟りであり、無抵抗主義なのかもしれない(ちがうって)。
 あと1カ月もすれば、固定資産税ももれなく取られるであろう。住民税も持っていかれる。しかし、もはやダチョウ倶楽部の心境である。つまり、どうぞ、どうぞ。去るものを追っても仕方がない。そのうちに仕事のバブルと相場のバブルをダブルで味わえる昇天の時期が来るだろう(こねえよ)。
 ところで、間もなくやってくGWは、今年は日の並びがいまいちであるらしい。カレンダーを見てみると、確かに長期旅行は計画しづらそうだ。昨年の円安株高の流れから給与が上がる期待をふくらませているサラリーマン諸氏やその家庭の面々には、冷や水とはいわないまでも少々フラストレーションがたまるカレンダーかもしれない。沖縄へ行きたかったのに。ワイハにだって行けたのに。仕方がないから、どこぞの浜辺にでも行き、旅館に泊まって我慢しよう。そんな声すら聞こえてきそうだ。
 個人的には、そんなもんでちょうどよいと思う。ついこの間まで近所の遊園地で満足していたデフレ慣れの市民が、突然南国に飛んだりすれば、感覚が壊れても不思議ではない。ベンチマークが上がって、次は離島で1週間過ごす、その次はヨーロッパを回っちゃうなどと、休日の過ごし方のレベルが底上げされる。そこにバブルの原因があるのではないかと疑っている。
 そう考えれば、私の口座残高が年始より減っているのも、感覚をこじらせて新車を買ったり、神戸牛を食べたり、クラブのおねーちゃんにお小遣いをやったりしないように、壊れていく日用品らが、冷徹な税が、腑抜けた相場がたしなめてくれているのだと言えなくもない。そう考えたほうが精神的には楽である。うまいものは、いつでも喰える。あとで喰えばいいし、喰いたいもんがあるうちが幸せなんである。

自販機について 4月某日 晴れ

 毎週、ボウズを連れてファーストフードを買いに行く。テイクアウトして、家で楽しく喰う。いつからそうなったのかはわからないが、気づけばそれが毎週のイベントになっている。
 ファーストフードは嫌いじゃない。ボウズもそれなりに喜んでいるようだから、それでよい。ただ、やせ型の私はちょっとやせた。ボウズはなんだか丸くなった。ファーストフードが健康や体型に及ぼす影響は、子どもと大人で違うのではないか。そのあたりについて詳しい方がいたら、ぜひご一報いただけませんか。事実関係次第では、習慣を変えたいと思います。
 それはさておき、最近になってその店のサービスが著しく低下している。注文したコーヒーが入っていない。コーヒーはあるが砂糖がない。砂糖はあるがマドラーがない。砂糖とマドラーはあるがナゲットのソースがない。全部あるけど、優待券の分まで料金を取られている。挙げればきりがなく、気づけばそのような失態に苛立つことも毎週のことになっている。私がちょっとやせたのは、そのせいかもしれない。最近は、レシートをその場で見直すことはもちろんだが、受け取ったテイクアウトの袋を店の端っこで開けて、まちがいがないかどうか確認するようになった。店員から見れば、疑われているようで気分が悪いかもしれない。実際、疑っているんである。
 私はかねてから、できる限り自動販売機で売ればよいと思っている。つまり、販売員を極力減らして自販機に置き換える。ファーストフードはもちろん、洋服も家電も自販機で売る。銀行がATMをフル活用している時代に、できないことではないだろう。ネット通販も、本質的には自販機である。そして、流行っている。だから、なぜ販売員を置くというジョーシキがいまだに存在しているのか不思議でならない。
 もちろん、飲食店なら調理、洋服や家電の販売店なら商品の補充などがあるだろうから完全に無人とはいかないだろうが、少なくとも人件費は減らせるだろうし、マニュアル化を徹底する手間やコストも減る。機械は絶対にマニュアルで動くからである。
 当然、注文を受け間違える、商品を出し忘れるといった人によるミスもなくなる。ポテトのLを頼んだはずが、Mが出てきたとしたら、機械が壊れていない限り、てめえがボタンを押し間違えたせいである。そういう潔い社会で、少なくとも私は買い物の満足度は上がる。人口減少でアルバイト確保が難しいという問題すら解決できるかもしれない。
 そもそも「人の手を介してモノを受取ったりお金を渡したりする」というコミュニケーションは、過大評価されているのではないか。
 愛想がよいのは大切なことである。道で人とすれちがったら挨拶したほうがよいだろう。私はする。でも、買い物にまでそのようなコミュニケーションが必要だろうか。必要だとしたら、その理由は何か。そこが私にはわからない。弊害があるという人もいる。しかし、具体的にどういう弊害があるのか。機械が相手ではぬくもりがないというなら、メールもSNSもLINEもすべて冷たいということになる。雇用が守れないというなら、自販機を作ったり管理するほうで増やすことができる。
 考えれば考えるほど、よい案だと思う。いいや、だめだ。ここが致命的だというご意見をお持ちの方がいたら、ご一報いただけませんか。

