ライター伊達直太/取材後記2009

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取材後記 2009

寿命 12月某日 晴れ

いくら優良企業でも、永遠に存続することは難しい。それを端的に示したのが、「会社の寿命30年」説でした。ただし、これは26年前に提唱された説。いまはもっぱら、会社の寿命は20年とい説が支持されているようです。
2009年は1万数千の会社が倒産し、前年比で5%ほど増えているそうです。そのうちどれくらい寿命だったのかは知りませんが、日本の存在する企業に、戦後間もなく生まれた50歳代の会社が少なくないという現実は、私たちが心のどこかで信じてきた、大企業だから大丈夫という定説を、少なからず脅かします。JALですら危うい時代のなかでは、もはや大丈夫という保証が付く会社は、私たちが想像している以上に少ないともいえます。
単純計算で考えれば、人生40年を会社勤めに費やすとして、2つの会社を、創立から倒産まで渡歩くということになります。にわかには想像しにくいことです。しかし、平均では、数字がそういっている。会社が、創立、発展、成熟、衰退といった山型の流れを辿るとすれば、さて、いま会社はどのステージにいるのか、どのくらいこのステージにいるのか、働き手は、かつてないシビアな目で、客観視しなければなりません。ようするに、犬小屋の寿命と犬の寿命は別だということ。考えてみれば、車にしても家にしても、人以上に長い寿命を持つものは、案外少ないのです。
それにしても、20年とは短い。もっとも、会社が、法人というある種の人であるとすれば、人が永遠には生きられないように、企業にも寿命があって然りです。当然、100歳まで生きる人もいれば、3歳で終わってしまう場合もある。だから、平均で全ては語れません。しかし、20年も経てば、かつてのビジネスモデルが通用しなくなって当然のような気もします。同じことをやっていてはダメだということは、誰もが分かっている。
気づけば私も、会社じゃありませんけど、フリーになって来年が10年目。右往左往しているうちに、平均寿命の半分まできてしまいました。唯一の救いは、創立、発展、成熟、衰退といった流れのなかの、だいぶ手前で右往左往していることでしょうか。
成熟期という山の一番高いところまでは、まだ道のりがあります。少なくとも当人はそう思っている。実は成熟期だったということは、確定申告をしてみれば、売上げが変わっていなかったり、減っていたりするから、そこで分かります。もう先が長くな
いということが分かれば、私は律儀な性格だから、おそらくたいした抵抗もせず、平均が描く通りに下降線を辿るでしょう。そこから別の山を探したって、もう遅い。同じことをやっていてはダメだということが分かっているなら、山頂を目指す気持ちは同で、引き続きコツコツと登っていくにしても、登り方については、いまのうちに、新しい方法を試してみておいた方がいいかもしれません。あるいは、脇道に逸れてみるということもできる。もの書き山を登り始めたけど、気づいたらまったくちがった山の山頂にいた。そんなのが理想なのかもしれません。

チキンorエッグ 12月某日 晴れ

需要が先か、供給が先か。チキンorエッグに似たこの課題は、経済学において結構重要な課題です。卵が先か鶏が先かという点については、鶏が先という前成説と、卵が先という後成説があるそうで、遺伝子の研究が進むにつれて、どちらが先なのか、分
かる人には分かりつつあるようです。需要と供給については、たとえば、供給が需要を創造するというセイの法則というのがあり、需要を支持する立場の1人にはケインズがいます。
なんでそんなことを思ったのか。食用鶏肉の製造販売会社にて、生産する部署の部長と、販売する部署の部長の取材があったためです。
1つの会社が生産と販売を両方行うということは、そこに、供給と需要が両方存在するということです。生産部は、販売部が持つ需要動向の情報を参考に、生産量をコントロールする。販売部は、生産部の生産効率に関する情報などを参考に、販売量と価格
をコントロールする。双方の連携が、生産と販売の両方の効率化を生み、会社の利益率、競争力を高めます。市場という大きな規模のなかで動いている需要と供給のバランスは、いまや会社という小さな規模のなかでも動いており、完璧なバランスを取る
こと、つまり生産した分を売り切る、あるいは、売れるものを、売れる分生産するということが、きわめて重要な戦略になっているわけです。
戦後間もなくの世の中では、ものを作れば、たいてい売れたそうです。誰もが、いろんなものを欲していたわけですからね。いわば、供給優位の時代だったといえます。
それが、半世紀くらいのうちに、もの余りの世の中に転じた。誰もがすでに、いろんなものを持っている状態だから、目新しさがなければ、需要は知らんぷりする。需要が優位。それでもまあ、安ければ買ってみようか、となる。だから、デフレになる。消費者としてはうれしいけれど、仕事をする際には、たいていが供給側だから、一周まわって、困ってしまう。
このジレンマをどうにかするためには、買い物をして、需要を増やす方法と、目新しいものを作って、供給のレベルを高める方法があるけれど、さて、どちらが先か迷ってしまう。ここで再び、需要が先か、供給が先かというはなしになります。考えてみれば、自分は買わない、でも、自分以外の人たちには買って欲しいというのは、ムシが良いはなしです。しかしながら、それが本心であり、本能であったりもします。ならば、文明の誕生からいまのいままで、もの余のジレンマが起きなかったこ
とが、奇跡といえるのかもしれません。あるいは、人にやさしく、地球にやさしくといった聞こえの良いフレーズに親しみながらも、人間は、ここ数十年の間に、急激に自分勝手になったのかもしれません。人にやさしくするのが先か、それとも、まずは誰かにやさしくされてから、人にやさしくするのか。道徳や宗教では、すでに答えが出ています。しかし、答えが出ることと、答えに準じて人が動くということは、たとえば、前成説と後成説とで意見が割れるように、なかなか折り合いがつかない。もちろん、分かる人には分かる課題なのですが。

慣れ 11月某日 晴れ

相変わらず、IT系企業の社内報を担当させていただいています。今日もその取材。門前の小僧ではないけれど、慣れというのはおそろしいもので、最近、パソコンの「向こう側が」なんとなく思い描けるようになってきました。向こう側とはつまり、ネットワークであり、サーバであり、目の前のキーボードや画面の向こうで、そういったものがつながっている様子を、具体的にイメージできるようになってきたということです。あるいはいつか、仮想空間に秘められた可能性が見えるかもしれません。見えたら、もしかして物書きをやめちゃうかもしれません。
慣れという言葉はおもしろいもので、これを良く訳せば経験となります。悪く訳すと、惰性となります。ようするに悪しき慣習というやつで、談合とか汚職も、きっとこのあたりから生まれます。慣れを通り過ぎると、飽きにつながったりもします。
ところで、自分は何に慣れ、何に慣れていないのか。
たとえば、仕事。フリーでそろそろ10年ともなれば、ものを書いて暮らすということには、そろそろ慣れてきました。初対面の人と会い、はなしを聞くということについても、人見知りする私の性格を考えれば、ずいぶん慣れた方だと思う。
結婚生活。これにも慣れてきた。自分の顔や姿形にも、もちろん慣れています。朝、自分の顔を鏡で見て、新鮮な驚きなどいまさらない。一方で、自分の思考パターンは、慣れを通り越して、飽きてきたかもしれない。そろそろ新しい回路で考える力が欲しい。だから、本を読む。だから、カミさんに意見を聞く。趣味趣向はどうか。そもそも、趣味らしい趣味がないので、慣れようがない。
日本人の平均寿命は、男が79.29年、女が86.05年だそうです。理屈で考えれば、長く生きれば生きるほど、あらゆることに慣れ、その一部に飽きます。高齢化社会の日本は、世界でもっとも、いろんなことに飽きている人の国と見ることもできます。ならば、この10年ほどでITが急激に普及し、その結果として、ゲームとかメールとかケータイとか、あらゆる遊びが発達したことも、ある意味では必然といえるかもしれません。あっちとこっちをネットワークでつなぐ技術や、3DとかCGとかの技術がなければ、私たちはやがて、なにごとにも飽き、「ああ、つまらない」と愚痴をこぼす日々を迎えるからです。
惰性を打破するために、身の回りのモノやコトを遊びに転用するということは、しばしば起きます。子どもは、放っておけば、近くにあるもので遊びを考案します。しかし、大人になると、それができなくなる。子どものように、石ころを転がしたりぶつ
けたりしてみても、あっという間にその楽しみに慣れ、飽きるからです。だから、常に新しい遊びがいる。そのための技術の発達が求められる。
パソコンや携帯や、その向こう側にあるネットワークやサーバは、仕事を便利にしてくれます。しかし、まさか仕事の効率化だけで、ここまで発達したわけではないでしょう。仕事と遊び、どちらが好きかと聞かれれば、ほとんどの人が遊びだといいます。
実際、遊びのない人生のほうが、仕事のない人生よりも残酷です。向こう側を開拓する技術の発達には、その原動力として、遊びに慣れ、生きていくことに飽きてしまいそうな未来に対する恐怖、あるいは、遊びにこと欠かない未来を構築して欲しいという需要があるのではないかと、最近、よく思います。

参加することに意義があるかもしれない 11月某日 晴れ

ゴルフが、オリンピックの正式競技になりそうです。実に100年以上ぶりのことなのだそうです。「10年ひと昔」というくらいですから、100年前のことはすでに歴史です。
なるほど、60年前の戦争だって、私や、もう少し上の世代は、歴史の授業で習ったことなのです。
資料によると、もっとも古い日本のゴルフ場は、1903年に造られた神戸ゴルフ倶楽部だそうです。倶楽部を造ったのは、貿易商のイギリス人。これもやはり、100年ちょっと前のはなし。
なんだって、球を棒でひっぱたいて、穴に入れるという遊びがおもしろいのか。やってみたら、おもしろいのだからしょうがない。歴史というのが、理屈ではなく、実利によって作られていくということが、ゴルフをやるとよく分かります。そんなことを考えてクラブを振り回しているから、私のスコアは、いつまで経っても3桁なのかもしれません。
オリンピックでは、今回のゴルフの件も含め、あらゆる競技が入れ替わり立ち替わり、正式種目となります。しかし、テレビで観戦する者としては、どのスポーツが正式種目になろうと、実のところ、あまり影響はありません。
日本人がオリンピックで活躍すると嬉しいか。答えはイエスです。
一流のアスリートのパフォーマンスを見たいか。答えはやはりイエスです。個人的には、ゴルフ誌から仕事をいただいていますから、関心もあります。取材では昨今、オリンピックに関する話が出ることもあります。
しかし、テレビに張り付いて観戦するかといわれれば、私の場合は、ノーです。フリーターでも学生でもない私は、明日に差し支える行動はしません。
テレビの買い替えを考えるかという問いも、答えはノー。このあたりから、個人差はあれでしょうが、オリンピックと個人との間に、一定の距
離が生まれます。つまり、オリンピックは、まったくの他人事ではないけれど、決して自分のことではない。この距離感が、オリンピックを商売とする上で、邪魔になる要素であるようにも思います。
そこで、たとえば、すべての競技について、一般人の出場選手を抽選するというのはどうでしょう。国立競技場かどこかに、1億人の名前を書いた抽選箱を用意して、一般人の選手を選ぶ。選ばれた人は、四の五をいうひまなく、一般人枠での日本代表になる。ゴルファーであれば、腕前はどうあれ、参加することはできます。走る、跳ぶといったことなら、もっと大勢の人ができます。
何も知らずに家に帰ってくると、奥さんが飛び出してくる。
「大変よ。あなた、次のオリンピックで100メートル走ることになっちゃった」
学校の屋上で授業をさぼっていると、友だちが大声で呼びにくる。
「おい、さぼってる場合じゃないぞ。お前、重量挙げの日本代表だってさ」
フルマラソンに選ばれちゃったりしたら困りますね。棒高跳びなんか、もう大変。でも、だからおもしろい。一流のパフォーマンスも見たいけど、追いつめられた一般人の底意地というのも見てみたい。
青天の霹靂で選ばれた各国のサラリーマンや主婦やフリーターが、それなりに練習して、開催地まで行く。「抽選で選ばれた一般人」という枠のなかで、大歓声の中で走ったり跳んだりして、運が良ければ金メダルを持って帰ってくる。
オリンピック精神の1つに、「参加することに意義がある」という言があります。勝てばいいけど、勝つことが目的ではない。だったら、筋骨隆々の選手や、生まれてこのかた、運動だけに人生を捧げてきた選手だけでなく、道行くサラリーマンや、節約が趣味の主婦が、日の丸や星条旗を背負ったって良い。それくらい距離感になると、オリンピックはもっと面白くなるように思うのですが。

