ライター伊達直太/取材後記2013

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取材後記 2013

パターンについて 12月某日 晴れ

 ようやく仕事がひと段落ついた。
 気づいたときにはクローゼットの洋服がすべて冬物になっていた。知らぬ間に掛け布団が出ていて、朝起きた時には床暖がついているようになった。数えてみたら、今年も残すところあと幾日である。
 1年は早えなあバカヤロー。この感覚はほとんどデジャヴである。
 3年ほど前からの傾向として、夏場から年末にかけて急激に仕事が増える。理由は知らない。現実にそうなっているのだから、私がいただいている仕事にそういう偏りがあるのだろう。
 3年も同じパターンが続いているのだから、いい加減対策しなければならない。おかげで今年は、まあまあ高い仕事を「手一杯」という理由でお断りせざるをえなかった。いまならおそらく引き受けられるが、そんなことを言っても売上げは立たない。来年に向けてどうにか対策しなければならない。そんなことを考えられるくらい、ひと段落ついたのがいまである。
 とりわけ今年は、仕事が多かった気がする。
 零細中の零細である私がそう実感できるくらい、おそらく景気がよいのだろう。一方、景気が悪いと厳しくなるかというと、じつはそうでもないところが零細中の零細のよいところである。
 景気の影響は、基本的にまずは大企業が吸収し、中小に波及し、零細に及ぶ。直近では2011年の景気が悪かったはずであるが、そのときは多分、中小企業までで止めてくれたのだろう。実際、その年の私の売上げはフリーになって以来、すなわち仕事というものを始めて以来の最高であった。
 逆に、景気がよいときにもまずは大企業から恩恵を受ける。
 ならば、その恩恵が私のところにまで及んでいる現実はどう説明できるのか。
 かつてない強さで景気が回復しているというのがおそらくもっとも理にかなった説明だろう。
 決して謙遜するわけではなく、私にそんな精神性などもともとないのだが、私に力があるから仕事が増えたわけではない。
 すべての原因は需給である。
 そう強く認識しておかないと、すぐに図に乗るのが私の欠点の1つである。
 ありがとう景気。
 そう感謝しつつ、年内精算の請求書を各作業に取りかかることとする。

2013年について 12月某日 晴れ

 零細の個人営業にとって、年末年始はとくに大きなイベントではない。
 むしろ稼働日数すなわち売上げであるわけだから、世間のみなさまに連られてのんびりしていると、年明け早々にも貧乏することになりかねない。
 では、私は何をするかというと、テーブル脇のホワイトボードによれば、Sサイズの仕事が2つ、Mサイズが1つ、Lサイズが1つ、LLサイズが1つ入っているので、それをやり終えるころには世間さまの仕事始めである。
 誰がこんなに仕事をぶち込んだのかといえば、ほかでもなく「はい、やりますよ」と答えたテメエであるわけだが、これだけやっておけば3月くらいまでは喰えると自分を言い聞かせて、コツコツこなしていくことにする。
 それはそうと、今年ももう終わりである。
 よいことはあったか。
 いろいろとあったはずだが、毎度のように忘れている。今度から、よいことがあったら、それもホワイトボードに書いておくことにしようか。そうでもしなければ、まわりに感謝する気持ちを失いそうでおっかない。
 新しいことはやったか。
 やりはじめたけれど、ここには書かない。私は、人の秘密はぺらぺらしゃべるが、自分のことはほとんどばらさないというスパイに向いていそうで向いていない性格だからである。
 よい仕事はしたか。
 どうだろう。そもそも「よい仕事」がどういうものかを考えはじめると、それだけで年が明けてしまいそうだから、むずかしいことは考えないことにしよう。
 よい出会いはあったか。
 あった。私の仕事の方向性を変えるきっかけというか、仕事のやり方そのものを根本的に見直すきっかけにすらなるであろう出会いがあった気がしている。
 もちろん、きっかけがあっても行動がなければ何も変わらない。

駆け込み需要について 11月某日 晴れ

 消費税が上がる。
 私なんかが口を出す話ではないが、ここ数年の社会的変化のなかで、指折りの愚策であろう。「増税やむなし」と言う人もいるが「やむなし」とは、これ以上どうしようもしがたく、ほかに手段がない状況のことを指すのであって、まだまだ先にやれること、やるべきことがたくさんあるのがシロート目にも明らかだからである。
 それはそれとして、増税前の駆け込み需要ということで家が売れているらしい。これも私なんかが口を出す話ではないが「よせばいいのに」と思う。
 拙宅にも毎週住宅関連のチラシが放り込まれるが、どれを見てもきわめて高い。厳密にいうと、割高である。もちろん、住宅は100万円単位で値引いてくれることもあるから、チラシの価格が必ずしも支払い価格ではないが、それにしても高すぎるだろう。参考までに、拙宅近所の新築マンションが4LDKで5000万円ほどである。5年くらい前までの相場がいくらだったか知っている近隣住民のみなさんは、おそらく同じように「高えなあ」と感じているはずだ。「この際だから売っちまおうか」と考える人もいるかもしれない。
 相場うんぬんは別としても、やっぱり高い。
 いくらか頭金をぶち込むとしても、利息分を含めて月割りにすればおそらく15万円くらいになるだろう。
 新築で月15万円なら安いかもしれない。でも、50年後はどうか。
 仮にいまと経済状況がそれほど変わらないとしたら、15万円でもっとよいところに住めるのではないか。
 ごく一部の資産性が見込める物件をのぞけば、家の代金というものは、基本的には家賃の前払いである。つまり、50年住むつもりなら50年先の分まで前払いする覚悟がいる。それくらい大事なことを、3%の増税があるという超短期の視点で決断するのはやっぱりリスクが大きいのではないか。
 多くの家(ローン)持ち世帯のように、家を持つと家計のBSが大きく変わる。左に家、右に借金という項目が入るが、はたしてその2つは本当に「バランス」するのだろうか。
 特にこれから先は金利が上がる可能性が高い。バブル期のように8%近くまで上がったらどうするのだろう。最悪のシナリオとして、少し前のアメリカのように泣く泣く家を手放さなければならない人が続出することだってありうるのではないか。
 駅ではいつも「駆け込み乗車が危険です」というアナウンスをやっている。それでも駆け込む人はいる。
 駆け込み需要もそれなりに危険だ。そして、危険を増長させているのは「駆け込み需要が危険です」というアナウンスがない(か、あったとしても耳に入ってこない)ことだろう。

昼飯について 10月某日 晴れ

 歩いて3分のところにあるコンビニにタバコを買いに行くのが私の日課である。
 日課であるということは毎日やっているということなのだが、学習能力が乏しい私は、度々同じミスをくり返す。
 昼時にコンビニに行ってしまい、長蛇の列となったレジで10分近く待つはめになるというミスである。
 もちろん、原因は時間を確認せずに家を出た自分にある。そんなことはわかっている。
 でもその一方で「10分並んでまで弁当を喰いたいかね」とも思う。
 だいたいみなさん、そんなにお腹空いているんですか。
「昼になったから飯を食わなければいけない」と、ほとんど義理的、あるいは半ば強迫観念によって昼飯を食っている人はじつは多いのではないか。
 そもそも江戸時代くらいまでは1日2食が当たり前だったそうだ。
 現在のようにトラクターもトラックもなく、人力で田畑を耕し、作物を運搬した時代である。当然、メールや携帯もないから、ちょっと伝言するにも家と田んぼまで行き来しなければならない。それだけ体力を消耗していた人が1日2食で十分だったにもかかわらず、子供や育ち盛りの人をのぞいた現代人が3食食べなければならない理由は何か。わかる人がいたら教えていただきたい。
 仮に、1日3食という〝常識〟を捨ててみたらどうなるだろう。
 まず、これまで弁当代として消えていた小銭が貯まるようになる。多くの人はカロリー過剰だろうから健康にもよい。健康な人が増えれば、健康保険料の負担も減る。
 また、弁当が売れ残るようになれば、作り手や売り手も量を減らして調整する。現状、1人あたりの食糧供給量はカロリーベースで30%ほど多いが、それも調整されていくだろう。たくさん作らなくてもよくなれば、食糧自給率も向上していくかもしれない。つまり、食糧問題の根本的な解決につながる可能性もある。そう考えれば、あえて2食、あるいは1食を日本の〝常識〟として浸透させることが、世界を変える新たな一歩になるかもしれない。
 日本は世界一少ないカロリーで生活できる国です。
 世界に誇るテクノロジーとインフラでそれを実現しています。
 だから、食べる量も少ないのです。
 そういう国づくりにより、先進国の中で一目置かれる存在となれる可能性もあるのではないか。
 エコにも通じる。食糧を作る過程で消費するエネルギーも少なくなるし、皿を洗う回数も減る。エコカーに乗るのもエコではあるが、それは「エコなライフスタイル」に過ぎない。これから求められるのは「エコなライフ」の実現だと個人的に思っている。尚、先ほどタバコが切れた。現在12時をちょっとまわったところであるため、あと1時間ばかり辛抱することにする。

