ライター伊達直太/取材後記2015

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取材後記 2016

出費について 12月某日 晴れ

今年色々とモノを買った。
理由は単純で、色々なモノが古くなり、その中のいくつかが壊れたからである。
ここ数ヶ月だけでも、洗濯機が壊れ、テレビが壊れた。きわめつけはmacの故障で、仕方なく買い換えて4代目となった。
あとは、壊れたわけではないが、PC(win)とプリンタと電話機を買い換えた。振り返ってみると、家電系は約10年、OA系は約5年前に買ったものばかりだから、買い替えの時期は重なる。出費というものは重なるもんだから、もしや車も逝っちまうんじゃねえかと思ったが、こちらは車検代だけで済んだ。
ちなみに車も10年目である。頻繁に乗るわけではなく、距離も大して嵩んではいないが、そろそろ来そうで怖い。さらに怖いのは、そういう出費を計算している脇で、カミさんがリフォームの計画を着々と進めていることである。実は家も10年目だ。いずれやらねばとは思うけれども、何も建築費とか人件費が高騰している今じゃなくてもよかろう。
人はいろんな欲がある。人間の3大欲求と言われるものに限らず、物欲もあれば、名誉や名声を欲しがる人もいるし、マズロー的な自己実現の欲求で生きている人もいる。改めて思うのだが、私はそういうところが非常に薄い。性欲には自信があるが、食のこだわりはなく、寝るのは嫌いで、モノも全く欲しくない。ここだけの話だが、マズローの言っていることもよくわからん。欲求がある、という前提の話だからである。
欲求が薄いことは、フリーランスとしては割と大きなハンディキャップである。稼ぐ、儲ける、いいものを作るためのインセンティブが働きづらいからである。
何も欲しいものはないが、強いていうなら欲望する心が欲しい。
それってどうやったら手に入るだろうか。
その方法がわからないので、とりあえずカミさんの欲求に便乗して、リフォーム資金を貯めるという欲求をニンジンとしてぶら下げてみることにしよう。

年間収支について
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

山あり谷ありである。
2016年の収支は、5月くらいまで順調だったが、そこから失速して利益半減で終了である。グラフにすると逆Vの形であり、日経平均(通年)と逆の形だ。
地合いとしては、上半期の方がやりづらかったはずなのに、そこはうまく取れている。一方、下半期は目をつぶっていても儲かったはずなのだが、恩恵がなかっただけではなく損している。
そう考えると、あえて難しいところで勝負しようとしているように見える。野球でいうなら、外角低めの難しい球を打ちにいっているようなものだ。それは無駄ではないのだろうけれど、打率・打点重視でいくなら真ん中のストレートを待ったほうがいい。
見送り三振よりも、振りにいって三振するほうがマシ、というような当たって砕ける精神は、聞こえはいいが、おそらく実入りは少ない。相場に限っては、特に私のように難しい球を打てる能力がない者は、見送り三振でよしとする気持ちが必要だ。右往左往するのは、まさに強引に振りにいっているからであって、そこを直さないとパフォーマンスは上がらない。
そういえば先日、ディズニーランドへ行った。拙宅の恒例行事である。
その時に思ったことなのだが、人気のアトラクションは30分くらい待つ。もっと待つ時もある。でも、チビもボーズも文句を言わず待つことができる。早く乗りたいという気持ちを我慢できる。親バカではあるが、たいしたもんだと思う。
翻って自分はどうか。動いている銘柄に乗りたい気持ちが我慢できず、飛びついて失敗することが多い。情けないことであるし、子供を見習わなければならない。そこを1つの課題としつつ、来年も取り組んでいこう。
そして、今年も仕事を通じて、一流の投資家さんたちと何人も会うことができた。色々なことを教えてもらった。出会いに感謝である。

生活パターンについて 12月某日 晴れ

今年はよく働いた。
我ながらそう思う。月4日くらいは仕事をしない日を作ろうと思っているのだが、平均すると2日くらいかもしれない。
かといって、忙しいかというと、そうではない。理由はおそらく、日々6時くらいまでしか仕事をしないから、やれなかったことが翌日に回っているためである。つまり、仕事の総量は変わっていないのだけれど、日々こなす量と仕事する時間が平準化されて、何もしない日が減る。繁忙期と閑散期みたいな濃淡もなくなる。例年は何度か徹夜することもあったが、覚えているでは限り今年は1度もない。それが良いことかどうかは知らないが、家族が文句を言わないから、少なくとも悪くはないのだと思う。
いつまでこの仕事が続くかはわからないが、続けているうちは時間配分のパターンのようなものを固めた方が良いのだろう。時間主義者だからそう思うのもあるが、突発的なこととか外部要因に振り回される状態はおそらく長く続かない。安定性という点から見ると、理想はお役所的な働き方なのではないか。
15年くらいこの仕事をしてきて、今更ではあるが、そう思う。15年経って、それなりに年くったからそう思うのかもしれない。
気づけば12月である。
相変わらず年末に向けてやることが増える。仕事もそうなのだが、家のこともだ。おかげでToDoリストの項目が全然減らない。そういう状態の時こそ、淡々とこなしていくことが大事なのだと思う。仕事は6時まで。家のことは6時から。時間できっぱり区切る。そういうお役所的なものにワタシハナリタイ。

目標について 12月某日 晴れ

来年の目標を立てる時期である。
去年立てた目標を振り返り、来年の目標を立てるのが年末の恒例行事であり、達成率は毎度のこと低いのであるが、これをやらずして新年を迎えてはいけないというような強迫観念もある。
2017年は何をするか。もう決めている。節約と摂生である。他にもいくつか目標はあるが、主軸はこの2つに決めている。
色々とお金関係の仕事をしているにも係わらず、実は私は節約というものに取り組んだことがない。どうりでお金が増えないわけである。
逆に言えば、そういうぬるい感覚でも残高が尽きなかったのは、周りの環境や人に恵まれているからである。私はつくづく運がいい。運が9割、能力1割で生きていることは昔から自覚しているが、それはそれでリスクが大きいので、そろそろ自力で何かをする。何をしようかと考えて、節約に至った。
摂生についても同じである。私は自分の健康を意識したことがない。健康的なことをやろうと思ったこともない。その結果が、現状のお酒とタバコと運動不足の日々である。
これもやっぱり運の話で、そういう低い意識でも病気1つしないのは、単に体が丈夫だからである。そして、そこに頼るのもやっぱりリスクが大きいので、少し変えてみる。子供らが大きくなるにつれて、多少は長生きしたいとか、ぶっ倒れて迷惑かけないようにしようという欲が出たというのもある。
節約と摂生は、言い換えれば、精神的ストレスと身体的ストレスの緩和である。私はほとんどストレスがない人生を過ごしているが、この際だからさらにゼロに近づけてやろうと思う。

片付けについて 10月某日 晴れ

仕事部屋を片付けた。
キッチンも片付けた。
理由は、とある仕事でお片づけの先生の家を訪ねる機会があり、単純に影響されたからである。
片付いている家と散らかっている家の根本的な違いは何か。モノの量である。それが今回あらためてわかった。
例えばうちの冷蔵庫の中は365日満杯である。それについて私は、4人家族なのだからこんなもんだろうと思ってきた。
しかし訪れた家も4人家族で、冷蔵庫の中はスカスカである。本当に必要なものしか入っていないから、食べ忘れたり、賞味期限が切れて廃棄するようなこともほぼないという。経済的である。
また、うちにはどこでもらってきたかわからない景品や粗品などが多い。街中で何かをタダで配っていると、私は根が貧乏症で現実も貧乏であるから、もらっておかないと損だと思ってしまう。だから、もらう。もらうからモノが増える。
しかし先生はもらわない。タダで手に入れたものには愛着が湧かず、放置されやすく、結果として家が散らかる原因になるからだという。その通りだ。
そういう話を聞きながら、暮らしぶりを若干でも変えられるように、まずは手近なところから片付けた。その結果、家の中はあらかた綺麗になった。キッチンの棚からは、コンビニや弁当屋でもらった割り箸が大量に出てきたので、先日から割り箸で飯を食っている。いつまで片付いた状態が続くかはわからんが、割り箸で食っているうちは続くだろう。
片付け意欲が高まっている時に、クローゼットと階段下と倉庫にも手をつけたいのだが、それをやるためには、徐々に溜まりつつある原稿も片付けなければならない。本来なら今日は、家を片付ける日ではなく仕事を片付ける予定であった。さて、どちらを優先するか。
家が片付いてスッキリすると気分が良い。
仕事が片付いてスッキリすることも、それなりには気分が良いが、仕事がなくて食えなくなりそうだという不安も生まれるかもしれない。ということで、明日も家を片付けることにする。

他人の損得について 10月某日 晴れ

ニュースを見ていて感じたことがある。
それは自分が損することよりも、他人が得することに対して反感・反発の気持ちを持つ人が多そうだということである。
例えば、配偶者控除の廃止が見送りになると、働いている女性が文句を言う。
健康ゴールド免許の案が出ると、不健康な人が文句を言う。
文句を言うのは自由であるが、自分以外の誰かが得していること、得しそうなことに、外野が文句を言う意味は何なのだろうか。文句を言って阻止できた時、多少の満足感はあるかもしれないが、自分が得するわけではない。
人のことなんだからどうでもいいじゃねえか、と私は思う。突き詰めればお金の話であり、金は天下の回りものともいうわけだから、誰かが得する時があれば、自分が得する機会もいずれ回ってくるのではないか。だから、放っておけばいいんだけど、そうはいかない人、何かひとこと言わなければ気が済まない人が多いのだろう。他人と比べる意識が強いのかもしれないし、自己憐憫なのかもしれない。そういう人の意見を熱心に集めるニュースの作り手も気の毒である。文句ばかり耳に入り、気が滅入りそうだ。
ドイツかどこかの調査で、皮肉屋な人ほど収入が低いというデータを見たことがある。同じようなデータが、他人の損得を気にする人についても出るのではないだろうか。理屈で考えれば、他人のことをどうこう言うために使う時間とか労力を、自分のスキルや知識を高めるために使った方が収入アップにも繋がりやすいはずだ。
決して偉そうなことを言える立場ではないが、これからもよりいっそう、他人のことには無関心を突き通していこうと思う。