久々にお会いして 11月某日 晴れ

何年ぶりでしょうか。ある著名な音楽家の方と会いました。新しく本を作るので、その構成を頼まれたという話です。以前も、氏が本の出版するにあたり、構成を担当したことがあります。多分、3、4年前のことだったと思います。
久しぶりにお会いしたところ、氏が以前より、若返ったように見えました。たしか、ひとまわり上のはずですから、40代半ばを過ぎています。しかし、数年前よりも若い。
なんだか背筋も伸びている。
人間、年齢以上のスピードで老いることはあります。しかし、その逆はありえない。年齢に逆うのは、ベンジャミン・バトンであり、若返りというのは、化粧品のコマーシャルの常套句です。水が川上から川下に流れるように、人は、昨日よりも、今日の方が老いている。その現実を、知っているようで知らない人が、案外多いのではないかと、私はひそかに思っています。
でも、どうなのだろう。目の前の氏は、3、4年前よりも明らかに若い。聞けば、武術を始めたそうで、中国にまで修業に行ってきたのだとか。人が運動することによって若返って見えるようになる場合があるということを、知っているようで知らなかったのは、私自身であったわけです。
人は、自分のことをどれくらい知っているのでしょうか。おそらく、知らないことばかりなのだろうと私は思います。自分にはどういう才能があるのか。そんなことは分からない。自分が明日、何をして、何を考えるのかも分からない。自分が何歳まで生きるのかも分からないし、そもそも、自分の心臓が、どういうメカニズムで動いているのかも分からない。
では、分かっていることとは何なのか。実は、年齢です。30歳になったということは、30年間、この社会で動いているということですし、40歳になれば、30歳のときから10年経ったということが分かる。年齢は、数値化されているから分かりやすい。だから、年齢という数字のうえでなら、他人との比較もできる。「あの人はひとまわり上」だとか、「同じ年だけど、ワタシはあの人より若いわ」とか、そういう視点が生まれてくる。「40歳とはこういうものだろう」という、ある種の固定概念ができあがることもあります。
人は、人の基本性質として、分からないことを嫌い、分かっていることを好みます。
だから、年齢不詳というのは、不思議だけど、気持ち悪い。だって、はたして何歳なのか知りたいという欲求が満たされないから。あるいは、私たちは、年齢という分かっているものを、必要以上に意識しているのかもしれません。おそらく、自分について、年齢のように明確に分かることが増えていけば、人生はだいぶ楽になることでしょう。
それを増やしていくことが、課題なのかもしれません。逆にいえば。

失った存在 10月某日 雨

 雑誌系の仕事は、そろそろ12月号や新年号の取材、執筆に入ります。したがって、私が今コツコツと書いているものの多くは、年末の話題であり、年始のことであり、2010年のテーマ。気分は、ひと足先に来年です。どうか今年も、私にとってよい1年でありますように。
 今回は、仕事とは関係のないはなし。
 私にとって09年がどういう年だったかといえば、仕事はまあまあというか、例年通り順調であった一方、私生活では、支えてくれていた存在をまた1つ失った1年でした。存在とは、猫。フリーになったころからの付き合いからですから、かれこれ10年くらい、ほぼ毎日顔をつき合わせていた猫が、「年だった」といえばそれまでですが、他界したということです。
 命が消え、存在しなくなるという経験は、これまでにも猫以外の場面で何度か立ち会ってきました。しかし、経験値が増えても、どうにも切ないものですね。その直後は、ごめんなさいと思う。猫についていえば、もっと遊んでやれば良かったと悔やむし、あと10回でもなでてやりたかったと思う。その後、楽しかったね、ありがとう、という気持ちになる。そういう浄化のプロセスを経て、こちらの気分は少し楽になり、物理的に「もう存在しない」という事実を認めていくわけですが、一方で、その浄化が、記憶としての存在を薄れさせていくことにつながっていくようで、寂しさと恐怖を感じたりもします。
 命とはつまり、生と死を結ぶ線ですから、出発点も終着点も、個々の命によって異なります。その過程では、たとえば、私と猫の命が並走する時期がありますが、それは一時期の並走に過ぎず、最後まで一緒というわけではありません。どちらかが先に存在しなくなります。そんなことは分かっています。分かっているけど理不尽だと思
うから、死はいつまでも、哀しいのであり、哀しさを与えるのでしょう。
 もっとも、私には、十分に感傷に浸れるほど時間があるわけでもなく、そもそも、魂とか天国とか、そういった概念的なものを深く考察するタイプでもありません。だ
からこそ、存在しなくなるということをもう少し正面から向き合うことができれば、もう少しいい原稿が書けるような気もします。そのあたりが、個人的には今後のテー
マでしょうか。
 そうこうしているうちに、ニュースでは、やれ自爆テロやら、やれ殺人事件やらで、多くの命が消されていく現実が報じられています。命がどうこうと大それたことを言う立場ではありませんが、もう少し、命とか、生きていることとか、一緒にいることとか、いつかはいやでも別れが来るということを考える人が増えないと、社会はいつまでも良くならないだろうなと、そんなことを思います。それがつまり、拙著「まずはフツーをきわめなさい」で言わんとすることなのですが、伝わらないのは、やはり原稿を書く力がまだまだ不足しているからなのでしょう。どこかで愛猫に、勉強不足をたしなめられているような気がします。

立場 10月某日 晴れ

群馬県にあるゴルフ場の支配人さんに、電話で取材をしました。通常、電話取材というのは、5分位で終わります。長くても10分。取材の前提として、対象は有能な人であり、そういう人に時間を取ってもらうわけですから、無闇に時間を浪費させてはいけません。30分もあれば、大きな額の商売と、それに携わる人たちを動かす力(権力と能力)を持っているわけですからね。だから、偉い人の取材ほど短時間で終わらせる。こっちの都合で、余計なことを聞いたりしない。それが、私が取材する際の基本的なスタンスであったりします。
そんな中、氏(当然、有能な指揮官である)は十分に時間を取り、実にいろいろなことを話してくれました。こちらとしては、話を聞ける分だけ嬉しいのですが、取材時間が長くなっていることに対する心苦しさもあります。「すみません、長々と」「いやいや、大丈夫」というやり取りが何回かあり、電話を切ったら、実に40分が経っていました。あらためて、貴重な時間をさいていただき、ありがとうございます。
さて、取材のテーマはなんだったかというと、支配人という仕事の醍醐味と苦悩について。氏曰く、「スタッフとして、いろいろとやりたいことや、これは受けるだろうという企画を提案しても、上司の好みや会社の事情で実現しないことがある。ほんとに仕事を楽しみたいなら、支配人になって、自分のやりたいことをできる環境を手に入れることが大事。そのため(つまり、偉くなるため)の努力をしなければならない」そうだろうな、と思います。ある調査によると、「偉くなりたいか」という問いに、「強くそう思う」と答えた日本の高校生は、中国、韓国、米国よりも著しく低いそうですが、そういう学生が、そういう意識のまま社会人になるから、仕事が楽しくなく、仕事することに夢が感じられなくなるのではないかとも思います。やりたいことを実現できるという意味で、仕事が、偉くなった人ほど楽しくなるのであれば、出世するということへの熱意がなければ、仕事はいつまで経っても楽しくならないからです。別の取材では、ある部長さんが「部長になって、新しい仕事の楽しさを見つけた」ということを言っていました。立場が仕事をつくり、ひいては人をつくるという点で、共通している部分があります。
「お金は、必要であり、重要ではない」。そういうことわざが、インディアンの世界にはあるそうです。その表現を借りれば、「出世は、必要であり、重要ではない」ということかもしれません。出世だけを目的にする(重要だと捉える)人生は寂しいけれど、出世するための努力を無視して仕事をしていくことはできないということです。
ところで、オバマ大統領に、ノーベル平和賞が贈られました。これも、ある意味では、立場が仕事をつくり、人をつくるということと言えます。今の所、目立った実績はない大統領だけれども、ノーベル平和賞受賞者という立場を先だって与えてしまう。すると、立場を持った人は、その立場を意識しますから、「平和維持のために尽力する」という生き方にしばられる。そこで、人がつくられ、国がつくられ、世界がつくられる。なるほど、賞には、実績への評価として与えるというスタンダードな使い方以外に、人の生き方を特定の方向に導くという使い方もあるのだなと、そんなことを考えながら、受賞のニュースを聞きつつ、溜まりに溜まった原稿を整理しつつ。原稿を溜めず、早々に入稿する物書き賞というものを先だって与えてくれれば、こういう現状はいくらか改善されるかもしれません。

住み分け 10月某日 晴れ

日本には、2000コース以上のゴルフ場があります。そのうち、120コース以上を持っているのが、アコーディア・ゴルフという外資系企業です。
私は、ゴルフ誌でお仕事をいただいている関係上、数ヶ月に何度か、時には月に複数回、同社にインタビューさせていただいたり、資料をいただいたりしております。
ところで、同社は1年半ほど前から、クラブハウス内を禁煙にしています。それに併せて、ゴルフ場でたばこを販売することもやめています。自販機も撤去しました。ゴルファーは、ご存知の方も多いでしょうが、喫煙者が多いので、これは英断と言えるのではないでしょうか。
なんでこういう判断に至ったか。理由は、ゴルフが健康産業であるということにあります。芝生の上を6キロ、8キロと歩き、きれいな空気を楽しむ。一方で、ハウス内で煙を吸い込む。それは、論理的に考えて矛盾しています。ビッグマックを食べて、ダイエットコーラを飲むようなものです。方向性がよくわからない。だから、私は喫煙者ですが、アコーディアは賢いなと思うわけです。
もうひとつ賢明だと思うのは、ハウス内は禁煙ですが、ハウスの外には喫煙所があるという点です。また、ティグラウンドにも灰皿があり、ここで吸うこともできます。
要するに、一方的に喫煙者を閉め出すという考え方(最近、世間はこの考え方が多いように思う)ではなく、住み分けを整理するという考え方。
そもそも、思考(嗜好)が異なる人たちを、どうにかして共存させようとするところに無理があります。宗教の例を見ても分かるとおり、話せばわかるというのは理想に過ぎません。議論することは重要ですが、限界があります。それを踏まえた上で、合理的な判断として、それぞれが心地よく過ごせる場所をつくる。そういう視点でものを考え、また徹底できるところが、賢明だと思うわけです。
「喫煙者に厳しい世の中になった」。世間はそう言います。でも、それは少し違うような気がします。というのも、ことの本質は、「喫煙者に厳しい世の中になった」のではなく、「非喫煙者にとって厳しい世の中がずーっと続いていた」ということだと思うからです。行きすぎた嫌煙活動は、その逆襲だと言ってもいいかもしれません。
しかし、「目には目を」でやり返しても、攻防をくり返すだけで解決には至りません。戦争の歴史がそれを証明しています。だから、共存ではなく、住み分けを考える。それを具体的に実施しているという点で、アコーディアは賢明だと思うわけです。

