ライター伊達直太/取材後記2010

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取材後記 2010

2010年を振り返って 12月某日 晴れ

ある新聞の調査によると、今年の国内ニュースのトップ3は、尖閣漁船事件、ノーベル賞、宮崎口蹄疫であるらしい。たしかに、重大な出来事であったと思います。では、個人的にはなにが印象的だったか。そう考えてみて、思い出すのは、小学6年生の少女がいじめ(と、学校は認めていないらしいが)を原因に自殺したというニュースです。
ニュースによれば、同級生たちから悪口をいわれつづけたという。きっかけは、母親が外国人であるという、たったそれだけのこと。給食は、教室内で同級生たちが輪を作って食べているなか、毎日ひとりで食べていた。誰も一緒に食べようとはいわなかった。先生もなにもしなかった。どうしようもなくなって、自殺という道を選んでしまった。それしかもう道がなかった。首をつるのに使ったのは、母親に編んでいたマフラーだったそうです。
私は、滅多なことでは泣きません。男たるもの、泣くべきではないと思うからです。
しかし、このニュースをテレビで見たときには、少し目が潤みました。
わずか12歳の少女が、なぜそんな苦しい目にあわなければならないのか。幼い心で、どれだけ同級生を恨んだか。どれだけ先生や学校に助けを求めて、どれだけ傷ついたか。それを思うだけで、十分に哀しすぎる。よく頑張ったね。よく耐えたね。偉かったね。そういってあげたい気持ちで、目頭が熱くなります。
人に来世があるという思想を、私はもっていません。来世はどうのこうの、生まれ変わったらどうのこうのという話は嫌いだし、そう考える暇があったら、いま、できることをした方がいいと思う。しかし、彼女にだけは、来世があってほしいと心から願います。そして、卑怯な同級生とも、下劣な先生とも無縁の学校で、楽しくて、わくわくして、笑顔が絶えない毎日を送ってほしい。
そんなことを思っているうちに、今年も終わりです。来年は、こういうニュースを聞くことのない一年になるよう、ただただ願うばかりです。

暇になってなにを思うか 12月某日 晴れ

年末から年始にかけて、世間は休みに入ります。もっとも、休むのは世間であって、社会ではありません。電車とか警察といった〝社会〟的なインフラは年末年始を問わない。世間と社会のちがいはなにか。いろいろな説明方法があるけれど、そこにみられるちがいがわかりやすいと、私はひそかに思っています。
そんなことはどうでもよく、さて、我々の商売も、定期刊行物なら2月号分まで、広告物なら1月末に世に出るものまでを入稿すれば、年始までは休みです。休まなくてもい
いのだけれど、社会の方に入る仕事ではないから、世間の方に入っている顔をして、とりあえず休みます。
ひととおり年内締め切りの仕事を終えたら、暇になりました。
昨年末から取りかかっている本の原稿を進めて、年明けに必要になるであろうものの調べものをして、さて、つぎはなにをするんだっけ。見渡すと、とくにやることがありません。でも、時間はまだ夕方。私はいつも9時、10時までは仕事部屋にいるから、5時で終わり、風呂にでも入るというのもしっくりこない。しょうがないから、「早く送れ」と言われている請求書を書いたりしますが、そんなものは10分もあれば終わります(だったら、早く書けばいいのですが)。
時間があるならば、どこかへ出かけるという方法もあります。
そもそも我々フリーランスの人間は、人が動かないときに動けるという数少ないメリットがあります。正月はどこも混んでいるし、高いし、出かけたところでロクなことがない。少なくとも私はそう信じています。だから、正月が終わったところで、ゆっくり出かけられる。そう思ったのだけれど、寒いから気が乗らない。沖縄なら暖かいけれど、向こうは雨らしい。しょうがないから、たまには猫でもからかってやるかとさがしてみると、猫もどうやら寒いらしく、丸くなって動かない。忙しければ忙しいほど落ち着く性分だから、居心地が悪い。おかげで本ばかり読んでいます。
これから本はどうなるか、というテーマの本を読みました。電子書籍はどうなのか。本と電子書籍は、競合なのか、それとも共存する関係なのか。そういった内容の本です。読みながらふと気がついたのは、本はモノであり、電子書籍は情報であるということです。
私が関わることが多いビジネス書などは、どちらかといえば情報に近い。今日のビジネス的戦略が、来年も通じるとは限らないという点で、その内容は情報のように「更新」されます。更新されることが、成長でもあります。では、本らしい本とはなにか。
おのずと、文学や小説ということになるでしょう。あるは絵本やマンガも入るかもしれません。つまり、芸術の色が濃い。「モナ・リザ」にネックレスを書き足す人がいないように、これらは出版された状態が完成形であって、更新という概念があてはまりません。本と電子書籍の棲み分けを前手に、どこかに境界線を引くのなら、きっとそこになるだろうと、そんなことを思う。ニュースによれば、今年はどうやら電子書籍元年であったらしい。

景気が〝戻る〟ということは 12月某日 晴れ

来年は景気がよくなるだろう。ある企業にて、インタビューした部長さんがおっしゃっていました。この時期は、来年、来年度の戦略を聞くインタビュー仕事が増えます。
今年は4、5本あったでしょうか。景気回復論は、他の方もおっしゃっていたように思います。
リーマンショックが起きたのは08年の9月。さすがに2年も経てば、ダメージも回復できるということでしょうか。中小企業でも、リーマンショック以前の受注数に戻っているところが多いらしいですし、個人レベルでも、旅行需要などはすでにリーマンショック以前の水準まで戻っているそうです。過日、レジャー白書の担当者さんがおっしゃっていました。
ところで、景気が〝戻る〟ということについて、私はひとつ、世間に重大な誤解があるように思います。それは、景気が〝戻る〟ということが、すなわち景気が悪化する前と「同じ状態に戻る」ととらえられがちだということです。当然ながら、「リーマンショック以前の水準に戻る」ということと、「リーマンショック以前の状態に戻る」ということは意味がちがいます。彼氏や彼女と喧嘩をしたとしましょう。その後、仲直りをします。では、2人の仲は喧嘩をする前と同じか。絶対に違います。どちらかの
浮気が原因で喧嘩をしたのなら、異性という存在への意識も変わりますし、お互いを見る目も、おそらく力関係もきっと変わっています。割れる前の茶碗と、一度割れて、接着剤でくっつけた茶碗とは、機能はほぼ同じでも、同じものではないのです。
経済危機についても同じで、リーマンショックのようなことは今後も起きるでしょう。
景気は循環するからです。良い時があれば悪い時もある。
ならば大切なのは、つぎの危機の際に、今回のようなダメージを喰らわないように対策しておくことだと言えます。景気が戻った。元通りになった。そう喜んで終わってしまう人は、きっとその意識がないから、同じダメージを喰らう。結局のところ、経済危機というものに対する根本的な解決ができないのです。
万物は流転する。そういったのはヘラクレイトスだったでしょうか。
あらゆるものごとが変わるのであれば、その変化のなかで生きている自分も変わらなければなりません。なにをのこし、なにを捨て、なにを新たに取り入れるか。本当に来年は景気がよくなるのだとすれば、そのあたりが大きなテーマになるような気がします。