手数について 10月某日 晴れ

(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)
指数だけ見ると10月は買い方の月だったらしい。
月初の225の始値は16566、月末が17425であるから、5%ほど上がっている。個別で考えると、買い方はだいたい10%くらい儲けていることになる。
特に何かが際立って上がった印象はないが、日銀が買ったりしていることもあって、じわじわ上がったのだろう。
そして私は何をやっていたかというと、例年のごとく年末に向けて仕事が増え、そこに時間をかけていたため手数が増やせず、しかも、17000が当面の天井だと思って軽い気持ちで売りポジを持ったため、担がれて損もしている。月単位では何とかプラスにはなったものの、新装開店のパチンコ屋でちょっとしか勝てなかったような虚しさを感じている。相変わらず下手くそである。
そういえばパチンコ屋の新装開店もかつてはよく狙ったものだが、記憶に残るほど買ったことはない。あの日はよく出た、よく勝ったというのは、たいてい普通の日の、イベントでもなんでもない台である。
そこに何か共通点があるのだとしたら、やっぱり重要なのは手数を増やすことである。普通の日のチャンスを取っていかないといけない。突き詰めると、もっとうまく時間管理しなければならないということである。
相場をやって、仕事をして、そこそこ家事をやるという暮らし方は、私はできると思っている。ただ、現実には手一杯になることが多く、3つのうち2つやると、残り1つが手薄か手つかずになる。例えば今は仕事と家事をしているから相場に手が出せていない。年末までに解決策を考えよう。

子ほめについて 9月某日 晴れ

我が子をほめるのは恥ずかしいことである。
それを承知であえてほめるのだが、チビは2歳にしてはよくしゃべる。単語こそ少ないが、しゃべりまクリスティである。人は言葉を使って考える(言葉が使えないと考えられない)から、チビは今のところ頭がいい。誰に似たか。私だろう。
一方のボウズは感受性が豊かだ。とある日曜日、テレビを見ているボウズがぐすぐす泣いていた。楽しい日曜日で、しかも大好きなジューオージャーを見ている状態で、何を泣くことがあろうか。理由を聞くと、敵だったやつが仲間になったことが嬉しく、感動して泣いてしまったのだという。人の気持ちを理解できるのは素晴らしことである。誰に似たか。私である。
こういう日常のすべてが、実は私の妄想だったら恐ろしい。そして、妄想ではないと断言できる明確な根拠もない。人は自分の意識の中で現実を理解するので、現実(だと自分が思っていること)が本当に現実なのかを証明する術がない。目の前に人がいるのは、自分が「そこに人がいる」と思っているからである。
ということは、すべてが私の妄想で、実は1人で買い物に行き、そこにいない子供に話しかけたり、1人で公園に行き、そこにいない子供とオヤツを食べたりしている可能性がまったくないということも証明できない。
そういう恐怖心は今まで感じたことがなかったが、最近よく感じるのは、今がいろいろな面で幸せであり、恵まれているからなのだろう。
物書き商売のようにコレという正解がない仕事をしていると、たまに確実なモノやコトを求めたくなる。それが例えば身の回りのモノだったり周りにいるヒトだったりするのだが、よく考えるとそれらも意識の中に存在しているわけだから、決して確実とは言えない。
現実と現実だと思っていることとを区別するには何が必要なのか。境界線はどこか。無邪気に遊んでいる子供らを見ながら、そういう難しいことを考えていたら、脳が処理できなかったようで寝オチしていた。
ふと気づくと、両隣でチビとボウズも寝ていた。
誰に似たか。言うまでもなかろう。

ピンポン営業について 9月某日 晴れ

少々イラ立つ。
唐突にやってくる押し売り(営業とも言う)とか集狂(宗教とも書く)の人が言う「玄関先までお願いします」というリクエストである。
当然ながらお断りだ。しかし、そのように言う人は割と多く、タチが悪い(諦めが悪い)場合、すぐ終わるとか、玄関先まで出られない理由は何かと聞いてくる。詳しい人がいたら教えて欲しい。これはマニュアルなのだろうか。
私は見た目が悪人で、無礼な野郎には遠慮なく飛び蹴りを食らわせるタイプだから断りかたで困ることはない。しかし、女性とか年寄りとか子供はどうやって断っているのだろうか。見ず知らずの人がやってきて、目的が何なのかもわからず、玄関を開けろと言われたら、普通は怖いだろう。なるほどそれが狙いなのかもしれない。つまり、玄関まで引っ張りだしたら後は押せば売れるという算段である。それは弱いものいじめだ。
訪問販売の法律には、販売のために相手を脅してはならず、自分が誰で、何の目的で勧誘しに来たのかも告げないとならないと書いてある(と思う)。そう考えると、玄関先まで呼び出そうとする営業・勧誘は非常にグレーだ。白ではなさそうだから警察を呼んでもいいのだけれど、黒でもなさそうだから関わらないのが最も良い。つまり居留守が最善である。ネットを使えば主体的にあらゆるものが買えて、あらゆる活動に参加できる時代において、わざわざ訪問販売を使う必要性もないだろう。
ちなみに完璧に居留守を決めこむと、本当に留守だと思われて後日またやってくる可能性がある。それなら、本当はいるんだけど、なんなら部屋の明かりとか音とか漏れてもいるんだけど、インターホンには出ないという「あえての居留守」の方が、やってきた人に「この家の人は出る気がねえ」と理解してもらえる。だから私は、ブラインド越しに誰か確認した時にたとえ目が合ったとしても、知らない人は無視する。いるけど出ないから帰ってください、というメッセージである。
そういうこと書くと「嫌な野郎だ」「冷たいやつだ」と思う人もいるだろう。私は見た目が悪人であるが、性格も悪人なんである。

ツイッターについて 9月某日 晴れ

ツイッターを始めてみた。
きっかけは、ある方に勧められたからで、ある方というのは3人いるので、正確にはある方々である。
最初に勧められたのは多分1年くらい前だ。「勧められたらとりあえず乗ってみる」が私の信条であるから、早速アカウントを作った。しかし、やり方がわからない。何がわからないのかも、よくわからない。
そういう場合はいったん退却するのも私の信条であるので、以来、半年ほど放置した。
次に勧められたのは今年の初めくらいだったと思う。何となくやり方も教えてもらい、わかりそうな気がしたので再挑戦する。しかし、やっぱりわからない。世の中のITリテラシーはこんなにも高いのか、と実感し、再度撤退した。言い訳として、少々仕事が立て込んだということも一応書いておく。
3人目は今年の夏の初めころだった。私は何事も、理由や動機が3つそろったときに全力投球することに決めているので、今回はわからないからといって逃げてはならない。
相変わらずチンプンカンプンであるが、どうにかツイートできる状態にまで成長した。しかも、リツイートなるものもできた(と思う)。
さて、今である。
矢印マークが返信で、リサイクルマークのような矢印がリツイートであることはわかっている。その横のハートは何か。わからないので触れない。悪意はないけど、ピンポンダッシュになりそうな気がして危ない。その横の点3つのやつは、勇気を持ってクリックした。しかし意味不明な用語が出てきたので慌てて閉じた。君子だから危うそうなところには近寄らない。それも信条である。
総じて言うと、使いこなすレベルにはほど遠いが、基本のキくらいはできているようなが気がするので、当面はこれで良いだろう。ちなみに、人のツイートを読むのはなかなか楽しい。もの書き商売をしている身ではあるが、私は発信者よりも受信者の性格なのだと思う。むしろ、コミュニケーションは嫌いで、のぞき見が好きなのである。

ものさしについて 9月某日 晴れ

人に求めるモラルが少々厳しすぎやしないか。
ファンキーな人とかゲスな人とか、詳細はよく知らないが、社会は彼らに厳しい。彼らの行為をあたかも非道いことであるかのように責める。
しかし、彼らはミュージシャンである。私の中のミュージシャンのイメージは、ツアーの行く先々で、日替わり女の子のファンと騒いでいる人たちだ。同じことが芸人という分野の人たちにも言えるだろう。音楽や芸の才能があるという点を除けば、彼らは単なるパーリーピーポーである。そういう人たちに高い節度とか品行方正さとか貞操観念を求めるということは、犬のような従順さを求めて猫を飼うということだろう。犬を飼いたい人に飼われる猫ほど気の毒なものはない。モラルの基準は、社会で共有されているようで、実は個人差がある。同じものさしで測ることができない場合もあるということだ。
ちなみに、わがままな猫という表現をたまに聞くが、それは「腹痛が痛い」に近い二重表現であると私は思っている。なぜなら、猫という言葉にわがままという要素が含まれているからである。何言ってんだこいつはと感じた人は、猫を犬のように育てられると信じている人かもしれない。
そういう人が社会の中で力を持つとどうなるか。「男だから」「お父さんだから」という理由で、私みたいなほぼ無職が日々働きに出なければならなくなる。ミュージシャンや芸人については実はどうでもよく、私が困るのはそこである。
地域内の人づき合いが減った、ご近所さんとの付き合いが希薄化しているという人がいるが、その原因は何か。例えば平日の昼間にコンビニをウロウロしている無職風の男(つまり私のような人)を怪訝な目で見る人が多いからだろう。プロファイリング的に同じ男の中で、おかしな奴もいる。それは事実だ。そういう男は徹底して排除した方が良い。
でも、おかしくない奴もいる。それも事実である。その違いは、1種類のものさしで測っても判別できない。自分のものさしを他人に当てようとする前に、他人がどういうものさしで生きているのか想像してみる方が先だろう。そもそも自分のものさしで人を測るということは、自分に自信があるということである。ほぼ無職の私が言うことではないが、私が見ている限り、世の中にそれだけ大きな自信を持つにふさわしい人はあまり多くないと思う。