志 9月某日 晴れ

ある大手企業の専務のインタビュー。テーマは「社員になにを求めるか」です。
取材の中で大きな柱となったのは、氏が、若い社員に「いまいち『志』が足りないのではないか」と感じているということ。目的なくして、充実なしということです。
若い人が目的意識に欠けるといったはなしは、最近、色々なところから聞きます。企業全体を見渡している重役が言うのですから、そういう実態があることはおそらくまちがいないでしょう。その点でいえば、堀江社長(元、か)のような存在は、今の時代でこそ貴重であるように思います。あと5年登場が遅ければ。それが残念でもあります。
同年代であるひとりとして、今こそ、再び前線に復帰して、志高く持って奮闘することの価値を世に問うてもらいたいとも思います。
ふと思うのは、志がない、あるいは低いことの原因として、志の立て方がよくわからない人が多いのではないかということ。つまり、やり方がわからないから、結果として表れない。どうやって手をつければいいのかがわからない。プロセスが立てられないということです。
ふり返ってみれば、どこまで教育をさかのぼっても、志の立て方みたいなことを教えてくれる機会はありません。志を立てるのは、個人の作業であり、誰かに教わらなくても、自分で勝手にやるという前提になっています。
では、志はどうやって立てるのか。
専務氏によれば、短期、中期、長期の3つ視点で戦略を立てるのが有効。たとえば、1カ月でなにをするか、半年でどうするか、3年でなにを成し遂げたいかを整理して、掲げるということです。簡単ですね。すぐにでも手を付けられそうです。実際、氏も若いころから、この3つを常に意識し、手帳に書いていたそうです。その結果、氏が専務になったという点を踏まえれば、これは、やってみる価値がありそうです。あるに決まっています。
いいことを聞いたら、すぐにそれを実行するのが、私の唯一といってもいい特技です。
さっそく事務所に戻り、短中長期の志を立てます。
やってみて、気がついたことは2つ。ひとつは、あらためて脳を整理してみると、いわゆる志に相当するものは、自分が意識していなかっただけで、結構あるということ。
そうか、私にはそういう志があったなと気がつきます。もうひとつは、おそらくこれが重要なのですが、中長期の志はあるけれど、短期が少ないということ。要するに、目の前にぶら下げているニンジンが、ほんとに目の前にあるのではなく、少し遠いところにあるが故、いま、今日、さっそくどうこうしようというエネルギーが生まれないということです。
部下や後輩が、いまいち行動力(実行力)に欠けると思っているリーダーの方々、その理由は、おそらく彼らが、短期の志を持っていないためです。部下や後輩が、目の前の仕事はちゃんとやるけど、楽しそうではないように見えるという場合、その理由は、おそらく彼らが、長期の志を持っていないためです。

居酒屋 9月某日 晴れ

用あって、お台場に行ってきました。
何年ぶりでしょうか。何年経っても、相変わらず混んでいます。
ある建物内を移動中、ふと、ものすごく長い行列ができているのを発見。20メートル、50メートルといったレベルではありません。数百メートル。待っているの数は、数百人です。
「お金でも配っているのか」(並ぶのが嫌いな私にとって、列を成す理由はそれくらいしか思い当たらない)と思って先頭を見に行くと、その先にあったのは、居酒屋えぐざいる。事情通によれば、たまにメンバーの誰かがやってきて、歌ったり、パフォーマンスを見せたりするのだそうです。ファンにとってみれば、お金を配っていることよりも、並ぶ価値があるのかもしれません。
理由が分かれば、私はそれで満足。先ほどから数十センチも進むことなく、じっと並んでいる婦女子たちの脇を通り、そそくさと家に帰ります。家に帰って、カミさんとともに、居酒屋だてでビールを飲みます。
ところで、並んでいたのは婦女子が大半です。婦人はともかく、女子とはつまり、お酒を飲んではいけない年齢です。年を聞いたわけではありませんが、おそらく、ほとんどが中高生でしょう。一方、行列の先にあるのは「居酒屋」です。当然、彼女たちはお酒を頼まないでしょうし、頼んだとしても、店は提供しないでしょう。要するに、居酒屋という営業形態であっても、方法ひとつで、お酒を飲まないお客を集めることができ、夏休み中の東京ディズニーランドを超えるような行列をつくることもできるということ。居酒屋だから酒を売るという前提を、いったん脇においてみると、意外と新しい商売を思いつくことがあるのかもしれません。ゴルフ場が、ゴルファー以外でにぎわったり、パチンコ屋に、パチンコをしない人たちの行列ができるということも、方法ひとつ、アイデアひとつだということです。
ある調査によれば、コンビニに屋内喫煙ルームがあれば良いと思う人が8割を超えているそうです。たしかに、街中でたばこが吸いづらくなった昨今、世間の冷ややかな視線を気にせずに一服するために、コンビニに立ち寄るという流れができてもおかしくありません。コーヒーも買えます。便利です。だから、コンビニエンスです。
実際、私が日課としてコンビニを利用する理由は、たばこを買うということを除けば、ATMの利用がトップです。トイレを借りるためだけに立ち寄ることも、結構あります。
昨今、コンビニは書店としての機能も持っています。恥ずかしながら、拙著もコンビニに置いて頂いていますし、しかも、書店が空いている健康的な時間帯に帰宅できる人が少ないせいか、拙著に限れば、コンビニで結構売れているそうです。
おにぎりやジュースを売るだけでなく、その他の需要に目を向ける。場所、スペース、ロケーションのメリットを、需要の前提にとらわれずに広げ、活かす。そういう視点が、コンビニが普及した理由であり、居酒屋えぐざいるの行列なのでしょう。

人間力 9月某日 晴れ

 商社系IT企業にて、同社社内報の仕事。「人間力」という壮大なテーマで、部長クラスの方々数名にお話をうかがうという仕事です。
 果たして、人間力が乏しいであろう私に、そんな大役が務まるのか。大丈夫なのです。私は話を聞き、まとめる役目であり、人間力がなんたるかを語る身ではないのですから。
 話を聞いていて感じたのは、どの方も、人間力とはなにかという問いに、答えを持っているということ。そもそも、「人間力とはこういうものです」という答えはありませんから、ポイントは、それぞれがどう考え、どう捉えているかというところにあります。つまり、話の着地点は決まっていないわけですが、それでも、さすが大企業の管理職を務めている方々だけあって、ある人はコミュニケーション力であると考え、ある人は臨機応変な対応力だと言う。また、それぞれの考えが、部下の教育や、部としての戦略実行などの面に反映されているという点も重要でしょう。それはつまり、人間力が高くなければ、あるいは、人間力となにかという問題に対する答えを持っていなければ、要職は務まらないということだからです。
 さて、人間力とはなんなのか。
 物書きの視点から見れば、言葉遊びのようになりますが、人ではなく、人間という言葉を使っているところにポイントがあるように見えます。
 人には、人という呼び名と、人間という呼び名があります。人力ではなく人間力という言葉で記されるということは、人(個人としての知力体力、気力)という点ではなく、人が人の間(世間で共同生活する中で)で求められる力なのではないでしょうか。簡単に言えば、コミュニケーション能力。あるいは、社交性。本を読むだけでは身につかず、人と接することでようやく培うことができる、実践的な力だということです。
 そんなことを考えていくと、インターネットベースであらゆることができる現状は、環境的に人間力が乏しくなりがちなのかもしれません。チャットは会話ではなく、ネット販売は接客ではありません。そこに、人と接するという要素がないからです。そんなことを思いつつ、ついつい「人間力」でネット検索している自分を反省したりするのです。

挨拶の定義 9月某日 晴れ

 拙宅には毎週、区の広報紙が配られます。区内の予算の組み方とか、正しいゴミ分別の方法とか、区で実施している習い事教室の案内とか、そういうことが載っているものです。たいしたことは載っていませんが、たまに物書きするネタのネタになるようなことが載っていたりします。夕食後、それを眺めながら、世界でもっとも美しいカミさんと会話をするというのが、ちょっとしたルーティンになっていたりもします。
 さて、先日の紙面に、区内の子どもの意識調査が載っていました。「学校の勉強は理解しているか」「理解できないところはどうしているか」といったことに対する子どもの回答を、割合で示したような内容です。
 その中の1項目に、「近所の人に挨拶できているか」という質問がありました。これに対し、「できている」と答えている小中学生は80%前後だそうです。
 最初は、8%の間違いだろうと思いました。なにせ、そこらを歩いている際に、子どもに挨拶されたことなど一度もありません。あまりない、のではありません。一度もない。それがなぜ、80%が「できている」ということになるのか。
 さっそくその疑問をカミさんにぶつけてみると、どうやら、「挨拶」ということの解釈に違いがあることが分かりました。
 カミさんが言うには、知り合いや顔見知りのご近所に「おはようございます」「こんにちは」とやるのが挨拶。当然、私は、近所で子どもとすれ違ったところで、それがどこの家の誰の子どもなのか見当もつきませんから、挨拶されなくて当然。80%の子どもは、顔見知りのおじさんに対して挨拶が「できている」という解釈です。
 なるほどね、とも思います。
 しかし、そうなのかな、とも思います。挨拶は、見ず知らずの人に対する挨拶も含めて、挨拶なのではないかという気がするからです。
 私が子どもだったころを振り返ると(というようなことを言いはじめると、いよいよおじさんくさいのだが)、相手が誰であるかは重要ではなく、挨拶をすることが重要だというような教育を受けたような気がします。実際、通学路で大人とすれ違えば、それがどこのおっさんかは知らなくても、おはようございますと言っていたような記憶があります。
 カミさんの解釈を前提とするなら、私が通っていた学校が特殊だったということになります。紙面にて、「挨拶できているか」という質問の前提に、「顔見知りのご近所さんに対して」という一文がわざわざ入ってなかったことを踏まえれば、私が思う挨拶の解釈が世間とズレているということなのでしょう。
 希望を言うなら、見知らぬおっさんにも、挨拶をしてもらいたいものです。それが自然であるような社会になってもらいたいものです。
 あるいは、「見知らぬ人に対して」という前提で、挨拶しているかどうか再調査してもらいたいものです。おそらく、「できている」と答える子どもの割合は、一桁になることでしょう。そこに表れる数字から、新たに取り組むべき教育の問題が見つかるだろうと思います。

35歳 8月某日 晴れ

 現在、35歳を対象にした本をつくっております。気づけば私も、そこに近い年齢です。10年前からなにが変わったわけでもないのですが、数字というのは残酷なものです。
 この本をつくる根底には、「35歳位から萎えはじめる人が多い」という実感があります。萎えとはつまり、体力的な衰えではなく、精神的な諦め。社会的評価という点で、結婚し、子どもを持ち、家を買い、役職が付いたことで、次に目指すべき目標を失い、萎えるケースが多いのではないかということです。たしかに自身のことで振り返ってみても、目標は何だと聞かれれば、少し迷ってしまいます。欲しいものはなんだと聞かれれば、ますます迷う。萎えていると言われれば、認めざるをえない部分が少なからずあります。
 年を取って萎えるのは、ある意味ではしょうがないことのようにも思えます。しかし、あらためてまわりの同年代を観察してみると、萎えることなく、エネルギッシュに生きている人がいます。イメージ的には、昔の村上龍氏のような脂っこさを持っているという感じでしょうか。
 そういえば過日、同年代と飲む機会がありました。聞けば、ある人はクラブに出かけてナンパしているそうで、ある人は、既婚者だけど合コンに参加しているそうです。あまり詳しく書くと、個人が特定できる可能性があるのでやめておきますが、モラルという点での良し悪しは別として、重要なのは、そういうタイプの人の方が、楽しそうに生きているという点。そういう人が、仕事でも、良い給料をもらっていたりします。OFFが充実している人ほど、ONも充実するということでしょうか。光が強いほど、影も濃くなるということでしょうか。要するに、35歳ということは、平均寿命から考えても、まだ半分以上の人生が残っているわけで、これを全うするためには、目的や、目的を持つことから生まれるエネルギーが欠かせないということです。
 さて、35歳にはなにが必要なのか。己の反省を含めて、明日が楽しみになるような本をつくりたいと意気込んでいます。