自分で書いたもの 11月某日 晴れ

 本数で計算すると、月に10本ほどなんらかの原稿や記事を書いています。最近は横着になって、聞かれたことに答えて、あとは新聞や雑誌の記者に原稿を作ってもらうことも増えましたが、いずれのケースにおいても、関わった仕事が形になると、それを編集者や出版社が拙宅に送ってくれます。こういうものができました。次回もまたよろしく。そういうやり取りです。送っていただくものは、雑誌の場合もあれば単行本の場合もあります。
 送っていただいておきながら恐縮ですが、私の場合、自分の書いた原稿を読み返すことはほとんどありません。「こういうのができた」とカミさんに報告して、書棚にしまう。単行本の場合には、重版がかかった際に修正箇所を指示する必要がありますから、その時になってようやく読み返すことはありますが、基本的にはいただいたまま。おかげさまで「35歳からのリアル」や「30歳からのお金のトリセツ」などは売れているようですが、私は、じつはちゃんと読んでいないのです。
 たまに「35歳からのリアル」などについて、どういう内容の本なのか聞かれることがあります。これが結構むずかしい。自分が書いたわけですから、内容は知っています。しかし、読んでいないから記憶も怪しい。
「35歳から先、やっておいた方がよいと思うことを書きました」
 それで多分、合っています。では、具体的にどんなことを書いたのか。たとえば、「小遣いは減らしてはいけない」ということを書いた気がするけれど、それは、もしかしたら別の本だったかもしれない。
 作り手として、この態度は不誠実であろう。最近、ようやくそう思うようになりました。〝ようやく〟そう思ったのは、これまで自分が関わった本について聞かれることは少なく、また、なんだかんだやることがあり、過去に作ったものよりもこれから作るものの方に意識が向いていたためです。
 もっとも、なんだかんだやることがあるのはいまも同じ。そこで、過去の本などについて聞かれた場合に備えて、最近は、本を持ち歩くことにしました。つまり「関心があるようでしたら、これどうぞ」と渡すためです。
 思えば、今年もいろいろと仕事をさせていただきました。年末になると、「これどうぞ」用に持ち歩く本も増えます。しかしながら、いまのところ持ち歩いているのは、「これどうぞ」用であり、完成度に対する個人的な満足感という点で、「名刺代わり」とは言えません。
 来年はそんな1冊を作りたい。そんなことを思っています。

楽しんでいるか 11月某日 晴れ

 社内報の仕事で、ある会社に通っておりました。取材の本数が多く、1日ではこなしきれないため、数日に渡って通う。物書きの仕事にはよくあることです。
 ところで、物書きの仕事は、段取りという点で大きく2つに分けることができます。
 1つは、編集者や広報担当者が段取りをつけ、私は現場に行き、取材をし、原稿を書くという仕事。
 もう1つは、アポ取りから原稿確認、掲載誌の送付まで含めてこちらで段取る仕事。
 社内報の仕事は前者。段取り作業が少ないという点でいえば楽。もちろん、楽かどうかは、段取りしてくれる人がきちんと仕事をしてくれるかどうかによります。要するに、食材と包丁と調理場を整えてくれるのが段取りだから、中途半端な段取りならば、最初からこっちでやった方がよい場合もないとはいえません。私はそもそも、人に任せるのがうまくない。意識のどこかで、自分でやった方が安心できると思っている。だからフリーランスなのだし、だから仕事が増えるということにも薄々気付いている。
 さて、今回の仕事は、広報担当者の仕事が完璧でした。突き抜けて明るい担当者は、気遣いがすばらしく、取材対象者を存分に乗せてくれる。そういうお膳立てがあれば、取材が失敗することはありません。
 担当者の仕事ぶりを見ていて気がついたのは、仕事を楽しんでいるということです。当人が楽しんでいる仕事には、おのずとよい結果がついてくる。当たり前で、じつはむずかしいこの点について、あらためて考えるきっかけとなりました。
 私は果たして、仕事を楽しんでいるか。
 楽しんではいるけれど、突き抜けてはいない。
 1つの仕事を長くやっていると、技術に走りがちになります。それはおそらく物書きに限らず、すべての商売に共通しているように思います。それが実は落とし穴なのでしょう。つまり、うまくやろうとするほど、うまくいかなくなる。テクニックに頼っただけの仕事は、楽しんでやった仕事に劣るのです。

自分のため、人のため 11月某日 晴れ

 車を動かすためにはガソリンがいるように、仕事をするためにはモチベーションがいります。モチベーションは、やりがいの場合もあるし、お金の場合もあるし、そこは個人差なのでしょうけれど、なにかしらのモチベーションが必要だということに、おそらく異論はないでしょう。
 では、具体的にどんなモチベーションを持っているのか。
 そこを聞く取材にいってまいりました。
 数名の方に聞いたなかで、多かったのが「家族」に関わる答え。家族の笑顔、家族と過ごす時間。そういったことがモチベーションとなっているケースが多い。つまりそこに、責任感や使命感が生まれる要素があるということなのでしょう。マズローは、自己実現を欲求のピラミッドの頂点にしたけれど、「自分のため」の努力には限界がある。「人のため」に意識が向かなければ、できないことがきっとあるのです。
 そんなことを考えていくと、晩婚や未婚が多い現代が、表面化していない大きな問題を抱えているのだろうという気がしてきます。「人のため」という意識が欠ければ、隣人との距離が近い現代社会は成り立たないからです。
 個人が満たされないと他人の役には立てない。それは現実だけれども、それがすなわち利己主義ではない。日中問題がやかましいけれど、おそらく問題の本質はそんなレベルではないのです。政治家は、二言目には「国益」と言います。しかし、そんな意識では政治家は務まらない。国境という見えない線にとらわれることなく、全体最適化を考えられる人はいないものか。
 取材の帰り道、久しぶりに満員電車に乗りました。腹が立ったのは、道中ずっと、隣に立っていたおじさんのカバンがこちらにぶつかっていたこと。当人は気にしていないのですが、こちらは邪魔でしょうがない。駅前では相変わらず、停めてはいけないところに自転車を停めているおばさんがいます。理由は知らないけれど、タクシーの運転士と自転車に乗った学生がもめている。
 ここで再度、家族の話に戻ります。というのも、電車のおじさんは、隣に立っているのが私ではなく自分の妻や息子だったら、きっとカバンを自分の方へ引っ込めたはずだから。自転車を片づけるのが自分の親ならば、おばさんはちゃんと駐輪場に自転車を停めるでしょうし、タクシーの運転士と学生も、家族ならもめない。家族は大事。でも、他人はどうでもよい。その考え方が情けない。
 悪口ばかり書いてもしょうがないけれど、あまりに利己的過ぎやしないか。
 なにはともあれ、まずは目の前の人を家族だと思ってみる。そんな教育を、学校でやってはくれないものか。

変化 11月某日 晴れ

 少し前のことになりますが、「パチンコ屋に学ぶ経済学」という本を書かせていただきました。これがどうやら売れているようで、この度、増刷することになったそうです。出版社からそんな連絡がありました。
 そんな本、見たことない。そういう人もいるでしょう。じつは、増刷のきっかけとなるほど売れているのはコンビニの棚。書籍はいま、コンビニでも売れる。そういうビジネスモデルの変化に、わずかながら携われたことが、じつは少し嬉しく感じています。
 ビジネスモデルに限らずですが、私はだいぶ前から、おそらくかなり昔から、「変化」ということをかなり意識し、自分のテーマの1つにもしています。変わってナンボ。変わらなければ未来はない。そんな風にも思っています。10年前の私を知る人は、そのほとんどが、いまの私を見て「変わった」と言います。それを私は、ひそかに喜んでいます。
 人は変わらない。そういう人がいます。しかし、ものの本によれば、ヒト1人を構成する細胞の数は約60兆。そのうち、1日に兆の単位で細胞が死に、生まれ変わるのだそうです。ならば、「変わらない自分」でいる方がむずかしく、ほぼ不可能に近い。仮に1日1兆の細胞が入れ替わるとしても、2カ月もすれば、「私」を構成する要素はほぼ入れ替わっているのであり、その意味で、私は「別人」だからです。
 パチンコ屋も、新台入れ替えをくり返して生きているという点で、人間と似ています。ようするに新陳代謝で、それがうまいほど社会に順応する。
 そう考えていけば、いかに「自分らしさ」が無意味なことかがわかってきます。
「自分」に固執したところで、中身は変わっています。細胞が替わり、人が変わる。台が替わり、店が変わる。人が替わり、街が変わる。それを容認できることが、じつは重要なのではないか。
 代謝が低下することを「老化」と言います。それが分かりやすい形で表れているのが、「あの頃はよかった」であり、「いまどきの若いもんは」です。人は生物の常として、それを避けることができません。ならば、その時までせめて積極的に変化を受け入れたい。「昔」や「自分」にこだわっている姿を見かけたら、関係者のみなさん、ぜひ私をぶっとばしてください。