値引き商品について 4月某日 晴れ

 貧乏話をするのが好きな人は多い。
 しかし、貧乏な人と好んで話す人は多くない。
 取材の帰り道、住所不定の暮らしをしていそうな風情の人たちが酒盛りしているのを見かけて、誰かがそう言っていたのを思い出した。
 私はその人たちのように気合いが入った貧乏ではない。ただ、別世界にいるかというと、案外近いと思う。いまの私と彼らを隔てているのは、ひとことで言えば、運のよしあし、勘のよしあしだけだからである。
 具体的にいうと、リッパな大人の方々は、あらゆる場面で「当て」に行く。シングルヒットを重ねて1点取る。それができる人は、気合いが入った貧乏にはなりにくい。このコツコツの努力や成果を語ることが、ようするに貧乏話である。一方、私はあらゆる面でリッパではないので、たいてい「外角低めのカーブに違いない」と決め打ちする。だから、三振は多い。でも、運と勘のおかげで、ごくたまに3ベースヒットが出る。それだけの違いにより、気合いが入った貧乏になっていたかもしれない自分が、まあまあの暮らしをしている。考えてみれば、おっかない人生である。
 それがわかっているから、日常の行動も貧乏くさくなる。貧乏くさく生きることが、貧乏にならないための防衛策になるからだ。
 たとえば、スーパーでは値引き札がついた商品を何も考えることなく買う。2割引のトマトを買い物かごに入れる際に、トマトが食べたいかどうかは問題ではない。2割引で売られていることが大切である。2割引ということは、8割喰えればトントン、9割喰えたら得である。牛乳なら、賞味期限内に8割飲めばトントンだし、もしかしたら10割飲めるかもしれない。そのチャンスを逃さないことが防衛策であると思う。チャンスは貯金できないからである。
 そういう意味で、買い物はギャンブルである。半分しか喰えなかったら「今回は賭けに負けた」と思えばいい。ちなみに、このギャンブルは買い手にかなり分がある。勝率はかなり高い。日本のスーパーマーケットはどこも良心的だから、1割腐っているものを1割引で売ることは少なく、たいてい2割とか3割引で売る。ほぼ確実に「さや」取りできるのである。
 ただし、これがBSEとか鳥インフルエンザになると話はまったく別である。
 牛肉や鶏肉も安いほうがいいじゃないかという人もいる。でも、それは買い手にとって分が悪い。病気にかかるかもしれないリスクは「ある」か「ない」の2つしかないので「2割引なら8割以上喰えればいい」といった勝算の見通しが立たないからだ。健康被害のリスクがある肉が全体の0.1%であったとしても、運悪くその0.1%を引いたら100%負けである。単純計算で考えれば、1000回喰えば1回は「ある」を引く。仮にその肉が半額であっても、半分以下なら喰って大丈夫というわけではないので、逃げ道がない。私のギャンブル観でいえば、それはロシアンルーレットである。同様のことが、出所や製造過程がよくわからない外国産の食品に関してもいえるだろう。
 でも、世の中は厳しいから、家計が厳しいなどの理由でそういう食品に手を出さざるを得ない人もいる。庶民である。コツコツ派の大人らしく食費を切り詰めるために安いものを探していった先で、そのようなリスクを取ってしまうことがある。ロシアンルーレットに参加してしまうことがある。そうならないために、余計なお世話ではあるが、安いものを買うことが貧乏の防衛策になるのではないと書いておこう。逃げ道がちゃんとあり、得する勝算が計算でき、安い。この3つが揃ったものを買うことが防衛策なのである。