お土産需要 8月某日 晴れ

 ゴルフ誌の仕事を頂いている物書きの役得で、あるゴルフ場にてラウンドさせていただきました。ありがたいことです。しかも、そういう機会が、年に数回あります。今年だけですでに、3、4回に及ぶはずです。それでいて、まったくうまくならない私は、いったいなにが悪いのでしょう。運動神経でしょうか。頭でしょうか。それとも、「練習しよう」という気がさらさらない点でしょうか。
 それはさておき、今回おじゃましたゴルフ場は、インターから5分というアクセス最高の場所です。私は、ゴルフは楽しみでも、ゴルフ場にたどり着くまでの運転は結構面倒くさい。高速は、渋滞しない限りストレスになりませんが、一般道の運転は好みではない。インターから近いというのは、私のようなものぐさな連中にとって魅力であるに違いありません。
 ラウンドさせていただき、その後、ゴルフ場の関係者の方々とお話をし、さて帰ろうと思った時にふと思ったのは、アクセスが良いゴルフ場は、お土産が売れるだろうということ。私の場合に限れば、仕事でもなんでも、カミさんを連れずにゴルフに行き、手ぶらで帰るということは基本的にありません。こっちはゴルフをして楽しみ、カミさんは家で留守番であることを踏まえると、手ぶらでは帰りにくいからです。しかし、インターまで近いと、あっという間に高速に乗り、あとは家の近くのインターまでどこにも寄りませんから、物珍しいものを買っていこうにもチャンスがありません。だから、ゴルフ場に土地のものでも置いてあれば、私なら迷わず買うだろうということです。
 家人へのお土産に限らず、接待ゴルフでも会社に買って帰るお土産需要というのは、少なからずあるのではないでしょうか。「インターからすぐ」に、「お土産、充実しています」「ここでしか買えないもの、多数あります」とくれば、訴求効果が増すだろうと、そんなことを思ったわけです。
 ちなみに、この日、ゴルフ場でお土産を買い忘れた私は、佐野SAに立ち寄りました。私のような人が1日に10人いて、それぞれが1000円使うとすれば、やり方ひとつで、その分をゴルフ場の売上げに乗っけられると思うのですが、いかがでしょうか。

リクエスト 7月某日 晴れ

 対面取材の場合、原稿をつくる上でのプロセスは、取材する、家に持ち帰る、テープ起こし(取材時に録音した音声をパソコンに打ち込む)をする、構成を考える、原稿を書く、入稿(クライアントに提出)する、といった流れになります。入稿した原稿の良し悪しで、修正依頼が来たり、場合によって追加取材が生じることもありますが、それを除けば、おおかた、みなさんが想像している通りです。特別なことはしていません。
 物書き商売の優劣は、簡単にいえば、入稿したもので判断されるということ。1本当たりの単価も、このあたりの評価をもとに値段がつきます。
 さて、先日の取材にて、現場に立ち会えなかった人から、どういう取材だったのか様子が知りたいので、テープ起こしの原稿を見せてくれないかというようなリクエストがありました。要するに、入稿した原稿のもととなった素材を見せて欲しいというはなしです。
 私は原則、この手のリクエストには応じませんので、丁重にお断りしました。というのも、物書き商売の優劣は、前述の通り、「入稿したもの」という結果で「判断される」ものであって、プロセスはお見せすべきでないと思っているからです。
 実は、もうひとつ、理由があります。それは、以前にも、別のクライアントさんから同じようなリクエストを受けたことがあり、その際、つっぱねるのが面倒くさかったので、ほいほいと提出し、後悔したからです。なんで後悔したのかといえば、提出したところ、「誤字脱字があり、また文脈がつかみにくいので、きれいに打ち直したものが見たい」という再リクエストがあったからです。
 で、どうなったか。
 当然、ケンカになるわけです。
 結果(入稿した原稿)についての注文はいくらでも受け付けるが、プロセス(しかも善意で提出した)についてとやかく言われる筋合いはない。こっちとしては、誤字脱字は
入稿前に直す段取りにしている。文脈がつかみにくい理由は、質問者(つまり私)の言やあいづちを省いているからなのですが、それらは、質問者である私があらためて打ち込む必要がなく、原稿をつくる際にも必要ないから省いているのであって、そういうことをいろいろと踏まえて、きれいに打ち直すなんてことは言語道断である、ということです。
 なんとなく、腹が立っているような言い回しになりました。しかし、そうではありません。おかしな(もちろん、私にとっておかしな)リクエストをする人がいるもんだと、少し驚いているということです。
 たとえば、「早く孫の顔が見たい」というおじいちゃん、おばあちゃんがいたとします。孫というのは「結果」ですから、それを見たいと思うのは当然の心理でしょう。しかし、ではプロセスが見たいかといえば、それはすなわち、夜の営みを見るということであり、変態の部類に入ります。プロセスが見たいというリクエストは、私にとって、それと同じくらい違和感があるわけです。
 ところで、ユングによれば、人は外交的と内向的に分かれるそうです。簡単にいうと、思いついたことをどんどん発表したり、発言したりして、その中で考えをまとめていくのを好むのが外交的、自分の中で結論をまとめて、完成形に近い形で発表、発言するのを好むのが内向的。その点で言えば、私は内向的なのだと思う。中途半端なことを言って、そこに責任が生じるのがとことん嫌ですし、普段、なにを考え、なにをしているのかも、できる限り教えたくない。見せる部分は、見せていい部分だけに制限したい。
 もちろん、内向的、外交的というのは、タイプのはなしであり、どちらが良いということではありません。生き方にも、仕事の仕方にも好みがあるということで、私はあまりオープンにするのを好まないということです。個人的に、「ぶっちゃけ」とか、「本音トーク」的なものが気持ち悪く感じるのも、おそらくそのあたりの差に原因があるのだろうと思います。
 テープ起こしのデータを見せて欲しい。そういうリクエストに対し、私以外の物書きの人はどうしているのでしょう。もしここをご覧になった物書きの方、あるいはそれに近い商売の方がいらっしゃれば、ぜひとも参考にしていたいので、メールにてご意見いただけると幸いです。

たばこ 7月某日 晴れ

いま、あるたばこのPRに携わっております。昨今、たばこといえば、まるで社会悪の代表みたいな扱い(被害妄想か?)を受けるようになりました。TASPOという不便きわまりないカードが導入され、首都圏のJRも全駅禁煙になりました。そういう中でこそ、愛煙家は、本腰を入れてコピーを書こうという気になります。
 それはそれとして、たばこ関連のPRでは、どんなものにも、健康を損ねる可能性があるといった内容の警告文がつきます。疫学的な推計に基づく云々といったものです。
では、疫学的な推計とはなんなのか。この部分が明確にならないと、その後に続く、「喫煙者は心筋梗塞により脂肪する危険性が非喫煙者に比べて約1・7倍高くなります」の捉え方も明確になりません。
 疫学は、本来は伝染病の流行を対象に研究されていた学問ですが、昨今は、伝染性のないものも対象となりました。そこで、生活習慣や生活環境が対象となり、「ひょっとしてたばこって、あの病気と因果関係があるのでは?」という研究が生まれたということです。
 ここで重要なのは、可能性の話をしているのであり、明確な因果関係が証明されているわけではないということでしょう。疫学的な推計とは、そういうことです。ここがいまいち理解されないから、「たばこ? あれは肺がんになる」という断定的な解釈を招くのでしょう。
 たばこが健康に良いといっているのではありません。目と鼻の先で火を焚き、煙を吸うわけですから、まさか健康に良いということはないでしょう。そんなことは分かっています。ただ、一方にはストレス解消になったり、気分が落ち着いたり、そういう効果もあるということを平等に見てやらないと、一方だけ見るというのでは、それは偏見を持つ人の考え方とメカニズム的に同じだということです。
 あるいは、たばこを吸う人のマナーや振る舞いが悪いから、それが社会の反感を買っているという事情もあるかもしれません。歩きたばこしかり、ポイ捨てしかり。愛煙家の市民権を取り戻す第一歩は、そのあたりの啓発にあるのかもしれません。そんなことを考えながら、ぼちぼちコピー案を練ろうかと思います。もちろん、マルボロライトを一服してから。

電話取材 7月某日 晴れ

 毎月、少なくて5件ほど、多い時で20件くらい、電話取材をする仕事が入ります。なんで電話かといえば、先方(地方の企業とか、ゴルフ場とか)に出向く時間がないので、恐縮ですが、電話で話を聞かせてもらうためです。
 ところで、最近はどこの家の電話にも子機があります。あちこち歩き回れた方が便利ですからね。しかし、電話取材において、これほど不安なものはありません。理由は明白で、途中で充電が切れるかもしれないとう不安があるからです。携帯などは論外です。
 電話取材をする場合、相手はほとんど初対面(面と向かっていませんが)であり、5分も話を聞かせて頂ければ、それで十分に聞きたいことが聞けます。ただ、場合によっては、なぜか話が盛り上がり、30分以上に及ぶ場合もあります。どう展開するか分からないところが、取材のおもしろいところです。そんな中で、まさか「充電がなくなったので、切ります」とは言えません。友だちと話しているわけじゃありませんから。
 電話で打合せをする場合も同様です。5分で終わるだろうと思っていながら、気づけば1時間位過ぎているのが、打合せだからです。この場も、やはり充電タイプの子機は向いていません。
 だから、拙宅の場合、電話取材はいつもコードでつながっている親機です。CMのコピーではありませんが、つながっているから安心なのです。
 逆を言えば、話したくない人と話すなら、子機やケータイが向いているということかもしれません。たとえば、そろそろ別れたい恋人とか、どうでもいい悩みを相談してくる友だちとか。充電が切れそうだから後で掛け直すという事情が、最適な口実になるわけですからね。
 かつてアメリカに住んでいたころを思い返してみると、家にあった電話には、本体と受話器が、ものすごく長いコードでつながっていました。コードとはつまり、あのねじりコードで、ねじった状態でも1メートル位、ひっぱると、3メートル位まで伸びたような気がします。要するに、電話機を中心に、半径3メートル位の行動が確保できたわけです。
 一方、日本の家庭では、いまいちあの長いコードは普及していません。半径3メートルの活動範囲を確保する必要性が少なかったからでしょうか。それとも、デフォルトのねじりに、いつの間にか予想外のねじれが加わり、団子状になったりして、イライラするからでしょうか。便利だと思うんですけどね。少なくとも、意外とすぐに充電が切れる子機よりは。

エコポイント 6月某日 晴れ

そろそろ6月末。上半期を振り返ってみると、仕事は例年通り。仕事以外の面では、友人知人の結婚が多かった半年でした。同級生あり、仕事を通じての知り合いあり。誰にせよ、めでたい話が続くというのはいいものです。
私が結婚した数年前と比較して気づくのは、実質的、つまりお金という点での恩恵が大きいことでしょう。例えば、これから家財や調度品などを揃える。その際には、エコポイントがつきます。きっと車も買うでしょう。その際には、エコカー減税が受けられる。こうした恩恵が、結果として、新婚夫婦の誕生に、あるいは晩婚化の食い止めに一役買っているようにも見えます。あるいは、私が納めている決して少なくない額の税金が、巡り巡って、彼らのご祝儀になっているようにも見える。まあ、めでたい話にケチくさいことを言うのも野暮ですから、そこは目をつぶることにしましょう。
ところで、エコポイントで1つ疑問なのが、大型テレビや大型冷蔵庫など、値段の高いものに、多くポイントが付くということです。ニュースによれば、ポイント欲しさに、必要以上に大きいサイズのテレビや冷蔵庫を買う人が少なくないそうです。当然ながら、製品が大型であるほど、エネルギー消費量が大きくなり、エコの概念から遠ざかるわけですから、果たしてこれは、「エコポイント」というもののせいで、不必要なエネルギー消費を生み出していることにならないのか。
本来であれば、積極的に小さい冷蔵庫を選ぶとか、家族4人だけどミニバンはやめて小型車にするとか、そういう選択がエコです。そういう人にこそ、たくさんポイントをつけ、たくさん減税してやるのが道理というものです。我が家はエアコンなしで我慢する。車も乗らない。自転車で移動する。そんな家族には、何も買わなくても、エコポイントをあげた方が良い。
エコポイント導入の背景に、買い替えによる省エネ効果があることは分かるけれども、単純に価格と比例するのは安ではないか。経済活性化を狙うのであれば、「エコ」ではなく、「経済活性化ポイント」とするのが正直ではないか。
環境保護活動と経済活動は、根本的なところで矛盾するわけですから、同時にやろうったってそうはいかない。もしや「エコ」とは、エコノミーのことなのか。「環境保護を大義名分とした経済活性化」という定義なのであれば、多少は納得がいく。
必要以上の物を買えば、購入代から維持費まで、余分なお金がかかって当然です。不況だ、お金がない、生活が苦しいともがいている人の中には、こうした流行りに乗せられ、わけが分からないうちにお金を使ってしまっている人も少なくないのではないでしょうか。お金は、稼ぐ時よりも、使う時に賢さが問われるのです。