流行について 10月某日 晴れ

 仕事を少々詰め込んだせいもあって、この数カ月の記憶がほとんどない。
「春だなあ」と思っていた矢先「秋だねえ」と言っている。そんな感覚である。そして、毎度のごとく世の中の情報から取り残されている。
「あまちゃん」とは誰だ。
「倍返し」するのはなぜだ。
「おもてなし」がどうした。
 部分的には情報通のカミさんに教えを乞うたが、現物を見たわけではないからわからない。「知らなくてもまったく問題ない」と慰められたから、その言葉を信じて、しばらく「知っているふり」を続けることにする。
 それはそうと、本当に世の中は「あまちゃん」や「倍返し」や「おもてなし」を知っているのだろうか。そんなにテレビを見ているものなのだろうか。
 ある調査によれば、18-24歳の約半分が「テレビがなくても特に困らない」そうだ。そして、テレビが不要と感じる人の割合は年々増え続けているという。
 そりゃそうだろうと思う。困る理由が見当たらない。あれば観るかもしれない。でも、なくても問題ない。ある日なくなっていたとしても、私はもしかしたら気づかないのではないか。
 一方「テレビが欠かせない存在」と感じている人は年寄りほど多く、60代で63%、70代では71%に及ぶという。
 やはり、そりゃそうだろうと思う。暇つぶしにはちょうどよいだろうと思うからだ。
 新聞を読まない、ゲームをやらない、ラジオを聞かない、SNSをやらないと言っても、世の中のリアクションは薄い。本も然り。読まないと言っても「へえ、そうなんだ」程度のものだろう。
 しかし「テレビを観ない」というと「え? なんで?」となる。感覚的には「肉を食べない」に近い。「宗教的に?」とか「思想的に?」といった質問を受けそうな気さえする。つまり、いまだにテレビはメディアの中で別格のものとして捉えられているということだ。
 宗教とも思想とも関係なくテレビを観ない人が増えている。
 いまのところ高齢者の支持は厚いけど、ネットを使う人がジジババになる時代になれば、テレビは不可欠な暇つぶしではなくなる。
 そうなったときの流行は何から生まれるのだろうか。
 ちなみに、テレビの力が廃れればテレビCMの効果も落ちる。私の勝手な予想だが、テレビCMをやらないスターバックスは、すでにそのような時代の到来を見越している気がしている。

ゆとりについて 9月某日 晴れ

私「ゆとり」なんで。
そういう人がいる。当人としては、謙譲のつもりなのだろう。あるいは「ゆとり」世代であることを宣言することによって自分への期待値を下げて「その割にはできるじゃん」という高めの評価を引き出す戦略なのかもしれない。評価には期待と実績のギャップが影響するから、戦略としては悪くない。「安かろう、まずかろう」というレストランが「安くてうまい」という評価を得るパターンと近い。
「ゆとり」とは、ある調査によれば、世間的に以下のような〝特徴〟を持つ世代であるらしい。
学力に自信がない。マニュアルに頼る。淡白。安定志向。漢字が苦手。行動範囲が狭い。ひとりが好き。穏やかで優しい。
「ふーん」と思いつつ読んでいて、これってその他の世代の人にも当てはまるのではないかと思った。
「学力に自信がある」と言い切れる強者は少ないだろうし、マニュアルがあれば頼ることもあるだろう。不安定な人生より安定した生活のほうが好ましいし、ひとりになりたいときもあるはずだ。
私自身、ゆとり世代ではないが、上記の項目は「穏やかで優しい」という点をのぞいてすべて当てはまる。
そう思えば「ゆとり」を含めた世代論などというものは、基本的に占いや血液型診断と変わらないのではないか。
「そうだ」と思って読めば「そうかもしれない」と思う。
でも、冷静に読んでみると案外突っ込みどころが多く、本質的な部分では価値がない。そもそも、これだけ生き方や暮らし方や考え方や価値観が多様化しているなかで、いまさら年代論もなかろう。
どういう事情でゆとり教育なるものが生まれ、廃れたのかはわからないし、たいして興味もない。
ただ、そのせいで無意味で無価値な区別なり差別なりが生まれた責任は大きい。自分をゆとり呼ばわりする自虐的な人や、ゆとり世代だからということで評価を甘くしてよしという風潮が生まれたことにも責任があるだろう。「ゆとり」というネーミングは雰囲気があってよいと思うのだけど。

インフレについて 9月某日 残暑

 インフレに向かう可能性が非常に高くなってきた。
 つまり、安く買えるデフレ時代が過ぎ去っていくということだ。
 非常に贅沢かつ身勝手な願望ではあるが、個人的にはもうちょっとデフレが続いてほしかった。あと5年でも粘ってくれれば、将来的に高くさばける土地やら何やらを1つ2つ安く手に入れることができたかもしれないからである。
 賢い人は、すでにあらゆるものを安く買い込んだのだろう。そして、インフレになってからぱっぱとさばく。ようするに仕込みがうまい。それが商売の基本であるとは気づいていたが、気づいてはいても行動が伴わないところが私が賢くない理由の1つである。
 ところで、この10年くらいの安さは、売り手が勝手に「高いから売れない」と考えて、自主的に値段を下げてきたようなところがある。
 しかし、高いから売れなかったのかというとおそらくちがう。
 たとえば、映画に行かない理由のトップは「高いから」ではなく「自宅でみる方が楽だから」である。美術館や博物館に行かない理由は「きっかけがない」「近くにない」「時間がない」などであり、スポーツ観戦に行かない理由は「TVでやっているから」である。
 このような「行かない理由」は各アンケート調査で見ることができ、それをぼっーっと見ているだけでも「高いから」という理由が上位ではないことがわかる。
 でも、売り手は「高いからだろう」と誤解してどんどん安くする。
 その結果、1日1000円で飲み食いでき、3000円で十分に酔っぱらうことができ、1万円で豪遊できる社会ができた。ヴェブレンがいう「見せびらかしの消費」だって安いものだ。名の知れたブランドの財布でも数万円で買える。外車だって300万円である。そう考えれば、精神的な満足感だって安い。そして「安かった」と振り返る時代が近いうちにやってくる。
 不況というチャンスを生かせなかったことを20年先まで後悔しそうな気もするが、未練を断ち切って、インフレ到来を前提として働くことにしよう。

本の値段について 8月某日 晴れ

 本をつくるためのコストは、総合的に見て減っているはずである。
 かつては原稿をフロッピーで出版社に届けた。それ以前は、原稿用紙に書いた文字をデータにする人がいた。いまはメール1つあれば済む。時間もコストも人手もセーブできる。記事を書くために情報を得るにしても、昔はさまざまなツテをたどった。いまはブログやツイッターを見ていけばいい。そこでも時間と労力のコストがセーブできている。
 ところが、本の値段というのはあまり変わらない。
 それって少しおかしくないか。
 それとも今までの値段が安すぎただけなのだろうか。
 私が本を買うときは「資料として」という頭があるからあまり値段はほとんど気にしない。しかし、一般的にみれば、1000円あれば1日の食事代になる。本から得られる情報も大切だが、カロリーほどではないだろう。本が売れない理由はいくつも考えられるが、単純に値段を安くするだけで需要が喚起されることもありうるのではないか。
 とはいえ、本(新刊)は勝手に値下げして売ることができない。安くするためにはその制度をやめるか、最初から定価を下げるしかない。
 定価販売の制限を取り払うと、どの書店も売れ筋ばかり扱うようになる。その結果、売れ筋から外れる専門書などの値段が高くなる。そういう指摘がある。
 でも、本当にそうだろうか。というより、その発想は書店を馬鹿にしていないか。
 売れ筋をそろえて安く売る戦略を取る書店は増えるかもしれない。
 しかし、まわりが売れ筋ばかり扱うなら、ウチはこういうジャンルの本を重点的に扱おう、二の線、三の線で商品を構成しようといった差別化を考える書店が出てくるはずである。商売なのだから当たり前だ。
 結果として専門書の類の値段が上がるなら、場所あたりの売上げ単価も上がるから、その戦略にも勝算は十分にある。経済の本はあの書店、医学系の本ならあの書店といった専門書の販路が確立すれば、需給バランスが調整されて、専門書の値段も下がっていくかもしれない。
 いずれにしても、すべての本が総じて高い現状よりも、まずは「定価でしか売っちゃいけません」という枠を捨てて、一部の本からでも安く買えるようになることが現状打破の1つのきっかけになるような気がする。むしろ、それが健全な市場競争というものだろう。そのなかでモノ作りをした方が、結果としてコスト管理や営業手法という点での競争力がある会社や店も増えるのではないか。