新幹線について 3月某日 晴れ

 今年に入り、すでに3回も新幹線に乗った。西へ2回、東へ1回。
 個人的には、電車は乗るよりも見るほうが楽しそうだ。理由は単純で、乗っているときには電車の姿が見えないからである。かつて北野武氏が、自分のポルシェを弟子に運転させて、その勇姿を眺めるために後ろからタクシーで追いかけたと言っていた。その気持ちが、なんとなくわかる。モノの愛で方はさまざまだ。私はおそらく、使うよりも並べて眺めて悦に入るタイプなのだと思う。
 それはそうと、新幹線の名称といえば、ひかりちゃん、のぞみちゃん、つばさくん、さくらちゃん、こまちちゃんなど、「ちゃん」や「くん」をつけて呼びたくなるものが多いように感じていた。もちろん、はやぶさとかやまびこなどもあるけれど、個人的には人の名前っぽいところに親近感があった。
 しかし、2015年開業の北陸新幹線は、その流れを継がないらしい(そんな流れがあるというのは私の勝手な思い込みだが)。名称は、かがやき、はくたか、つるぎ。それもそれで悪くはない。でも、親近感はどうか。もう少し「人」に寄せてほしかった。最近はキラキラネームというジャンルが確立されているから、もしかしたら、かがやきちゃんや、つるぎくんなんかがすでにいるのかもしれないが。

アナウンスについて 3月某日 晴れ

 浅草か、そのちょっと先あたりまで行き来する場合、拙宅の場合、電車よりもバスの方が便利である。
 先日も都心でちょっと仕事があり、帰りに浅草でどら焼きを買ってくるというお使いを無事に果たし、バスに乗って帰ることにした。晴れた日の平日の昼下がり、とくに急ぐわけでもなく、急いだってたかが知れているから、バスはちょうどよい。おまけに乗客は9割9分ジジババであるから、なおさらのんびりムードである。おっちゃんと呼ばれて自然と振り返るこの年になると、取材や打合せで自分がもっとも年下となることはほぼない。しかし、平日のバスはちがう。おっちゃんは、この狭い空間の中ではヒヨッコなのである。
 それはさておき、バス内のアナウンスで気になるものがあった。それは、所轄警察署によるもので、要約すると以下のようなものである。
「最近、夜間のお年寄りの交通事故が増えている。ドライバーに気づいてもらえるように、反射板のついた服などを着て、自分の存在をアピールすることが大切」
 まあ、重要なことである。年寄りであっても夜間に外出せざるを得ないことはあるだろうし、耳が遠かったりとっさによける運動神経が鈍っているかもしれないから、対策するに超したことはない。
 気になったのは「アピール」という言葉である。
 はたして年寄りにアピールという言葉の意味がわかるのだろうか。
 私には93歳になる長命で元気なババアがいる。自炊もできるし買い物にも行く。それこそ夜間にコンビニまで出かけることもあるだろう。
 でも、アピールという言葉は分からないはずだ。バスに乗り合わせたジジババを見ても、反応は薄い。それじゃあせっかくのアナウンスも意味がないだろう。
 こういうアナウンスも、録音するためには原稿を作るはずである。原稿があるということは書き手がいる。
 むろん、商売として物書きをしている人であれば、ジジババ相手にアピールという言葉を使うことはないだろうから、その原稿を書いたのは素人だろう。つまり、警察関係者の誰かである。
 昨今は公務員であってもちょっと経費を使うのに気を使うという話をどこかで聞いたことがあるから、この程度の原稿は課内で作っちゃいましょうということなのかもしれない。勝手な想像だが、アピールという言葉を使い慣れている若い人が任されたのではないか。
 しかし、たとえ安く収まったとしても、伝わらなければ無駄遣いである。反対に、いくらか金がかかっても、年寄りの事故が減り、昼間のバスがジジババで埋め尽くされている現状が維持できるのなら、金をかける意味は十分にある。
 ものづくりにおいては、作り手より使い手の方が大切だとよく言われるが、原稿もものである以上、書き手より聞き手や読み手の方がはるかに大切である。偉そうなことは言えない。自分も物書きとして初心を忘れることはいくらもある。そんなことを考えつつ、ふとババアに反射板がついた何かを送りつけてやろうかと思った。
 ヒヨッコのくせに、すでにもの忘れが多い自分に向けた備忘録として、ここに書いておこう。

