ライター伊達直太/取材後記2011

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取材後記 2011

2千円札について 9月某日 晴れ

 あまり知られておらず、おそらくどうでもよいことの1つでもあると思うのだが、2千円札という紙幣が、すでに製造中止になっている。正式には去年の夏で製造中止となったようだが、実際のところ、2003年に日銀におさめられた1億枚超を最後にして、刷られていない。
 うろ覚えで恐縮だが、2千円札の製造中止について、とある日銀の関係者が「日本人は2という数字になじみが薄い」といった見解を示しておられたように思う。
 しかし、わたしはデザイン、すなわち肖像画のないことに決定的な原因があると確信している。というのも、偉人と呼ばれる人が堂々とこちらに「にらみ」をきかせてこそ、お札のお札たる存在感がにじみ出るのであり、それを欠く二千円札(申し訳程度に紫式部が描かれてはいるけれど)は、お金を大切に使おうとか、明日も頑張って稼ごうとか、このお金で老いた親に毛布を買ってやろうといった意識を喚起する力にも欠けるように思うのである。心理学的にも、他人の視線が人の行動に影響することは実証されている。緊張をもたらさないものに、価値を見いだすのはむずかしいのである。
 ところで、ユーロ紙幣も人物不在である。
 その理由については、ユーロ圏国家の数に対して紙幣の種類が少なく、ベルギーとドイツ出身の偉人は肖像画にするけれど、ポルトガルとオランダからは採用なし、といった不平等性を敬遠したためか、あるいは、ナポレオンの採用をオーストリアが認めず、カエサルを採用するとイギリスのユーロ参加が絶望的になるといった、歴史的観点からの政治的な喧嘩が生じるためであると推察できるわけだが、その結果として誕生したこのユーロ紙幣というものも、やはり人生ゲームの紙幣のようで、いまいち価値を感じさせない。
 昨今のユーロ下落の背景にも、人物不在という理由があるような気がしてならない。仮にそうならば、昨今の円高は、福沢諭吉、樋口一葉、野口英世といった面々の「にらみ」がききすぎているということになるだろう。つまり、人物画をやめるか、人選をあらためることにより、紙幣の価値は変わらないけれど、価値観は変わる。円高対策のウルトラCとして、各紙幣の肖像をちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃん、コナンくんに変更する案を、割とまじめに提案したい。

相談について 9月某日 晴れ

 ふとしたときに、年を取ったと感じる。
 なんの用事もないのに朝5時に目が覚めたり、テレビがうるさく感じたり、近所で遊ぶ子どもたちがかわいらしく見えたり、いつまでも腰が痛かったりすると「まあ、いつまでも若くはないか」と思う。
 若い人から相談を受けるというのもその1つで、内心「俺なんかに相談してどうするの?」と思うのだけれど、相談相手となりうる妙齢になったんだなあとも思う。
 こういうことは少し前から増えつつあったのだけれど、いかなる相談であっても、かつてはまじめに答えることなどなかった。「そろそろ結婚したいんだけど」という女々しい相談は「すれば?」のひとことで片付け、「仕事がつまんない」という愚痴じみた相談は「つべこべ言わず働け」と一蹴して、ついでに空手チョップを食らわせてきた。
 しかし、たとえ自分が人にアドバイスできるほど偉いもんじゃないとわかっていても、あまり無碍にばかりしていると嫌われちゃうから、最近は少しまじめに答えるようにしている(嫌われたらやだなと思うようになったのも、年を取ったためであろう)。
 ところで、多いのは「お金を貯めたいんだが」という相談である。
 お金に関する本を書いたりしたもんだから、どうもそちら方面に詳しいと思われるらしい。
 この手の相談には「お金は貯めるものではなくて、貯まるもの」と返すことにしている。ただし、それで分かってくれる人はほとんどいない。そこで「貯めるために仕掛けるよりも、貯まる仕組みを考えたらどうですか」と勧める。むろん、それでもあまり分かってもらえない。
 ようするに、貯めるために我慢したり、欲しいものをあきらめたり、給与の良い仕事に転職を考えるといった「仕掛け」ばかりに目を向けずに、天引きの積み立て貯金や、貯蓄型の保険や、ランニングコストの見直しなどをして、知らず知らずのうちにお金が貯まっていく「仕組み」を作ることを考えたほうがよいということである。
 すると、たいていの人はわかってくれるが、少し時間を置いて、貯まってきたかどうか聞いてみると、相変わらず「貯める」ために努力していたりする。そしてわたしは、この人の目的が「貯金を増やす」ことではなく、「お金を貯めるための努力を実感する」ことなのだと気づいて、まじめに相談に応じたことを後悔するのである。
 相談に乗るというのは、なかなかむずかしいことである。相談者のその後を気にかけなければ、いろいろな人の相談に乗ることもできるけれど、それではあまりに無責任であろう。あるいは、ある程度の無責任さを容認できてしまうことを、世間では「年を取る」というのかもしれない。
 ちなみに、イギリス人を対象とした調査によれば、女性は平均で29歳、男性は58歳で「年を取った」と感じるらしい。

キャッシュフローについて 8月某日 晴れ

 山梨へ行ってきた。
 歌のサビでしかその存在を知らない「あずさ号」に乗って、甲府の少しさきまでの出張取材である。
 ところで、わたしはもの書きとしてはおそらく珍しいのだが、朝にめっぽう強い。この時間に起きると決めたら、目覚まし時計が鳴る前に目をさます。かくしてこの日も、事情あって4時就寝、しかし5時には起きなければならないという泣く子も眠るスケジュールを苦ともせず、7時にはカツサンドとコーヒーと雑誌3冊をもって新宿駅10番ホームに立っているのである。
 一方で、わたしはもの書きの性分にならって、世間を知らない。世間がお盆休み中であることは感づいていたけれど、それがあずさ号指定席の完売をもたらすということを知らなければ、山登りやトレッキングが流行っているために、列車内が殺人的に混雑していることも知らない。
 こうした無知がたたった結果、自由席なる不自由な席を求めざるをえなくなった。むろん車内はライブハウス並に混雑しており、着席は許されぬ。取材道具一式に加え、カツサンドとコーヒーと雑誌のせいで重さを増したカバンのせいで、足は枝よりも細くなり、肩の骨はほとんど砕けた。東野圭吾の小説に没入せず、早く寝ればよかったと後悔してもいまさら遅いのである。
 さて、気を失う寸前で目的の駅に降り立つと、山梨は快晴であり、かつ涼しかった。向かったゴルフ場は高度があるためにさらに涼しい。「未来を向いた健全たる経営」という壮大なるテーマについて聞くのにふさわしい環境であったといえよう。
仕事さえうまく運べば、それでよい。
満足に仕事ができれば、眠気も空腹感も、足腰に溜まった疲労感ですら忘れちまうのである。
 帰りがけ、地元の高級ワインをケースで衝動買いしてしまった。
 どれだけ高級かといえば、本日の取材でいただく予定のギャランティとほとんど同額である。ようするに今日1日の労働が酒代に消えた。それはそれでかまわないが、原稿料をいただくのは来月であるから、キャッシュフローという点でみれば不健全である。
「健全たる経営」において、キャッシュフローに目を向けることは原点である。その意味で、本日の労働において反省すべき点は大きい。