原稿料の相場について 8月某日 晴れ

原稿料の相場は、あってないようなもんである。
いくらで引き受けても良いし、いくらに設定しても良い。自由競争なので、経済学で言うところの価格決定のメカニズムも基本的には機能する。
先日ふとした成り行きで、とある会社のライター募集案内を見た。その条件が割と衝撃的だった。要約するとこんな感じである。
対象はライター仕事を求めている人(ただし経験者)で、文字量は2000字ほど(原稿用紙換算で5枚)。作業は、執筆前の構成、執筆、修正だが、実際に依頼するかどうかを決めるために、自分で決めた架空のテーマで同程度の文字数の原稿をサンプルとして提出する。自己PRと、依頼を受けたいという意気込みも書く。オーディションのようなものと考えたらわかりやすいかもしれない。それが選考をパスしたところで正式に依頼があり、前述の作業へ進んでいく流れであるようだ。
さて、ここまでやって、いくらになるか。
本依頼の原稿1本につき4000円であるそうだ。思わず二度見してしまった。
これを見て思ったことが2つある。1つは、自分が日々やっている仕事の単価が意外と高い(というか、高いところまで来ていた)ということだ。それはおそらく十数年の積み重ねによるところが大きく、普段はあまり意識しないが、キャリアは大事だと改めて感じる。
もう1つは、仮にこれくらいの条件で引き受けるライターが世の中にたくさんいるのだとすれば、私は単価(自分の)を上げる努力に集中しなければならず、それができなければ引退するしかないということである。引退とはつまりキャリアを捨てることであり、十数年の積み重ねを大事にすることと正反対の選択だ。
いつか、どこかのタイミングで仕事のやり方やスタイルを抜本的に変えなければならないだろうと思っていて、そのための準備もしたいと思ってはいたが、その時期は意外と近いのかもしれない。何を、どう変えれば良いか。単価アップに繋がる専門性とか希少性をどうするか。
そんなことをぼんやりと考えながらギャンブルトレードに興じていたら、秒速で4000円損した。
オーディション原稿でも書いて補填しよう(しない)。

打合せについて 8月某日 晴れ

私は会社員ではないため、打合せや会議に出る機会が比較的少ない。
それはフリーランスになってよかったと感じる数少ない利点の1つである。私は打合せが嫌いである。会議も嫌いだ。生産性が低いというのが理由である。率直にいうと、効率重視で時間主義の私にとって、密度が薄い話し合いのために2時間、3時間という時間を取られる苦痛が耐え難い。世の中には効率的でエキサイティングな会議を行っている会社もあるのかもしれないが、残念なことに私はそのような会議を見たことがない。自分の日々の仕事については大変だとも辛いとも嫌だとも思わないが、打合せに行く時は気分がよどむ。そして、それもギャランティの一部なのだから仕方あるまいと割り切って行くと、だいたい想定以上にイライラすることになるのである。
例えば、打合せの開始時間に遅れてくる人がいる。こういう人はどういう了見なのだろうか。時間が守れない人に良い仕事ができるとは思えない。案の定、何の話をしているかキャッチアップするために余計な時間を奪い、あるいは、何の話をしているかわからないので黙って座って過ごす。目先のやるべきことがたくさんあるのに、打合せに参加しなければならない俺って辛い。きっとそんなことを考えている。それはこっちのセリフである。
または、打合せの間、ほぼ何も発言しない人もいる。こういう人の思考回路も理解不能だ。アテンドすることが仕事である秘書さんなどならまだしも、打ち合わせの一員として呼ばれているのに何もしゃべらないなら、いなくて良い。休憩してんじゃねえ、と、私は密かにイライラする。
そうかと思えば、議題の本筋とかけ離れた話を延々とする人もいる。雑談から妙案が生まれるという幻想を信じているタイプで、本来なら30分で終わる話が2時間に延びるのはこういう人のせいである。雑談してんじゃねえ、と、私はやはりイライラする。しかも、本気で雑談が大事だと信じているからタチが悪い。集狂の人と同じである。どこにも着地しない無駄話を何の疑問も持たずに続ける様子を見つつ、誰かこいつの後頭部を木づちで殴って目を覚ましてやってくれねえか、と思う。
さて、ひと通り悪態をついたところで出かけることとしよう。
どうか今日の打合せが1時間ポッキリで終わりますように。

夏バテについて 8月某日 晴れ

急にバテた。
夏に体調を崩すことはほとんどないのだが、とにかくダルく、関節と腹が痛い。これがおそらく夏バテというものなのだろう。夏バテがどういう病気かは知らず、そもそも病気の一種なのかもわからないが、とりあえず葛根湯を飲んで横になることにした。
日が高いうちから横になるのは久しぶりである。ただ、明るい時間帯に眠れるわけではないので、夜な夜なこっそり起きて、ビールを飲んで寝なおす。
医学的根拠がない極めて個人的な経験則として、体調が悪い時はビールを飲んで寝れば大抵回復する。コーラでもいいのだが、アルコールが入っているためビールのほうが眠れる。あくまでも個人の感想なので安易に真似してほしくはないが、なんとなく体調が悪い時には試してみるともしかしたら効果があるかもしれない(自己責任でどうぞ)。
実際、今回も効いた。ビールの効果かどうかは不明だが、目が覚めたらダルさがほとんど消えていた。目覚めも良い。普段はボウズが最も早起きだが、今日は十分に寝たこともあって私が一番である。朝の4時から急いでやることも特にない。
とりあえず切らしているタバコを買いにコンビニまで行く。公園で一服しつつ、ボウズのためにポケモンゴの球を補給しつつ、イーブイを捕まえて家に戻った。いつも通りである。今日も健康的にダメ人間的生活を満喫することにしよう。
ポケモンゴのレベルが上がる一方、自分の人として、大人として、社会人として、男としてのレベルは下がっている気がするが、それはそれである。
皆さんも夏場の体調管理にはご注意ください。

LINEについて 8月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

LINE相場とはなんだったのか。
上場するぞするぞと言われて数年が経ち、大型IPOだと騒がれ、ようやく上場したら非常に短命であった。事前の期待が大きすぎたり期待させる期間が長すぎたりするとそうなるよ、という典型かもしれない。関連銘柄のアドウェイがウェイウェイ言っている時にちょっとだけ買ったが、深追いしなくてよかった。IPO(関連)は勉強不足なので基本的に触ってはならず、そもそも私はLINEをほとんど使わず、何が、どうすごいのかよくわからないので、なおさら触ってはいけない。さらに言うと、あくまで個人的見解だが、親会社が韓国系の外資だというのもお金が回ってこない一因のような気がする。その点で、LINEはヤフーと似ているようで違う。少々でも政治的な駆け引きがありそうなものも、触らぬ神に祟りなしだ。
そういう相場を華麗にスルーできたラッキーなある日、ネットのルータとかを交換する人(作業員・兼・営業マン)がやってきた。向こうは商売だから、作業ついでに他のいろんなサービスを勧める。例えばケーブルテレビのオプションはどうか(観ねえよ)とか、タブレットの契約はどうか(持ってるし)とかである。その中にライン専用スマホなるものがあった。そういうものがあることを初めて知った。
その人はいう。
「今時の20代は全員ラインで連絡を取ってます」
「そういう人にはこれが絶対いいんです」。
20代に人気がある(とその人が言う)モノを、20代ではない私に勧めるのもどうかと思うのだが、それ以前の問題として「全員」とか「絶対」という言葉を軽々しく使うのはどうなのか。断言することによって生じる責任なんてものについて、この人はきっと考えないのだろうと感じつつ、鼻をほじりながら丁重にお断り申し上げた次第である。
ライン(株のほうね)についても、絶対上がるとか全員が注目しているなんて言っていた人がいた。郵政上場の時よりは罪が軽いかもしれないが、不確実な物をあたかも確実なものであるかのように伝えることは罪であろう。
断言は胡散臭く、主観のみの断言は気持ち悪い。
そもそも断言できることは多くない。
ちなみに私は今、「そろそろリバウンドするにちがいない」と断言したライン株を絶賛ホールド中である。断言した相手が自分だけであるから罪はないと思うが、全然リバウンドしないので悶絶含み損中である。