目的と手段について 8月某日 晴れ

貯金をするなら「使う目的」を決めよう。
そういう人は多い。「使う目的を決めることが貯金の秘訣」と書いてある本もある。
でも、本当にそうだろうか。
お金がモノやサービスを手に入れる手段である点は納得できるし、どれだけ貯めてもあの世には持っていけないが、これといって欲しいモノや利用したいサービスがない人もいる。私もそのひとりだが、そういう人にとってみれば、貯金する目的は、当座のところ「貯金(額を増やす)」になるのではないか。
ある雑誌を作るにあたって、個人投資家の方々と会った。いずれも資産数億という人たちである。
雑談のなかで、いま何が欲しいのか聞いてみたら、ほとんどの人から「特にない」という言葉が返ってきた。「いまのところ」かもしれないが、彼らも使う目的を持っていなかった。
だとすれば「使う目的」は貯金の必要条件とはいえない。世の中には使う目的を持たずに資産家となった人たちがいて、その一方に使う目的はあるけど貧乏な人がたくさんいるからである。
他人様の貯金術に口を出すつもりはないが、なかなか貯まらないのであれば「使う目的ありきの貯金」をやめてみてはどうか。
毎度、使う目的を設定するというのは、走るためにニンジンをぶら下げるのと似ている。それに慣れすぎると「ニンジンがなければ走らない馬」になるかもしれない。それなら、ニンジンの有無に関係なく、純粋に走ることを楽しむ馬の方が幸せだろう。そういう馬に、私はなりたいような気がする。
それにしても「これ欲しい」とワクワクできるようなモノ(との出会い)がない。それはそれで満たされているということでもあるのだが。

生存について 7月某日 晴れ

 企業の生存率は、設立1年後で40%、5年で15%、10年で6%、20年で0.3%、30年では0.02%ほどであるそうだ。
 つまり、1年で60%が倒産し、5年で85%、10年で94%がつぶれる。
 我々のような個人商売は企業ではないから、必ずしも同じ数値が当てはまるとはいえないが、実情は似たようなものだろう。
 生き残るにはどうするか。多くの人がそう考える。何かうまい方法があるはずだと思う。確かに、あるのかもしれない。しかし「どうやるか」よりも前に「何をやるか」を考えるほうが、生存率を高めるという点では重要なのではないか。
 一時期、オンリーワンという言葉が流行った。
 多くの人が、自分探しや新たな価値の創出といったことに取り組んだ。
 しかし、そんな面倒くさく、辛く、たいていの人にとって実行不可能なことに取り組まなくとも、非常に簡単にオンリーワンになるための方法を私は知っている。
 それは、縮小市場に身を置くことだ。
 多くの人は縮小する市場にいたくないと思い、逃げ出す。しかし、あえて残れば、あるいはあえて飛び込めば、最後にはオンリーワンになる。市場が消えない限り、まわりの人数が減っていくほど獲得できるシェアも大きくなる。希少性が評価されれば、大きく儲けることだってできる。
 希少性は当人の努力によって生まれるのも事実だが、環境が勝手に生み出してくれることもある。汚れた海を放っておくと自然が浄化してくれるように、レッドオーシャンも放置されればブルーオーシャンになるのだ。
 必要なものがあるとすれば、市場が消えてなくならないと信じられるだけの材料と、需要の減少をある程度まで受け入れる勇気だけだ。私のように特技もコネもない劣等生が、企業なら6%しか生存できない10年というラインをあっさり越え、今日もこうしてそこそこ飯が食えるのも、出版業界という縮小市場に居残っているからだろう。
 ありがたいことに、今年は休みがないほどやることが多い。その理由を考えてみたら、上記のような結論にたどりついた。

高速道路について 7月某日 晴れ

 久しぶりに東名高速に乗った。
 あまり知られていないことかもしれないが、東名は本来なら無料で走れる道路であった。
 東名に限らず、すべての高速道路が、建設にかかったコストを利用料金などで回収できた時点から無料になる。東名や、中央、名神は稼働率が高い優良な有料路線で、工事費用の回収がとっくに終わっている。
 しかし、いまだに東名は無料ではない。
 その理由は「連帯責任」になっているためである。
 つまり、東名、中央、名神といった個々の路線ではなく、全国津々浦々にある高速道路を「1本の道路」として考えるため、すべての高速道路の建設費が回収できるまで1路線たりとも無料にはならないという仕組みになっているからだ。これを「プール制」という。
 プール制のすごいところは、この先一路線たりとも高速が無料にならないことがほぼ確定的である点だ。
 東名などが純利益を出していても、一方には純損失を垂れ流している赤字路線があるから回収はなかなか進まない。仮に赤字路線が減り、黒字路線の利益が増えるなどして回収の終わりが目の前まで来ても、新たに道路が作られればゴールが再び遠のく。
 ひとことでいえば、ゴールがない。
 こういう仕組みを作った人は賢いなあと思う。
 もちろん、悪い意味でである。
 そもそも東名や名神のように需要が大きい線と、人口や物流がドライバーが少ない場所を「1本」として考えるのに無理があるだろう。
 誰にだって得意・不得意があるように、地域にだって得意・不得意がある。利用料で稼げないなら、別の方法を考えたほうがいい。
 連帯責任と縁がない個人商売の私が言うことではないけれど、連帯責任は、稼げる人にとって足かせとなり、稼げない人には新たな方法を見つけるうえでの妨げになり、結局のところ誰も得しないのではないか。
 将来的な人口動態を考えれば、車に乗る人は確実に減る。そう考えれば、道路は減らしてもいいはずだ。新しい道路もいらない。
 壊すのがもったいないというなら、赤字額が大きいところからメガソーラーに変えたらどうか。高速は日当りもよいし、つながっているから送電も簡単だ。利用料よりも電気代で稼ぐほうが効率良く回収できそうではないか。

家について 7月某日 晴れ

 消費税が上がることを前提として、住宅購入に関する仕事が増えている。
 私の頭で考える程度のことは、そこそこの社会経験がある人たちなら誰もが考えているだろうから、あまり役に立つとは思わない。でも、考える時間がない人、考えたいけど情報が少ない人、考えるのが面倒くさい人もいるだろうから、そういう人のために原稿を書いたり企画の相談に乗ったりしている。
 結論から言ってしまえば、増税前が買い時というわけではない。
 増税後の住宅ローン減税の拡充もあるだろうし、中古なら消費税はほとんど関係ない。
 世間が増税前を狙って家を買うなら、増税後には供給過多になって価格が下がるだろうから、その時を狙うのもひとつの手だろう。3000万円の建物にかかる消費税3%の増加分は90万円だが、増税後に需給バランスが変われば、100万、200万と引いてくれることだってあるかもしれない。「増税前に買わなければ」とあせって、希望通りではない家をつかんでしまう危険性のほうが個人的には心配だ。
 そもそも、家が本当に必要なのかについても考えてみた方がよいのではないか。
 持ち家でも賃貸でも、一生で支払う住居費はほぼ同じである。だったら、家庭や家計のサイズに合う家を住み替えながら暮らすほうが効率的である。
 いまどきは持ち家だからってまわりに自慢できるわけではない。人口も減るから、土地の価格上昇にもほとんど期待できない。
 住む場所や支出の一部が時住宅ローンの返済として固定されるのは大きいリスクだ。金利もやがて上がるだろうし、地震や竜巻などで被害を受けるリスクもある。
 そういうリスクはすべて大家さんに取ってもらい、自分は低リスクで暮らすほうが結果として経済的にも精神的にも豊かになれる。
 そういうことを考えていくと、家を買う理由はじつはほとんど見当たらない。経済学では、人は効用(金銭面や心理面での満足感とか充足感など)を最大化するために行動することが大前提であるが、家の購入はおそらく効用の最大化につながらない。
 しかし、それがおそらくわかっていても、多くの人は家を買う。増税前に買おうと考える。
 この不思議な現象がなぜ起きるのかと考えていたら、消費税増税がひとつの「イベント」なのだと気がついた。
 世の中が盛り上がっている。自分も一緒になって楽しみたい。そのイベントへの参加条件が、家を買ったり、買うかどうか悩んでみることなのではないか。
 日本人はイベントが好きだ。バレンタインデーからクリスマスから最近ではハロウィンまであらゆるイベントで盛り上がれる。増税という愚策ですらイベントとして楽しむ余裕がある。
 それなら、リスクや効用といった点で損得を語るのはヤボというものだろう。
 イベント会場で売っているグッズが馬鹿みたいに高いと思うか、それとも、イベントに参加してグッズを買ったという経験が大切だと思うか。
 その価値観の違いが、増税前に家を買って満足できるかどうかの差であるような気がする。