衝突 6月某日 くもり

一般に会社員と比べ、フリーランスという働き方が最も異なるのは、組織に属していないという点でしょう。そういう前提を自分自身で確認しつつ、今日の取材のテーマは、「強い組織を作るためのリーダーのあり方」。コンサルタントのところへ、話を聞き行ってきました。
印象的だったのが、組織の長は、多数の意見が出る環境を作ることが重要であるという点。複数の意見が出て、メンバー同士で衝突が生じ、組織内の雰囲気を悪くするのだとしても、多数の意見が生まれるのであれば、リーダーはそれを歓迎すべきだということです。
そうだろうな、と私は思います。理屈として、すんなり頭に入る。安定から生まれるのは退廃のみである、とすら思う。
それもそのはず、なにしろ私は、9年ほど組織らしい組織に属していない。組織というメカニズムが身近でない分、実際に行動として示せるかどうかは別として、理屈なら容易に分かるのです。
話は変わって、最近のニュースは、政権交代に関するものが増えてきました。
衆参がねじれているだけでなく、基本方針が同じであるはずの党の中でも、意見が割れるようになった。これも、見方によっては、意見の多様化と言えます。
もっとも、政治で意見が一様になるということは、それはすなわちファシズムであり、退廃していくことは歴史が証明している。ならば、日本という大きな組織にとって、現状のような衝突は、歓迎すべきものなのかもしれません。
そろそろ09年の上半期が終わる中で、今後、景気や治安が良くなるかもしれないという一筋の期待を見いだせるのは、エコポイントでもソーラーシステムでも新型プリウスの売れ行きが爆発的であることでもなく、いろんな人があれこれと好き勝手を言い、衝突をくり返す、政治の現状なのかもしれません。

ボーナス 6月某日 くもり

フリーランスが大黒柱である家庭では、その柱の太い、細いに関わらず、ニュースを見ていて、会話が少し減る時期があります。世間で言うボーナスの時期です。柱が針金並に細い弊宅においても、当然ボーナスという概念はなし。ボーナス払いもなし。もらうものがなければ、払うものもない。もらえるという点では世間が羨ましくないわけではないけれど、それを言ってもしょうがない。
かくして、会話が少し減る。
それでも、ボーナスに関する仕事は頂くわけで、世間様のボーナス事情について、数字やデータを調べたり、悲喜こもごもの声(喜は少ないが)を聞いたりします。
日本経団連によると、1部上場企業の今夏のボーナスは、昨年夏比で平均マイナス19.39%。金額の平均は、75万4009円。ということは、昨年の額が約93.5万円であり、今年は18万円以上減るということです。この調子では冬のボーナスにも期待できないでしょうから、同じくらいの減額になったら、年間で36万円のマイナスになる。およそ給料1カ月分というところでしょうか。これは厳しい。
中には、ボーナス額が「給料2カ月分」といった算出方法になっている人もいます。その場合に限れば、ボーナス額のベースとなっている給料そのものが減っている可能性があります。仮に、ボーナス1回が給料2カ月分で、その額がマイナス18万円だとすると、給料ベースで、1カ月あたり9万円、1年で108万円のマイナスということになる。ボーナス分を加えると、年収として144万円のマイナス。いよいよ厳しい。
ボーナス(があって当然)という概念や、それに付随するボーナス払いといった返済方法は、広く日本で定着しています。では、ボーナスとはなにかと言えば、辞書によれば、特別配当金とある。
本来「特別」であるはずのものが、もらえて「当たり前」と捉えてしまえば、そこに大きなリスクが生じて当然とも言えます。ならば、家計や家庭を守るためにできる最も簡単な手段は、ボーナスに期待しないこととも言えるのではないでしょうか。
お金は、この世において非常に現実的な概念として存在します。一方、「ボーナスがもらえるだろう」という「期待」は、その対極のところにあります。人は、現実を踏まえなければ生きていけませんが、期待がなければ活力が沸かない。
現実で生き、期待で活き活きする。
しかしいつしか、現実の方を軽んじ、期待が膨らみすぎるようになった。理想論だけで生活設計する人も増えた。家計や家庭を守るためには、もう少し、あるいは今一度、現実をしっかりと踏まえた方がいいのではないか。そういう本能的な危機感を持った人が、「28歳からのリアル」や「まずはフツーをきわめなさい」を買ってくれているようにも思う。出版社によれば、いずれの本もまあまあ売れているそうですから、気づいている人は気づいているということなのでしょう。気づいている人と気づいていない人との間で、今後、家庭や家計の安定度の差が開いていくだろうというのが私見です。
そう考えれば、弊宅のようにボーナスがない世帯は、余計な期待でフワフワするリスクが低く抑えられているという点で、恵まれているのかもしれません。
住宅ローンは12カ月で均等に割る。買いものはなるべく現金でする。そういう金融リテラシーが、半ば強制的に身につくという点で。

文字 6月某日 晴れ

物書きの仕事は、文章を書くという点こそ不変ですが、取り扱うテーマは、その都度パラバラです。例えば、今日は認知症についての原稿を書きつつ、明日は英文の経営記事を翻訳する。保険の見直しの話と、リアサスペンションと燃費の話を、同時に書いたりしている。私の場合、単発的に入る雑誌系の仕事はとくにテーマがバラバラです。テーマによる好き嫌いもないし、得意不得意もない。そういうごった煮な部分が、物書き仕事に飽きない最大の理由だろうと思っています。
もっとも、書くというのはアウトプットですから、書けと言われてすぐに書けるものではありません。長嶋監督やイチロー選手のように、来た球を打てる天才とちがう。下調べ、資料読み、取材といったインプットがあり、紙の上で殴り書きするという整理があり、その果てにようやく、一文字目をパソコンに打ち込む。厳密に言えば、たばこを吸ったり、ジュースを買いに行ったり、ラジオに聞き入ったり、そういう不必要に見える作業もあります。物書きが実際になにかを書いている時間は、まわりが思っているよりもはるかに短いのです。
私の場合、パソコンに打ち込むよりも前に、紙の上で殴り書きするという手順が欠かせません。思いついたことをメモして、○をつけたり線で結んだりして全体像でまとめていかないと、どこから手をつけていくべきか見えてこない。思いついたことはとりあえずメモしておかないと、10秒もしないうちに忘れるということも重々承知している。だから、まるで脈絡なく見える単語を書き込んでいくわけです。
そんなことをしている際、たまたま近くにいたカミさんに、漢字の書き順がおかしいと言われたことがあります。以来、なにか字を書く度に、同じことを言われる。たしかに、小学校で秀才の名を欲しいがままにしていた時以来、書き順を気にしたことなどまったくない。「必」という字をどこから書くか。「飛」の一画目はどこか。そんなことはまったく知らない。伊達の「達」ですら、かなりあやしい。
なぜ、こうなったのか。原因は明らかで、パソコンの普及にあります。これが登場して以来、書き文字の美しさが問われる機会が減ったのです。
原稿用紙で入稿する大御所の作家先生などは、総じて達筆であるという話を聞いたことがありますが、しかし、私は物書きだと自称した時から、目の前にパソコンがありました。今さら、原稿用紙というわけにもいかないし、小学生に書かせたと疑われる危険があります。当然、メールもほとんどしないくらいだから、手紙も書かない。ご祝儀袋はカミさんに任せている。つまり、物書きと自称しながらも、紙の上での殴り書きと、「今日は遅くなります」というカミさん宛の一筆くらいしか書かないわけです。
そこでふと思うのが、正しいプロセスからのみ正しい結果が得られるように、書き順が違えば、文字の完成度も下がるということ。知性とは、難しい漢字を知っていることよりも、きれいな字を書くことによって示されるのかもしれません。ちなみに「必」は、てっぺんの点から書くのだそうです。

考えるということ 5月某日 晴れ

ある記事にて、「自分の死」の捉え方について書いたところ、読んだ方から、参考になった、なるほどと思ったといった主旨のお褒めのコメントをいただきました。
物書きをやっていると、たまにこういうことがあります。つまり、全然知らない人と、ある部分で共鳴する。全然知らない世界に、自分と似た感覚を持って生きている人がいることを知る。それを確認できるということが、「この商売を選んで良かった」と感じる瞬間かもしれません。もしかしたら、本が売れ、印税が入ることよりも嬉しいことかもしれない。いや、それは失言でしょう。
さて、どういう内容だったかと言うと、自分がいつ死ぬのかなんてことは分からないのだから、深く考えてなくてもいいんじゃない? というものです。
もっとも「深く考えない」ということは、「まったく考えない」とは違います。明日が雨かどうか気になる。ならば、天気予報を見る。雲の動きを観察する。雨だろうと思ったら、カバンに折りたたみ傘を入れておく。濡れてもいい服と靴を選んでおく。そこまでやったら、それ以上、雨が降るかどうか考えてもしょうがない。だから、そこから先は考えない。そこで線を引き、それ以上踏み込まない。その線から先が、「深く」ということです。
自分がいつ死ぬのか。どうやって死ぬのか。
そういうことも、線の向こう側にあります。人は誰でも、いつかは死にますが、しかし、いつ、どうやって死ぬのか、分かっている人はいません。死は1つの結果であり、生きているうちには、どうやったって分からないことだからです。その点では、生も同じ。自分がなぜ生まれたのか。そういうことを熱心に考える人もいますが、これも、生まれたという結果でしかない。そこに意味を見出そうとするのであれば、生まれてきたのだから、命を大事にしようということにしかならない。日本には年間3万人以上の自殺者がいるそうですが、おそらくその原因は、生や死について深く考えるからであり、これ以上考えなくてもいいという線の向こう側に、無理矢理答えを探そうとするからだと、個人的にはそう思っています。
どんなものであれ、結果があれば、原因があります。しかし、すべての結果に、理由があるわけではありません。死についても、原因としては、がんとか脳血栓とか、その他諸々あるでしょうが、理由があるとは限らないのです。
「深く考えてなくてもいい」という提案には、続きがあります。それは、分かりえないことについて考え、時間を使うのであれば、足下にはもっと考えなければならない問題や、解決しなければならない問題があるのだから、そちらを優先した方がいいということです。
自分の力でどうにもできないことは、考えてもしょうがない。
そう言ったのは、たしかスティーブ・ジョブズだったかと思います。考えることが多すぎるという人は、一度、それらを全て、紙に書き出してみるといいかもしれません。おそらくその半分は、考えてもしょうがないことです。これを省けば、本当に考えるべきことが整理できます。すると、脳内や日常の行動が、少しすっきりします。

準備 5月某日 晴れ

効率良くお客さんを増やすためには、なにをすべきか。コンサルタントの方に、話を聞いてきました。
いろいろと参考になる話があったなかで、話(と原稿)の主軸となったのが、お客さんを呼ぶためには、常に先立って手を打つのが重要だということです。
例えば、今月は100万円の売上げだったとする。あるいは、100人のお客さんが来たとする。それが目標に対してどうだったのか。多くの人は、ここに注目します。あるいは、評価する。
しかし、氏がおっしゃるには、そんなことはたいして重要ではない。100万円、あるいは100人という数値は、先だって手を打ったことの結果であり、その結果に一喜一憂するよりも、明日、明後日、1カ月後、半年後の結果につながる戦略を練ることの方が重要だからです。
要するに、大切なのは準備であるということ。結果は常に、準備の度合いが反映されるものであるということです。
準備については、私たちは、幼いころからその重要性を教え込まれてきました。欧米文化が結果重視であるとすれば、日本文化は準備重視だと言ってもいいでしょう。それをつきつめているのが、1000本ノックであり、血を吐くまでの練習です。
一方、スポ根は最近の流行りではなく、根性という言葉を使った途端、封建主義とか体罰容認派だとか、いろいろと言われかねない時代ですから、熱心に準備に取り組む人も必然的に減っているのでしょう。草食系男子という言葉に、それがよく表れています。素敵な女性とつき合うためには、それ相当の準備(知識をつけるとか、金を貯めるとか)が必要なわけですが、そういうのはダサイとなる。面倒くさいとなる。だから、1人、マンガ喫茶で過ごすシマウマや、ネットやゲーム内だけのつながりで満足するヤギが増える。
そういう世の中は、実は私にとっては都合がいい。円を持っていたら勝手に世の中が円高になったように、土地を持っていたら知らないうちに地価が上がったように、こっちはこっちで今までと同じだけ準備に取り組んでいるだけなのですが、準備するということの価値が、勝手に上がるからです。不況と言われる中で、意外にもわが家の食卓が貧相にならないのは、あらゆることを入念に準備しているからではないかと、夜な夜な、明日の取材の下調べや資料読みをしつつ、そんなことを思うのです。