選挙について 7月某日 晴れ

18歳から選挙権である。
もともと参院選はタレント上がりの人が多く、若い人ほど「政治はわからないけどこの人はテレビで見たことあるし」という理由で投票しそうな気がするから、タレントっぽい人に有利な制度になるのだろう。
ところで、自民党以外の党の候補者は、自民がどうこう、安倍さんがどうこうという批判を一生懸命やりたいのはわかるのだが、結局のところ、君は何党の誰なの? と思われていることに気づいていないのだろうか。
自民と安倍さんの名前を連呼して批判しても、自分の名前を言わなければ敵の名前のアピールにしかならない。悪評も評なりで、ネガキャンもキャンである。
それでいいならいいけども、そもそも私は誰が勝とうが構わないけども、立候補するのは賢い人たちのはずだから、もっと賢くやればいいのにと思う。それくらいの賢さは18歳でも持ち合わせているのではないか。
そういう話をある先生としていたら、そういえば最近、街中でワーワー主張する候補者が減ったように感じるとおっしゃっていた。
確かにそうかもしれない。うるさいと思われると得票数が減るリスクがある。だから静かに立ち回る。それは住民としてはありがたいのだが、そのせいで主張も全然わからない。
でも、それでは選べないはずだから、いっそのこと薄給または無給を条件としてやりたい人を全員当選させちゃえばいいのに、と、やりたくない人(私)は思う。あるいは裁判員裁判の考え方で、選管あたりが無作為に選ぶという方法もある。あるいは徴兵制の考え方で、一定の条件に達した人が強制的に議員になるという方法もある。
民主主義って何なのだろうか。有権者の権利って何なのだろう。政治学科を中退した私にはよくわからないので、今度18歳の人に教えてもらうことにしよう。どこかにかわいい女子大生はいないだろうか。

(追記)
まだやんの?
私が住む地域では月末にもう1つ選挙がある。トレンディ俳優や元キャスターが出てきたり、まだいたの? と思う元大臣が出てきたり、やる気がある人たちがいっぱいだ。地位、名誉、お金が手に入り、人のお金で温泉で遊べたりもする魅力ある仕事だから、やりたい人がいっぱい出てくるのも頷ける。
誰がやっても能力的にはほぼ変わらないだろうと割と本気で思っている。だから、うちのチビが可愛がっているネネちゃんというお人形を知事席に置いておけばいいのではないか。おもちゃだから無給で無休だし、何よりも悪いことはしない。そういう意味で、不倫奨励条例を作ってくれるかもしれない俳優は無害なのだが、どうやら出ないことにしたようだ。選挙は単純な多数決で勝者が総取りするわけだから(多分)、やり方によって勝てたかもしれないだけに残念である。

ポケモンゴについて 7月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

ボウズは割と気に入っているらしい。
ポケモンゴで楽しく遊んでいる様子が見られるのは私としても嬉しいが、幼稚園が夏休みで、朝晩、近所の散策に付き合わされることになったのは誤算である。おかげでかなり日に焼けた。レア度とか育て方についてもボウズは調べられないので、代わりにやっていたら詳しくなった。たまに道端でハトを見て、またポッポか、と思ってしまう程度には脳が侵食されている。
でも、課金するかというと、しないだろう。ボウズにはバトルは難しいし、かといってモンスターをコンプリートするには先が長すぎるし、DLして1週間くらいだが、目に見えてボウズの興味が薄れている。アメリカでは1週間で人気がピークアウトしたという記事があるが(アクティブユーザー、DL数、検索数などから判断)、日本も同じような道を辿りそうな雰囲気があり、株価のピークアウトはさらに早かった。意図はわからないが、N社が自ら人気の恩恵は限定的と発表した影響は大きい。IRをガソリンにして株価を上げるのが流行っている中で、老舗のやることはよく分からない。
何れにしても、注目度が高まるのはギャンブルトレードとしては良いことなので、関連銘柄と呼ばれる軽いやつを売ったり買ったりしていたら、絶望的だと思っていた今月の収支がほんのン万円だけプラスになった。ありがとうございます。多少の恩は感じているので、ボウズの興味が完全に消えるまで、もう少し遊ぼうと思う(課金はしないけど)。今月もちょこまか、いろいろと売買したが、特にいいことはなく、見せ場もなく、アホになってポケモンゴに突っ込めばよかったなあという後悔くらいしかない。アホになる必要性は、今やピークの逆テンバガーになりつつある神の手の時に痛感したのだが、生かせなかった反省が大きい。チキンな性格ゆえ、そういう相場が基本的に苦手なのかもしれん。

鬼の需要について 7月某日 晴れ

ある日、ボウズに聞かれた。
「鬼って悪い子を食べるんだよね」。そうである。早く寝ない子や意地悪する子は鬼に食われる。そういう設定だ。
「悪い子は食べられても仕方ないよね」。まあ、仕方がないだろう。悪いわけだから。
「じゃあさ、鬼はさ、悪い子をいなくするんだからさ、いいやつなんじゃないの?」。そう聞かれて考え込んでしまった。鬼ってなんなんだ。もしかしたら、ある意味では警察のような世直しする必要悪なのではないだろうか。
例えばおっかない母親や上司や教師や刑事は、鬼ババ、鬼上司、鬼教師、鬼刑事などと呼ばれて嫌われる。嫌われたくないので、今どきそういう存在になりたいと思う人は少ない。
しかし、鬼が必要悪なのだとしたら、悪だろうと必要なのだから需要がある。鬼になりたくない人が増えているとしたら、あえて逆張りで鬼(鬼ババや鬼教師)になることによって需要を独り占めである。
周囲はこぞって言うだろう。悪いことすると伊達さんに怒られるよ。いい子にしているかどうか伊達さんが見ているよ。
悪役を買って出ることにより、近所の「叱れない大人たち」からはたいそう感謝されるはずだ。自分の顔に鬼のツノをつけたグッズとかシールなんか作ってひともうけできるかもしれない。あらゆる需要がすでに満たされている現在、供給不足の状態で放置されているブルーオーシャンは少ない。嫌われても別に構わないという人にとっては、この需要はチャンスではないか。
でも、じゃあ自分がやるかというと、私はやらない。理由は、嫌われたくないという心理的な壁を壊せないチキンだからである。
それは多分、あらゆる状況(仕事とか人間関係とか)に共通する課題で、レッドオーシャンから全く抜け出せないのは鬼になる覚悟が持てないからなのだろう。この下半期は、そこを目標の1つにしてみようか。ン十年かけて培ってきた仏の性格を、短期で鬼にできる気はしないけれども。

常識について 7月某日 晴れ

家の近所の公園は、夏になると噴水のところで水遊びができる。
結構でかい噴水の池で、子供らで大にぎわいである。拙宅のボウズも水着に着替えて何度か遊びに行ったことがある。
先日その脇を通りかかったところ、推定40歳くらいの水着のおっさんが、子供(自分の子だと思う)と一緒に楽しく水遊びしていた。その脇には母親(おっさんの妻)らしき人もいて、微笑ましくその光景を見ていた。
個人的な感想ではあるのだが、おっさんが水着で公共の場で遊ぶというのは、それを容認している妻らしき人も含めて非常識であると思う。水着になっているのが母親だった場合も同じだ。仮にカミさんが水着になり、「ちょっとボウズを連れて公園で遊んでくる」と言ったとしたら、私は羽交い締めにするか土下座するかしてやめさせるだろう。それが私が考える常識なのだが、世間一般の常識と合っているかは自信がない。
常識というのは、特に私のように引きこもっているか狭い範囲でしか活動していない人にとって、世間様とのすり合わせが難しいものだ。ただ、会社勤めしていれば常識人かというとそんなこともなく、社や部や家庭といった狭いグループの常識を、あたかも一般常識であるかのように捉えている非常識な人もいる。その典型が公園の家族であり、商売の世界では、これがうちの社のやり方なので、と堂々と言い切る人も近からず遠からずである。なぜなら、我が家の常識、うちの社の常識などと常識が通用する範囲を限定することにより、その常識は、世間一般に広く理解・認識されなければならないという条件を満たしていないことになるからである。そう考えると、常識という言葉は、使い勝手が良くて乱用しがちなのだが、実は非常に使いどころが難しい。あまり使わないようにしたい。使うやつの言葉も疑ってかかるようにしよう。

世界のつながりについて 6月某日 晴れ

そういう言い方はないんじゃないか。
雲のない晴れた朝。空から死が落ちてきて世界が変わった。death fell from the sky。印象として雷みたいな自然のものが降りかかってきたような偶然の悲劇のように読める。
でも、そうじゃないじゃん。
具体的なdeathを意思を持ってfallしたやつがいるわけだからね。
それは71年前の出来事であり、生まれてもいなかった大統領には何も責任はないと思うが、さらに言えばこの言い方についてもスピーチライターが書いたものだとも思うが、でもやっぱり、71年前を知っている人やその周りの人が、本当に求めていた言葉ではなかったように思う。
私は当事者ではないので、遠いところからそんな感想を持っただけに過ぎない。スピーチの原稿を読んだのも実はついさきほどである。
そこに一定の距離があるのは、東京と広島という物理的な距離のせいかもしれないし、71年という時間のせいかもしれないし、あるいは平和な日常と戦争との差が大きすぎるからかもしれない。多分、その全てのせいである。日本人である私がそんな程度なのだから、アメリカ人から見た距離はもっと遠い。
遠いからきっと「そういう言い方」なんだろうなと考え、納得した。
インターネットがつながり、経済がつながり、世界は小さくなったと言われる。ただ、部分的にはそうであっても、表面的にはコミュニケーションが活性化されていても、精神的な部分はつながっていない。心理的な距離は遠い。
we are the worldは、未だ理想であるということか。
今日はマイケル・ジャクソンの命日である。