消費税還元セールについて 6月某日 晴れ

「消費税還元セール」はだめ。
 そういう法案が通るらしい。
 見るからにくだらない法案なので、思わずニュースに聞き入ってしまった。その結果、やっぱりくだらないことがあらためてわかった。
 たくさん税金を納めている人たちはきっと怒っていることだろう。だって、こんなどうでもいいことを議論するために税金がたっぷり使われているんだから。
 ニュースで解説していた人の話によれば、この法案の目的は大きな小売店などによる中小企業の買いたたき防止であるそうだ。
 小売店が消費税分を上乗せしなければ、実質的には利益が減る。その分を転嫁するために、仕入れ先の中小業者に圧力をかける。値引きを要求するなどして中小業者がいじめる。
 だから、消費税還元セールはだめ、というわけである。
 確かに、そういう可能性はゼロではない。
 でも、いまどきはネットであらゆる情報がまわるから、仮に大手が中小を叩けば、それが噂になってあっという間に広がる。不買運動がすぐに起きる。
 大手だってそんなことは十分にわかっているから、イメージが悪くなることはやらない。
 また、消費税分を上乗せすれば消費者の購入意欲は失せる。その結果、大きな店の売上げは下がり、仕入れが減り、中小業者の売上げも減る。仮にそうなったときの責任は誰が取るのだろうか。
結果として売上げが減るなら、多少利幅が減ったとしてもたくさん買ってもらったほうが中小業者にとってよいのではないか。
 政府としては、弱い立場の中小業者を守っているつもりなのかもしれない。しかし、そもそもの原因は消費税増税である。本気で中小業者の心配をするなら、増税を先送りする方法が考えるのが先だろう。
 海外には、変わった法律がある。
 たとえば「ポケットにアイスクリームを入れてはならない」とか「豚にナポレオンと名付けてはいけない」といったものだ。「消費税還元セールはダメ」も、それに近いものがある。おもしろさに欠けるから、珍法として注目してくれる人はいないだろうけど。

買い替えについて 6月某日 晴れ

 街中でエコカーをよく見る。
 いまさら何を言ってるんだと思うだろうが、それにしてもよく見る。
 先ほど銀座から拙宅の非エコカーを運転して帰ってきたが、昭和通りの渋滞中にすれ違う対向車を眺めていたら、約40%がハイブリッド車か電気自動車であった。ある予測によれば、普通車の10台に3台がハイブリッドになるのは2020年であった気がする。日産のゴーン氏が10台に1台が電気自動車になると予測したのも2020年だったのではないか。これらを足すと10台に4台、40%になる。ならば、実態は予測を上回っているのか。
 そんなことを考えたところで、大きな勘違いをしていることに気がついた。私が見た「10台中4台がエコカーだった」という実態は「走っている車」の話である。たくさん走る人ほどエコカーを買おうと考えるのは当たり前だから、走っている車を数えたらエコカー比率が高くなるのは当然だ。現象(たとえば街中でよくエコカーを見る、とか)の一部分だけを見てものごとを考えると、たいてい現実を見誤る。
 ところで、エコカーははたして得なのだろうか。
 国交省の調査によると、自家用車の年間走行距離は平均で10000キロ少々であるそうだ。ガソリン代を1ℓ150円として、ハイブリッド車の燃費がリッター30キロだとすると、リッター10キロの非エコカーなら100万円のハイブリッド車、リッター5キロの非エコカーなら250万円のハイブリッド車に乗り換え、それぞれ10年乗るともとが取れる(ガソリン代だけを計算した場合)。そう考えると、本体価格200万円前後の売れ筋エコカーは、高くはないが、安くもない。あと50万円安くなれば飛ぶように売れるのではないか。
 ちなみに、拙宅の非エコカーの燃費と年間走行距離で計算してみたら、ハイブリッド車に替えて10年乗るとしても100万円以下でなければ得にはならないことがわかった。そんな車はおそらくない。200万円のエコカーなら20年乗ってもとが取れるが、そのころにはもっと技術が発達しているはずである。だから、いまのところいらない。
 そういうことを考えていると、渋滞もあっという間である。買い替えを検討している人には渋滞時の気分転換としておすすめである。

多様化について 5月某日 晴れ

過日より『40歳からのリアル』という本が店頭に並んでいる。
制作に携わった一人として言えば「並べていただいている」が正しい表現であろう。
世の中には「年齢本」と分類される本が数多くある。そのなかで『40歳からのリアル』を仕入れ、並べてくれるのは非常にありがたい。
いまどきはネットで本を買う人も多い。消費者の視点で見れば、そのほうが確かに便利かもしれない。一方、制作者の視点で見ると、数多くの本を扱っている書店の人に「売れそうだ」と思ってもらえなければ、まず売れないのが現実だろう。その意味で、仕入れてもらい、並べていただいていることは非常に重要なのである。
書籍や雑誌の制作に携わっている人はたくさんいるから、考えかたはさまざまだ。その広い業界の端っこギリギリに存在感なく存在している1人として私が思うのは、売れる本がいい本だということである。そういうことを関係者の前で言うとたいてい議論になるので、言わない。でも、本心ではそう思っている。売れない本を作っても誰も喜ばないからだ。
「売ってみなければわからない」という人もいるだろう。しかし、この「わからない」は、本に限らず、あらゆるモノやサービスを作りだそうとする過程にすでに存在している最強の〝口実〟であり〝いいわけ〟ではないか。たとえば、作りたい本があるけど需要があるかどうかわからない。だから、とりあえず作る。そのときに「売ってみなければわからない」が口実になる。そうやって生み出される本は、たいてい売れない。その際には「売ってみなければわからない」がいいわけになる。何かを作りだす人に求められるのは「売ってみなければわからない」が禁句だと意識することではないか。
売れる、売れないを基準にして考えると、モノやサービスが画一化する。そういう人もいるが、おそらくそれはちがう。現在のように価値観が多様化している社会では、理屈上、モノやサービスも多様化するはずだからである。
価値観が多様化している(画一的ではなくなっている)ということは、ホームランが打ちにくいということだ。かつては消費者というピッチャーがストレートしか投げてこなかったから、いかにストレートを打ち返すかを考えればよかった。しかしいまはシンカーやチェンジアップを投げてくる。サッカーボールやピンポン球を投げるピッチャーもいる。多様化とは、そういうものだと私は思っている。
球種がさまざまなら、打ち方も様々になる。シンカーとサッカーボールの打ち方は根本的に違うはずだ。ピンポン球が飛んでくる可能性は小さいかもしれないが、ピンポン球に絞り込んで長打を狙うこともできる。いずれにしても「売ってみなければわからない」と考えるということは、球種の多様化を考えることなく、ストレートの打ち方のみを武器にして打席に立つということだ。それではおそらく成果は出ない。そういうことをテーマとしているのが、過日より店頭に並べていただいている『40歳からのリアル』という本である。