売ろうとしても売れない 10月某日 晴れ

 立て続けに2冊、単行本に携わらせていただきました。
 1つは、営業の本。営業マンは、どうすれば効果、効率を高められるのか。
 もう1つは、ウェブ販売の本。ウェブページは、どうすればもっと「売れる」ようになるか。
 その過程では、著者との打合せがあり、それぞれが推奨するノウハウを教えていただきます。その上で、どのあたりが本のポイントになるかを考えて、構成を組み立てるのが私の仕事というわけです。おかげで、営業やウェブに詳しくなった。もっとも、営業もウェブも直接的に私の商売に関係がありませんから、個人的には活用する場面がありません。なんだかもったいない。ウィンドウズでしか動かないソフトを手にした時にも、似たような気分になります。
 ところで、拙宅にはちょこちょこ営業の電話がかかってきます。
 最近多いのは、エコ対策はお済みですか? というもの。
 どうやら、ソーラーシステムとかオール電化とか、そういったものを売りたいらしい。
 私はもちろん「興味がない」と断るわけですが、そんな折、コツコツ電話営業なんかしなくても、もっと効率良く営業できる方法があるのになあ、と思ったりします。
保険の営業も多い。そういう電話にも、やはり「こっちは忙しい」で一蹴します。
 不要(少なくとも拙宅に取って)な営業が減らない背景には、供給が需要を生むという発想があるためだと見ることができます。つまり、古典派経済学の考え方で、いわゆる「セイの法則」。ところが、今は買い手市場ですから、人は財を貯めておき、買いたい時に買います。ようするに、需要ありき。
 売ろうとしても、売れない。売ろうとするほど、売れなくなる。
 きわめてシンプルで、それでいて重要なことを、私は今回、この2冊に携わって学んだ気がしています。

生もの 10月某日 晴れ

 スーツにネクタイという格好で出かけることが増えました。
 理由は、社長、専務、取締役といった「お偉いさん」のインタビュー仕事が増えたため。そういえば先日は、政治家先生のインタビューだった。媒体は、社内報から経営誌、経済誌までさまざまですが、年に10回、最近ではひょっとしたら20回くらい、お偉いさんのインタビューに出かけているかもしれません。「お偉いさんのインタビュー仕事は、伊達に任せておけば良い。そういうことになっているんです」。ある代理店の担当者が、そのようなことをおっしゃっていました。どこをどう評価され、「そうなっている」のかわかりませんが、これはありがたい。なにしろ講演会にでも参加しなければ聞けないような話を、目の前で、しかも個人的に聞きたいことまでしれーっ
と混ぜ込んで、聞くことができるわけですから。
 ところで、インタビューには出来・不出来があります。インタビューは「過程」で、原稿は「結果」ですから、「結果」がよければそれで問題なしという考え方もできますし、「過程」は常に「結果」に影響するという考え方もできます。どちらの考え方を支持するわけでもありませんが、インタビューは生ものであり、原稿とちがって、
やり直しができません。聞き方をまちがうと、聞きたいことが聞けなくなります。聞かなくて良いことを聞き過ぎると、時間がなくなります。だから、これがむずかしい。
 今日のインタビューを自己採点すると、60点。及第点ギリギリ。
 ああ、質問の順番をまちがった。
 そんなことを反省しながらの帰路は脱力感に襲われます。
 打席が増えれば、いずれ打率も上がる。明日のインタビューでは、せめて61点取りたい。そう思えることが、わずかな希望か。最近、お偉いさんのインタビューが増えました。

鍋のはなし その3 10月某日 晴れ

 ようやく1位のはなし。トマト鍋です。
 去年、トマト鍋のスープをいただき、果たしてどんなものなのかと思いつつ作ってみたのがそもそもの始まり。以来、十数回は食べていますが、まったく飽きません。
むしろ、トマト鍋が食べたくてしょうがない時がある。すっかり中毒になったらしい。
 トマトはそもそも夏の食べものですから、冬にトマトという発想はどうなのか。色がキツすぎやしないか。味の主張が強すぎやしないか。いろいろなことを考えます。しかしながら、そういうことを考えたって、実はあまり意味がない。おいしいものは、作り手にとっては理屈でも、食べる側にとっては感覚だからです。
 ところで、感覚とは個人差があるものであり、それを言葉に落とし込むことはできません。もの書き商売をやっていると、それがよくわかります。しかしながら、それをやろうとしているのがグルメ番組でしょう。だからつまらない。「甘みがあってお
いしい」。そこには、甘みがおいしいものだという個人の感覚があります。「シャキシャキ感がたまらない」。シャキシャキという感覚は、ある人にとってはガリガリかもしれません。
 ホントにおいしさを伝えたいなら、黙って食べればよい。どうしても何か言わなければならないのなら、まいうーだけで実は十分。余計な説明を加えるほど、そこに普遍性がなくなります。どんな味か知りたければ、あなた自身で食べてみてください。
グルメとはつまり、そういうものなのです。
 はなしがだいぶ逸れましたが、トマト鍋は、スパゲッティを入れて楽しんだ上、最後にライスと卵を入れ、オムライスにして締めるのがよいと、スープのパッケージに書いてあります。ここまでやって、トマト鍋のフルコース。何度やっても「オムライス」にはならないけれど、卵入りのトマトリゾットにはなります。そして、これがおいしい。今冬、ぜひご賞味くださいませ。

鍋のはなし 番外 10月某日 晴れ

 鍋のはなしをしています。
 ところで、私は滅多に外で鍋を食べません。ごくたまに、友人と食べに行くくらいです。そのなかに、じつにうまく鍋を作る人がいます。「作る」とはつまり、奉行をしてくれるという意味です。私は元来、何鍋に関わらず鍋を好んで食べますが、その種類を問わなければ、この人が奉行する鍋がもっともおいしい。当然ながら、私は具材にも火加減にも触りません。触らないことが、結果としておいしい鍋を食べることにつながる。彼とは旧知の仲であり、長年の経験から、それがわかっているからです。
 どうしたら名奉行になれるのか。彼の行動を見ていて気がつくのは、ムダに鍋に触らないことです。つまり、無計画に蓋を開けたり、具をつついたり、そういう余計なことをしない。
 しかしながら、火加減からは目を離さない。必要な時に、必要最低限の手を入れて、弱めたり、強めたりする。そこに秘訣があるのだと、私はにらんでいます。
 飲んだりはなしをしていると、鍋から意識が離れます。私はとくに、よくいえば集中、悪くいえば没頭しやすい方ですから、はなしがおもしろくなってくると、鍋のことはすっかり忘れる。そして、鍋が煮詰まるわけです。
 つまり、鍋をうまく作るためには、幅広く目を向けなければなりません。なるほど、奉行とはよく言ったものです。彼について言えば、お奉行さまのように視野が広いのかもしれないし、あるいは、人のはなしを聞き流しているのかもしれません。いずれ
にせよ、今は年に1度くらいですが、冬になり、彼が奉行をする鍋を食べると、いよいよ冬だ、年末だという気分になるのです。
 さて、今年はいつにしようか。そろそろスケジュールを決めよう。