勝ち負けについて 8月某日 晴れ

 そう遠くない昔、いわゆるパチプロ的な生活をしていたことがある。「的な」であるのは、一応、ライターとして独立していたからであり、しかし、仕事がなく、したがって稼ぎもないので、パチンコで儲けて生活費の足しにしていたということである。そのころの収入を、まさかいまになって税務署が追っかけてくるとも思えないので白状するが、勝ったお金であれこれと飲み食いし、いろいろと買いそろえた。
 わたしは、ギャンブル、すなわち、あまり頭を使わなくてよい勝負ごとにめっぽう強い。むろん、これといった必勝法があったわけではなく、戦略らしい戦略があったわけでもない。唯一、戦略っぽいものがあったとすれば「負けているときにやめない」ということだけである。
 パチンコを打って過ごす1日というものは、「勝っているとき」と「負けているとき」を繰り返しながら進行していく。「勝っているとき」とは、いま、手持ちの玉やコインを交換すればプラスになるという時であり、「負けているとき」とはその逆である。含み益、含み損と言い換えてもよい。だから「勝っているとき」にやめればよいのであり、「負けているとき」にやめてはいけない。たったそれだけのことだけど、戦略はシンプルで、わかりやすいからこそ実行しやすいということを、いまになってあらためて思う。ちなみに、わたしは神も仏も運も占いも幽霊もUFOも他人もニュースも褒め言葉も信じないが、「勝つまでやれば負けない」ということだけは、いまも真理として信じており、心の拠り所にしている。
 それはそうと、ふとまわりを見渡してみると、妙にあきらめのよい人が増えているような気がする。
 若い人はみな「ムリ、ムリ」と笑い飛ばし、中年は「そういうもん」と苦笑いする。増税は「やむなし」であり、不景気は「しょうがない」であり、沖縄から米軍基地はなくならず、自殺者は年に3万人を超えてしまった。
 それが世間のトレンドであるならば、パチンコ屋で負けまいと打ち込んでいるおじさんやおばさんは、トレンディではないが健全である。結果としての負けは、精神的な負けの先にあるのであり、意識としての負けによって確定するのである。

猫と子どもとバカについて 8月某日 晴れ

 毛が抜けて困っている。
 幸い、わが頭髪は状態がよく、少なくともあと10年は心配がいらない。抜けて困っているのは愛猫の毛である。とくに今夏は冷房の使用を抑えていることもあって、事務所の床からパソコンや資料のまわりにまで毛が舞っている。おかげでこちらは朝晩の掃除機がけが欠かせない。
 それにしても暑ければ毛が抜けるという身体の仕組みは秀逸である。毛の話にかぎらず、動物の身体はあらゆる面で生活環境に対応できるよう機能する。その点は、生まれかたをみれば一目瞭然であろう。動物は生まれて間もなく自分の足で立ち上がる。母親のところまで行き乳を飲む。
 ひるがえって人間はどうか。新生児が自分の足で立ち上がるまでには、おおよそ1年という時間が必要だ。出産をきっかけに母親の母乳は出るようになるが、それを飲みにゆく力を赤ん坊はもたない。したがって保護者が飲ませてやる必要があるし、それができなければ赤ん坊は生きていけない。人間は、なんとも弱く生まれてくるものである。
 ところで、幼児虐待の件数が急増している。相談件数ベースでみてもこの20年で40倍にふくれあがり、現在では年間に4万件を超える。相談という形で表面化しない例がはたしてどれくらいあるのか、想像するだけで恐ろしい。
 つい最近もわずか2歳の男児が、食べ物を与えられなかったために餓死した。私がとりわけ軽蔑するのが、こういう保護者である。軽蔑する理由は親としての心構えに欠けるからだけではない。人間の子どもが、親の助けなしには生きられない脆い存在であるということをわかっていないからである。そんなもんに対してネグレクトや親の幼児性といった理由付けをしてやる必要はない。ただのバカだからである。脆さがわかっていて、しかし大切に扱わないのであえば、それは卑怯であろう。
 ついでにいえば、2歳の男児を虐待した親が「子どもより猫のほうがかわいかった」と語ったことを、あたかもなにかしらの意味があるかのように報じられることも腹立たしい。この話を報じるうえで、猫を引き合いに出す必要性はまったくない。そういう意味のない情報をあたかも意味があるように報じるから、バカがバカ以上のなにものでもなく、卑怯者がはてしなく卑怯であるという単純な話が複雑になる。私が現場にいあわせたならば、虐待者である両親には力のかぎりの飛び蹴りを食らわせ、報道には全国の愛猫家を代表して回し蹴りを食らわせたであろう。
 いっそのこと出産を免許制にしたらどうかと思う。講習を受けさせ、試験を受けさせ、その結果として免許を交付する。無免許で親になろうとする者はかたっぱしからしょっぴいて処罰する。無免許でありながらすでに子どもを生んでしまった場合には、その子をしかるべき施設で預かり、手厚く、安全に育てる。
 なんでもかんでも許可制にするのが賢明でないことは承知している。しかしそうでもしなければ守れない命があることも事実である。少なくとも私はこれ以上幼い子どもが虐げられ、希望と未来に満ちあふれている命が失われていく惨状をみたくない。子ども手当の金額調整よりも、こうした事件をゼロにする施策が優先されなければ、いつまで経ってもよい国などつくれるはずがない。
 子どもを育てていくためにはある程度の経済力が必要だ。その意味で、子ども手当をばらまく効果はゼロではない。しかしお金だけでは子どもは育たない。バカや卑怯者に赤ん坊は育てられないし、育てる権利もない。そこを軽んじた結果が、虐待の犠牲となった数々の幼き命であるように思えてならぬ。
 わずか2歳で殺された男の子は、名前を蒼志くんというらしい。
 愛情をもって呼ばれることのなかったであろうその名を、私は見ず知らずのおじさんではあるが、持ち合わせている愛情のすべてを込めて、呼ばせていただきたい。
 蒼志くん、天国でたらくふご飯を食べなさい。
 お腹いっぱいになって、十分に昼寝をして、いつかバカで卑怯な大人たちを許してくれる日がきたら、またこちらの世界に生まれておいで。
 きっとそのときに親になる人は、たくさんのミルクと愛情をもって、君を迎えてくれるから。