40歳について 5月某日 晴れ

年始から1カ月、ほとんど外出することなく原稿を書いていた。
『40歳からのリアル』という本の原稿(の一部)である。
ご存知の方がいるかもしれないが、これはシリーズ本である。『28歳のリアル』からはじまり『35歳からのリアル』へとつづき、今回の本に至る。
そして、ご存知の方はいないと思うが『28歳のリアル』を書いたときの私は28歳、『35歳からのリアル』を書いたときは35歳だった。そのため、本のタイトルのとおり、原稿の内容は非常にリアルなものになった。年齢的に当事者である自分が感じていることをそのまま書くわけだから当然といえば当然である。
じゃあ『40歳からのリアル』を書いたいまの私が40歳かというと、じつはちょっと手前である。40歳になっていないから、40歳の人生をリアルに書くことはできない。
では、どうやって書いたのか。幸いにも私の数少ない知人・友人のほとんどが40歳そこそこであった。そこで、彼らに全面協力をあおぎ、戦略、目標、悩み、意見、偏見をかき集めた。おかげで飲み代という経費は嵩んだが、有益な情報を集めることができた。
忙しいなかお付き合いいただいた諸兄に、この場を借りてあらためてお礼申し上げたい。おかげで『40歳からのリアル』という本ができた。
似たタイトルの本があるかもしれないので、まちがわないようにくり返しておこう。白地に紫色のタイトルで『40歳からのリアル』である。
これくらい書いておけば、宣伝のための原稿としては十分だろう。
尚、貴重な話を聞かせていただいた諸兄には、この場にてお礼をいたしましたので、後日あらためておごることはありませんということも一応念押ししておこう。もちろん、たくさん売れた場合は別だが。

仕事にサイズについて 5月某日 晴れ

 我々が請け負う仕事は、規模、期間、金額が非常にさまざまである。
 規模、期間、金額は基本的に比例する。たとえば、関わる人が多く(規模)、制作に時間がかかる(期間)ものは、たいてい金額も大きい。物書きのギャランティはブラックボックスになりがちだが、私はそういうことをあまり気にしないので発表してしまうと、半日〜1日で終わる原稿で3万円、半月から1カ月程度のもので50万円、数カ月に及ぶ大きいもので200万円くらいである。むろん、私は物書きのなかでもペーペーの下であるから、あくまでも私の場合の例である。ほかの人のギャランティは知らない。ブラックボックスになっているからである。また、仮に小規模の仕事が利益率が高かったとしても(実際、私の場合はその傾向が強い)、そういう仕事ばかりいただけるわけではない。我々は受託者であり、理屈上は仕事を選べるが、現実には選んでいる場合ではないからである。
 あまり知られていないだろうし、おそらく世の中の大半の人にとってはどうでもいいことだろうが、物書き商売で安定的に暮らしていくには、仕事の単価よりも利益率のほうが断然重要である。私は、現在進行中の仕事をファーストフード店のドリンクの要領でS、M、L、LLにわけている。ドリンクのサイズが大きくなるほど店としては利益率が下がる(消費者側から見ると得をする)のと同じで、原稿などを書く物書き商売も供給する側であるため、サイズが大きくなるほど利益率は下がる。理由として、関わる人が増えるためにこちらのスケジュールに合わせて仕事が進めづらくなったり、テーマが大きくなりやすい分、調べものや研究にかかる時間が長くなることなどが挙げられるだろう。つまり、作業効率と生産性が格段に下がる。
 LLが嫌なわけではない。むしろ好きであるし、LLのみで暮らしたいとも思っている。大きなテーマと向き合って調べものや研究をしている時間が楽しいからである。そのためには、LLのみで暮らしていくむずかしさを克服しなければならない。具体的には、1本あたりにかかる時間や手間が大きいので引き受けられる本数も限られるという問題とか、単一のテーマに長時間向き合うために視野が広がらないという問題などである。ちなみに5月某日現在の進行状況は、S:1、M:1、L:2、LL:4である。このバランスを見る限り、本年の売上げはたいして期待できない。まあ、もともと無職とたいして変わらないのだから、当人としてはなんの不満もないのだが。

別荘について 4月某日

ある芸能人夫婦の別荘を見てきた。
むろん勝手に見たわけではなく取材である。東京から車で2時間弱。立派な建物であった。
くわしくは書かないが、価格は決して高くはない。都内の一戸建てよりも安い。
安い理由は、土地代だ。23区の坪単価と比べると、高いところでも10分の1、安いところでは100分の1。軽井沢のように建ぺい率が低く制限されている地域では、それなりに大きな土地を買わなければならないが、それでも予算はだいぶ抑えられる。その分を建物にまわせば、いい家建つ。住空間に重点を置くなら、都市部には賃貸で住み、別荘を持つというライフスタイルも1つの方法だろう。もの書き商売のように、日々出かけるわけではなく、家のなかに籠っているならなおさらだ。私も、土よりもアスファルトを好み、人ごみよりも虫が苦手でなければ、もしかしたら考えたかもしれない。ちなみにビルゲイツが、とある場所にばかでかい別荘を建てている途中だそうだ。IT環境が整っていれば、外国だろうが別荘地だろうが関係ない。仕事もできるし何でも手に入る。そう考えたのではないかと勝手に想像している。
勝手な想像をさらにふくらませるが、我々のような商売もIT環境があればたいていのことはできる。原稿やレイアウトのやり取りもすべてメールだし、電話で取材させてもらうことも少なくない。
仕事の依頼もメールや電話やこのサイト経由で受けることが多い。定期的に仕事をいただいているが、じつは1度も会ったことがない担当者も、定期的に仕事をお願いしているが、やはり1度も会ったことがない関係者も数名いる。
私はそもそも雨の日に外に出たくないという理由でこの商売を選んだようなところがあるから、ITの進化には感謝しているし、ビルゲイツやスティーブジョブズは神である。おかげで、たまの打合せや取材での外出が楽しい。いい年ぶっこいて電車にわくわくして乗っているのは、熱心な電車ファンと私くらいではないか。
そう考えれば、さまざまな木々に囲まれた別荘より、様々な道路と電車が交錯する都会のほうが、私には向いている。どこに誰が住み、隣に誰が住んでいるのかわからない街を嫌う人の気持ちもわからなくはないが、過密さにまぎれてひっそりと暮らすのもいいものだ。春先に思い出す句ではないが、芭蕉は「隣はなにをする人ぞ」と詠んだ。そんなこと私にはまったく興味がない。何してたっていいじゃないか。そこが、俳諧の巨人ともの書きの小人との決定的なちがいなのかもしれない。

税金について 4月某日

確定申告をすると還付金が戻る。
少なくとも私の場合は、フリーになって10数年、毎年戻ってきている。
臨時ボーナスみたいなもんじゃないか。1杯おごれ。
そういう戯れ言をいう素人に、私はかたっぱしから浴びせ蹴りを食らわすことにしている。
確かに、還付金はうれしい。元は自分の金だとわかっていてもうれしい。だいぶ前に書いた原稿のギャランティが振込まれているのに気づいたときのようであるし、なんかちがうかもしれないが、もらえるものはもらう。返してもらえるものも返してもらう。
しかし、ちがうんである。還付が確定したのもつかの間、実際に振り込まれる前に消費税の納付がある。その後、年金がきて、自動車税がきて、国民年金基金がきて、さらに追い討ちをかけるように固定資産税がくる。結局、還付金などあとかたもなくなり、恒例の貧しい夏を迎える。還付金は、臨時ボーナスではない。間もなく襲いかかってくる巨額の支払いの予兆なのだ。
税金を払うのが嫌なのではない。税務署員はいつも親切だし、税金を払い渋るよりも、払ってもあまりあるくらい稼ぐほうがよいに決まっている。
でもな、と思う。
私のような個人商店からそれだけ持っていったうえで、さらに消費税を上げなくてはならないのだろうか。世界には固定資産税や消費税がない国がある。相続税がない国はもっとたくさんある。オイルが出る国とは事情がちがうと言うなら、それは職務放棄だろう。何もないところから金がなる木を生み出すのは、もの書き商売を含むあらゆる商売に共通する使命だ。
今年度は一般会計として100兆円近くもの金を使うそうだが、そんなに必要なのだろうか。国債という借金をして道路や橋を補修するそうだが、未来の日本人は、道路を残してもらうより借金を残さないでもらうほうがうれしいのではないか。
家や車を息子に遺してやりたいと思う人は多い。でも、借金してベランダを直したり、ATミッションを交換したりして、それらを借金とともに遺したいと思う親はいないだろう。そう思うのは、私が個人と国家の財布を同じものとして見ているからだろうか。だって、同じじゃないか。財布は財布、金は金だろう。