逆転について 6月某日 雨
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

板に「サ」が出た。
ついにというか、ようやくというか、ここでサーキットブレーカーである。
残留するという大方の見方がまさかの逆転になったわけだから、ここまで下げても不思議ではない。
逆張り好きの私としては、こういう時こそ離脱に張っておかなければならない。それが唯一のエッジでもあるし、それをやらなきゃ勝てるチャンスはないとも思う。
でも、非常に不思議なことなのだが、ギリギリまで引っ張ってきた売り玉をなぜか前場で決済し、スケベ心でドル/円にも手を出し(もちろんドル買い)、挙句の果てに前場で安値更新していた幾つかの銘柄を買ってしまった。
なんでだろうかと考えてみると、残留優勢という報道と、前夜のNYを信じすぎてしまったからである。朝方106円くらいまで伸びたドル円も気になっていた。その時点で、目線は残留ありきの買い豚であった。考え方が凝り固まっていた。非常に頭が硬い。そうなったらもう負けて当然だ。
CBと、軽い銘柄のストップ安が続出したところで「これって…」と気づいてからいくらかリバウンドは取れたものの、焼け石に水である。
鉄火場では為替が新興のように動く。新興はもはや半丁博打である。
今月の負けはすでに先日の個人的バブルの崩壊で確定しており、この下落もギャンブルで張ったのだからダメ押しの大負けとなって構わないのだが、得意なはずだったギャンブルにおいても何かが鈍っていることを痛感する日であった。
さて週明けは多少のリバウンドがあるだろうから、そこをセコセコと狙うとして、その先はどうしようか。
昨年の似たような状況の時は、このあたりで買い持ちを増やしていったらもうかった。でも、今回は戻るかどうか微妙だ。わからん。良さそうなアイデアも浮かばない。
そもそも、ここであえて離脱するとは、イギリスはよほど移民が嫌なのだろうか。多様性が大事と考える私としては、それは悪い意味での画一性としか思えず、その理由もよくわからない。
統計によると離脱派は高齢者に多い。若者はむしろ残留派が多い。こういう構図は、島国だからという特性も含めて日本と似ているように感じる。人口減の日本でも、いずれ移民の是非みたいなところが選挙の論点になるかもしれないから、離脱したイギリスがこれからどうなるか観察しておく必要性は高いと思う。
個人的には何だかんだ理由をつけて結局EUに戻ると思っている。あるいは、戻ろうとするか、戻った方がいいんじゃねえの、という議論が出そうな気がする。仮に復帰と現状維持(離脱)でもう1回選挙をするのであれば、次こそちゃんと報道の予想の逆をいこうと思う。
その時に備えて、とりあえず損失補填のために仕事をしよう。

終わりについて 6月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

バブルは終わりである。
終わるからバブルなのであり、終わらなければバブルではないのだから「バブルが終わる」という表現はなんかおかしい気もする。まあ、そんなことはどうでも良い。着目すべきなのは年初から続いてきた約半年の個人的バブルが予定通り終わったということである。
予兆はあった。例えば決算ギャンブルで2戦2敗だったことである。危ないかなあとは思ったら、やっぱり危なかった。
ブランもそーせいも持たず、アキュもジグも触っていないので、上には乗れず、下だけ付き合わされたことで焦ったのが原因である。よく「第二のナントカ」みたいなことを言うが、相場に再現性はない。そのことを知っているはずだったのに、実はわかってなかった。
おかげで年初からコツコツと積み上げてきたものが急スピードで崩壊した。お金はすぐになくなる。
唯一良かったのは、新しい方法を試してみたいと思っていて、その可能性をプラス域で試せたことである。結果としてはイマイチ使えないことがわかったのだが「使えない」とわかるのは大きい。そういう実験は余裕があるときしかできない。余裕がある時ほど実験しなければいけないと、以前会った社長さんもおっしゃっていた。基本的な取り組み方としてはよしとしよう。つまり、そこはよかったが、それ以外はすべてダメということである。
この半年はなんだったのかと考えると先に進めないので、自分のイニシャルでもあるN字をイメージして回復を目指したい。逆風時のメンタルは割と強い。
ただ、N字にする自信は結構あるが、その後、M字になりそうな気もしている。

別れについて 6月某日 雨

寂しいものである。
長いこと側にいた心の友(猫)が旅立った。18年の大往生であった。
猫かよ、と思う人も居るんだろうけれど、18年といえばカミさんとの付き合いよりも長く、私の人生の半分くらいに相当する。あまりに長い時間一緒だったので空気のような存在でもあったのだが、やはりいなくなると寂しいものだ。エサ台を片付け、トイレを片付けたら、家の中がやけに広くなった。これからの季節は抜け毛が増えるので朝晩の掃除機がけが日課だったが、それももう必要ない。掃除機をかけたら、どこにも銀色の毛は見当たらなくなった。
昔を知る人に「まだ生きてんのかよ」と言われるくらい長生きするんじゃねえかとも思ったが、やはり年には勝てない。
なんか調子悪そうだなと思ったら急激に痩せた。1週間後にはほとんど食べなくなり、歩かなくなった。寝しなに玄関の戸締りをしつつ「おやすみ」と声をかけて脇を通ったら、珍しく小さい声で鳴いた。翌朝はいよいよ動けなくなっていて、その数時間後に私の目の前で旅立った。
また会おうぜ。火葬場で送り出す時に、冷たい手を握ってそう伝えた。
会えるはずはなく、私は生まれ変わりとかも信じない。でも、わりと本心でそう思ったのはやっぱり寂しかったからなのだろう。
私はあの世とか天国とかも信じないタチだが、先にあっちにいった兄貴と仲良く遊んでくれと、わりと本心でそう願っている。
一緒にいてくれてありがとうございました。
ボウズやチビの乱暴で雑な遊びに、嫌な顔見せず、付き合ってくれてありがとうございました。
道で猫を見かけたら、君のことをたまに思い出すよ。

自己評価について 5月某日 晴れ

自分を一言で表すとしたら、どんな言葉で表現しますか。
哲学みたいな質問を投げられ、とっさに「適当」と答えた。あれこれ考えることなくそう答えたのだから、私は無意識で自分が適当だと思っているのだろう。あるいは適当に生きたいという願望がある。
実際、私は適当に働き、適当に遊んでいる。ならば、適当を極めようと思っているかというと、そういうわけでもない。そこも適当だ。
そういう人生でいいのか。いいじゃないか。適当だからそう思う。気合い入れてやらなければならない時もあるのだろうけれど、常にフルスロットルでは疲れるだろう。ストレスが溜まりそうだし、過労死しかねない。
だから私は何事にも本気にならない。なるとしても、人生で2回くらいだけにしようと思っている。我ながら非道いことを書いている気もするが、それくらい気と手を抜いたほうがいいんじゃねえか。
他人は私をどう見ているのだろう。割と真面目と思っているのではないか。イイ人やデキル人と見られることも多い(ような気がする)。人の印象は表面的な部分に大きく影響される。
ありがたいことではあるのだがハードルが上がると色々とやりづらいので、実際はそんなことはない、ということをここでひっそりと告白しておこう。
私は自分のことを、人間としてダメではないと思っている。
でも、ダメ人間ではある。
その境界線のギリギリのところで、適当に生きているし、適当に生きていたい。

ゴールデンについて 5月某日 晴れ

(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)
世の中がゴールデンな日々を過ごしている間に、勤勉な私はコツコツと仕事に励み、抱えている仕事が残り1つにまで減った。
あとちょっとで完全フリーなフリーランスである。
それを世間では無職ともいう。
無職になると正常な人は危機感とか不安で潰されそうになるのだろうけれど、私は正常ではなく、むしろ無職で暮らすことを夢見るダメ人間である。
そしてダメ人間は暇つぶしのギャンブルトレードに興じる。
まずは保険の売りポジを手放し、上に行きたがっている(ように見える)やつを握る。あとはGW明けで爆発するはずの世の中の「買いたい、買いたい」エネルギーに任せる。
みんな買いたいんだろう。私はもう買った。結構買い込んだ。あと追いのみんなが持ち上げてくれるのを待ちつつ、明後日くらいにしれっと手放す。
なんて簡単なんだろうか。ゴールデン、ゴールド、金、儲かる、という連想が頭の中に自然と浮かぶ。こんな簡単なことで今まで損してきた自分が信じられない。
その結果がどうなったのかというと、当然なんだろうけれど、お金が減った。
どこがどう間違っていたのかわかっていないが、保険の売りポジを薄利で放したところから違っていたようだ。つまり最初から違う。復興グリーンジャンボでも買った方が良かった。
GW明けって辛いよね。世の中の人は言う。
その辛さが、GWを満喫していない人にも降りかかってくるものだとは知らなかった。無職で暮らす人生は夢のまた夢である。

能力について 5月某日 晴れ

パフォーマンスはどうやって決まるか。
いろんな説や論や考え方があるが、私は、適正と環境と努力の掛け算だと思っている。
適正が大事なのは言うまでもないだろう。これは遺伝的なものも含む。誰もがイチローになれるわけではない。適正が高い方が良い。ただ、それが全てでもない。
遺伝が全てでないとすれば、何が影響するか。環境である。遺伝的に見て同じくらい適正がある子供でも、育ってきた環境や今置かれている環境がが違えばパフォーマンスの差は出る(と思う)。
そして、努力である。適正があって環境が素晴らしくても、当人が努力しなければパフォーマンスは伸びない。3つの要素の掛け算だから、努力がゼロなら答えもゼロだ。努力に勝る天才なしという論も、努力ではどうにもできないことがあるという現実も、主張としては正反対のようで、掛け算だと考えれば説明がつく。
それを踏まえた上で、さて現状である。
就職したり転職したり、あるいは部署が変わったりした時に、ふと自分には能力がないんじゃないかと悩むことがある。俺には向いていない。やめちまえ。そう判断するのは簡単である。
でも、自分に適正がないとは限らない。環境が不十分だったり、努力が足りないだけかもしれない。環境は変えられるし、努力もできる。
すでに十分な努力をしてるのだとしたら、努力のベクトルがズレているのかもしれない。それも適正や環境に目を向ければ修正できるのではないか。
なんだかうまくいかないなあと感じた時は、一旦冷静になって適正、環境、努力について考えてみるといいと思う。私はそうやっているので、まあまあ適正がある(と自分で思っている)ことを、現状として最善の環境の中で、適度に努力してやっている。いまいちぶっ飛んだ成果が出ないのは全力で努力していないせいであることも分かっている。あとはやるかどうかである。