ドーナツ 8月某日 晴れ

 ドーナツが好きである。
 取材や打ち合わせに出かければ、帰りに近所のドーナツショップに立ち寄って色鮮やかなドーナツを買い込む。これをコーヒーとともにおやつとして、あるいは翌朝の朝食としていただくという日が、週に少なくとも2度、多いときで5度ある。気分はほとんどアメリカの警察官である。
 ところで、ドーナツがなぜ円の形をしているかご存知か。
 ポイントは、ドーナツに「中身」がないところにある。ドーナツは外郭を成す部分がすべてであり、たとえばチョコレートドーナツならば外枠にチョコレートが塗られることで、チョコレートドーナツであるというアイデンティティを示す。
 この特性が、じつは人間の浅はかさを皮肉っているのだという。
 たとえばある人は、自分をシャレ者に見せるためにブランド品のスーツで身を包む。ある人は自分を金持ちに見せるために高級な時計を腕にはめ、またある人は自分をやさしい人に見せるために笑顔を絶やさない。こうして自分を演出する人が、じっさいはシャレがわからず、金を稼ぐための知恵をもたず、やさしさに欠けていることが多いのが現代社会の特徴である。つまり外見によってのみアイデンティティを形成し、中身がない。中身をもたないドーナツは、それを表現しているというわけだ。
「ほう、なるほど」と感心した人がいたら恐縮であるが、これは私がいましがたハニーディップをかじりながら思いついた論であり、つまりまっかなウソである。したがって公共の場で披露する際には注意されたい。尚、ねじり状のドーナツは男女の関係をはじめとする人間関係のむずかしさを表現しているらしい(むろんウソである)。
 好きなものを食らうのは幸せである。
 しかし、ただ食らうだけでは動物的であろうから、たまには少し哲学的なことに思いを巡らせてみるのも悪くない。アメリカの警察官も、張り込みをしながらドーナツをほおばり、似たようなことを考えているのではないか。

ソフトパワー 7月某日 晴れ

 日本はソフトパワーで世界と勝負すべきである。そういう論を耳にする。
 ソフトパワーとは無形の力、見えざる力によって海外諸国を魅了する力であり、具体的には政治と文化の力を根源とするわけだが、こうした議論で取り上げられることが多いのは、たとえばアニメやマンガなどのポップカルチャー(大衆文化)である。
 つい最近までマンガ誌で連載をさせていただいていた。引き受けておいてなんだが、私はじつはほとんどマンガを読まない。そのせいかもしれないが、マンガやアニメが日本を代表する文化であるという論にはいささか懐疑的である。マンガやアニメでツイッターやフェイスブックと渡り合っていけるとは思えないからである。
 小説はどうか。三島由紀夫や村上春樹の小説は海外でも人気がある。日本には川端康成、大江健三郎というノーベル文学賞の受賞者もいる。しかし見方をかえれば100年以上におよぶノーベル文学賞の歴史のなかでたった2人の受賞者である。ましては日本人の活字離れはもはや限界にきている。これから世界と勝負していくうえで、文学というソフトもやはり心もとない。
 少し古い本だが「ソフトパワー」を著したハーバード大のジョセフ・ナイ教授によれば、日本のソフトパワーは世界最高額のODA、世界最高の平均寿命、GDP、特許件数、治安のよさなどであるという。一般にソフトパワーを考えるとき、われわれはポップカルチャーの輸出を思い浮かべるが、氏の説をみてわかるとおり、海外からみた日本の魅力のなかに、いわゆるポップカルチャーは入ってこない。後進国に手を差し伸べる思いやりや、粗食と健康管理の心がけ、勤勉さ、秩序を重んじる国民性といったところに、おそらく本質的なソフトパワーの根源があるのだ。日本のアイコン的存在である侍についても、これが世界を魅了するのもその出で立ちやたたずまいよりも、精神性によるところが大きいように思う。
 アニメやマンガや文学といったジャパニーズソフトには他国のそれらにない魅力がある。しかしその評価は、単純なおもしろさのみならず、その背景にある精神性にも起因するのではないか。つまり心やさしく、勤勉で、尊敬に値する日本人が創ったものだから欲しくなる。何を売るかではなく、誰が、どのようにして創るか。それを、どんな人がどうやって売るか。ソフトパワーの商売化とは、あるいはソフトパワーで勝負することとは、ようするにそういうことであるように思う。

リーダーについて

 尊敬する日本人は誰かと問われ、ケネディは上杉鷹山と答えた。
 いまの山形県にあたる米沢藩の藩主であった人物だ。
 なぜに彼が尊敬されたのかといえば、強烈な赤字状態にあった藩の財政を建て直したからなのであるが、とくに重要なのは、その手段として農作業や田畑の開墾、土木工事といった「武士たるもの」がやるべきではないと考えられていたことに率先して関わったことである。その姿をみて、当初でこそ「武士たるもの」というプライドにすがり、愚痴と嘲笑をこぼしていた家臣たちも動くようになった。そして藩が立ち直ったわけだ。
 年貢を徴収し、それをむさぼり食っていたって状況は改善しない。
 武士のプライドでは民衆を救えない。
 だから、やるべきことをやる。
 己の信ずる道を凝視して、まずは自分が動く。
 その姿勢は、鷹山が遺した「為せば成る 為さねば成らぬなにごとも、 成らぬは人の為さぬなりけり」という言からも十分に読み取れる。そこにケネディはリーダー性をみいだし、尊敬したのであろう。
 リーダーとは、書いて字のごとくleadする人であり、先陣を切って行動し、手本を示す者を指す。その意味で、鷹山はリーダーの教科書的存在といってよい。この姿勢が、いまの政治に徹底的に欠けていることはいうまでもない。
 いまなお、日本(人)が世界から尊敬されているという論をしばしば耳にする。
 さきの震災においても、落ち着いた国民の対応と態度に、NYタイムズは、Sympathy for Japan, and Admiration(日本に同情を寄せ、そして尊敬する)と書いた。親日である台湾の新聞は「世界中から尊敬を浴びても足りない」と書き、親日でない中国のメディアですら秩序的な日本人の行動をほめた。
 震災というきっかけは最悪だが、世界において存在感を失っていた日本人が、あらためて着目されるようになったのも事実であろう。とりわけ重要なのは、経済、技術、文化などではなく、人の本質に関わる行動という部分が注目され、評価され、尊敬されたということだ。これはケネディが鷹山の名を挙げて以来の出来事ではないか。
 誤解なきようあえて追記するが、尊敬されたのは政治でもなければ企業でもない。国民である。ようするにわたしでありあなただ。
 時代はもはや政治や経済では動かない。1人1人の個人の、思想と行動によって動く。それを実は民主主義というのではないか。
 さて鷹山公への敬意(と、わずかながらの東北への貢献)を示して、これより米沢牛をいただくこととする。
(7.20『デモクラシー』)