返品、返金について 4月某日 晴れ

返金保証は、商品にはつくがサービスにつかない。
多くの人がそう思っている。
しかし、実際はそうでもない。たとえば、ある居酒屋チェーンでは、いくつかの料理について「美味しくない」と申告すると無料になる制度がった。フィットネスクラブや結婚相談所でも、サービス内容に満足できなかった場合の返金制度をつくっているところがある。野球ファンならば知っている人も多いかもしれないが、「負けたら全額払戻し」というチケットを発売した球団もある。
サービスの提供者として見れば、返金による売上げダウンは痛い。しかし、リスクがあればリターンもある。
「気に入らなければ返金してもらえる」と思えば、「お試し」感覚で利用する人もいるはずだ。その結果、潜在的な需要を開拓できる。うまくいけばリピーターも獲得できる。
じゃあ「無料お試し」でいいじゃないか。
それはちがう。世の中には「無料だから利用する」≒「無料じゃないなら利用しない」という人がいる。いったんお金を払わせる返金制度は、そのような人をあらかじめを省く効果が見込めるからだ。
ミシガンビジネススクールのハート准教授は、全額返金というリスクを背負ってでもサービスの質を保証することが、高い顧客満足と収益性を同時に実現させる方法だといっている。他社との差別化を実現し、固有の競争優位を獲得するポイントであるともいう。
そもそもアメリカは返品天国である。返品が返金に進化しても、まったく不思議ではない。
実際、アメリカに住んでいたころを思い出してみても、どの洋服店にも返品カウンターがあり、大勢の人が気軽に利用していた。その結果、当然ながら消費・購入意欲は増す。気に入らないものを買ってしまったというストレスから解放される。
ひるがえって日本はどうか。そういえば先日、カミさんがウェブで靴を買い、返品していた。その前には、化粧品を返品していたこともあった。いずれのケースも、どこが気に入らなかったか、なぜか、などと理由を聞かれ、丁寧に答えたらしい。それが、現状である。
私だったら、おそらく答えない。「返品したいから」以上の理由はないからである。レストランで料理を残すのに「もういらないから」以上の理由はない。商品の返品もサービスの返金も、私にとってはたいして変わりはない。
「鶏が先か、卵が先」かという議論は、どうやら卵が先という結論であるらしい。「売り上げというリターン、返品というリスク」はどうか。「返品できないから買わない」という人も、それなりにいるのではないか。

選択肢について 3月某日 晴れ

消費者の価値観は多様化している。
価値観が多様化すれば、ニーズも多様化する。
そのため「こういうライフスタイルがすばらしい」という論は、いまさら陳腐である。「これを買って、あれを使えば幸せ」という論はことさらである。
とはいえ、最近は商品・サービスのバリエーションが多すぎやしないか。
どのレストランかは言わないが、メニューが多い。どの商品かは言わないが、オプションが多い。私のような面倒くさがりで、買い物に時間をかけたくない人にとっては、選ぶこともなかなかの苦痛である。選択肢が多すぎることが、モノが売れない原因の1つである気さえする。
あながち、見当違いでもない。コロンビア大学ビジネススクールのアイエンガー教授は、あるスーパーマーケットにて、24種類のジャムを並べた時と、6種類のジャムを並べた時とで、それぞれの売上げを調べた。その結果は、6種の方が売上げが10倍も多かったという。行動経済学にも「決定回避の法則」がある。選択肢が多すぎると、人は迷い、買おうと決断できなくなるか、先送りにするのだ。
ならば、やたらと選択肢を増やすことをサービスとはいわない。むしろ、無限に増えつづける選択肢を、ある程度までしぼってやることがサービスだろう。
オプションは、消費者にとって魅力的な言葉なのかもしれない。
しかし、膨大な数のオプションがある商品カタログ制作に携わることとなった個人の感想としては、正直「どれだっていいだろう」と思わなくもない。「4mmと6mmが選べる。だから、どうした」という気もする。つまり、本稿は愚痴である。愚痴をこぼす合間に見えたのが、「選ぶ楽しさ」がもてはやされる時代が、「選ばなくていい便利さ」を求める時代に変わりつつあるのではないか、という私見である。

思考について 3月11日 晴れ

2年が経った。
経ったより、過ぎたといった方がよいかもしれない。いまだ避難生活を強いられている方々にとっては、この2年という月日は、ただただ過ぎたものであっただろうと思う。社会は景気回復への期待に沸いているが、そのようなニュースですら、もしかしたら東北には虚しく届いているのではないか。被災地を含めない景気回復など、上辺だけのものであるとあらためて感じる。
2年前の今日、私は仙台にいた。偶然にも難を逃れたのは、その瞬間より20分だけ早く仙台駅を出発した新幹線に乗っていたからである。その20分に、どういう意味があるのかを考えるつもりはない。何か意味があるとも思っていない。
偶然に意味を探そうとすることが、思考停止のスイッチであることを知っているからである。
私がやるべきことは、引き続き、思考することである。
何ができるか。何をすべきか。何をしたいか。
2年が過ぎても、いまだその答えが明確にならない私は、我ながら頭が悪い。頭が悪いからこそ、なおさら思考しなければならない。

時計について 3月某日 晴れ

出かける際に時計をすると、きわめて高い確率で止まっている。
毎日出かけるわけではないもの書き商売に、自動巻の時計は向かない。そんなことを思わなくもないが、買ってしまったものは仕方がない。
いっそ止まったままにしておこうかと思うこともある。
それじゃあ時計の意味がない気もするが、そもそも私は遅刻しないし、いまが何時かだいたいわかる。辺りを見渡せば、どこかに時計が見つかるし、携帯を見たっていい。アクセサリーとしての要素も強いから、それでいいのではないかという気もする。
それはそうと、つねに5分早い時計をしている知人がいる。5分前行動を心がけるために、そうしているのだそうだ。
「正確さ」という点でいえば、彼の時計よりも止まっている時計のほうが上である。彼の時計は永遠に正しい時刻を示すことはない。一方、止まった時計は、少なくとも1日2回は正しい時刻を示す。
むろん、どちらの時計の方が役立つかと言えば、彼の時計である。
そう考えれば、正確さというのは、生活していくうえで必ずしも重要とはいえない。
時刻をセンスに置き換えてみたらどうか。
たとえば、ある人のセンスが世の中の5年先を行っているとする。
新しいもの、かっこいいもの、すばらしいものを作るが、いまは売れない。5年後には売れるが、そのときには、さらに5年先のセンスで何かをつくっているから、やはり売れない。
仮にそれがもうからない原因なら、もうけるのは簡単である。時計を止めて、世の中が追いつくのを待てばよい。
でも、それは多分つまらない。モノを作る人にとってはとくに、命ともいえる「1歩でも先を行こう」というモチベーションを差し出さなければならないからである。それをしなかったのが、ゴッホのような芸術家ではないか。
人は、案外弱い。自分は5年先を行っていると自信を持っていても、ふとしたときに確認したくなる。そして、自ら時計を止める。そこに、抜けられない落とし穴がある。
そんなわけで、今日は10分時計を早めてみることにした。
実態は、正しい時刻より100分遅れかもしれないし、10歩先に出たつもりが、50歩脇にそれているのかもしれないが、気分だけは10分早い。気分も、ようするにモチベーションなのである。