無力さについて 3月11日 晴れ

 3年が経った。
 もう3年。まだ3年。いろいろと感じるところはある。
 私は精神的に強いほうであり、誰に何と言われよう何をされようと屁とも思わないか気づかない鈍感であるが、3月11日は弱くなる。何の心配もなく、苦労もなく過ごしている当たり前の日常が、ある人にとっては失われたものであり、取り戻せないものであるかもしれないという思いが、何をしていてもふと湧き上がってくるからである。
 新年や誕生日など、さあ今年はこれをやろうとか、こういうことに挑戦しようとか、ここを変えようといった決意をするタイミングはあるが、私にとってのそれは、もしかしたら今日なのかもしれない。
 大切に生きようと思う。丁寧に生きたいと思う。できることは何でもやらなければならないと思う。そう考える私は、被災地の人たちの力になるのだといきがってはいるが、結局のところ、じつは力をもらっているだけの情けない存在である。
 春めいてきたとはいえ、ちょっと寒い。身体をこわしたりすることがないよう祈ります。少しでもよいことがありますように願います。できる範囲で、できる限り応援します。祈り、願い、応援することしかできないいまの私は、なんと無力なことか。

合流について 2月某日 晴れ

 私は、性根こそひん曲がっているが、行動は紳士的である。
 女性がいれば、見た目の良し悪しに関わらずドアを開けてやるし、ババアが重たそうな荷物を持っていれば、代わりに持ってやることもやぶさかではない。
 運転についても、きわめて紳士である。測道から車がくれば、たいてい入れてやる。右折待ちしている対向車がいれば、可能な限り通してやる。それがよいことだとは思っていないが、当たり前だとは思っている。そういう教育を受けたからなのかもしれないし、そういう環境で育ったからなのかもしれない。
 ところが、世の中には私の理解を超越した運転をする人がいる。
 その典型例といえるのが、二車線の合流で、左右から1台ずつ順番に入っていけばいいだけのところ、目の前の車にびったりとくっつき、頑として入れてやらない姿勢を貫き通す野郎である。
 先日も、ちょっと先で事故があったらしく、合流しなければならない場面があった。夕暮れどきの環七はノロノロであったが、苛立つほどのことではない。数百メートルも行けば、また二車線に戻って快適に走れることがわかっているからである。
 さて、左側を走っていた私は、任意のところで右車線に入れてもらうためにウィンカーを出す。そこで、野郎の登場である。ケツの匂いでも嗅いでるんじゃねえかと思うくらい目の前のトラックにびったりとくっついて、入れてくれない。ふと、もうちょい寄せて争ってやろうかと思ったが、めんどいのでやめた。代わりに面をおがんでやろうと車内を見たら、ドライバーは、40代後半くらいのぱっとしないおっさんであった。
 何をそんなに急ぐことがあるんだろう。
 仮に職場に戻り、今日の営業結果を報告しなければならないのだとしても、度量の小さなおっさんの成績には上司だって期待してはいないだろう。
 仮に食事会があり、それに遅れそうなのだとしても、度量の小さなおっさんは「あ、来たんだ」的なことを言われる程度で、場を沈ませるのではないか。
 仮に家族がいて、早く帰りたいのだとしても、はたして家族だって度量の小さなおっさんの帰りを待っているかどうか。
 意地悪いことを言うようだが、私が上司なら、知り合いなら、家族なら、多分そう感じる。
 急いでいる人ほど、往々にして「急いで来なくてもいいのに」と思われているものだ。そして、急がない私には、ありがたいことに「遅かったね」「待ってたよ」と言ってくれる大切な人たちがたくさんいるのである。