もの忘れ 7月某日 晴れ

 性格と目の悪さには定評がある。
 くわえて記憶力もすこぶる悪い。
 猫のエサと牛乳を買いに出れば、必ずどちらかを忘れる。「あとでやろう」と思ったことは、たいてい明後日になってもやり忘れている。とくに弱いのが人の顔や名前である。「あの人と結婚した女優って誰だっけ」と、さんざんカミさんに聞いてようやく檀れいという名前を覚えた。すると今度は、誰が檀れいと結婚したのか忘れた。
 そう考えれば、締め切りや取材をトバした経験がないのが不思議ともいえるのだが(ギョーカイでは締め切りをすぎたり取材をすっぽかすことを「トバす」という。ちなみに致命的なミスである、とわたしは思っている)、それはそれで独自の対策がある。それがなんであるかは1種の企業秘密だから教えないが、ようするに頭が悪い分を工夫によってどうにかしているということだ。
 それはそうと、エビングハウスの忘却曲線をみると人が「忘れる動物」であることがよくわかる。
 人は時間とともにあらゆることを忘れる。具体的にいうと、20分で42%、1時間で56%、9時間で64%、6日で75%を忘れるらしい。1カ月経過してのこっているのは、20%程度である。
 しかし直観的にみて、この数値は疑わしい。
 1カ月前に起きたあれこれについて20%も覚えているとはどうも思えない。
 気になったので調べてみたら、わたしはこの1カ月で約20人の初見の方々と話をしている。「なかなかのできである」と納得して入稿した原稿は10数本である。エビングハウスにならえば4人の話と、2本の原稿について覚えているはずであるが、じっさいはほぼすべてを忘却している。それが現実ではないかと、内心、思ったりする。
 一説によれば、ものごとは感情を伴って記憶された場合ほど記憶にのこりやすいという。腹が立ったり飛び上がるほどうれしかったことをいつまでも覚えているのはそのせいである。
 結論を急げば、記憶力が悪いのは行動に感情がともなっていないせいであろう。つまりイライラやドキドキやワクワクがない。むろん猫のエサを買ったり見知らぬタレントの結婚話にワクワクするのは不可能である。しかし仕事や、仕事を通じて人と出会うことにはもう少しワクワクしてもよい。
 その意味で、わたしに必要なのは記憶術ではなくワクワク術であろう。脳のメカニズムでいえば、海馬や扁桃体ではなく、大脳皮質や辺縁系のトレーニングである。そういえばかつて読んだ本に感情のトレーニングについて書いてあった気がする。なかなか興味深い内容であったように思う。しかし、それが誰の、なんという本であったかは、案の定、忘れちまった。眼鏡がないから眼鏡がさがせない。そんな気分である。

働くことについて 7月某日 晴れ

 生き残るものは、環境の変化に適応できたものである。ダーウィンの進化論とは、ようするにそういうことであろう。
 この絶対的ともいえる事実は、生物についてはもちろんだが、経営にも通じる。高齢化とかグローバル化とか、あらゆる社会的な変化に適応できた人が社会人として生き残るのであり、適応できた企業が結局のところ生き残る。
 某誌の記事を書くために従業員の給与体系を見直したいくつかの企業に話を聞いた。ある企業は歩合制の部分を固定に変え、ある企業は固定給であった一部を歩合制に変えた。どっちがどうというわけではない。時代の変化に適応するために給与体系を変えたということが重要なのである。
 ところで、われわれのような商売には当然ながら固定給というものがない。定期の仕事はあるものの、それだっていつなくなるかわからない。正真正銘の完全歩合であり、そういう報酬制度に家計と人生をかけざるを得ないカミさんにしてみればなかなかスリリングであろう。
 もっとも完全歩合という仕組みは明快である。働けばもうかるし、怠ければ飢える。ある意味で自律的でなければならないわれわれのような商売のスタイルについて、サラリーマンの知人らはよく「俺だったら遊んじゃうよ」という。しかし、なんのことはない。飢えたくないから働いている。そういうインセンティブが機能している。
 遊ばずに働いているのが不思議なのは、むしろサラリーマンのほうであろう。サラリーマンとはつまり働いても働かなくても同じだけ給与がもらえる固定給の人たちである。飢える心配がないのだから、遊んじゃったっておかしくない。おかしくないけれど遊ばないのは、彼らがまじめであるか、責任感が強いか、仕事が好きだからだろう。人が働く理由は、おそらくその程度のことで十分である。
 一方で、昨今は働く意義や仕事と自分の関係性といったことをことさら深く追求する傾向がある。仕事を通じた生き甲斐なんてことを考える人もいる。哲学っぽい思想にかぶれて、理屈をこねる。
 しかしそんな暇があるのなら、まずは働けばよい。人は意義や生き甲斐のために働くのではない。働いているうちに意義が見つかり、生き甲斐が生まれるからである。
 生き残るためには適応しようとする姿勢が重要だ。しかしそれ以前の問題として、動物はえさを取りに行かねばならず、人は働かねばならない。ダーウィンよりももっと初歩的なところに、日本の低迷の原因があるような気がしてならない。

トンネルを抜けたら

 めずらしく仕事が立て込んだ。
 いまが何日の何時であるかわからない。ラジオからピストン西沢氏の声が久しく聞こえてこないから、きっと週末に突入しているのだろう。そういえば顔を洗ったのはいつだったか。ふとみれば愛猫でさえ顔を洗っている。そんな日々であった。
 こういう状況では目の前の仕事を着実に片付けていくのが最優先であるから、ニュースすら見なくなる。新聞よりも先に読み込まなければならない資料がある。結果として情報難民になる。ナントカというタレントが結婚して、遼くんの調子はこんな具合で、来週は何曜日が雨であるらしい。そういったことを要約して伝えてくれるカミサンが唯一といってよい情報である。
 むろんやまない雨はないわけで、終わらない仕事もない。
 おおかた片付いてみると、まっさきに感じるのは腰が痛いということである。忙しさという麻酔が、そろそろ切れはじめているらしい。
 腰をさすりつつ久方ぶりにニュースを見たら、首相が辞めるの辞めないのという話をやっていた。まだその話やってんの、というのが正直な感想である。仕事が立て込む前にもそのニュースをさんざん聞いた。しばらく海外で羽を伸ばして帰ってきても同じニュースを聞かされるんじゃねえか。そう疑わずにいられないほどのロースピードである。
 スピード感に欠けるのは、がれき処理や原発対応といったオペレーションに限ったことではない。いまの政治の本質的な問題である。
 ムーアの法則によれば、半導体の処理能力は18〜24カ月ごとに倍、倍のスピードで進化する。機械類によって管理されるわれわれの生活サイクルも、それに応じてスピードを増す。ある災害の対応に1日かかったならば、いまはその半分ほどの時間でできなければおかしい。おかしいのだけれどそれができないのは、ただただ政治にスピード感が欠けるからである。先進国とは、書いて字の通り、先に進む国を指す。その意味で、現状の政治は先進国にあるまじき姿勢といってよいだろう。
 眠たくて、空腹で、腰が痛いから毒づくわけではない。トンネルを抜けたら雪国であったというような変化を望んでいたら、相変わらずの景色であったことに落胆しているのである。
 過去に例がないという理由で、われわれは悔しさや怒りやもどかしさを抑えてきたようなところがある。いわば感情に麻酔を打ってきた。その麻酔もそろそろ切れかけているのではないか。
(7.15 『ポスト大震災』)