鍋のはなし その2 10月某日 晴れ

 引き続き、鍋のはなし。
 今冬、あと10回は食べようと思っている鍋の個人的な第2位は、塩スキヤキです。
 わたしはスキヤキがなによりも好きであり、お金さえあれば今半に通い詰めたいと思っている1人です。したがって、スキヤキと冠のつくものであれば、丼からお菓子類まで、とりあえず買います。そして、たいがい後悔します。
 しかし、これはおいしい。
 従来のスキヤキが、砂糖としょうゆの割下がベースであるのに対し、こちらは塩とだし汁。具材は同じでも、別の料理になります。さっぱりしている分、スキヤキと比べて具材の味がよくわかるので、肉は多分、おいしいものを用意した方がよいでしょう。
 ところで、鍋については、いくつか定番の話題があります。その1つが、スキヤキとしゃぶしゃぶのどちらを支持するか、というもの。スキヤキとしゃぶしゃぶとは、つまり鍋界の2大巨頭。野球でいえば、巨人と阪神のようなものかもしれせん。
 個人的な経験と周囲の意見を参考にすると、年齢とともに、スキヤキからしゃぶしゃぶに移り、再度スキヤキに戻るというケースが多い。いったんしゃぶしゃぶに移るのは、さっぱり味を求めたくなるからでしょう。人には、その成長過程において、「スキヤキは甘いから」などと言ってみたくなる時期があるのです。その点、塩スキヤキはさっぱりしていますから、しゃぶしゃぶに移る必要がありません。いずれ、「スキヤキは甘いから」というセリフも聞かれなくなるかもしれません。

鍋のはなし 10月某日 晴れ

 たまに思い出すのだけれど、このページには「取材後記」という題がついています。しかしながら、今回は取材とまったく関係のないはなし。あらためてそう断るほど、いつも取材に関係あることを書いているわけではありませんが、今回はとくに関係がないので、一応断りを入れておくことにします。
 なんのはなしか。鍋のはなし。
 十分に冷え込んでいないにも関わらず、拙宅ではすでに10回近く鍋をつついています。なぜなら私は、鍋さえ食べていればとりあえず幸せな性格だからです。春秋はもちろん、夏でも鍋を食べたい。しかし、案の定カミさんは了解しません。鍋は寒くなってから。そういう「思想」を持っています。ならばクーラーをかければよい。しかし、そこはエコ「思想」の世間が許さない。「思想」よりも「本能」である食欲の方が強いはずではなかったか。いつもそう思うけれど、世の中は「思想」の方を重んじるほど文化的になったらしい。
 かくして鍋断ちの暮らしがつづきますが、10月も後半にさしかかれば、そろそろよいだろうということで、ようやく鍋を食べます。冬の寒さは嫌いですが、これから3月までつづく半年弱の幸福な食生活を想像すると、寒さなど感じません。マッチ売りの少女も、きっとそんな心境だったのではあるまいか。ちなみに、ここで言う「鍋」とは、家で食べる鍋です。家族や親戚、よく知っている人以外と食べる鍋は、遠慮したり、なんとなく気兼ねするために、おいしさが微減します。外で食べる鍋は、食べ終わった後に、寒空の店外に出て家に帰るという面倒臭さがあります。だから、鍋は家でいただく。それが一番おいしい。
 さて、誰に報告するわけでもなく、この冬、あと10回ずつは食べてやろうと考えているおいしい鍋のトップ3を、発表することにします。
 3番から順に紹介していくと、まずは、もやし鍋。燃やしではなく、主婦の味方のもやしです。
 これは、スーパーにて「もやし鍋のスープ」なるものを見かけたために、買ってみたものの1つ。スープを鍋に注ぎ、あとはもやしのほか、食べたい具材を入れれば完成です。こういうスープものは割高だと感じる人もいるかもしれません。しかし、当たりが多い。このスープも、なにをどう調合しているのかわかりませんが、非常においしい。名前の通り、もやしをメインにしていますから、カロリー的にもやさしいし、財布にもやさしい。
 スープのパッケージには、最後に麺を入れて食べるようアドバイスがあります。当然、これも従順にやってみるのであり、当然、おすすめしている通りにおいしい。スパゲッティ、うどん、そしてラーメンと、あらゆる麺類を好むメンクイのカミさんも
満足。笑顔で食べている横顔をみれば、さらにおいしいのです。
 思いのほか、文章が長くなりました。2位、1位のはなしはまた今度にして、今夜はこれから鍋をいただきます。

面接とウソ 10月某日 晴れ

 どんな人を採れば、失敗しないのか。
 新卒採用に向けて、ある会社では面接の最中。その忙しい時間を縫うようにして、人事を含む来年の戦略を聞いてきました。
 印象的だったのは、「二次、三次とあるけれど、何度やったところで、面接では相手がどういう人物なのかわからない」という実態を、人事担当者がおっしゃっていたことです。
 たしかに、面接を受ける方は「よそ行き」の受け答えをします。あまく見積もっても、本音2割、建て前8割というところでしょう。面接でよい印象を与えるノウハウを書いた本もありますし、その意味で、面接を受ける人にとっては、自分というより、自分が持つ面接テクニックのアピールという側面があります。一方の面接官にも、相手の素性を見抜くノウハウがあるらしく、その手の本も多い。しかし、そこにも限界があります。
 だから、「わからない」。学力は、テストである程度把握できますが、面接でわかることは、雰囲気や空気感といった面接官の好みによるところが大きいのです。そもそも、毎日顔を合わせるカミさんについても、すべてを知っているわけではありません。相手のことがわかるはず。そう考えること自体が、じつは傲慢だったりするのです。
 ところで、最近「Lie To Me」というアメリカドラマを見ています。相手の表情や仕草からウソを見抜くコンサルタントが、そのスキルを活かして、犯罪捜査で活躍するという内容です。そういう手法を、面接で取り入れてみるとどうなるか。おそらく全員がウソつきと分析されるでしょう。
 しかしながら、ウソがなければよいというわけでもなく、素直な人よりもうまくウソをつける人の方が、よい仕事をするかもしれません。少なくとも小説家は、ウソがうまいことが条件です。「この商品はお買い得です!」と、ウソでもよいから自信を持っ
てすすめてもらいたい時もあります。「ナイスショット」も「いいネクタイですね」も、その半分はお世辞であり、ウソです。
 そういうことを考えていくと、さらに面接で採用する基準はむずかしくなり、面接をくり返す意義もよくわからなくなります。
 それでも尚、二次、三次と面接をくり返す意味はなんなのか。「わからない」ことを前提にした上で、それでも、なにかわかるかことがあるかもしれないから、やってみる。そこに尽きるのではないでしょうか。ウソから出たまこと。そんな言葉もあります。

対応と対策 9月某日 晴れ

「30歳からのお金のトリセツ」という本を書かせていただいた関係で、いくつか取材を受けました。過去、雑誌の取材は何度か受けたことがありますが、今回は、テレビ、ラジオ、新聞。宣伝を担当してくれている方が優秀で、いろいろと経験させてもらうことになりました。こういう人が会社に1人いると、業績はだいぶ変わるだろうと思う。
もっとも、商材が私じゃあたいして金にならないけれど。
 例によって、取材「される側」は、いつもと勝手がちがうわけですが、実際に引き受けてみると、テレビでもラジオでも、やることは似ています。取材をする場合には「質問を用意する」し、受ける場合には「答えを用意する」。そういう違いこそあっても、事前作業があって、当日が来るという流れは同じ。だから、準備をする。当日の良し悪しは、準備次第で決まります。
 話は「30歳からのお金のトリセツ」に戻りますが、お金もやはり、準備次第です。教育資金も老後の生活費も、行き当たりばったりで対応できるものではありません。
 つまり、必要なのは、対応ではなく対策。
 雨が降ってから、傘を買いに行く。これは、対応。
 雨が降るかもしれないから、傘を持って出かける。それが、対策。
 そこに気がつけば、濡れなくて済みます。
 やさしい人は、折りたたみを2つ持って、誰かに貸してあげるかもしれません。こういう人が、人気を集めます。
 商才のある人は、傘売りをするでしょう。こういう人のところに、お金が集まる。
 ひるがえって、自分はどうか。今日、明日の締め切りに「対応」しています。まだまだ修業が足りない。