外飲みについて 5月某日 晴れ

実に久しぶりに外で酒を飲んだ。
私は付き合いが悪く、出不精なので、つまりコミュ障の気があるニート気質なので、最後に飲んだのがいつかというと、思い出せないくらい昔である。多分、2年ぶりくらいだと思う。
そんな私がノコノコと街へ出かけ、一緒に飲んだ相手は同級生(男)である。もしかしたら最後に飲んだのは奴とだったかもしれん。飲んで、他愛のないことを話して、笑う。厳密にはもうちょっと別のとこへも行っているわけだが、まあそれはいい。飲んでいる数時間の過ごし方は2年前と同じであり、20年前とも同じである。自分らを取り巻く環境はほぼ全てといって良いほど劇的に変わっているわけだが、関係性は変わらない。同級生は、いつも同級生である。当たり前のことだが、不思議でもある。例えば夫婦という関係性は離婚しない限り変わらないが、2年前とは大きく変わっていたりする。親子しかり、兄弟しかり。
どこで何をしているかわからなくても、どこかでソイツらしくやっているのだろうと思える人。余計な心配はしないし、成功したとしても嫉妬心が生まれず、むしろ素直に喜べる。そう考えると、同級生はその他の友人ともちょっと違った存在ではないか。
ただ、すべての同級生と付き合いが続くわけではない。その条件はなんなのだろうと考えたところ、経済状態、健康状態、子供の3つなのだと思う。つまりKKKである。カルトの話ではない。
経済状態はお金のことで、手持ちがないと飲めないし、飲みたいという気にもならない。健康は、体はもちろんだが心も含む。オサーンにとって重要な話題であり、関心が高いファクターだから、飲んだり遊んだりする上で大事である。子供は、いるかどうかということも含めて、すくすく育っているかという点も重要だろう。家で子供が暴れている時、病気している時に、父親としてちょっと飲んでくるよとは言えない。
そう考えると私は平和である。順風満帆と言っても良い。KKKに感謝である。もちろん、カルトの話ではない。
誰のおかげか。お金は自分、健康は健康体に産んでくれた親、子供については子供らとカミさんのおかげである。つまり、私の人生の3分の2は周りの人に支えられている。
しかし、私が周りの人たちの人生を3分の2くらいを支えているかというと、全くそんなことはない。計算が合わない。
いよいよというかそろそろというか、人のために何かしなくてはいけないと割と真剣に考えているところである。コミュ障でニートのオサーンにだって、できることはきっと何かあるだろう。あると信じたい。

小休止について 4月某日 晴れ

ギャンブルトレードのごく一部を残して清算。
伸びそうなものをいくつか持っているのだけど、仮に上がっても今の気分では喜べない。ならば、今やる必要はないだろう。
こういうメンタルの弱さが自分の欠点だと思う。
しかし、自分の場合は遊びなのだから、それもいいじゃないか。
熊本の皆さん、九州の皆さん、頑張ってください。
オメエに言われなくても頑張ってるよ、と言われるだろうが、
被害と影響が少しでも小さく収まることを祈っています。

IoTについて 4月某日 晴れ

IoTに関する記事にちょこっとだけ関わった。
こういうテーマものは重なることが多く、あっちの会社でもIoT関連、こっちの記事でもIoT関連という話になる。今はA社の社内報で技術関連、B社のサイトで導入ノウハウ等、C社のサイトで関連商品の紹介記事をやっている。D社のAI関連の原稿も関連がないわけではない。
日本では去年がIoT元年と言われているので、これから導入例は増えていくのだろう。構想としては過去に何度も聞いたことがあるが、現実味が増すといよいよ壮大な構想である。
技術的にモノ同士が結べるなら、あとは需要がどこにあるかである。高齢者とか子供の見守りとか、安全・安心と結びつくかどうかがカギなのだろうとシロートは思う。国内では人口が減っていて、少子高齢化が進んでいる。IoTはそういう状況の中で労働力確保につながるわけだが、見方を変えると、少子化と高齢化が見守りシステムなどの需要を生み出している。
人と人のつながりが家族であるかどうかを問わず薄れてきていると言われる中で、IoTのような結ぶ技術が発達すると、つながりはどう変化するのだろうか。
メールが普及した時は、顔を見ず、声を聞かずにコミュニケーションと言えるのかと言う人が現れた。SNSの普及では友達関係の稀薄化だと主張する人が現れた。IoTはどうなるか。見守られる人のプライバシーがどうこうという人が現れそうだ。機械に仕事を奪われるという人も現れそうだし、すでにいそうな気がする。
移動手段が馬車から車に変わった時、馬の世話をする仕事は減った。しかし、代わりに車を作ったり修理する仕事が生まれた。仕事とはそういうもので、何かがなくなると、何かが生まれる。車のせいで交通事故が増えたじゃないか、馬車のほうがよかったじゃないかという主張は、やっぱり通らないだろう。そういう視点で変化や反応を見てみることが、変化に対して柔軟な人かどうかを見る1つの基準になりそうな気がしている。

うるさい人について 4月某日 晴れ

子供よりも大人のほうが優れている。
そういう認識の人は多いが、私は全く逆である。知識や力があり、あれこれうまくできるという点では大人のほうが優れているかもしれない。しかし、子供には時間がある。時間は可能性と言い換えても良い。能力、知識、技術、お金、心の安らぎに至るまで、あらゆるものは時間と交換でき、解決できる。時間主義者の私はそれが最も重要だと思う。だから、何物よりも優れた資産家が子供だと思う。
保育園が嫌だ。うるさくなる。近くに造らないでくれ。そういう人がいるらしい。サワリを聞いただけでイラッとするニュースだから詳細は掘り下げないが(私の今年の目標はイライラしないことである)、それはつまり子供の可能性を邪魔し、下手すると潰すことだと私は認識している。
昨日まで何の問題もなく使っていた道が、急に狭いということになり、危ないということになり、だからここに保育園を作ってはいけないという主張につながる。そこにも、知識や力があり、あれこれうまく言える大人の特徴があらわれている。理由はいくつでも後付けできるものだ。やるかどうかという肝心の部分ではなく、やらないと決めた上で理由を探しているのだから、後付けの理由に耳を傾ける必要はないはずである。
残念なのは、保育園がその理由を聞いてしまい、周辺の協力が得られないと考えてしまったことである。反対する人は騒ぐが、賛成している人とどっちでもいい人は騒がない。本来は両方の声を聞かないとやるかどうかという肝心の部分は議論できず判断できないのだが、騒いだものが「勝ち」になった。確かに近所に子供が増えるとうるさいかもしれない。でも、本当にうるさいのは誰だろう。私としては、後付けの理由を並べ立ててダメだとかいらないと騒ぐ人のほうが、うるさい。

老いについて 4月某日 晴れ

老化が著しい。
体型、体調、体力は変わらないのだけど、問題はパーツである。具体的には涙腺であり白髪である。
3月は震災関連の報道が多いので、ぼーっとニュースを見ているだけで涙腺が危ない。個人的な思いが強いこともあるのだけれど、数年前よりも明らかに涙もろい。先日は一人晩酌をしながら感動のストーリーを泣かずに観られたらお金あげますという内容の番組を暇つぶしに観ていて、泣きすぎて疲れた。拙宅はカミさんと子供たちが早く寝るので、幸いなことに無様な姿はさらさずに済んだ。万が一見られたとしたらカミさんは破産を心配し、子供たちはトラウマになるだろう。私は家族の前で泣いたことがない。
白髪については、結婚した当初は1、2本の白髪を見つける度にカミさんに切ってもらっていた。つまり黒髪が圧倒的多数で、白髪に市民権はなかった。しかし今はどうか。白髪勢力は急激に存在感を増している。もはやこっそりカットできるレベルではなく、切ったらハゲたと思われるレベルである。そしていよいよ染めるかどうか迷っている。
老いるのは構わない。老いない人も死なない人もいないからである。それは頭ではわかっている。ただ、自分が老いることには戸惑う。老いていく自分、老いた時の自分が想像つかないのは、何十年も生きていながら、自分のことがまだよくわかっていないということだろう。
かつて同じ年の友人(男性、既婚者、子持ち)が、ああデートしてえと飲みながらこぼしていた。何を言ってんだこいつは、とその時は思ったが、彼はきっと、精神的に自分が老いていることに危機感を持っていたのだと思う。つまり、誰かを好きになることに心が踊らなくなっている自分をどうにか変えたいと思っていた。その手段がデートだったわけである。
その点で、私の心はだいぶ老いている。好奇心がなくなった時が老いの始まりだとよく言われる通り、涙腺と白髪と言う表面的な老化よりだいぶ前に、私の老化は始まっていたらしい。
まだ色々とやりたいことはある(はず)である。涙腺については諦め、白髪は染めてどうにかするとして、まずは心の老いを止めるために、やりたいことのリストを書いてみることにしよう。尚、今のところやりたいことが1つも思い浮かばない。