ボンジョビ 5月某日 晴れ

取材と関係のない話を1つ。
過日より、全国のパチンコ屋に、ボンジョビのパチスロが登場しています。ボンジョビとは、私が世界一のロックバンドだと思っている、あのボンジョビです。
なぜ私がボンジョビを素晴らしいと思うのか。理由は、正統派だからです。つまり、ロックミュージシャンでありながら、セックス、ドラッグ、バイオレンスといった3点セットに頼らない。雰囲気でごまかさないという心意気は、ロックミュージシャンに限らず、相当の自信と才能と勇気が必要なのです。
まあ、そんなことはどうでもいいのです。
ボンジョビのパチスロ機の方に話を戻すと、この台には、非常に余計な機能が付いています。ボーナス当選確率が高い小役が揃った後に、3GほどのミニRTに入るという機能です。つまり、内部で当選していても、リプレイが揃う確率が高くなっているので、3ゲームくらいの間は7が揃わない。
なんでこんなものがあるのか。理由は、ボーナス当選の告知に至るまでの連続演出を、最後まで打ち手に見せるためです。作り手としては、この数ゲームを使って、打ち手に「当たりかな? どうかな」と興奮させたいのでしょう。しかし、こちらとしては早く揃えたい。
パチスロの本質という点で言えば、演出を楽しみたいのであれば、7が揃わないように打てばいいわけですから、仕組みとしてリプレイが揃うように作るのは、作り手の、「オレが作った演出を最後まで見てちょうだい」というエゴと言ってもいいでしょう。だから、非常に余計な機能なのです。
パチスロに縁遠い人には、何の話かわからないかもしれませんが、簡単に言えば、注文の多い料理店です。
例えば、ウチの鶏肉は新鮮だから、あまり炙らずに食べてくれとか、そんなことを言うオヤジがいる店があります。
こちらとしては、生肉はこわい。ただ、オヤジの方も好意で言っているのだから、最初の1口くらいは、言うことを聞いてみる。なるほど、美味しいですね、と言ってやる場合もあります。
しかし、好意なら受け入れますが、押しつけだったら突っぱねます。「生で食え」と言われたら、こっちは「うるせえ」となる。冷蔵庫を本棚にしようと、液晶テレビを漬物石代わりにしようとこっちの勝手だ、となる。消費者が需要を作っているもの余りの時代に、作り手のエゴを押し付けるなと、そういう話になってくるわけです。
消費者が求めるものばかり作っていたら、もの作りが発展しない。そんなことはわかっています。問題は、どこまでが好意で、どこからが押しつけかという線引きです。
ならば、強制的にリプレイが揃う機能はどうか。これは、大人が持つべき要素の1つである自主性を奪うものであり、境界線を踏み越えていると言わざるをえない。強制はいかん。自主性こそ大事だということは、大当たり中に聞ける「It’s My Life」にしっかりと歌われているのに、ああ惜しい。

パーティ 5月某日 晴れ

ここ数年、べったりとお付き合いさせていただいている出版社さんより、パーティにご招待いただきました。創立22周年のパーティです。また、私が携わらせて頂いていた本の売上げ報告会も兼ねておりました。
たしか、20周年目のパーティにもお呼ばれしましたから、あれから2年も経ったということになります。どうりで白髪が増えるはずです。
もっとも私は、お酒は好きですが、パーティという柄ではありません。売上げ報告についての感想ということで、当日、皆々様の前でひとこと話すよう言われたものの、何も言葉が浮かばない。実際、何を話したのか、覚えていない。だいたい、「著者からひとこと」というほど、たいしたことを言える者でないことを、自分自身が良く知っている。
一方で、社長さんやその他の主役級の方々がスピーチしているのを拝聴していると、みなさん、実に上手に話すものです。練習しているのでしょうか。それとも、経験や慣れが裏打ちする上達なのでしょうか。感心して聞き入りながら、スピーチの実用書でも買ってみようかと、そんなことを思った次第です。
大人になると、当人の意向と関係なく、人前で話すという機会が増えます。酒瓶の後に隠れていても、見つかります。次回はもう少し、気の利いたことを言いたいものです。

役得 5月某日 晴れ

先月に引続き、今月もゴルフに行ってきました。再度、ご招待というか、ゴルフ場編集部のオマケでの参加です。最近、こういう役得が多い。どうやら日頃の悪さは関係ないらしい。
今回お邪魔したゴルフ場は、我が家(都内)からおよそ1時間で着きます。というよりも、1時間走れば、このゴルフ場に限らず、実に多くのゴルフ場に行けます。
一方で、ゴルフを始めようか迷っている人たち、あるいはゴルフを敬遠している人たちからは、「朝が早い」という声とともに、「遠い」という声をよく聞きます。
朝が早いのは、おそらく事実です。しかし、遠いというのは、必ずしも正しい表現とは言えません。1時間走る距離が、遠いかどうか。この感覚には個人差があるでしょうが、なんだかここに、誤解があるような気がします。
つまり、遠いと思っているほど、遠くないかもしれない。先入観があるせいで、敬遠してしまっている未経験の楽しい世界があるということです。
こういうことは、実は日常で結構多い。たとえば私は、家に花を飾るなんてくだらないと思っていましたが、置いてみると、なるほどこれは気分がいい。ディズニー映画か、と眉をひそめつつ、最近もっとも感心した映画は、「パイレーツ・オブカリビアン」だったりする。そういう点で見ていくと、私はおそらく頭が固い方だから、固まっている所をほぐせば、未知の楽しみは、これからいくつも見つかる。そこにワクワクする。
別の言い方をすれば、30代はまだまだ、思考やライフスタイルを固める時期ではないということでしょう。固めたいと思う時期だからこそ、固めない。まずは、柔らかく考える。とりあえず、世界を広げる。とにかく、やってみる。それができなくなった瞬間から、人生が一気につまらなくなるのかもしれません。

育てる 4月某日 晴れ

毎月、ある業界誌にて、人の育て方についての連載記事を担当しています。人材教育における要点について、コンサルタントの方が話し、その原稿をまとめるという仕事です。
この取材にて毎度思うのが、育てるということの難しさです。育てるとは、辞書の解釈によれば、「成長するよう世話をする」ということです。教えるでもなく、鍛えるでもない。当然、甘やかすでもない。この境界線の引き方に個人差があるから、教員や指導者、教育係と言われる人たちが、問題を抱えたり、問題を起こしたりするのかもしれません。
一方の育てられる側にも、大前提として、育つ要素や、育とうという気持ちがなくてはなりません。ここが欠けてしまうと、育てる側の熱意が一方通行になる。そうなっているケースも多い。
「お前に育てられようとは思っていない」
そう言われてしまったら、どうやって手を変えても、育てることはできないということです。
ところで、弊宅では多少、食べられる植物を育てています。パセリとかシソとか、そういったものです。これをやっていて思うのは、タネを埋め、水をやっていると、なんとなく農作物を「作っている」ような気分になりますが、実際には、農作物の成長を「手助け」しているという表現の方が正しいということです。こっちはこっちで勝手な親心を持っていますが、実際のところ、向こうは向こうで、勝手に育つ。実がなるものなら、勝手に作る。そういう前提がある上で、日当たりや水やりといったサポートが役に立つ。そのサポートを、人がやっている。「育てる」とは、それ以上でも、それ以下でもないということです。
人というのも、向こうは向こうで、勝手に育っています。確実に年を取っている。いろいろなことを見聞きしている。そういう実態を考えることなく、一方的に行うのが、教えるであり、鍛えるではないでしょうか。実態を踏まえた上で、日当たりや水やりの加減を工夫しなければ、人は育たないということです。
ちなみに私は、性格がお節介だから、つい水をやりたくなる。その結果、過保護になります。弊宅には猫がいますが、よく太っているのを見ると、それがよく分かる。猫の方は、それで幸せかもしれません。しかし、飼い主としては、まだまだ育てているレベルとはほど遠い。
育てるという感覚が分からなくなった場合には、植物を育てたり、動物を飼ってみるのが、意外と有効かもしれません。

自然の中で遊ぶ 4月某日 晴れ

茨城県のとあるゴルフ場さんからご招待を受け、1ラウンドと昼食を楽しませて頂きました。もっとも、招待を受けたのは、お付き合いさせていただいているゴルフ誌の方々。ゴルフは基本的に4人1組(の倍数)で、頭数1つ足りなかったので、私に声をかけていただいたということです。つまり、おまけ。コツコツ生きていると、いいことが起きるものです。
バンカーが深く、グリーンも早く、私ごときには歯が立たない難コース。パーが3つ取れただけで、もう十分。そんな1日でした。
なによりも幸運だったのは、爽やかに晴れたことでしょう。桜の見頃は終わりかけでしたが、鯉のぼりがたなびき、花壇も華やか。風も心地よい。
実は去年も同時期に(おまけで)招待いただいたのですが、その時は雨でした。雨の日、あるいは寒い日というのは、どの動物もそうであるように、雨風しのげる場所でじっとしているのが自然です。
気象庁のデータによると、09年の3月中で、日中(6〜18時)に雨が降った日は12日。一時的なものを含め、雨に当たる確率は38%。つまり、3回ゴルフに行けば、1回は雨に降られます。
雨に濡れると、いくらスコアが良くても、どうしても惨めな気分になる。コースの良さもよくわからない。衣類等の後片付けもかさむ。したがって、カミさんも嫌がる。
天気は、管理、準備、世話といった人為的な活動を上回る影響力を持つのです。
天気は、利用者にとっても重要であり、利用者の来場で商売が成り立つゴルフ場にとっても非常に重要だと言えます。
問題は、晴れ、あるいは雨の日が、来場者数が期待できる土日祝日にどう当たるか。1回の雨で、大勢に「しばらくいいや」と感じられてしまうこともあれば、1回の晴れで、大勢に「また来よう」と思ってもらえることもあります。「天を味方につける」とは、おそらくこういう因果を指すのでしょう。コントロールできない天気というものとともに商売をする難しさと大変さを、改めて感じた次第です。
現代社会では、多くの人が、天気と無関係のところで仕事をしています。家やビルの中にいると、外が雨でもたいした影響を受けないからです。接客、販売、観光の分野では、雨で客足が遠のくというのはあるかもしれません。しかし、製造、物流、金融では、雨だからダメという話はあまり聞きません。
遊びは自然で、仕事は人口。これは、直感的にですが、アンバランスな日常でしょう。もう少し天気に関心を向けてみる。自然を観察してみる。人口的な環境の中で働いている私のような人ほど、その必要性があるのかもしれません。