経営資源 9月某日 晴れ

 今夏から、週刊誌の仕事を始めました。つまり、毎週、締め切りがあるということです。当然ながら、そういうスケジュールには対応できそうもないので、こちらは原稿をいくつかまとめて、先に納品します。つまり、ストックを作る。現在のところその方法で対応できますが、それが最善の方法かといえば、正直なところわかりません。
 あらためていただいている仕事を整理してみると、定期のものには、週刊があり、月刊があり、季刊(3カ月スパン)があります。季刊よりももう少しスパンが長いのが単行本で、だいたい半年に1冊くらいでしょうか。ほかに、単発がちょこちょこ。入ってくるタイミングによってムラができますから、そのムラをどうにか年内に整理したい。今から方法を錬れば、来年はもう少し時間に余裕を持って仕事ができるかもしれませ
ん。
 ところで、経営資源は、人、物、金だと言われます。最近は、情報を含める場合もあります。しかし、それだけじゃ、なんかたりない。知識と技術も資源ではないか。そして、時間も。
 これら7つをうまく配分することで、仕事の効率は、多分上がります。しかしながら、物書き商売の場合、時間以外の6つは、配分しようにも「自分」にくっついているものだから、切り離せないし、取り出せない。金はどうにか切り離せますが、切り離すほど持っていない。
 だから、時間です。これをうまく再配分すれば、今よりもだいぶ暇になると考えるのは楽天的でしょうか。あるいは、時間を使って、知識や技術を高めることもできるかもしれません。
 マルクス・キケロの言葉に、「もっともむずかしい3つのことは、秘密を守ること、他人から受けた危害を忘れること、暇な時間を利用すること」とあります。強いていえば、暇な時間を利用するのが、3つの中でも簡単か。

時間の感覚 9月某日 晴れ

 時間というものがいかに重要か。それは、おそらく、時間が足りなくなってきて、ようやく実感できるものなのでしょう。
 あっという間に、もうすぐ10月です。
 今年はなにをしたか。いろいろなことをしたような気がするけれど、たとえば先週の今日の夕飯を覚えていないように、流れが早いから覚えていない。
 年齢とともに時間が経つ感覚が早くなっていくのは、数学的(というほどでもないけれど)に考えれば納得がいきます。
 たとえば、小学校のころ、1日が経つのが長かった。5時間目が終わるまでに気力は失せ、その後、生徒会に出なければならず、いったん家に帰ってからは、習い事もありました。
 ただ、やっていることといえば、今の方が多いし、起きている時間も長い。それでも10歳にとっての1日の方が長く感じたのは、1日の長さが、「3650日分の1日」だったから。20歳になると7300日分の1日になり、30歳になると12460日分の1日になります。
つまり、1日の長さは、絶対的には同じでも、相対的に短くなる。70歳になると、「10歳にとっての1日」は、感覚として7分の1になります。
 少し生き急ぐくらいの感覚を持っておかなければ、やりたいことの半分もできずに死ぬことになりそうで怖い。それは、ある種の強迫観念か。それとも、書かなければならない原稿が貯まっていることを、どうにか時間が足りないせいにしたいという責任転嫁の心情か。

子ども大人 9月某日 晴れ

 子どもは、いつの世も大人になりたがります。
 一方で、大人の中には、子どものままであり続けたいと思っている人がいます。また、そうは思っていなくても、実際のところ、中身が子どもままで、身体や社会的立場だけが大人になったような人がいます。
 つまり、「子ども大人」。
 こういう人が、あらゆる事件や社会問題の背景にいるような気がします。残酷な事件の背景に、子どもみたいな動機があったり、犯行そのものが短絡的だったり。いい大人が何をやってんだ、というケースでは、たいていその「大人」が「子ども大人」ではないか。そういう視点で見ると、ニュースが少しちがってみえる。ああ、ここにも「また子ども大人」がいたか。
 子どものような純粋な心をもった男性が良い。婚活に関する記事などを読んでいると、そんなことが書いてあります。子ども大人と一緒になって、良いことはあるのか。じつは、そこを疑っています。
 子ども大人が政治をするから、大人びた子どもが反発する。子ども大人が経営権を持つから、大人びた子どもがやる気を失う。だから、社会がまとまらない。いろいろとむずかしいことを言うけれど、結局はそういうことなのではないか。子どもは子どもらしく、オジさんはオジさんのように、ジジイはジジくさくあるのが、実はもっとも上手くいくのかもしれません。子どもがかわいいのは、子どもであるからであり、かわいこぶるオジさんは気持ち悪い。かわいいジジイ、ババアなんてのは、舐められたものです。
 政治も経営も、ジジイがやった方が良いならば、そういう人に任せれば良い。オッサンくさいなあ、といわれるオジさんを経て、ジジくせえなあ、といわれるジジイに、私はなりたい。

今回は静かな方か…… 7月某日 晴れ

こんなに静かなものだったっけか。
選挙ともなれば、あちこちで「オレを」「ワタシを」とわめいているイメージがあったのですが、今回はすごく静か。少なくとも拙宅のまわりにおいては、仕事をしていてもなんにも気にならない。うるさくアピールしても嫌われるだけだということに、いよいよ気がついたか。まさか、そんな謙虚さはないだろう。
街が静かなせいか、相対的にテレビがうるさくてしょうがない。
なにをそんなに政治について騒ぐことがあるのでしょう。
政治というものは、そもそも「私がやります!」という人が、公約でもマニュフェスとでもアジェンダでも、呼び方はなんでもいいけれど、約束したことを粛々と、黙々とこなせば良いだけのことではないか。
例の公約を、今日から実施します。
例の公約は、1カ月前倒しで実施できることになりました。
そういう報告だけあれば、それで十分。社会が知りたいこと、知っておいたほうが良いことは、もっとほかにたくさんあります。立派な活動をしている人は、政治の世界の外にたくさんいます。悪どいことをしている人も、政治の世界の外にたくさんいるのです。
政治の話がニュース番組から消える日。実はそれが、理想の社会なのではないか。
テレビであれこれ言わずとも、選ばれた人たちが、やるべきことをちゃんとやっているから、報じるまでもないという意味で。

アウグストゥス、お前もか  7月某日 晴れ

7月から8月にかけての2カ月間は、仕事がやりやすいのです。
理由は単純で、大の月(31日ある月)が続くため。物書きの仕事は、ある意味で物理的です。たまっている原稿を書くための時間がかかります。その意味で、1日多い、それが2カ月も続くこの期間は、助かります。間にお盆休みがあり、その間、取材がほとん
ど入らないというのも助かります。逆にいえば、困ってしまうのは2月です。なにしろ、前後の月よりも、2日も3日も短い。
いまさらながら、なぜ、こういうカレンダーなのか。
ものの本によれば、2月はもともと30日だったのだけれど、ユリウス暦のユリウスが、自分の誕生月である7月(当初は30日だった)を大の月にしたいがため、2月から1日引っぱってきたのだとか。
この時点で、2月は29日になりました。
あと1日はどこに行った?
どうやら、ユリウスが暗殺され、皇帝となったアウグストゥスも、自分の誕生月である8月(これも当時は30日だった)も大の月にしたいということで、2月からもう1日持ってきてしまったようです。
アウグストゥス、お前もか。
なぜ2月からばかり取るの。
その辺りに関する記述は見当たらなかったのですが、そういうわけで、2月が28日しかないのだそうです。
発想としては、有力な政治家が、地元に高速道路を引いてきたり、新幹線の停車駅を造るのに似ています。
そういえば、時の権力者が設置した沖縄の基地も、結局のところ県外に出せないらしい。2月と沖縄は、その意味で損をさせられている。2月に感情はないけれど、沖縄には感情がある。47都道府県、どこも嫌がるなら、知事が集まって、じゃんけんで決めればいい。ニュースを見ていて、いつもそう思うのだけど。