警告は必要か

 右はOBですから気をつけてください。
 いわゆる「できる」キャディさんというのは、そういうことを言わないらしい。どう言うのかというと「少し左目を狙いましょう」である。
 言っていることの中身はどちらも同じである。しかし言い方がちがう。
 ここがじつは重要で、右がOBであるということを「知って」しまうと、人はそれが気になって、右に打ち込んでしまう。だからそういう警告はしないのである。
 技術的に分析してみれば不思議な話ではない。左に引っ張ろうとすると、身体が左に早く回転しやすくなるから、スライス(右曲がり回転)がかかる。よけいなことを考えなければ、あるいは考えるきっかけとなる情報を知らなければ、そういったミスは避けられる。
 心理的に分析してみると、おそらく子育てが参考になる。「うるさくしないで」「落書きしないで」と警告すれば、子どもがそれらを意識する。うるさくしたらどうなるのだろう。この白壁ってそういえばクレヨンで絵を描くのにちょうどいい場所にある。警告的な言い方とは、つまりそういう意識を喚起する。
 子育てに通じるならば、部下育てにも通じる。ミスするな、忘れるなといった警告がミスや失念を招き、「だから言っただろう」と上役にしかられている部下の姿を何度も見たことがある。しかし「だから言っただろう」ではない。「言った」からそうなったという可能性もあるのだ。
 いわゆるコミュニケーション上手な親とか上司というのは、そういう細かな点に気を配っているのだろう。ほめて育てるという技術も、きっとそこに関わる。そういえば先日「○○日がぎりぎりの締め切りなので遅れないでください」と、念を押された。○○日を目前にしてもなお、いっこうに書く気にならないのはよけいな警告をされたからにちがいない。
 ところで、暑い。
 一息ついては冷房を入れるかどうか迷っている。
 そこで思うのだが、暑く感じるのは「冷房は控えめに」といった警告のせいもあるのではないか。そういうことをいう国と報道はたいてい上から目線だから、どうしても警告的なもの言いになる。その度にこちらは、暑さを思い出す。「この部屋には冷房がある」「つけようと思えばいつでもつけられる」という意識が喚起される。
 いっそ今夏は冷房やクーラーといった言葉を放送禁止にしたらどうか。節電しなければならないことなど誰だって知っている。警告されないからといってじゃんじゃん冷房をつけてしまうほど、日本人は愚かでない、はずである。
(6.1『ポスト大震災』)

銀座にて 6月某日 晴れ

 銀座に行った。
 拙宅の場合、お出かけといえば銀座であり、贈り物を買うといえば銀座であり、たまにはおいしいものを食べに行くといえばやはり銀座なのである。
 久しぶりに行って気づいたのは、中国人が激減したということである。かつての三越内では、おそらく松屋や松坂屋もそうであったと思うが、中国語が強烈な存在感を放っていた。ハワイのホテルやニューヨークの街角でどこからともなく聞こえてくる関西弁と同等、あるいはそれ以上であった。経済特区を作って以来、中国人富裕層は増えているはずであるから、その声が聞こえないのは、自分の耳が遠くなったか、地震の影響であろう。アインシュタインによれば、ハチが地球上からいなくなると、人間は4年以上生きられないらしい。銀座から中国人がいなくなったら、銀座の百貨店やブランドショップはどれくらい生きられるのか。あまりの静けさに、ついよけいな心配すらしてしまう。
 この存在感を民衆の力の表れととらえるならば、政治的な意味での中国の崩壊はおそらくそう遠くない。西洋メディアの流入、過度の経済格差、少子化による労働力の低下といった背景はそろいつつある。あとは、たとえばソ連崩壊におけるプラハの春とかチェルノブイリ事故といったきっかけがいつ起きるかである。
 経済成長によって国民を束ねるには、13億人という人口はあまりにも多い。日本やアメリカ向けの輸出が減る可能性も大きいし、物価上昇をふまえれば、安く作れるのが最大の魅力である「世界の工場」という役割がインドやベトナムなどに移る可能性も大きい。じっさい中国経済の失墜に張るヘッジファンドも増えているという。
 むろん政治的思想や政策も頼みの綱にはならないだろう。社会主義や共産主義が成立しないことはすでに歴史が証明済みである。ソ連の崩壊の背景にもペレストロイカ(建て直し)の失敗があった。
 なにもって崩壊と定義するのかはわからない。分解かもしれないし資本主義への転換かもしれない。それが銀座にとってよいことなのかもわからないが、少なくとも装置産業である銀座のデパートなどの商売は、その日がくることを想定しておくことが必要であろう。
 ちなみに国の運営が官僚的であるという点でみれば、中国も旧ソ連も日本も同じだ。ソ連はチェルノブイリ事故の対応をしくじり、国民に被害と嘘と不信感を与えた。そしてその5年半後に崩壊した。日本の近況みれば、政治的な意味での崩壊については他国のことを心配している場合ではない、ような気がする。