第一印象について 2月某日 晴れ

第一印象の9割は「非言語」による。
これは、メラビアンの実験を踏まえて、ビジネスや日常のコミュニケーションに展開されている論の1つである。メラビアンは、相手に与える印象の割合が、話の内容:7%、話し方:38%、ボディーランゲージ:55%であると提唱した。つまり、93%(38%+55%)が「どう言うか」であり、「何を言うか」は7%であるというわけだ。メラビアンがそう言ったかどうかは知らないが、少なくともコミュニケーション関連の話題では、そう展開されることが多い。
さらに展開すると、我々のようなもの書き商売は、7%の世界で勝負していることになる。ならば、私が言わんとしていることが相手に伝わらなかったとしても不思議ではない。
ただし、私はもう少し大きいのではないかと思っている。
まったく言葉が通じないアフリカのどこかで、9割がた普通に生活できるとは思えない。音を消した映画を見て、内容を9割がた理解できるとも思えない。チャップリンはそれをやってのけたが、現実、現代の世の中は、チャップリンのような天才であふれているわけではない。私のように、言葉で何回説明を受けても、増税やインフレが善であることがわからない愚者もいるのである。
仮に第一印象の大半が非言語によって決まるとしても、「じゃあ、人に気に入られるように振る舞おう」「つねにニコニコ、いつもいい人でいよう」と、鵜呑みにしてよいのだろうか。
人に好かれることも技術であるから、非言語コミュニケーションを学ぶことは有効である。
しかし、好印象を持たれている人にもデメリットはある。正確にいえば、好印象を持たれていないからこそ、得られるメリットがある。
たとえば、私は第一印象がよくない。おそらく、多くの人に「あの人、感じ悪い」と思われているはずである。ただ、自分でいうのも何だが、根っこの部分は案外よい人なので、老人に席を譲ったり、迷っている外国人に道を教えたり、当たり前のことは当たり前にする。
すると相手は、あるいはそれを見ていた人は「感じ悪いくせに、いいことをする」と感じる。初期評価が低い分、いつもニコニコしている人より高く評価されるのである。
これを私は「番長・子犬理論」と名付けて、いろいろな人に勧めている。
野蛮で嫌われ者の番長が、捨てられた子犬にエサをやっているところを目撃されると、翌日から「あの人は、じつはやさしい心の持ち主だ」となる。
逆に、番長が子犬をいじめていたとしても「そういう人だと思っていた」で終わりだが、優等生が子犬をいじめたりすると「あの人は、じつはおそろしい悪人だ」ということになる。行動に対する評価は、初期評価とのギャップによって変わるから、第一印象を悪人にしておいた方が得だというわけである。裁判官、警察官、教員、公務員などによる不祥事が糾弾されるのも、彼らが一般サラリーマンよりも初期評価が高いからである。
そういうわけで、「いい人になると損するよ」「ニコニコしない方が得だぜ」と、いろいろな人に勧めているのだが、実践してくれている人はいない。そう考えれば、言葉によって伝わることは、やっぱり7%くらいなのかもしれない。

持て余す時間について 2月某日 晴れ

 現場取材が続いた。
 現場とは、製造系の資料制作なら工場、新卒者向けのパンフ制作なら会社の会議室、入学案内の制作なら学校の教室など。カメラマンなどと朝から乗り込み、1日がかりで関係者に取材をする。何人もの人から連続して話を聞くため集中力がいるが、その日で取材が完結するのはありがたい。取材と執筆によってしか稼げない我々にとって、移動時間はまったくのムダである。移動2時間、取材1時間というスケジュールが連続すれば、かんたんに破産する。複数の取材をまとめて、効率よい短期決戦をセッティングしてくれる先方の担当者には感謝ひとしきりである。
 気が利く担当者は、昼食の時間までしっかりと確保してくれる。
 たとえば、9時から12時までに取材を5本、1時まで昼休憩、その後で取材5本というようなスケジュールである。
 もちろん、休憩時間を配慮してくれるのは非常にありがたい。
 私は基本的に昼食を食べないが、まわりが食べるなら、一緒においしくいただく程度の社会性は持ち合わせている。
 ただし、食うのがすこぶる早い。3分もあればよい。そのため、たいてい時間を持て余す。もの書き商売にとって移動時間がムダであるように、何もせずに過ごす時間もお金にならない。貧乏性であり、じっさいに貧乏である私には、その時間が気になって仕方ない。
 このような時間を寄せ集めると膨大な時間になる。
 1日30分、何もせずに過ごしているとすれば、年300日働くとして150時間になる。それだけあれば、200ページの本1冊などかんたんに書ける。
 しかし、それは理屈上の話。
 時間に限らず、モノ、お金といった資源は、あったらあっただけ使ってしまう。これを「パーキンソンの法則」というが、十分な時間があるはずなのに、1冊の本も仕上がらない私の日常はまさにその典型である。
 このような現状を変えるには、時間を有効に使わざるを得ない方法を考えるしかない。つまり、常にタスクを持ち歩いて、ふと空いた時間に手をつけるクセをつける。
 幸い、私にはやらなければならないことがたくさんある。各方面で執筆させていただいているコラムのネタ収集もしなければならないし、読まなければならない本も山積みである。
 そう思って、PCやら本やら資料やらノートやらをカバンに詰め込んだら、衝撃的な重さになった。文字通り、持ち上げただけで腰に衝撃が走った。明日の現場には車輪つきのキャリーバッグで赴こうかと真剣に考えている。

依存について 2月某日 晴れ

「依存」をキーワードとする特集記事に関わった。
 時世柄、依存といえば、原発、官僚、中国、年金制度などが浮かぶが、そうではない。数名の人から生活のなかで依存しているものを聞き、それらから脱するための取り組みを聞くという前向きな記事である。わかりやすいところでは、タバコ、お酒、会社、上司、コンビニ、ゲーム、アイドル、テレビなどだ。取材でも、それらを挙げた人が多かった。
 話は興味深かったが、たまたま私に関連することはなかった。タバコやお酒はたしなむが、依存しているというほどでもない。会社員ではないし、上司もいない。コンビニがなくても生きていけるし、ゲーム、アイドル、テレビとはすっかり縁遠い。
 そう書くと、何ものにも依存していないように見えるが、実態はちがう。
 もの書きという仕事にも、そのために使うPCにも、情報を提供してくれるコネクションにも、よく使う文体にも、各方面のクライアントにも、おもいっきり依存している。フリーランスを名乗り、あたかも自立・自律して生きているような顔をしながら、じっさいはあらゆるものを頼って飯を食い、食わせているのである。
 書く仕事がなくなったら、私は日々何をするだろう。
 おそらく何もできない。何をやればよいかすら満足に思い浮かばない。それがすでに依存なのだ。
 かつて斜め読みしたビジネス書のなかに「最大のクライアントをあえて切れ」と書いてあったことを思い出す。でかいクライアントほど大切にしようとする。すがろうとする。それが、新たな成長の妨げになる。だから、あえてこちらから切る。安定した関係性から脱し、自らを苦境にさらす覚悟を持つことが、次なるイノベーションにつながる、というほどの意味だったように記憶している。
 もちろん、これは思考実験であるから実際に切らなくてもよい(と個人的には解釈している)。最大のクライアントがいなくなったらどうするか。主たる収入減が途絶えたときに再起するきかっけを持っているか。そういう危機感を持って挑まないと、商売はよどみ、うまくいかなくなるということである。
 むろん、仕事においても生活においても、何ものにも頼ることなく、無人島的に生きていくのは不可能である。しかし、少なくとも自分が何に依存しているのかを知っておかないと、つい「自分が自分の力で生きている」と錯覚する。実際は「生かされている」ことの方が多い。各方面への依存度を減らし、軽くするという意識と行動が、「生かされている」から「生きている」に導いてくれるのである。

笑うことについて 1月某日 晴れ

仕事がら、数字をよく見る。
 企業から依頼を受ける制作物では、売上げ、利益、株価、ROEなど。個人向けの書籍執筆などでは、平均収入、ローン返済額、収支バランスなど。
 1日中数字を見ていることもあるが、個人的に数字は好きだから苦にはならない。文章に正解はないが、数字は明確である。「私」と「君」を足すと、「私たち」にも「我々」にも「オレら」にもなりえるが、1+1が、3や√13や≒2になることはない。職業上、言葉選びに悩むことが多いから、その反動で数字が好きなのかもしれない。
 数字を見ていると、いろいろなことがわかる。しかし、数字ですべてがわかるわけではない。売上げがどれだけ伸びたのかはわかるが、売上げが伸びた理由はわからない。
 だから、数字は数ある情報の一部に過ぎないものだと意識して扱わないと、肝心な点を見落とす。数字を扱うのが得意な人に騙されるかもしれない。
 たとえば、子どもは1日に300回笑うという。一方、大人は15回であるそうだ。多分、私はもっと少ない。3回くらいではないか。
 その理由は何なのか。
 ものの本によれば、大人が笑わなくなる理由は、同時に複数のことを考えるからだそうだ。
 たとえば、冗談を聞いておもしろいと感じると同時に、そのネタ、何かの原稿に使えないだろうか、と考える。そういえば明日は何の原稿を書くんだっけかと考えたりもする。東北は寒いだろうなあ、アフリカは暑いだろうなあと考えたり、玄関のカギ閉めたっけかと考えたりもする。
 逆に子どもは、原稿のことも東北のことも玄関のことも考えない。だから、素直に笑える。そう考えれば、大人が酔っぱらっているときによく笑うのも納得である。お酒が入ると考える能力が低下するから、目の前の単純なおかしさに集中する。だから、笑う。
 言い換えれば、考えることが減れば、子どもはいつまでも笑い続け、大人ももっと笑えるようになるということだ。
「考えること」はいいことだ。しかし、そのなかには、原発や核実験や治安や消費税やいじめなど「解決できれば考えなくて済むこと」も含まれる。20年くらい経って、子どもや大人が笑う回数が減っていたとしたら、それは大人である我々が「解決できれば考えなくて済むこと」をほったらかしにしたということである。そのようなことも、数字を見ているだけではわからない。
 それにしても、1日300回ということは、15時間起きているとしても、3分に1回くらいのペースで笑っていることになる。
 子ども時代に戻りたくはないが、子どもの毎日は楽しそうだ。