運の良し悪し 4月某日 晴れ

集中力というものも、年齢とともに落ちるのか。それともこれは暑さのせいか。
どうにも仕事が終わらない。
仕事の量が増えたのか。いいや、おそらくそんなことはありません。
ならば、終わらない理由は1つ。効率が悪くなったのです。
そんなことを思っていても、仕事はしっかりと入ってくるのですね。
ありがたいことです。
取材の日程というのは、可能性として、バッティングすることがあります。A社の仕事とB社の仕事が、たまたま同じ日に入ってしまう。彼女とのデートと、友人との遊びを、同じ時間に設定できないように、相手がいる場合のスケジュールは、身体に縛られます。
私は運というものの存在をこれっぽっちも信じませんが、そういうものがあるのだとすれば、取材が重なり、どちらかを断らなければならない場合が、運が悪いというのでしょう。
取材が重なるということは、自分の力ではどうにもできません。
したがって、「重なっちゃった」「もったいない」と悔やんでも意味がない。必要なのは、重なった際の対処法であり、ガイドラインです。
私の場合は、先に受けた方が優先。だから、A社の仕事が10万円でとB社の仕事が20万円だったとしても、A社の方を受ける。もちろん、喜んで受ける。B社の取材が、ジュリアロバーツだったとしたら、悔やみたい気持ちもありますが、やっぱり断る。いままで、重なってしまったせいでお断りした仕事がいくつあるでしょう。そんなことも考えない。ストレスがなく生きていられる理由は、少なからず、そういうところに起因しているように思います。
「Aを選択すると、Bを捨てなければならない」
そこで生じる損失(Bの価値)を、経済学では、機会費用とかオポチュニティコストといいます。Aさんとつき合ったら、Bさんとつき合った場合に得られたであろう喜びは捨てなければなりません。この場合に捨てることになる喜びの価値が、機会費用というわけです。
逆にいえば、浮気や不倫が起きるのは、「AもしくはB」という選択で、「どちらも捨
てない」と考えることが原因の1つ。
「どちらも捨てない」という試みは、どういうわけか高い確率でバレます。これが、もっともリスクが高い。しかも、ストレスがたまる。
機会費用を慎重に比較してから選択すれば、少なくとも、そういう人生はさけることができます。選択してしまったのだから、機会費用を考えたところでしょうがない。
選択したものを大事にする。これを世間では、「前向き」というのではなかったか。
もっとも、その辺りのことがピンとこない人には、浮気や不倫がバレることも、「運が悪かった」ということになるのでしょうけれど。

マンガの世界 4月某日 晴れ

あるマンガ雑誌の編集者さんから、仕事の打診をいただきました。いただいた仕事は、快く引き受けるのが私の性格です。食べ物の好き嫌いはあるけれど、仕事の選り好みはしない。そういう方針で、今年で10年目です。次の10年も、みなさま、よろしくお願いいたします。
ところで、私とマンガの接点は、大変失礼ながら、最後がいつだったか思い出せないくらい昔にまさかのぼります。マンガをちゃんと読んだのは、小学生のころが最後でしょう。キン肉マンか、北斗の拳か。もしかしたら、こち亀だったかもしれません。
マンガが日本の文化の1つとなっていることは知っています。でも、大人になると、読む機会がない。富士山が日本一高いことは知っているけれど、登ったことがないというのに似ているかもしれません。
同じような理由で、私にはやったことがないものが、ほかにもいくつかあります。ゲーム。ブログツイッター。マラソン。それらがどういうものかは知っていますが、やっぱり機会がない。ほかにやりたいことと、やらなければならないことがあるから、これらの優先順位が低くなる。自身の処理能力のスピードは決まっていますから、1日の活動時間に収まらないものは、やったことがないものとして、はみ出すわけです。
逆にいえば、今回仕事をいただいたことは、マンガと接する最良の機会です。もちろん、マンガを描くわけではありません。もの書きの立場として、原稿を寄稿するという形で関わらせていただきます。
具体的になにをするのかはまだ決まっていませんが、関わっていく中で、「なるほど、これはおもしろい」という発見があることでしょう。未知に接することに喜びを感じたら、そのうち、富士山にも登ってみるかもしれません。

健康優良児 3月某日 晴れ

半日かけて、簡単な人間ドックを受けてきました。身体に不安があるわけではありません。しかし、病気の中には、自覚症状を伴わないものもあるという。おまけに私は、たばこを吸う。お酒も飲む。運動はしない。好き嫌いも多い。そういう生活で、果たして大丈夫なものなのか。確認の意味を込めて、バリウムを飲みに行くことにしたのです。
結果は、当然ながら、すこぶる健康。五臓六腑から血液、尿、便にいたるまで、まったく問題なし。戻ってきた結果は、オールAでした。
通信簿に見立てれば、中学校以来、久しぶりのオール5です。そういえば、私はかつて秀才だった。神童と呼ばれたことも、多分あった。
健康診断などの結果は、自己管理能力の証明であり、すなわち身体の通知表です。それにしては、小学生のオール5よりも、人間ドックのオールAの方が、なんだか評価が低い。健康優良児、ならぬ中年は、健康保険を使うこともなく、病気をして誰かに迷惑をかけることもない。粛々と仕事をし、生産活動をする。東大卒のエリートが日本経済の方向付けをするなら、健康優良中年の労働力は日本経済を支えている。実際のところ、橋を架けるのも、ビルを建てるのも、あっちからこっちにモノを運ぶのも、健康な人がやっている。頭脳明晰なエリートが高給という報酬を手にするなら、健康優良児のこちらにも何かあっても良い。社会はどうしても、脳の機能の方を高く評価する。身体の機能も、同じくらい大事です。
「伊達さんはスマートな体型ですねえ。これからも維持してくださいねえ」沖縄にて、取材した学校の先生に、そんなことを言われました。車社会の沖縄は、メタボ率が高いのだとか。東京は、エスカレーターやエレベーターも多いけれど、それでもやっぱりよく歩く。だから、メタボな人が少ない。もちろん、理由はそれだけではないでしょうが、たしかに私は太ってはいない。歩くスピードもすこぶる早い。このまま次の人間ドックの機会までオールAを維持して、ついでに、予想外に長生きしてやろうと密かに思っています。健康なら、長生きできる。その分だけ多く、年金がもらえる。そういう報酬があるのです。