「そういうもん」について 6月某日 晴れ

 経済の分野における有史以来の3大発明は、マーケットと0と貨幣だろう。そうわたしは思っている。
 マーケットは、それ自体が価格を決める力をもっている。需給バランスを変える力もある。その前提が壊れれば、世界はたちまちパニックになるだろう。
 0は、厳密にいえば経済のカテゴリーではないが、経済活動そのものといってもよい。個人や企業がなにをしているかといえば、10が100、100が1000といった具合に桁数が増えるよう活動しているのであり、その逆に減っていくことと、最終的に0になることにおびえているからである。
 貨幣は経済活動の成果の象徴といえよう。貨幣がない世界の金持ちは、おそらく米や着物といったモノで財を所有しなければならない。そのために蔵がいる。しかしいまは貨幣があるから、あれこれモノを貯め込まずとも、デパートを蔵だと思えばよい。蔵がない貨幣社会では、誰が金持ちで、誰が貧乏なのかがわかりにくい。困っているのはおそらく泥棒であろう。
 もっとも、これらはわたしが思う3大発明であって、ある人は金利を挙げるだろうし、ある人は特許を挙げるかもしれない。しかし、ここで重要なのはランキングではない。重要な発明(であると各々が思うもの)を正しく理解して、使いこなせているかどうか考えることが、うまいこと経済活動を行っていくポイントであるということなのだ。
 たとえば子どもは、これら発明を理解していない。理解していないから使えない。せいぜいお小遣い増やしてと愚痴をこぼす程度である。
「そういうもんだ」といえばそれまでだが「そういうもん」を見直してみることが案外大切なのではないか。高校生になるまで需給バランスについて考えてみる必要はないのか。小遣いの額を毎月いくらと決め、年齢とともに上げていくという「月給」方式、年功序列方式が果たして最善なのか。
「そういうもん」について考えてみる必要性は、おそらく大人にもある。
 サラリーマンの小遣いがバブル以降最低の月3万6500円(新生フィナンシャル調べ)になった。報道はこぞって新橋のおじさん連中と主婦層の声を拾って、「不況なんだからしょうがない」「そういうもんだ」という結論にもっていく。しかし重要なのは減額の背景にある社会環境の変化であり、減額された分だけ消費されなくなる付加価値であろう。「そういうもん」に対してあきらめがよすぎると感じるのはわたしだけではあるまい。
 ちなみに、人類の始まりからの3大発明は、火と言葉と車輪であるとわたしは思っているのだが、火は電気に代替されたことで問題を起こし、言葉は政治家の武器になった。車輪の進化系である車も、CO2排出という問題のただ中にいる。これら発明も、正しく理解し、使いこなすことができていない典型だ。
 これらですら「そういうもんだ」とあきらめるようになったら、いよいよ日本はおしまいであろう。

「書く」ということ 6月某日 晴れ

 ここだけの話だが、貯金に励んでいる。
 取材現場で一緒になった女史が、そうおっしゃっていた。
 目標金額とその目標達成までの道のりをグラフにして家の壁に貼っている。それをみて励みにしている。そういう話であった。ここだけの話を公開するのは私の趣味であるから、翌日よりそのことをあちらこちらで吹聴していたら、心理学に明るい人より紙に「書く」ことが大事であると教わった。
 書くということは、つまり腕を動かすことである。また、字を見ながら書くわけであるから、視覚にも入る。こうした感覚のインプットによって脳が目標をより強く認識するのだという。
 さらによいのは口にすることらしい。つまり、言う。すると、その音を耳が認識し、聴覚によるインプットも加わって、さらに脳の認識が強くなる。
 人の意識というのは単純である。単純なことの積み重ねが大きな成果につながるというのは、ようするにこういうことを指すのだろう。
 ところで「書く」「言う」というのがこのプロセスのすべてであるわけだが、書くということをわれわれはしなくなっている。パソコンや携帯で打つことの方が多くなっているからだ。もの書き商売を自称しているわたしですら、月に何十万という文字を書くのではなく打っている。「もの書き」ならぬ「もの打ち」である。
 コンピュータは、あらゆることを記憶する。わがパソコンにも、一攫千金のアイデアから偉大なる目標にいたるまであらゆることが正確に記憶されている。恩を返さねばならぬ人と、いつか空手チョップを食らわせねばならぬカタキの名を打ち込んだリストも、密かに更新中である。
 しかし、それらをソラで言えるかというと覚えていない。書かないから身に付いていないのである。
 ところでゲームというのもこれと同じではないか。
 どんな大冒険をしても、殺るか殺られるかの死闘を繰り広げても、感触としてのこるのはボタンのカチカチだけである。そのはてにある達成感を感動と呼ぶかといえば、おそらく違う。感動の感は、五感を通じた感覚の感であるはずだからである。
 ならば、と思って、わが目標を書き記してみることにした。それがなんであるかは教えないが、われながら悪筆であることにあらためて驚く。まさかもの書き商売をしている人が書いた字は誰も思うまい。これも書かないことによる1つの弊害であろう。

ガラパゴスからの脱却

 日本のサービスはガラパゴスである。
 百貨店の丁寧な包装も、電車が遅れたことを駅員さんが執拗に詫びるのも、いずれも日本で進化した「サービス」である。「かゆいところに手が届く」のを通りこして「頼まれてもいないのに肩をもむ」ようなところがある。
 早いはなしが「過剰」である。
 ついでにいえば、丁寧だけど、もうからない。
 その原因をたどっていくと、もしかしたらserviceを「奉仕」と訳したことにあるのかもしれない。「奉仕」には「へりくだって接する」という意味合いがある。美容院などを予約する際にいわれる「お名前さまをちょうだいしてよろしいですか」というすげえ言葉遣いも「へりくだって接する」姿勢が迷走した結果であろう。
 むろん接客という意味でのserviceは「応対」が正しい意味であって、「へりくだる」というニュアンスは含まない。リッツカールトンのスタッフが毅然としているのは、そこを正しく理解しているからである。だから、客に「俺は客であり、したがって偉い」という勘違いをさせないし、サービスでお金が取れる。
「日本=モノ作り」という感覚が根強いことにも原因がありそうだ。国家の成長戦略においても「モノ作り大国の復活」といったことをやっている。
 しかし、日本の労働者の7割近くはサービス業を含む第三次産業に従事している。GDPに占める割合においても、製造業よりもサービス業のほうが大きい。国が豊かになるほど第三次産業の従事者が増えていくことを「ペティ・クラークの法則」というが、日本も例外ではなく、サービス業が増え、第一、および第二次産業に従事する人が減りつづけている。
 ならば、そろそろ「日本=サービス」という概念へ切り替えるときではないか。
 むろん作物であれ製品であれ、モノ作りが尊いことは事実である。しかし、サービス業も同様に尊い。ひとむかし前とは大きく変わった現在の産業構造をふまえるならば、「モノ作り大国の復活」よりも「サービスでいかにもうけるか」を考えたほうが、成長戦略として現実的であろう。
(5.25『商業サービス』)