デフレ脱却について 2月某日 晴れ

 年が明けてしばらくすると、もの書き商売は少しヒマになる。
「年末年始と比較して」という相対的なヒマだが、年始に配布する会社関連の資料も、雑誌やウェブなどの新年号も、場合によっては2月発行予定の分まで年末に入稿してしまうから、その反動で余裕が生まれる。増税前の駆け込み対応が忙しく、増税後にひまになるようなものだ。
 そこで、たまにはどこかへ出かけようと考えるのだが、いまいち行きたいところが思い浮かばない。寒いのが嫌なので必然的に室内で暖かい場所に限定され、かといって室内の場合は、人が多いとかぜをうつされるから困るので、結局のところデパートかファミレスに行くことが多い。それはそれで楽しいので、ヒマつぶしにはちょうどいい。
 我ながら、どこかへ出かけたり、何かを買ったりして消費する積極性が薄れたと感じる。共感してくれる同年代も多いはずだ。むろん、原因はおっさんになったせいではない。ニューノーマル消費という言葉にある通り、社会全体として、それまでの消費パターンやマインドの質が変わった。つねに付加価値を求めて、贅沢し、遊び、人よりもワンランク上の何かを持ったり経験しても、期待している以上の満足感や幸福感が得られないと気がついてしまったということだ。それなら、消費にメリハリをつけて、最小限のお金で最大限の楽しみを得る方法を考えたほうがいい。何を喰うかより誰と喰うかを重視するようになったと言ってもいいだろう。
 出すとこ、出さないとこを明確にしつつ、コストパフォーマンスを考える。拙宅はその典型で、デパートに行くのはメリハリある消費をするため、ファミレスに行くのはコストパフォーマンスがよいという点で説明できるのではないか。
 家計はどうだろうか。
 収入を増やし、その分だけ消費することに憧れるのがオールドノーマルの価値観だとすれば、収入を踏まえ、その中でもっとも豊かになれる暮らしを実現することがニューノーマルの価値観であるからだ。PLではなくBSで家計を考えることといってもいいだろう。
 たまにテレビをつけると、着ている洋服の値段でランキングをつけたりする下品な番組がやっている。もっと下品に、お金持ちが住むウン億円の家にあがりこんだり、彼らが持つスーパーカーなどを見て貧乏臭く驚いたりするものもある。そういうのも、きっともう流行らない。そこに、ニューノーマルの代表選手ともいえる若者がテレビから離れる原因があるのではないかとも思う。
 そう考えると、簡単にデフレ脱却とは言うが、結構な難題ではないかと感じる。高いお金を払ってまで手に入れたいものはあるか。やってみたいことはあるか。少なくとも、いまの私には思いあたるものがない。

大幅下落について 2月某日 晴れ

 しがない庶民の微少な株に乗っかっていた莫大な含み益が、この1週間でどこかへ消えた。
 どなたか私の口座にあったウン万円の行方、ご存知ありませんか。
 どなたか私の口座の「含み益」の文字を「含み損」に変えた犯人をご存知ありませんか。
 きっと、同じように感じている人は多いだろう。
 高いなあと感じつつ、やっぱり高かった。高いものは低いところに落ちる。それが今月だとは思わなかったが、外国人がちょっと引いただけで、どれもこれも目を見張るほど落ちてしまうのがいまの日本株の実態なのだろう。そういう状況の中で、米国の株安に連鎖する「連れ子」になる必要はないと語った大臣がいるが、こういう人は早く辞めたほうがいいと個人的に思う。必要があるかどうかの話ではなく、実態としてそうなっていることが問題であると気づいていないからである。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 おもしろいのは、落っこちたものが、いつ、どれくらいまで上がるのか、はたまた上がらないのかを考えることだろう。もちろん、その答えは結果論でしか分からないから、早々に上がると考えるならもう1回買い直すし、まだ下がると考えるなら残っているものを売り飛ばす。
 優秀な人ほど決断が早く、その決断は市場を引っ張る力となり、相場に反映されるだろうから、迷っている時間はそれほどない。
 さあ、どうしようか。考えていたらいつの間にか夜中になってしまった。
 そういえば、ある専門家が年初に日経平均1.8万円、ドル円110円と予想していた。一流の経済新聞に載ったその記事を読み、ホントかよ、そんなにうまくいくかねと感じたのを覚えている。そう考えれば、直感は案外ばかにできない。だから、今回も最後は直感で決めよう。
 それにしても、おもしろいなあ、株は。