水道哲学 3月某日 晴れ

今月は、なにかと出張が多いのです。今週は大阪。来週は沖縄です。
大阪は、京セラ、パナソニックなど、日本経済の礎となる企業を生み出した街。日本第2の経済地域。かの松下幸之助も、9歳で親元を離れ、大阪に丁稚に出たそうです。松下幸之助は、たとえば、蛇口をひねれば誰でも水が飲めるように、安価で、安全なモノを、津々浦々の人々に届けることを、企業の使命と考えたそうです。これを、水道哲学と言います。今回の仕事は、大阪に本社を構える会社の社長インタビュー。そのなかで、水道哲学が話題にあがりました。
はたしていま、消費者のことを考えて商売をしている人が、どれだけいるでしょうか。
あんがい少ないのではないか。利益は、企業活動を続けるために欠かせないものです。
健全な収益体制があるから、健全な企業活動ができます。その先に、社会貢献がある。
では、健全とはどれくらいか。その線引きが曖昧だから、周囲に利益追求をとがめられたりする。まるで企業活動が株主のためだけにあるというような考え方につながっていく。
そんなことを考えつつ、帰りの新幹線のなか、物書きにおける水道哲学を考えたりする。すなわち、貧富、身分の分け隔てなく、誰もがよい書き物と接することができること。
日本の読書率は、下降の一途だそうです。16歳以上で、1カ月に本を「まったく読まない」人の割合は、08年の時点で46%。02年は38%だったそうです。
本が高いから読まない。たしかにそれもあるでしょう。ネット、携帯、ゲーム、テレビがあるから、本を読まない。そういう見方もできます。本はつまらない。そう思っている人や、思い込んでいる人も少なくない。
あるいは、作り手の方が、水道哲学に欠けているのかもしれません。誰もが良い書き物を読めるようにする。そういう意識を持つことが、じつは物書きの誇りだったりする。しかし、たまにそれを忘れる。忘れてしまえば、結局は、企業の利潤追求と同じなのだと、そんなことを思うのです。

派閥 2月某日 晴れ

わが家には、かつては2匹、いまは1匹の猫がいます。一方で、猫を飼っているということを、私は外でほとんど話しません。理由は2つ。
1つは、ペットの話というものは、飼い主にとっては楽しくても、よその人にとっては、たいして興味のないということを知っているため。「わが子を褒める」というのは、日本では昔から恥ずかしい、慎むべき親の行為とされてきました。ペット自慢というのも、決して美しいものではない。ペットを、うちの「子」と呼ぶようになってくると、いよいよ気味が悪い。飼い主側にいる私がそう感じるのですから、飼っていない人ならなおさらでしょう。
もう1つは、猫を飼っているか、犬を飼っているかによって、派閥に分別されるからです。犬も好き。猫も好き。私は実際、どちらも好きなのですが、それではなかなか世間は納得しません。猫を飼っているといえば、「なるほど、猫派なのですね」ということになる。こちらとしては、派閥に入った覚えはまったくない。派閥に代表されるグループ分けが、そもそも好きではない。そういうことを説明するのも面倒ですから、「猫派なのですね」「さあ、どうなのでしょう」というふざけた受け答えで流します。
それでもやはり、気づけば猫派ということになっている。それがどうにも気持ち悪い。
「猫、飼っているのですか?」と聞かれ、「いいえ」と、答えていた時期もありました。
当時は、こちらの考えをいちいち説明するという作業が、とことん面倒くさかった。
向こうだって、おそらくこちらの理屈を聞きたくない。だから、ウソをつく。それが、お互いのためになる。そもそも私は、悪意がないウソならついてもよろしいと考えています。だから、良心も傷みません。
猫も好き。犬も好き。こういう考え方は、実は世の中で、あまり好まれません。どちらかにしろ。そう求められるからです。だから、派閥が常にあります。あっちのグループとも付き合う。こちらのグループにも顔を出す。すると、いずれのグループからも、「なんだかあいつは信用ならない」という目で見られます。だから私には、猫はいるけれど、猫つながりの友人はいません。そういうコミュニティからも呼ばれない。どこにも属さないというのは、気楽ですが、孤独でもある。孤独だから、ペットを飼うのです。

馬の骨 2月某日 晴れ

ライターは昼まで寝ている。そう思っている人は案外多いようです。「夜型」のイメージがあるのか、あるいは、存在そのものが、寝坊助のイメージなのか。
私の場合はというと、ライターにしては早い時間から(とはいっても8時くらいですが)仕事をしていることが多い。7時過ぎ、仕事場の窓を開け、たばこを吹かす。さて、今日は何をするんだっけか。
たばこを吹かしていると、目の前の道には、朝からいろいろな人が通ります。サラリーマンが足早に駅へ向かう。学生が自転車で駆け抜ける。チワワを引っぱるように散歩させている若者がいれば、柴犬に引っぱられ、散歩させられている老人もいます。
隣の家の主人も、だいたいこれくらいの時間に出かけていきます。何を生業としている人なのかは知りません。しかし、7時過ぎに家を出る仕事だということは知っている。
向こうも、こちらの商売は知らないでしょう。朝、悠々とたばこを吹かしている様子を見る。暇な人なのだろう。それくらいに思っているかもしれません。
●●社のサトウです。▲▲社のタナカです。社会は、この●●、▲▲の部分を問います。肩書きをもつことで、「どこぞの馬の骨」は、社会人としての素性が明らかになります。
しかし、私には肩書きがありません。物書き商売といえば、それも1つの肩書きかもしれませんが、実際のところ、物書きばかりしているわけでもありません。そもそも、物書きという肩書きは、不明瞭だし、うさんくさいと思う人もいる。
一方で、肩書きには、昔ほどの説得力がなくなったようにも感じます。せこいことをする国会議員がいたり、おかしな教員がいるという実態は、誰もがよく知っています。
肩書きで人を判断するのは、便利だけれど、安直である。危険でもある。実感として、それが分かっている。
肩書きが評価基準として不十分なら、何に目を向けようか。生き方か、生活様式か、あるいは、見た目か。それはそれで、私にとっては好都合とはいえません。表に出てたばこを吹かすなら、せめて寝ぐせくらいは直してからの方が良い。馬の骨だって、汚いよりはこざっぱりしていた方が、いくらかマシなのです。

ケセラセラ 2月某日 晴れ

夜11時半。得意先のお偉いさんとお酒を飲んでいる。お酒が進み、相手は饒舌。話がなかなか尽きない。一方、こちらはそろそろ終電が気になる。しかし、まさか相手の話を遮るわけにもいきません。「お話の途中ですみませんが、そろそろ私、失礼します」。そう言えるようになるには、修業がいる。一方で、タクシーで悠々と帰れるほど、こちらの財布は分厚くない。
どうするか。どうする術も思いつかない。だから話を聞いている。
話の内容は、お偉いさんが言うことだけあって、それ相当におもしろい。ならばタクシー代は勉強代か。酒を飲んだら、その時点で勉強でも仕事でもない。遊びである。
私はじつは、そう思っている。
こういうとき、みなさんはどうするのでしょうか。
ところ変わって、インタビュー取材の話。
インタビューではたまに、非常に話が弾むことがあります。それはそれで、じつは困る。話が長引き、取材時間をはみ出すと、当人か、スタッフの誰かか、あるいは私が困る可能性があります。
「お話の途中ですみませんが、予定の時間がきましたので、そろそろ失礼します」。
そう言って取材を打ち切るには、やはり修業がいる。こちらから取材を申し込んでおいて、こちらの都合で切るというのも、礼儀に反するように思う。そういう意味で、状況と心境は、11半の飲み屋に似ています。
話は戻って、飲み屋。間もなく終電。そろそろ腹をくくるべきか。そんなことを思っていると、相手が思わぬ提案をします。
「そろそろ終電か? 帰りのタクシー代くらい出してあげるから、もう少し、私の話につき合いなさい」
当然、私は申し出を受ける。帰りの足が確定すれば、マスの理論で決められた終電なんていうものを気にしていたことが、なんだかばからしくもなってくる。かくして、誰もが楽しい気分で、夜が更けていく。
人生は、なんとなくですが、このようにうまく転がっていくような気がします。つまり、「なるようになる」。ケセラセラ。そう思っているから、私は最近、めっきり不安がない。