ささる 5月某日 晴れ

 企画案を出してみよ。
 そういうオーダーをちょくちょくいただく。相手は知り合いの編集者の場合もあるし、このサイトを通じてメールをいただく初見の人の場合もあるのだが、想像力がたくましい妄想家である私にとっては、これはなかなか楽しい作業である。
 頭のなかにはいくつもの案がある。すべて実行すれば私はお金持ちである。いかんせん想像力ほど実行力がたくましくないのがうらめしい。
 先日もこのようなオーダーを受けて、3本ほど案を出した。間もなく、そのうちの1つがなかなか気に入ったという連絡を某プロデューサー女史よりいただいた。
 その際、女史が使ったのが「ささる」という表現であった。
 私はてっきり、提出した3案を壁に貼り付けて、ダーツのようなもので選出したのかと思ったのだが、どうやらそうではなく、「心にささる」ということであるらしい。
「心に○○」という表現には、たとえば、「しみる」や「響く」などがあるが、「ささる」にはまた別のおもむきがある。語感もなかなかよろしい。ふとこれから書かねばならない原稿に多用してやろうかと思ったが、やめた。こういうのは、たとえばプロデューサーみたいな肩書きをもつ人や、新しいもの好きの若者に似合うのであって、足くさで腰痛もちのおじさん向きではない。
 さらにいえば、私はいわゆる新語の類いが恥ずかしくて使えないタイプである。アラサーという言葉も口にしたことがないし、イクメンなんてのは、そういっている己を想像しただけで顔が赤くなる。「しみる」や「響く」でちょうどよいのだ。
 ところで「しみる」も「響く」も「ささる」も、いずれも心を「形あるもの」としてとらえる表現である。凡人的絵心で想像するに、おそらく赤系の色をしたハート形の物体が存在しているから、岩のように「しみる」のであり、楽器のように「響く」のであり、焼き鳥の肉のように「ささる」のであろう。
 一方、私は「心に実体はない」と考えるリアリズム寄りで、非ロマンチックな人間である。だから、じつは「心に○○」という表現は一様にして「ささらない」し、思えば「心」という言葉を使うこともほとんどない。かいつまんでいえば、私にとっての心とは脳であり、脳の一機能としての感情なのである。
 脳は実体である。実体であるから、「しみる」し「響く」し「ささる」。
 とはいえ、脳に「しみる」では飲み過ぎてアルコールがしみているようである。脳に「響く」のはその翌朝であろう。脳に「ささる」は、なにがささったにせよ病院にいったほうがよい。
 いずれにしても「心」という言葉で表現するときのようなニュアンスとはほど遠い。感情や感動を言い表すのはむずかしいものである。

ちぐはぐ 5月某日 星天

 やってしまったのである。
 べつに人生や家庭やふところに傷がつくことではないのだが、昼夜が逆転しちまったのである。
「定時」という概念のないこの商売は、気を抜けばすぐに昼夜がひっくり返る。したがって「明け方まで起きていて、昼まで寝ている」という世間さまのイメージも、あながちまちがいではない。そのなかでは、私は割と規則正しいほうである。1時にはベッドに入るし、世間さまに恥ずかしくない程度の時間には仕事机についている。
 その私がやっちまった理由はほかでもなく、仕事が重なったためである。原稿を書いて、企画書を出して、夕方からはなんとか記念パーティという名の飲み会に出かけて、翌朝はゴルフ場に取材の電話をかける。どこかで寝ようと思っていたら、読まなきゃならない本があったりして、つい寝そびれる。いよいよ寝ようと思ったら、今度は腹が鳴るのでお茶漬けを食べたりする。よせばいいのに鮭を焼いたりして、案の定、目が覚める。
 そういうことを2、3日やった結果、8時間くらいの時差が生じた。ちなみにいまは明け方の4時である。早起きしたのではなく、これから寝ようと思っているのである。もっとも、あと5時間くらいしないと眠くならないであろう。しかし9時には電話をかける用事があるから、寝るわけにもいかない。やりたいこととできることとが「ちぐはぐ」なんである。
 そういえば、かみさんにねだって買ってもらった春モノのジャケットがあるのだが、まだ袖を通していない。「今日こそ」と思ったら案外寒かったり、「今日はちょうどよい」と思ったら出かける用事がなかったりしたためである。そのちぐはぐ感と似ているような気がしたけれど、あまり似ていない気もする。もっとよい喩えがありそうだと思うのだが、朝4時に思いつくのはこんな程度である。
 生活時間帯が世間さまやお天道さまとちぐはぐであっても、とくに支障なく生きていられるのは、灯りがつくし、ネットがつながるし、コンビニがやっているし、車が運転できるからであろう。かみさんを起こすと怒られるが、猫を起こして遊ぶこともできる。
 つまりやるべきことややりたいことがひと通り、しかも難なくできてしまう。それがよいことかはわからぬが、便利であることは確かである。
 ということで、これより晴天ならぬ星天のなか、便利を冠するコンビニに行き、とろろそばといなり寿司という黄金のコンビを夕食として買ってくることにする。

世界を知って感じること

 サービスについて書け。
 このところ、そういうオーダーが多いように思う。
 サービス業を含むあらゆる企業と関わって仕事をすることが多いから、なんとなくおもしろいことを書くだろうという期待が、おそらくオーダーの背景にあるのだと勝手に思っている。
 念のため断っておくと、私はサービスの専門家ではない。コンサルタント的な仕事を生業にしているわけでもない。ならば何者かといえば何者でもないのだが、いただいたオーダーはふたつ返事で引き受ける。できる、できないはこの際問題ではない。断る理由を考えるよりも引き受けたほうが楽であるということが重要なのだ。
 とはいえ、私は案外根がまじめだから、期待には応える。少なくとも応えるために最大限の努力をする。かくして私はツテというツテを編んで情報網を張り、海外をふくむあらゆる地域からサービスに関する情報を集めているのである。
 そのツテの1つがアメリカ在住の友人である。なかなかの賢人である彼は「そちらの様子を報告せよ」というメール1本で事情を察し、こと細かにレポートをくれる。論語のなかで、孔子は顔回という愛弟子を「一を聞いて十を知る」とほめているのだが、ようするにそのような人物なのである。
 当座受け取っているレポートで、おそらく半年はもつ。しかし顔回は、そのレポートがしめてン万円の原稿料に化けることなど想像だにしていないだろうから、この際、貧乏な物書きを演じて、お礼は「今半」のすき焼きでごまかす腹づもりである。同様の手口でなんとか税務署もやりこめられないだろうか。
 そんなことはさておき、レポートを読んでいて感じるのは、アメリカのサービスがどうこうということよりも、アメリカに遊びに行きたいということである。元来、刑事と我々のような商売は「現場百遍」が基本姿勢である。遊んでわかることもある、はずである。
 むろんその費用をクライアントにねだるのは筋ちがいである。出してくれるというのならば遠慮する素振りすら見せずに受け取る。しかしこれもひとつの自己投資ととらえれば、自腹を切るのは当然であろう。根がまじめというのは、こういうところなのである。
 ならば必要なのは旅費である。
 さしあたって顔回への報酬は「今半」から「和民」に格下げする。
(5.10『商業サービス』)