時間の使い方について 3月某日 晴れ

ギャンブルがバブっているのだが、実は仕事もバブっておる。
ギャンブルでちょっと取れて、もしやモノ書き商売の儲けを超えるんじゃねえかと一時期思ったが、仕事の方も同じくらいバブっておるので追いつかなかった。仕事っていっぱいあるんだなと思う。そういう時こそ「期末ならではの特需なのだ」としっかり認識しておかないと、己の力を勘違いしそうで怖い。
こういう時に残念なのは、マンパワーの限界があるせいで一定の量を超えた時に依頼をお断りしなければならないことだ。これはもったいない。中には徹夜すればできるか? と思う依頼もあるが、これまた残念なことに、そこまで身を削るほどのギャランティではないので、そういったものを含めて、当面はお断りさせていただいている。引き受けすぎることにより全体のクオリティが下がり、修正のやりとりが増えるのを避けたいという意図もある。
ただ、もったいないことに変わりはない。その問題を解決するには、今以上に時間効率を高めなければならない。
そもそも私は時間主義者なので、お金を取られても別に怒らないが、時間を取られるのは嫌だ。だから日常的に時間効率を考えてきたような気もするのだが、まだ努力が足りない。
そこをひと工夫したいのだが、バブってるもんだから時間がない。ぶっ続けの流れ作業の中で、体力及び精神的には「パトラッシュ、もう疲れたよ」というくらいのレベルである。
そんなことを思っていたら、ある取材で「緊急で重要ではない事」と「緊急ではないが重要な事」のどちらを優先するかという話になった。
結論から言うと、優先した方が良いのは「緊急ではないが重要な事」である(そうだ)。なぜならそれを放っておく事により「緊急で重要な事」が増えるからである。例えば時間の使い方を見直す事は、今やらなくてもいい(緊急性は低い)が重要だ。それを後回しにするから「締め切りに追われる」という「緊急で重要」な事態になる。そうなる前になんとかしないといけない。
まあ、今日は眠たいのでもう寝るけど。

バブルについて 3月某日 晴れ

(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)
バブっておる。
テキトーに売買しているのだが運良く取れている。
そして私はハッピーかというと、実はそうでもない。
テキトーにやっているせいで取りこぼしが多いからである。
月初は確かブランジーを何枚かつかんでいたはずである。
今はもうない。
吹いたら売り、吹いたら売り、と、1枚ずつ利確していく番町皿屋敷方式でリリースしていったら、手もちがゼロになった。
いつリリースしたかは定かでない。ただ、いくらでリリースしたか知りたくないので調べる気がしない。お金が増えたからいいじゃんか、という気もするが、慎重に買ってテキトーに売っていることを反省中である。
ギャンブルの「たら・れば」は無意味だが、そこがなかなか割り切れない。だからあまりハッピーではない。マザーズが1000まで戻ってきている中で、自分が全然取れていないのではないという気もする。だからやっぱりハッピーではない。
世代的に私は知らないことだが、バブルは楽しいのだろうか。街全体がハッピーだったというような話をよく聞くが、本当にそうなのか私は疑っている。多少お金が増えたことよりも、機会損失という損をしまくっている精神的なダメージがでかい。
ちなみに先日、大阪出張時に買った日経レバを精算した。儲かった要因の1つはこれであった。ありがとう大阪。
ついでに同時期に買ったメガバンク2つのうち1つも精算した。この2つは、相場がわからないから配当でもとろうかと思って買ってみたのだけど、配当よりも利が乗ったので計画変更して1つは売った。もう1つは配当をもらうために残して、どっちが儲かるか比べてみようという実験である。結果は歴然としていて、とっとと売ったほうがよかった。ただ、これは実験してみようという明確な意図があってのことだから、儲け損ねたけどまあ良い。そう考えると、ハッピーとアンハッピーを分けているのは、自分でコントロールしている感覚があるかどうかなのだと思う。
バブルとはつまり、自分の力(想像力や想定力を含めて)を超える現象なので、もしかしたら私は根本的な性格や考え方を変えるか、何かしらのパラダイムシフトをしない限り、バブルを楽しめない種なのかもしれない。
なるべく早く自分を変えるので、次のバブルはもう少々待ってくださいお願いします。

5年経ったことについて 3月11日 晴れ

あの時は大変だった。そういう話をよくする。
確かに大変だと思っていた。でも、いろいろ状況がわかると、自分が経験したことなど全く大変ではなかったのだと気づく。
どういうわけか生きているのだから、ありがたいことだ。
何手か違っていれば、ボウズには会えず、チビは存在しなかった。そう考えるだけでもありがたいことだ。
1年のうち360日くらいは何も考えずに生活しているが、この時期の数日はいろいろと考える。そういう時期が私には必要なのだと最近思う。
もう5年か。あるいは、まだ5年なのか。
今年は幼稚園の都合で、少し時期をずらして仙台に行く。
みんな元気だろうか。気にかけているつもりで、元気をもらっているのは実はこちらである。
あの時は大変だった。そういう話が自然と耳に入ってくるようになる時が1日も早くやってくると良いと思う。
「あの頃は良かった」は、成長が止まっている。
「あの頃は大変だった」は、成長そのものである。
似ているのだけど全然違う。

リアルについて 3月某日 晴れ

世の中には美人が多い。
たまに外に出るとそう思う。
ラッシュ時はいやだが、そこそこ空いているなら電車で出かけるのも悪くない。
右のほうにいる美人を見て、次に左のほうにいる美人を見て、そういうことをやっているとあっという間に目的の駅に着く。うまそうな料理を見てもなんとも感じないが、美人を見るとちょっとワクワクする。
なんでだろうか。多分、変態だからである。
美人について不思議なのは、テレビの中の美人を見てもワクワクしないということである。顔のツクリという点ではテレビの人のほうが整っているのだろうけれど、それなら街とか電車とか喫茶店にいる美人のほうがいい。理由はきっと、リアルな感じがするからだろう。テレビの美人は本当に存在するのかどうかわからないが(するんだろうけど)、目の前の美人はそこにいる。声をかけたり触ったりもできる(しないけど)。そういう好みは性格的というか性的なところもきっと関係していて、いわゆる女優モノよりも素人モノのほうが断然良いと思うのもリアルなところがたまらないわけである。
今週はどういうわけか大人気で、毎日取材や打ち合わせに出かけなければならない。ニート的フリーランスの私にとって、これは辛い。なんとかモチベーションを上げるために自分の中に眠っている変態性を呼び起こす。
世の中には美人が多い。外出とはつまり、リアルでエロいことである。
そういうバイアスをかけてなんとか乗り切ろうと思っている。

うるう年について 2月某日 晴れ

今さら気がついたのだが、今年の2月は1日多い。
これは処理能力に限界がある弱小フリーランスには非常にありがたい。
通常の2月は、31日ある月と比べると3日も少ないわけだから、日々1.1倍くらいのペースで仕事をやらなければならない。確定申告もあるため、一言で言うと地獄である。
しかし、今年は1日ある。そこでなんとか片付けてしまおうと思っていたら、あっという間に3月が見えた。抱えている仕事は減らず、確定申告は手付かずだ。パーキンソンの法則そのものである。つまり、仕事の量は完成させるために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。絶賛膨張中である。
それはそうと、「2月は忙しいですか?」ときかれ「そうですね。日数が少ないもんで」と答えると、結構高い確率で「は?」という顔をされる。1.1倍のペースでやらなければならないという点がどうも理解されないようだ。なぜ理解されないのかが、私には理解できない。
3日も少ないんだぜ?
今年は1日多いように見えるが、実は2日少ないんだぜ?
そこがわかっていただければ、他の月と同じペースで設定される締め切りも若干だが配慮してもらえそうな気がする。だからそこは力説したい。
ただ、延びたら延びたで、さらに膨張するだけの気もする。きっとそうなるだろう。法則はわかっていても、それに抗う方法が見つからない。

複雑系について 2月某日 晴れ

(ギャンブルの話なので嫌いな方はスルーしてください)
前年に引き続き株本に関わっている。
この1年で何冊やったか。数えてないけど多分10冊くらいか。
春先までの予定では、今やっているものを含めてあと4冊ほど増える。このジャンルは個人的に好きだから、打診されたら全部引き受ける。
似たような本を連発して投資本マーケットが供給過多になるのではないかとも思うのだが、各社の担当編集者などによれば、この手の本や安定的に売れるのだという。
個人的には、多少なりともギャンブルトレードに興じていてよかった。物書きとしての株バブルである。
そして、その売り上げをギャンブル投資によってダブルアップするという目論見はまったく実現の見込みがない。
そもそもこの下げは何なんだ。
背景を要約すると、原油安と中国景気不安に円高とミサイル実験とドイツ銀行リスクがほんのり効いているショックといったところだろうか。つまり、名前募集ショックである。
押し下げているのは原油だからオイルショックと言えなくもないのだろうけれど、要因はそれだけじゃない。世界経済が繋がったことで株価の動きも複雑になった。そして現状はまだ、複雑化していく過程であるとも思う。
そう考えれば、リーマンショックでお金を減らした時はまだ事情がシンプルであった。「安いなあ」「お買い得じゃん」と安易な感覚でたくさん買うと死んじゃうという表面的なダメージなダメージは同じだが、背景が複雑系だからテクニカルがあまり効かないように感じる。ちゃんと比較したわけじゃないが多分資金の出入りが早い。
みんな疑心暗鬼なのか。きっとそうなのだ。
軽い気持ちでホールドすると強めに叩かれる。かといって適当なところ逆指するとすぐに持って行かれる。そこに気づくのが遅かったせいで、今月はリスクを抑えたつもりだったのだが負け込んでいる。
賞味期限切れの名前募集バーガーでも恵んでもらいに行こうか。