ありがとうございます 1月某日 晴れ

おかげさまで、35歳からのリアルという本が、なかなか売れております。「なかなか」というのは、まさか左うちわで暮らせるほどは売れていないけれど、うちわを使わず、エアコンをつけて仕事ができるくらいは売れたという意味で、「なかなか」です。これもひとえに、方々で販売に尽力していただいた書店さんのおかげです。
この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございます。
身近なところでも、ちょうど同級生などが35歳前後であるせいか、読んだという報告をくれた人がいます。このページを経由して、感想を寄せてくれた見ず知らずの同年代もいらっしゃいます。逐一返事を出していませんが、みなさんからのメールは受け取っております。また、ご感想やご意見につきましては、次作の参考にさせていただきます。ありがとうございます。
さて、いただいた感想のなかで多かったのは、「お金について参考になった」「貯めなきゃいけないと思った」という内容のものです。
たしかに、35歳にとってお金という存在は、きわめてリアルです。貯めておけば、やがて役に立ちます。私もこの世代の1人として、つくづくそう感じます。その実感を、できるだけ率直に書いたつもりです。
ただ、1つ書き忘れたというか、書いたつもりだけれど、いまいち伝わらなかったことがあるので、ここで追記しておきます。
なにをいいたかったのか。
35歳にとって、お金はリアルな懸案事項ですが、それよりも大事な要素として、時間というものがありますよ、ということです。つまり、時間>お金。
お金は、最悪のケースとして、アルバイトでもすれば、生きていくために必要最低限の金額を稼ぐことができます。50歳で無職でも、どうにかするための方法は0ではない。
一方、時間というのは、取り返しがつきません。いくらお金があっても、50歳が35歳に戻るのは無理です。
だから、貯めることももちろん重要で、殖やす技術も身につけるに越したことはないのですが、お金よりも時間という意味で優先すべきことがあれば、そっちを優先することをおすすめします。
「若者には無限の可能性がある」といいます。実際、若者の代表格である子どもを見ていると、彼らはなんにでもなれそうな気がします。しかし、若さというものは有限ですから、実際のところ、「若者には無限の可能性がある」という論も、有限性を示しています。
だから、35歳のリアルという本は書けても、65歳からのリアルという本はおそらく書けません。戦略を立て、実行し、一定の効果を期待するためには、時間がなければならないからです。
あと出しジャンケンになりましたが、その点だけつけ加えておきます。
お買い上げいただいたみなさん、ありがとうございました。
まだのみなさん、お近くの書店で、どうぞ手に取ってみてください。

ゴルコン 1月某日 晴れ

ゴルコンが流行っています。異性の素質をより深く見定めたいという人にとって、これほどいい機会はありません。ゴルフは、なんてったって、よく性格が表れるのです。
たとえば、打つ方向を入念に確認し、なんなら素振りを4、5回やって、なかなか打たない人がいる。こういう人は、見て分かる通り、慎重です。結婚するなら、こういう人の方が良い。しかし、つき合う場合には、なにかと神経質だし、おそらく面倒くさい。打ち方がどうこう、口を挟んでくる人も、つき合ってみると、おそらく面倒くさいでしょう。運転の仕方から、洗濯した服のたたみ方まで、細かく口を挟んでくる様
子が目に浮かびます。逆に、向こう見ずな人は向こう見ずな打ち方をする。無計画な人とも、やはりつき合いたくはない。ゴルフは、一目瞭然の性格診断ツールなのです。
おもしろいのは、打球を木に当ててしまったときかもしれません。たいていの人は、「ああ、障害物に当たっちゃった」という主旨の反応をする。しかし、当てられた木だって、立派な生き物ですからね。モノじゃない。生きている。「邪魔だ」なんて言われる筋合いはない。邪魔になるような場所に植えられてしまっただけです。「くそ、木に当たった」なんていいつつ、傷つけた木よりも、自分のボールの行方を気にしている人が、一歩ゴルフ場から離れると、「自然を大事にしたい」なんていっている場合があるから、人間というのはおもしろいのです。
ということで、ゴルコンに参加予定の男女のみなさん、打ち方や、振る舞い方で分かるおもしろい法則を見つけたら、ぜひご報告ください。

手に職 1月某日 晴れ

先行き不安な経済環境になるほど、「手に職」という言葉が輝きます。いまがまさに、そのさなかといえるかもしれません。
ふり返ってみれば、学歴社会から始まり、官僚主導も、個人株主の急増も、総じて、頭の時代でした。頭が良ければ、そこにお金がついてきました。安心も手に入った。
脳に関する本やゲームが売れた背景にも、どうにか頭を改良しようとする願望が見て取れます。脳とはつまり、多機能の臓器です。それを私たちは、高く評価した。森の中で迷ったとしても、カーナビがあればどうにかなると思ったわけです。
しかし、世界不況がそれを否定しました。カーナビは多機能だけど、エンジンを切ったら動かないじゃないか。そういう否定をしたわけです。
実際のところ、「頭が良ければどうにかなる」という真理が死んだわけではありません。しかし、ちょっと頭が良いくらいでは、たいしてもうからない。頭で稼いでいたリーマンが潰れちゃったから、よけいに頭ではどうにもならないような気になった。
そこで、頭よりも身体に注目がいった。森の中で迷ったときには、カーナビではなく、方位磁石のほうが頼りになるということになった。手に職とはつまり、方位磁石のシンプルな機能美であり、この数年を要約すると、そういう変化にまとめることができるように思います。
なぜそんなことを思ったのかというと、技術系の学校にて、学校案内を制作するとい
う仕事をいただいているためです。
学校の授業を見学していて感じるのは、頭は理屈で、身体は現実だということです。いくら頭であらゆることが想像できても、身体が動いて、想像を表現できなければ、現実にはなりません。美しい景色を思い浮かべても、それを絵に表現する筆の力、文として著すペンの力がなければ、脳内にあるものは、脳内から出ません。ハードディスク内にあるデータが、キーボードがなければ引き出せないのと同じ。ハードディスクは脳で、キーボードは身体です。だから、手は大事。手に職は強いと感じるわけです。
もっとも、ここまで書けば、手だけでもダメであることが分かります。キーボードの機能が充実していても、ハードディスクが空ならば、引き出すものがない。もの書きが、上手な文章を書くだけでは商売にならないのと同じです。そこには、多少の経営感覚とか、コミュニケーションスキルとか、ものを書くのとは直接的に関係のない知識やその他が、ハードディスクに入っていなければならないのです。
なんのはなしだったか。そうだ。手に職のはなし。
世の中は、あらゆる面でバランスが大事です。しかし、右に振れたり、左に振れたり、ちょうど良い場所に収まることはありません。歴史を見れば、それが分かります。
そのなかで、脳中心だった時代が、いまは少し、手の方に振れた。この先、手の方に振れすぎるかもしれないけれども、いまはそこまでいっていないから、多分、ちょうど良い。脳と手の重要性を、良い具合に認識し、バランス良く使いこなす人が、見学している授業のなかから多く出るのではないかと、そういう予感がしましたというはなしです。

謹賀新年 1月2日 晴れ

明けましておめでとうございます。
年末から、何連荘だか分からないくらい、おそらく両手では足りないくらい、日々、飲み続けてきたもの書きは、酩酊のなかで新年を迎え、新年2日目にしてようやくひと息入れました。したがって、今日が仕事始め。早い方といえば早い方ですが、アメリカでは失業率が10%、日本でも5%に達している中で、これだけ仕事をいただいている現状は、ただただ、ありがたいことです。
もっとも、その大半は、溜まっている原稿を仕上げるというものであり、もっといえば、昨年からの持ち越し仕事というか、ワインを飲むよりも先にやっておくはずだったこと。こうしてパソコンに向かっている現状が、すなわち、自分と不況とを切り離す根拠にはなりません。漠然とした不況不安が、拙宅の生活から、また、みなさんの生活からも軽減され、払拭される1年になることを祈りつつ、新年のご挨拶とかえさせていただきます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

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ライター 伊達直太

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