家を買うかどうかについて 1月某日 晴れ

 家を買いたいのだが、どう思うか。
 そんな相談(というほど真剣には聞いていないだろうが)をよく受けるようになった。理由としては、まわりに〝適齢〟の人が増えたこともあるが、経済環境も影響している。具体的には、景気とともに金利が上がる可能性と、消費税が上がることである。
 じつは、そこに家を買おうかどうか迷う原因がある。
 経済という先行きが読めないものを加味するから、判断できないのである。
 金利は上がるはずである。そう言い切れる理由は、いまより下がりようがないからだ。しかし、いつ、どれくらい上がるのかはわからない。ましてや、ローンを払い終える何十年後かの金利など誰にもわかるはずがない。
 消費税も上がる。なぜなら、政治でそう決まっているからである。ならば、増税前に買ったほうが得ではあるが、それは買うことを前提にした議論にすぎない。買わないという選択肢もあるなら、消費税はじつはあまり関係ない。また、新築物件には消費税がかかるが、中古物件は非課税である。新築にこだわらないなら、やはり消費税は関係なくなる。
 さらにいえば、給与もボーナスもどうなるかわからない。30代で家を買えば、60代ではリフォームや立て直しが必要になる可能性が大きいが、そのときに受取れる年金はさらに不透明だ。
 そのように考えていくと、家を買おうかどうかは永遠に判断できない。家計の安定という点でも、精神的な安定という点でも、損得勘定という点でも、どうすればよいかを判断する決定的な材料がないからだ。
 だから、私の答えはいつも同じである。
 欲しければ買う。いらないなら買わない。
 余計なことを考えずに、その基準だけで決めてしまうのが、もっとも幸せになれるポイントだと思っている。「家を買いたいのだが、どう思うか」というなら、欲しいということだ。だったら、買えばいいと思う。欲しいものは、家であれ何であれ、手に入れるのが満足するための条件であるからだ。
 乱暴だと思う人もいるだろうが、そうではない。
 決断とはそういうものだ。予測不可能な経済状況を材料にして「買う」「買わない」を判断することはできない。しかし、決断はできる。
 子どもを持つことも、転職も、ガールフレンドと付き合うかどうかも、人生において影響力が大きいものは、すべからく決断するものである。
 情報収集がうまく、冷静沈着に分析できる人はたくさんいる。判断はそういう人に任せておけば十分である。
 一方、自信と責任感を持って決断できる人は少ない。それができるかどうかが、予測不可能な未来をしぶとく生き抜けるかどうかの条件ではないだろうか。

生理的について 1月某日 晴れ

 昔から、年上の女性からのウケがよくない。
 だからといって、若い女性のウケがいいわけではないが、年上、年下で分ければ、年上で付き合いがあるのは、20代のころから知っている先輩女性が数名いるだけ。年下は、その数倍はいる。
 理由は知らない。いわゆる「生理的に合わない」というやつだろうと勝手に思っている。好かれない理由を考えるのも面倒だから、わざわざ近づかないのが君子であるとも思っている。もしかしたらそれが、友達が少ない理由なのかもしれない。
 それはさておき、「生理的に無理」という表現を、女性が言うのを聞くことはあるが、男が言っているのはあまり聞かない。
 私自身、いつかブレーンバスターを食らわすと心に誓った人はいるが、その理由は「生理的」ではない。道義的、正義的、貸し借り的、あるいは復仇的であって、じつは相手が嫌いなわけでもない。だから「生理的に」の意味や感覚が私にはわからない。
 生理的は、生理学の領域である。つまり、人体などの生体について、その機能とメカニズムを解明する。
 ならば、生理的に無理というのは、人に空を飛ぶ機能がないように、特定の相手とうまく付き合う機能がない、毒を消化する機能がないように、その相手と付き合うことで生じるストレスとか苛立ちを消化する機能がないというようなことだろう。
 一方、英語にも「生理的に無理」に似た表現があるが、あちらではケミストリーという言葉で表現する。つまり、分子や原子を扱う化学である。生理学が「どうやって」を考えるのに対して、化学は「何によって」を考える。水と油が混ざらないように、合わない人が存在する。逆に、酸素と水素が水になるように、うまく反応することもある。
 相性というものにこのような捉え方の差が現れるのは、おそらく活動している環境がちがうからだろう。
 たとえばアメリカやヨーロッパには、さまざまなバックグラウンドを持つ人が存在する。そういう環境で生きていると、相手とうまくやっていく機能がおそらく高くなる。それでも合わないなら、機能ではなく素材の問題だと思っても不思議ではない。一方、日本で活動している人たちのバックグラウンドは似通っている。素材は一緒。合わないなら、機能のせいだろうと考える。
 その差を明らかにして、何かの役に立つわけではない。
 でも、はたして生理や化学を持ち出して、「この人とは付き合えない」という現実を正当化してよいのだろうかとは思う。
 世の中には、ウィリアムス症候群という遺伝子疾患がある。この疾患を持って生まれた子どもたちには、学習障害、成長障害、身体の弱さといった苦労があるが、その一方には、極端に人にやさしく、社交的であるという特長がある。
 医学的に見れば病気の1つである。しかし私にとっては、彼らが教師のように思える。

スコアラーについて 1月某日 晴れ

 対談の仕事をさせていただくことになった。
 AさんとBさんの対談をまとめて、それを原稿に書き起こすというものである。
 通常、このタイプの仕事は、こちらから2人に質問し、その答えをまとめて対談した体に仕上げることが多い。初対面の人同士の場合はとくに、話が盛り上がらないことが多いから、ファシリテーターとして参加する。そのため、一次的な質問だけでなく、ある程度までそれぞれの答えを想定して、二次、三次の質問も準備する。テーマも立てて、対談のシナリオを頭のなかに持ち、原稿の仕上がりイメージもつくっておく。
 しかし、今回は話の流れを1歩引いて見ているだけでよいという。話がどう転がるかわからないリスクを含めて、出たとこ勝負で対談を成立させるというわけである。
 したがって、こちらが事前に質問などを準備する必要がない。現場では、たまに口を挟むことはあっても、それ以外のことはしなくてもよい。
 準備なく、参加もせず、そんなに簡単にお金がもらえていいものかとにやける一方、何もしないというのはなかなか不安である。
 いつもとは勝手がちがう。
 勝手がちがうなら、意識も変えなければならない。
 そこで思ったのが、野球のスコアラーの意識でやろうということである。
〝試合〟の面白さは〝プレーヤー〟であるAさんとBさんの力量にかかっている。あるいは〝監督〟である編集者の力量もいくらか左右する。
 私は淡々と記録する。そのなかから重要なポイントを見つけ出して、原稿として表現する。かつて野村監督は、スコアラーに大切なのは表現力だと言っていた。優秀なスコアラーとして参加しようと思えば、この仕事もうまくいくはずなのである。
 それはそうと、プレーヤーではない人として現場にいると、自分がインタビューしたり、されたりするときには見えなかったことがよく見える。
「自分なら次にこう聞くだろう」と思っていると、全然違う質問が出たりする。「その話は掘り下げても仕方ないだろう」と思っていると、その先に興味深いエピソードが出てきたりする。
 一歩外に出ると、視野が広がる。問題や解決策が見えることも多い。
 よく言われることだが、実践するには経験がいる。
 物書き商売は、どうしても近視眼的になりやすい。どこまでも客観的。できる限り他人事。それを本年の目標としたい。

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ライター 伊達直太

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