禁じ手について 2月某日 晴れ

(ギャンブルの話なので、嫌いな方、興味がない方はスルーしてください)
売り方は無敵か。
そう思うくらい永遠の売り方ターンである。
「この辺で買ってみるか」と思ったやつは普通に指さる。「これは難しいか」と思ったやつも指さる。「さすがにこれは贅沢か」ってのも、ちゃんと指さる。
そうやって増えた在庫を、手数料をかけながらコツコツ損切りする意味不明な作業をしている。わかりやすく言うと、お金をかけてお金を捨てている。
そういう作業の中で何を考えているかというと、基本的にはセリクラ待ちである。ただ、日足陽線で「ここだな」と思って打診買いしたら普通に騙しだった。下ヒゲを信じてみたら、これも騙しであった。
マイナス金利の話、出すの早まったんじゃねえか。
一目的に悲惨なチャートになので、セリクラはともかく、反転には想定以上の時間がかかるかもしれない。1年ぶりの安値なので、この1年の買い方は基本的に全滅だ。逃げたい人も多そうだ。
無限の損切りを繰り返すのがバカらしくなったので、直近で買ったやつは長く持ってみることにしよう。買った瞬間から含み損だが、まあよい。もう1段階突っ込んだら、もうちょっと買う。その場合、余力を足さなければならず、今のところ負ける気しかしないのだが、この状況なら禁じ手のナンピンをしても良いような気がする。果たしてどうだろうか。
買いのリスクは小さくなっているはずである。
ただし、売りのリスクが小さくなっている気はしない。
リスクはどこいったのだろうか。

厄介な事について 2月某日 晴れ

厄介な問題が解決した。
問題とは、とあるクライアントによる未払いである。
結果としては、未払いにはならず、しっかりいただくべきもんをいただいた。当然である。
私は、フリーランスという社会的弱者になりがちな人が、未払い等による不当な扱いを受けたり、ひいては泣き寝入りするようなことがないようにすることをライフワークの1つとしている。
そう公言しながら、こういう目に会うのは恥ずかしい限りだが、この商売につきもののリスクと言ってもよい。長くやっていれば巻き込まれることもあるのではないか。
だとすれば、ポイントはそういうリスクがあるクライアントを意識的に避けるか、食らった(食らいそうになった)時の対策をあらかじめ考えておくことである。
ただ、現実問題として意識的に避けられるかというと、おそらく難しいだろう。
世の中には名前も実績も実態すら正体不明の出版関連会社が無数にある。その多くは誠実な会社であるから、大手としか付き合わないと絞るのは非現実だ。果たして大手なら安心かという疑問もある。未払いではないが、私は大手Kという会社から納品後の大幅減額を食らった経験もある。ついでに恥を晒すと、去年は別の会社からも減額を食らった。これも実に厄介であった。厄介という字面から、ふと厄年じゃねえかと疑ったくらいである。厄年がいつなのかは知らないが。
では、食らった時・食らいそうになった時の対策はどうか。
今回のケースでは、私は相手を追いかけ、とっ捕まえて、払わせた。ただ、今さらだが最初からドライにやっておけばよかったと思う。ドライとはつまり内容証明か少額訴訟である。
私はそこまで準備する。今回も準備万端であった。どうせ準備するのだから、追っかける労力をかけず、最初から行使した方がいいという話である。
同業、あるいは似たような商売で、もしかしたら食らいそうだったり、現時点で食らいかけている人がいたら、自分の貴重な時間を無駄にしないためにも、郵便局か弁護士の所へ行くことを勧める。
それにしても世の中には困った会社があるものだ。
そういう情報を収集・共有する仕組みでも作ろうかと割と真剣に思う。
今回の会社については、最終的に支払われたので社名は出さない。前述した大手Kについては、だいたい想像つくと思うのであえて言わない。私は優しい。
ただ、同業の方に限るが、自分の商売のリスク管理としてどの会社か知りたい人がいれば、左枠のcontactからメールを頂ければお教えします。
お互いにリスク管理しましょう。

目標について・その2 1月某日 雨

(ギャンブルの話なので、嫌いな方、興味がない方はスルーしてください)
大阪への出張取材である。
今年になって新幹線に乗るのは何度目か。あちこちから呼んでいただけるのは大変ありがたいことである。
こういう時の車内で、他の人は何をしているのだろうか。
私は特にやることがないのでスマホでギャンブルトレードに興じるのが常であった。しかし、毎度のように負ける。スマホは危ない。
それがわかっているから、今回は触らない。相場は見るけど、注文は出さない。前夜にそう決めた。それを今回の出張の最大の目標とした。(仕事は?)
結論から言うと、そう決めてよかった。
前場のNKは170を割る下向きでほぼヨコヨコ。年明けからのヨボヨボ感は依然として継続中である。
金曜だからこんなもんだろうと思っていたら、昼から謎の爆上げ。
一気に175まで登り、その後、急落して再度170割れ。
しかし、再び爆上げで175を超えて大引け。
なんなんだ。どうしろって言うんだ。気軽に触ったら簡単に死ねる動きである。
強烈なV(Nかな)になっていることは帰りの新幹線で知ったのだが、つくづく今日が仕事日でよかったと思う。忙しいのはありがたいことだ。
こういう時はどうやって取れば良いのだろうか。
そこを勉強したかったので、いろんな人のツイッターを覗き見していたら、個人投資家のヒーローとも言えるお方が被弾したことを知る。
そうか。このレベルの方でも難しいんだな。
そう判断して、やっぱり触らなかったのが正解と再認識した次第である。
スマホトレードはやらない。新幹線内での暇つぶしトレードもダメ。
これを今年の目標とする。(仕事は?)
尚、1月はちょいプラスであった。
勝因は、仕事が多くてトレードする時間が少なかったことである。

目標について 1月某日 晴れ

私はしょっちゅうイライラしている。
気が短く、理想が高く、頭が悪いのが主な理由である。
ただ、頭が悪いのには良い点もあって、イラついた理由をすぐ忘れる。そのため、イライラしていた何分か後にニコニコしていることも多い。ひとことで言うと情緒不安定である。
イライラするのは精神的によろしくないので、今年の目標として、あまり怒らないことにした。
特にボウズやチビに細かいことを言うのは控えようと思う。
先日、理由は忘れたがボウズを叱ることがあり、あまりにくだらないことをやっているので「幼稚園児かよ」と思ったら、幼稚園児だった。
そういうことがないようにしたいので、今年はあまり怒らないつもりである。

持ち越しについて 1月某日 晴れ

(ギャンブルの話なので、嫌いな方、興味がない方はスルーしてください)
8日に爆弾があることはあらかじめわかっていて、しかも年始から地方に行く用事があったので、年末にポジションを減らした。
ゼロにしなかったのは結果として失策であったが、まあそれは良い。
損出しの最終日を間違えるという初歩的なミスにより、16年分に回ってしまったが、まあそれもこの際良しとしよう。
おかげで年明け5連発の下落ではほぼダメージなしだった。(ダメージゼロではないというところが痛いが)。
ただ、下向きになることがわかっていたにもかかわらず、売り目線で1円も取れていないのは良くない。それ以前の問題として、下げ局面で取る仕掛けを全くしていなかったのが良くない。
節目になりそうな180も170もスルリと超えてしまった。追いかける機会さえないまま、しまったなあと思って見ているだけである。
何でだろうと考えたところ、頭のどこかに買いで取るという考えがあるのが理由なのだと思う。つまり「どうせ戻るんだろ」と思っている。実際、さすがに165はかなり力を入れないと壊せないんじゃないかという頭がある。
その考えから離れないと、もしかしたら今の相場だと致命傷になる。
そう思ったので、当初は適当に下がったところで買い戻そうと思っていたのだが、やめた。「適当に下がったところ」がどこかわからないので、手が出せないというのが本音でもある。
8月末の繰り返しかなとも思ったが、チャートの形が違うので参考にするのはやめた。楽観的に考えると14年初めのような展開なのだが、悲観的に考えると08年のチャートのようにも見える。
どうしようか。なんのアイデアも浮かばない。
下手に動くと損しそうだから、仙人のようにじっとしておる。
手を出さないと儲からないのだけど、その考えからも離れないと、もしかしたら致命傷になる。結局、ちょっと余力を追加して、放っておくことにした。
おかげでやることがない。仕事でもするか。

明けましておめでとうございます 1月1日 晴れ

年始から話題にすることではないと思うのだが、慰安婦のなんとかかんとか(よく知らない)が年末に急に合意に向かった。
よく知らないからなんとも言えないが、急だなと思ったのは私だけではないだろう。
その背景にはきっと水素爆弾の実験があった。(という私の妄想)
こういう問題は2国で協力しないといけないから、実際はアメリカも絡んでいるわけだけれど、とりあえずの所は考え方が似たもの同士で一旦手を結んでおく。敵が共通なら、そこで手を結んでおくのが自然である。
そういう流れに見える。(という私の偏見)
だとしたら、何かしらいけない実験をやりそうだということがあらかじめわかっていたということになる。その点について、我々には何の事前アナウンスもなかった。
あるいは、急にではあるがいったんは解決した慰安婦のなんとかかんとかは、実は手を結ぶための必要条件であり、表面的なものである可能性が高いということにもなる。それなら、ことがひと段落したら、また何か言い出してくるかもしれない。言い出すに決まっている。(当てずっぽう)
世の中は同じことを繰り返す。少なくともそう見える。どこかで見たこと、聞いたことが再び起きる。
では、その繰り返しにどういう意味があるのか。前回と何が違うのか。
そこを考えることが大切である。
明けましておめでとうございます。
これも繰り返しである。毎年必ず新年がやってくる。そりゃそうだ。
前回の正月と何が違うのか。
そこを考えることが大切である。

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ライター 伊達直太

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