もろさ 3月某日 晴れ

「投資という方法を使えば、効率良くお金を殖やしていけるよ」
アメリカは日本やその他の国々に、そう伝えました。そういうお節介が好きな国民性を持っているというのは、下で書いた通りです。
実は、これと似たようなことが、今から数千年前にも起きています。まだ、日本が狩猟民族の国だった縄文時代の頃の話です。その後、諸説ありますが、紀元前3世紀ころに農耕が伝わったと言われています。
「農耕という方法を使えば、鳥獣を追いかけて暮らさなくても、効率良く、生きていくために必要な糧を連続的に作っていくことができるよ」
朝鮮半島の人々は、縄文人にそう教えてくれたわけです。
投資も農耕も、いずれも一方から他方への伝来です。善意あるお節介でもあります。しかし、農耕はその後、日本に定着しましたが、投資の方は、いまいち定着しませんでした。
このちがいはなんだったのか。
決定的に異なるのが、連続的であるかどうかでしょう。農耕は、基本的に天地が存在している限り、連続性を持ちます。一方、投資は、人が人(というか自分)の為に構成している人為的なマーケットが土壌ですので、参加者の数、つまり活発度が連続性に影響します。
つくづく思うのは、人は、あらゆるものをコントロールできるという幻想にとらわれているということです。「偉大なる人間様が考え、動けば、どうにかできないことはない」。そういう幻想です。
これはとんでもない話です。実際のところ、人が作ったマーケットですら、コントロールできません。人が作ったものがいかにもろいか。それを証明したのが、現在の世界不況だとも言えるのではないでしょうか。
人々の生活は、人が作ったものの上に成り立つようになりました。私の生活も、目の前のパソコンから、日々口にしているチョコレートも、コーヒーも、それを作るコーヒーメーカーも、全ては人が作ったものであり、人が作ったお金という概念で買ったものです。実はこれも、意外ともろい。もろいということは、連続性が確保しづらいということであり、頼り切ってしまうと危ないものとも言えます。
現状に頼ってはいけない。今の土壌が壊れる前に、新しい土壌を耕さなければいけない。年度末が近いからでしょうか。確定申告が終わったばかりだからでしょうか。なんとなくそんなことを思っています。

性質 3月某日 晴れ

「ハンマーを持つ人は、すべてのものが釘に見える」
アメリカの中東侵攻(侵攻かどうかは意見がわかれるでしょうが)について、メディアがよくこう評しました。良くも悪くも、彼らはお節介ですから、気軽に、あるいは気安く人に意見します。手も出します。そういう人が力(ハンマー)を持つと、場合によっては戦争が起きるということです。
金融についても、おそらく同じことが言えます。例えば、GDP世界一というハンマーを持つアメリカには、日本のように、貯蓄を保守して、各自仲睦まじくやっている国がじれったく見えた。だから、おそらく善意で、投資を教える。
「投資という方法を使えば、効率良くお金を殖やしていけるよ」
アメリカの投資家や投資市場そのものが、そう提言する。その提言に、半分くらい耳を貸したのが日本、全身を耳にして聞いてしまったのがアイスランドということではないでしょうか。もちろん、当人であるアメリカも失敗した。今回の世界不況で数少ない良かったことは、アメリカがハンマーを振り下ろし、自分の指を叩いたことだと、私は思っています。
なんでこんな話をしているかというと、先日、カミさんに「直太さんはお節介ね」と言われたためです。もっとも、私は、私に少なからずお節介の性質があることを承知しています。それを知っているから、本を書く。こちらのお節介が求められていれば、売上げとして反映されますし、求められていなければ、返本という形でこちらに跳ね返ってくる。ハンマーで自分の指を叩くことになり、ハンマーの使い方が雑だったことに気がつく。
私のことはどうでもいいとして、お節介というのは性質であり、なかなか変わらないと私は思っています。鉄が固く、水が冷たいのと同じ。過日お会いした方が「浮気性の男は、一生浮気する」とおっしゃっていましたが、これも性質という点で見れば、その通りでしょう。
重要なのは、その性質をどうコントロールし、どう活かすか。鉄の枕では眠れませんが、車を作るならちょうどいい。お節介の人ならボランティアに向いているかもしれません。現に、アメリカ発のチャリティー事業には目を見張るものがあります。
国民性とか地域性、男女の性別といった性(質)の差を言及すると、場合によっては差別だと言われかねない時代ですが、私は、そうは思いません。性質を踏まえず、誰でも平等、誰もが同じ、誰にでもできるという考え方に、戦争から不況に至るまで、あらゆる問題の根本があるような気がしてなりません。

まずはフツー 3月某日 晴れ

おかげさまで「まずはフツーをきわめなさい」という本が、TSUTAYAさんからの先行発売(約1カ月)を経て、書店に並ぶことになりました。
「フツー」という言葉や概念は、平均的、おもしろみに欠ける、大量生産的といった感覚でとらえられがちです。しかし、私はそうは思いません。フツーのことができない人は、なにをやらせてもダメだと思っているからです。
そこで、例えば、平均と比較してみる。
今昔の世間を参考にしてみる。
世界に目を向けてみる。
こうしたアプローチで自分を見直しつつ、果たして自分はフツー(を満たしている)だと言い切れるだろうか、考えてみる。そのきっかけ作りを目指した本です。
自分を成長させていく上でのアプローチには、大きく分けて2つあります。
ひとつは、まずは得意分野を伸ばし、後から不得意な分野を補う方法。
もうひとつは、まずは不得意をなくし、その後、得意分野を伸ばす方法。
前者でやると、偏った人になる可能性が高くなります。仕事はできるけど礼儀がなっていない(したがって、嫌われる)とか、料理は上手いけどものすごく貧乏(したがって、幸せではない)、オシャレだけど総理大臣の名前がわからない(したがって、バカだと思われる)など、いわゆる専門バカ、あるいはつぶしがきかないという人になります。
これを避けるためのアプローチが、フツーに目を向けること。まずは不得意をなくし、フツーのことがフツーにできる人として基礎を固めることです。
フツーは、きわめようと思うと大変です。だから、重要であるとも言えます。
もちろん、フツーをきわめることがゴールではありません。だから、「まずは」フツーをきわめて、次は次にすべきことに取り組むということです。
もう一歩上を目指す方々に、ぜひ読んで頂きたいと思っております。

美しい比率 3月某日 晴れ

アメリカ人の多くが、給料のうちの決して少なくない額を投資で運用するというのは有名な話。お金をテーマにした書籍を構成するにあたり、まさにそれを示しているデータを見つけたので、紹介させていただくことにします。
調査は、資金循環の日米比較について日銀がまとめているもので、要するに、お金をどういうカタチで、どういう比率で持っているのかを調べたものです。
調査によると、日本の家計では、資産を「現金・預金」で持つ割合が55%。株、債券、投資信託などのいわゆる「投資」と呼ばれるもので持つ割合は13%弱です。これに対し、アメリカはどうか。資産を「現金・預金」で持つ割合は15%。「投資」分野では、株が最も多く32%、次いで、投資信託が12%、債券が9%。投資は合計で、53%に至ります。
簡単に言うと、「現金・預金」:「投資」の比率が、日本では1:0.23なのに対し、アメリカでは0.28:1。ほぼ逆転しているということです。
金融リスクという点で見れば、「現金・預金」よりも「投資」の方が大きいことは誰もがご存知の通り。理論上、リスクとリターンの大きさは同じだから、それだけリターンも期待できるのですが、それにしても、資産の半分をリスク性商品に、また、資産の30%以上をリスクが高めの株式投資で運用するというのは、なかなか理解しにくいのではないでしょうか。現在の不況で、なぜアメリカが大きなダメージを受けているかがよく分かります。
もっとも、現在は、良くも悪くも金融至上主義の世界ですから、日本の投資比率が13%というのは、少ないかもしれません。お金は保存しているだけでは増えません。多少はリスクを受け入れることも考えなければならない。このあたりの意識が、マクロで見て、全体として変わっていけば、日本はだいぶ裕福になるでしょう。年金不安や国の借金という点についても、少しばかり軽減して、次世代にバトンタッチできるように思います。
つまり、13%では少なく、50%では多すぎる。
この中間のどこかに、「現金・預金」と「投資」という比率において、日本が豊かになり、発展し、経済面で世界のリーダーとしてアメリカに代わる力を担う答えがあるのではないでしょうか。
世の中は、たいてい比率で優劣が決まります。仕事と遊びの比率。肉と野菜の比率。優しさと厳しさの比率。必ずしも、1:1が正解というわけではありません。数学における黄金費は1:1.618ですし、スタイルのいい女性のウエストとヒップの比率は0.7:1だと言われています。比率の優れているものは美しい。家計も然りではないでしょうか。

いまから、これから 2月某日 晴れ

ある会社にて、数人の社員に集まって頂き、ざっくばらんに、親入社員だったころの話を聞くという取材をしてきました。それらをまとめ、同社に4月から入ってくる新人の方々へのメッセージ記事にするという、社内報の仕事です。2年目から10年目まで、様々な人の様々な話が飛び交いましたが、やはり新人のころというのは、辛かった想い出が残るようです。
考えてみれば、昨日まで遊んでいて良かった人が、今日から一定の責任を持つようになるわけですから、その変化は、生活パターンという点でも、意識という点でも、辛かったという想い出として印象に残りやすいのかもしれません。
話を聞いていて印象的だったのは、集まって頂いた方のほとんどが、初任給で親になにか贈り物をしたということです。両親を食事に招いた人もいた。服を買ってあげたという女性もいた。いずれも私より若い方でしたが、ひどく感心しました。私はどうだったかと言えば、覚えていない。覚えていないということは、なにもしていないからにちがいない。これは反省しなければなりません。
こういう時に重要なのが、「いまから、これから」という考え方なのかもしれません。過去よりも未来の方が何百倍も重要ですから、昔のことを反省していてもしょうがない。初任給でし忘れたことは、次の印税でやればいいのです。
これから社会に出る人たちにとってみれば、今年はあまりいい環境とは言えないでしょう。不況に対する漠然とした、あるいは具体的な閉塞感がありますし、思うように仕事も運ばない可能性も高い。辛いと感じることも多いかもしれません。しかし、いまから、これから。前を見てコツコツとやっていけば、そのうちいいこともある。根っこさえ腐らなければ、いつかは花が咲く。社会とはつまり、そういうものではないかと、30代半ばのオジさん物書きは思います。

なってみないと分からない 2月某日 晴れ

杉の花粉症というのが、そろそろ始まるようです。私は、自分がヤワな人間ではないと虚勢を張っていますから、花粉症なんかにはならないだろうと高をくくっていたわけですが、最近、どうにも鼻水が出る。くしゃみも出る。目もかゆい。朝起きて、澄み切った青空を見上げたりすると、意識の方では晴天を喜んでいても、身体の方がむずがゆくなる。物書きは、毎日出かけるわけではないので、その点ではありがたい。しかし、実はヤワな人間なのではないかと、少し疑っています。
そういえば先日、カミさんがアレルギーテストを受けたところ、ハウスダストに反応していることが分かりました。わが家はカミさんがよく掃除してくれているのですが、忙しかったりすると、階段のすみあたりに、ほこりや猫の毛がたまっていたりする。その際、まず鼻水やくしゃみが出るのは、実は私です。
「私よりも、直太さんの方がハウスダストアレルギーなのでは?」
とカミさんは言う。私は聞こえないフリをして、鼻をかむ。ハウスダストの方にも、疑いがかかっている。猫の毛は、もう7年くらい共生しているので、いまさらアレルギーということもないでしょうけど。
同じようなことが、過去にもありました。肩こりです。
私は肩凝りとは無縁で、そういう人生を生きていくのだと思っていたら、どうも3年位前から、肩が重く感じることが出てきた。首が痛くなり、右目の奥の辺りも痛くなり、後頭部が痛くなり、慢性的に右の頭が痛むようになった。
ある時、どうにも痛いので近所の先生に看てもらったところ、原因は肩凝りだと言われました。以来、美容院で髪を切ってもらった後、肩をもんでもらう度に、必ず、固いですねと言われる。なるほどこれが肩凝りかと、まったく嬉しくない発見をして、今なお、右頭の痛み(いつも右が痛い)を抱えて、原稿を書いているわけです。
人間が動物よりも優れている点の1つに、想像力というのがあります。空を飛べるようになったのも、アメリカにいる友人とメールをやり取りできるのも、文明的と言われる行為の全ては、発想力から生まれています。物書き商売においても、読む人が想像できなければ、文字通り、お話になりません。一方で、その対極にあるのが、「なってみなければ分からない」です。私にとっては、肩凝りの痛みで、春先のくしゃみです。こと身体の異常に関しては、そういうものが多いように思います。
人間を首から上と下で分けてみると、上の方は意識であり、理屈です。下の方は身体であり、現実です。我々は普段、意識の世界で生きているように思いますが、くしゃみが出る度に、そうではないことに気がつきます。願わくば、肩凝りに効く薬やグッズ、あるいは花粉症の薬を開発する人が、ひどい肩凝りで、あるいはひどく花粉症に悩んでいる人であってほしいと思っています。意識の方では分かっていても、身体の方で分からないと、苦痛というのは、数値化しづらい分、理解してもらえないのです。