迷惑電話について 1月某日 晴れ

 都知事選をやるらしい。
 私は都民だが、興味がないから、誰が出ようが、誰と誰が組もうが「へえ、そうなの」くらいにしか思わない。やってもよいし、やらなくてもよいが、やるんだったらせめて静かにやってほしいというのが個人的な感想である。
 とくに毎回選挙のときにかかってくる「誰々に投票をお願いします」といった電話はどうにかならないものか。
 電話は、受ける側の都合が考慮されない。こちらが寝ていようと、原稿に悩んでいようと、便所に籠っていようと、そんなことおかまいなしでかかってくる。そういうのを迷惑電話というのではなかったか。
 出ないという選択もあるが、仕事相手かもしれない可能性を考えると、そうもいかない。
 どうせ選挙の電話だろう。でも、仕事相手かもしれない。出てみる。やっぱり選挙の電話か。切る。
 労力的にも時間的にもたいしたことではないと言われればそれまでだが、いちいち腹が立つのは私の心が狭いせいだろうか。いいや、ネット全盛の時代に電話を使うからだろう。
 ネットは、こちらの都合が反映される。見たい人がサイトを見に行けばよいし、メールは勝手に送られてくるが、読まずに捨てればいいわけだからストレスは小さい。なんでそんなに便利で都合がいいシステムがあるのに、相変わらず電話なのだろうか。私が新米の母親で、生後2カ月の子どもをやっとこさ昼寝させたばかりのスーパー寝不足な状態だったら、待機児童どうこうよりも、まっさきにこの点を非難するだろう。結局、生活者のために働くといったことは言っていても、そのために不可欠な生活者の暮らしをリアルに想像する力が徹底的に欠けている。そういうがさつで勝手なところが、私はすごく嫌なんである。
 そんなことに腹を立てつつ、ふと電話機を見てみたら「おことわり」という何だか非常に役立ちそうなボタンがついていることに気がついた。押したことがないからどうなるのかわからないが、無用な勧誘や営業を含めたあらゆる迷惑電話と永遠に縁を切れる可能性を求めて、さっそく試してみようと思う。

車の買い替えについて 1月某日 晴れ

 街中に高級車が増えた。
 ある知り合いがそう言っていた。
 確かに、そうかもしれない。都内を移動しているせいかもしれないが、外車はまったく珍しくないし、アウディやビーエムは見飽きた感すらある。
 気になったので車事情に詳しい別の知り合いに聞いたところ、実際、ちょいとお高い新車がよく売れているのだそうだ。
 車の買い替えサイクルが7年くらいであるという話をどこかで聞いたことがある。高級車に乗る人たちのサイクルはもう少し短いだろうが、仮に5年くらい乗るとして、その間に消費税が倍になると考えれば、いまがおそらく買い時なのだろう。税金に取られる分をセーブできるのだから、ちょっとグレードを上げてもいいだろう、オプションをつけてもいいだろう。そんな感覚で、ちょいお高い車を手に入れているのではないか。もちろん、私の想像である。
 だが、それってけっこうおっかないことではないか。
 世間的には、株高円安の去年は大きく儲かった1年だったかもしれない。実際、日経平均は57%上昇し、ドル円は18%下がった。しかし、賃金はどうかというと、じつは数パーセントしか上がっていない。
 そのような環境のなかで「去年の好景気が今年は給与に反映される」と考えて高い買い物をしている人がいたとすれば、景気がこけた場合や、給与が増えるまでに想像以上の時間がかかった場合に受けるダメージはでかい。他人のことだから放っておけばよいのだが、やっぱりおっかないと思う。
 一方で、仮に無理して、あるいは世間の流れに押されるようにして新車に飛びついちゃった人が、新車をほぼ新車で手放しはじめると、中古車店に上物が並ぶようになる。その数が多いほど値段も下がる。
 新車にこだわらないのなら、そこは案外狙い目ではないか。
 もちろん、景気がこけるとは限らず、国全体としてこけない方がよいに決まっているが、昨年からの好景気の波に乗り遅れた人や乗り切れていない人には、そういう得の取り方もあるのではないかと思う。
 たとえば、私である。拙宅の車は、そろそろ買ってから7年になる。
 増税前に買おうとは思わない。でも、増税前に誰かが買った車が安く市場に出てくるのは、正直なところ、少しだけ待ち遠しい。

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ライター 伊達直太

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