一服しながら 2月某日 晴れ

不況風が吹く中で、コンビニの売上げが好調なのだそうです。主な理由は、昨年からTASPOが導入されたことで、たばこをコンビニで買う人が増えたため。なるほど、という感じでしょうか。
かく言う私も、TASPOは持っていません。だから、ほぼ毎日、コンビニに足を運びます。持たない理由は、青少年の健康を守るために、私がなんだかんだの手続きをして、カードを携帯するということに、いささか抵抗を感じるからです。ちなみに、車にはよく乗りますが、それでいてETCを取り付けていないのも、似たような理由からです。特定の団体の利益のために、なぜ個人が負担するのか。そこにいささか抵抗を感じるからです。
ところで、私はこれまでに何度も、どう見ても未成年の子が、コンビニでたばこを買っているのを見かけています。今日も取材の帰り道、最寄りのコンビニで見かけたばかり。生意気にも「クール」を買っていました。それがクールだと思っているのでしょう。若さとはそういうものです。だから青春は恥ずかしい。
コンビニの売上げが上がったのも、そこに未成年が流れてくるのも、考えてみれば、当然のことです。2つある入り口のうち、1つを閉じれば、もうひとつが混む。しかし、コンビニの店員さんに、いちいち年齢確認するよう義務づけるのも難しいでしょうから、流れは変わっても、結果はあまり変わらない。では、TASPOに投じた大金はいったい何だったのか。そういう議論が出ないのが、私には不思議でしょうがありません。機械を導入した。システムを作った。だから、できるだけのことはやったということで、任務完了ということにする。そういう態度にも抵抗があります。
もっとも、私は前述の通り、未成年の子がたばこを吸っても、何とも思いません。肺ガンになれば、自業自得。したがって、買っている子を見ても、何も言いません。そもそも、たばこが現状のように敵視される理由も、いまいちよく分かりません。しかし、例えば、たばこ店の売上げが落ちているのだとすれば(おそらく落ちているでしょう)、それは気の毒です。倫理観の強いコンビニの店員さんで、明らかに未成年の子にたばこを売っている現状がストレスになっている人がいれば(そういう人もいるかもしれない)、それも気の毒です。それは、自業自得ではないからです。
万人に利益がある施策を打つのはおそらく不可能ですが、策を打つというのは行動ですから、そこで被害が生じれば、責任が伴う。なんでもかんでも、トライ&エラーで済むはずがない。物書きが自分の書いたことに責任を持つようなものです。私は、たばこを一服しながら、そういうどうでもいいことを考えています。

しゃべるスピード 1月某日 梅雨

私は、雑誌や本で物書きするほか、アニュアルレポートや株主向け資料などの作成も行っています。その際に感じるのは、経営基本方針などの話を聞かせて頂く社長や、それに近い立場にある人たちが、おしなべて早口であるという点。おそらく、賢い人とそうでもない人との差は、しゃべるスピードに表れるのでしょう。「ゾウの時間、ネズミの時間」の表現を借りれば、しゃべるスピードには、「社長の時間、ぺーぺーの時間」という原則が存在するように思います。
賢さが早口に表れる現象は、アメリカのニュース番組に見ることができます。
アメリカのニュースのアナウンサーは早口です。アメリカは、経済レベルだけでなく知識レベルも日本より二極化しているわけですが、あの早口のニュースに、いわゆる下流の方たちがついていけるとは到底思えません。「我々の番組は、理解力の高い人にだけ見てもらえれば十分」といった歪んだエリート意識を感じるのは私だけではないでしょう。
一方の日本は逆で、おそろしくレベルを下げたニュース番組がほとんどです。原稿を読むスピードがどうこうというレベルにはなく、本業をさしおいたアナウンサーが、バラエティ番組で「えぇと、この漢字なんて読むんだっけ?」「いやん、噛んじゃった」とやっている始末。「見ている人たちはバカだから、これくらいの内容で十分だろう」という、作り手の悪意を感じるのも、私だけではないでしょう。
私は選りすぐった結果、安藤さんのニュースとニュース23を見ていますが、ほかにも、もう少しまともなニュース番組が増えてもいいのではないでしょうか。もっとも、民法はスポンサーの顔色が気になるでしょうから、NHKがその役目を担えばいい。NHKがお笑い番組を流す必要はありません。淡々とニュースを報じれば、それだけで、少なくとも今よりは数段いい番組になるからです。
ところで、最近は派遣社員に関するニュースを聞かない日がありません。1つ不思議なのは、解雇や契約解除によってホームレスになったという人が、ニュースを見ている限りで、男ばかりだという点です。
派遣社員という働き方の特性上、また、昨今、アラフォーと言われるような独身で生計を立てている女性が増えているという点で見ても、困窮している女性も少なくないはずなのですが、女性が炊き出しに並んでいる姿は見たことがない。彼女たちはどこへ行ったのか。まさか全員が風俗業界へ行ったわけでもないでしょう。どなたかご存知の方、教えて下さいませんか。

天災と人災 1月某日 晴れ

ほぼ毎月、打合せに伺っている雑誌社さんがあります。この打合せには、車で行っております。
私はまあ、生き方という点では乱暴な部分が多々ありますが、運転と、パソコンの扱いと、カミさんの扱いにかけては、自分で言うのもなんですが、丁寧な方だと思います。
運転とパソコンは、これを雑にすると、仕事へのダメージが大きい。事故や飲酒運転をやらかしたりすれば、人生が悪い方へ大きく転ぶことが想像できる。仕事どころじゃない。だから、違反もしないし、ぶつけられたことは何度かありますが、ぶつけたことはない。こういうものは、意識の持ち方ひとつでコントロールできます。パソコンも、もしコーヒーをこぼしたらなんてことを考えるだけで背筋が凍る。だから、近くに飲み物は一切置かない。カミさんを丁寧に扱うのは、仕事とは関係ありませんが、そうした方が日々楽しいからです。
統計によると、年間の交通事故数は約77万件。交通事故による死者数は5000人だそうです。しかし、事故というものは、起こそうと思ってする起こす人はいないでしょうから、やり方によって、防ぐことができるはずです。つまり、「人災」だということです。実際、昭和20年代、まだ車が少なかったころの事故件数は10万件以下でした。死者数の方は、昭和45年が過去最悪で、1万6700人が亡くなったそうですが、以来、こちらはエアバッグの開発といったことで減少してきたのでしょう。テクノロジーというのも、災害を防ぐ上で大きな貢献をします。
一方で、台風や地震といったものは、これらも交通事故のように多数の犠牲を生み出しますが、こちらは天災だから、やり方を工夫しても完全に防ぐことはできない。「しょうがない」ということで納得するよりほかにない惨事を、天災はもたらします。
そこでふと思うのが、最近、地震を予測したりして天災をどうにかしようとする動きが盛んだということです。それはそれで大事ですが、それよりも、人災をもっとなんとかすべきではないでしょうか。前にもどこかで書いたことがあるかもしれませんが、例えば、飲酒運転が罰金刑というのは、やはり甘い。免許を取り消す位の厳刑が必要だと、私は個人的に思うわけです。当然ながら、いじめ、殺人、戦争、消費期限の偽装というのも人災です。痴情のもつれも、当然ながら、人災です。
こういうものは、「しょうがない」で片づけてはいけない。政治的な話は得意ではありませんが、ニュースで報じられる事件は、そのほとんどが人災であり、やり方ひとつで、もう少し軽減できると、いつもそう思う。個人としては、今年も無事故、無違反でいこうと、年頭にあたり、そんなことを思う次第です。

ファミレス 1月某日 晴れ

ある案件の打合せで、ファミレスに行ってきました。会社という巣を持たないフリーランスは、打合せをする際に、ファミレスをよく利用します。テーブルが広いし、車が停められるし、私はすぐに喉が渇くドライマウスなので、気兼ねなくおかわりができるので、実にちょうどいい。
特に私はたばこを吸いますから、その点でも、ファミレスは気兼ねしなくて済みます。最近は、喫茶店でもたばこが吸えないところが増えています。知らずにうっかり入ってしまうと、たばこが吸えない環境がプレッシャーになり、打合せどころじゃなくなってしまう。喫茶の「喫」とは、なにかを口にするという意味を持ちますが、お茶だけでなく、たばこ、つまり喫煙も含まれるのではないのかと、そういうことが気になってしょうがない。だから、ファミレスを使うのです。
ところで、人には、「思ってはいても、公言しない方が良いこと」というのがあります。そういう節度を個々が守ることで、社会というものが成り立っていると見ることもできます。
フリーランスとは、ある意味で、世間の大半の人と比べて、社会との接点の持ち方が異なりますから、私はその辺りの節度が少しずれているかもしれません。
そういう前提で1つ公言してしまうと、私は子どもという存在があまり好きではありません。おそらく、子どもの方も、私のことがあまり好きではないでしょう。向こうから近寄ってくることも少ないですし、こちらが好意を持っていない相手というのは、たいてい、向こうの方でもこちらに好意を持っていないからです。
ファミレスの禁煙席には、とくに昼間は子どもがたくさんいます。一方、喫煙席の方にはあまりいない。その点も、私が喫煙席を選ぶ理由の1つです。耳をつんざく泣き声とか、目に余る行為とか、そういったことが、喫煙席の方が少ないからです。もちろんこれらは、子どものせいではなく、その管理をする親の責任。子どもはそういうことをする生き物ですから、彼らには罪がない。それを管理しない親の態度が、あるいは、うちの子ってなにをしてもかわいいのよと言わんばかりの誤った認識が、私の神経を逆なでするわけです。
一方、喫煙席に座れば、当然ながら、肺が傷みます。さて、どちらがいいか。
「禁煙席と喫煙席、どちらになさいますか?」
入り口では、たいていそう聞かれます。いい方を変えれば、
「神経に悪い席と、肺に悪い席、どちらになさいますか?」
ということです。だから私は、肺に悪い方を選ぶ。もっとも、一番辛いのは、子どももたばこも好きではない人にちがいありません。

ごあいさつ 1月1日 晴れ

明けましておめでとうございます。
昨年は、『28歳からのリアル』の新版と図解版に携わらせて頂き、また、出版社や関係者の方々、そして、なによりも各書店さんのご協力とご尽力のおかげで、これらが好調に売れました。
この場からで恐縮ですが、お礼を申し上げます。ありがとうございました。
私は、定期的な広告や雑誌の仕事、寄稿などのほか、
年平均で3冊くらいでしょうか、書籍の執筆や構成に携わらせて頂いています。
広告や雑誌記事と、書籍といったものは、いずれも同じ書き物でありつつ、似て非なる部分があります。
具体的には、資料の集め方や、構成の仕方が違ったり、なにかを売るために書く場合と、なにかを提言するために書く場合とでは、意識も根本的に違います。
特に書籍は、携わる期間が長い分、脱稿した際の開放感も違う。
まもなく、「引き算」をキーワードにした本が、書店さんに並びます。
3月末には、TSUTAYAさんの強力なバックアップを受けて、
「普通」をキーワードにした本が、グループ各店に並ぶ予定です。
いずれも、「28歳」とはまた違った視点で、楽しく、幸せに生きていくためのヒントや情報を詰め込んであります。100年に1度とも言われる不況を生きていく上で、いくらか参考になれば幸いだと思っております。

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ライター 伊達直太

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