人は変わらない、という誤解

震災をきっかけに、ある暴走族が解散して、ボランティアチームとして生まれ変わったそうである。
 私は個人的に、こういうニュースが好きである。
 若さゆえに一度や二度荒れるのはよくあることだ。それくらいの元気があったほうが健全であるように思うし、「ボクはこれまで悪事をはたらいたことがありませんので、あしからず」なんて人のほうが、信用ならぬ気もする。更生であれ改心であれ、よい方向に変わることを一般に「成長」という。成長したのなら、ほめてやってもよいではないか。
 一方、世間にはこういう変化に冷たい人も少なくない。
 具体的にいえば「人は変わらない」と、信じて疑わぬ人である。
 彼らの思想の根本は、「だめなやつは、永遠にだめなやつ」であるから、「浮気はビョーキだから治らない」「バカは死ななきゃ治らない」という結論にたどりつく。
 しかし、そんなのは嘘である。
 人が「変わらない」ならば、教育はいらない。牢屋も必要ない。なかには同じ失敗を何度もくりかえす人もいるけれど、それでも「つぎこそ変わるかもしれない」という期待と機会を与えるから、社会はよい方向に変わる。
 その意味で、本当の意味でだめな人とは、変わる意欲のない人であろう。
 自分はいまのままでよい。変わる必要はない。これで完成形だ。
 そう思い込んでいる人は案外多い。しかし、それは「変わる意欲がない」という点で、だめな人の思考法なのではないか。自戒の意味をこめて、ふとそう思う。
 ともあれ、かの元暴走族の少年たちにはエールを送りたい。
「人は変わらない」という誤解は根強いかもしれないが、変わろうと努力している人を応援する人たちもいるのである。
(4.30『ティーン』)

その「やり口」はまずいんじゃないの

 暴力的な手段をもって、ある場所を占拠する。
 その場に居合わせた人を人質として、要求を通そうとする。
 これを人質立てこもり犯という。当然ながら凶悪犯罪であり、テロといってもよい。
 はなしは大きく変わるけれど、わが国の総理大臣はどうしてもその席を譲りたくないらしい。同時に「明け渡す用意はある」ということをほのめかしながら、さまざまな要求を通そうとしている(ようにみえる)。
 どうでもよいけれど、どうにかしてもらいたいこのニュースの連続をみていて、連想したのが立てこもりである。理由はほかでもなく、やり口がきわめて似ていると感じたからだ。
 暴力的な手段を用いているわけではない。したがってテロとはちがう。そういう論もあろうかと思う。しかし武器の使用が制限されている日本において、権力は大きな武器だ。それを振回すのならば、それはやっぱり暴力的であろう。むろん人質の立場からみれば、手段が暴力的であるかどうかなどたいした問題ではない。この騒動における人質とは、ほかならぬ被災者の方々である。
 そう考えていくと「明け渡す用意はある」という言葉に振り回されている野党の良識も疑わざるをえない。テロとは交渉しないというのが近代民主主義政治の大原則であったはずだからである。
 インフラがこわされたり、ライフラインが寸断されるなどして困った場合に、国は数少ない頼れる存在なのかもしれない。そのせいか、我々は国がやってくれるのを「期待」する傾向がある。やってくれた場合には感謝すらする。
 しかしその姿勢が誤りであることに、そろそろ気づくべきであろう。
 政治家は公僕であり、国民のために働くのは当たり前のことである。憲法25条にもそう定めてある。
 政治家は期待する存在ではない。監視する対象である。
 血税を払っている我々は、あらためてそのことを認識する必要があるのではないだろうか。
(4.23『デモクラシー』)

まちがった節電

 久しぶりに夜道を歩いて、驚いた。
 自分の目がおかしくなったのかと思うほど暗いのである。
 理由はどうやら「節電」であり、目を凝らしてみれば、なるほど3つに2つという高い確率で街灯が消えている。
 夜道を歩いていたら、前を行く女性が走って逃げた。そういう笑い話があるけれど、走り出したって納得しちまうくらい暗い。ジャスティン・ビーバーくんだって、おそらく痴漢に見えるだろう。
 節電はたしかに大切である。
 性格は悪いが根はまじめである私も、電気はこまめに消す。日当りのよい事務所がいよいよ暑くなり、やむをえずエアコンのリモコンに手を伸ばすときには、「すまぬ、皆の衆」と口に出して断りを入れる。
 しかし、である。目下の「節電」とは日中の消費電力を減らすことが国をあげてのテーマであって、夜間の節電にはたいして意味がない。じっさい夜間の電力には余裕がある。したがって、街灯を消す必要もなければ、熱帯夜に耐えてうなされる必要もないのである。
 こういうところが、日本人のいけないところであろう。
 つまり「節電だ」となれば、朝から晩まで徹底してしまう。敗戦の歴史とともに葬ったはずの全体主義が顔を出して、老若男女で我慢大会をはじめてしまう。「日中の消費電力を減らす」という命題は、もはや影も形もない。
 困るのは誰かといえば、真っ暗な夜道を行き来せねばならぬ働き者の女性たちであり、塾帰りの子どもたちである。あるいは夜間の電力が売れずにますます首を絞められる電力会社であろう。
 節電せねばならなくなったのは、ほかでもなく国と電力会社のせいであって、これは人災であり、二次災害である。
 では、まちがった節電のせいで夜道のひったくりや痴漢被害が増えた場合はどうか。これもまた人災であり、三次災害であろう。責任は街灯を消した行政と、「ネオンを消せ」「24時間営業をやめよ」と迫るエコロジスト気取りにある。「すまぬ、皆の衆」ではすまされない問題なのだ。
(4.1『ポスト大震災』)

「やばい」とはなんなのか

「辟易」という言葉を、若い人たちのどれくらいが知っているのだろう。社会に、政治に、あるいは大人たちのふがいなさに辟易としている若者は多いであろうけれど、辟易という言葉を使ったことがある人よりも、その意味を知らない人のほうがおそらく多いのではないか。
 そんなことを思ったのは、女性タレントらが海外に行って買い物をするというバラエティ番組を観てしまったためである。
 なにしろ彼らの口から発せられる言葉は「かわいい」と「やばい」しかない。
 小物も「かわいい」し、デザートも「かわいい」し、地元の食堂に居合わせたおばあちゃんも「かわいい」。小物はときに「やばい」のであり、デザートの味も「やばい」のであり、食堂の男前な店員も「やばい」のである。
 暇にまかせて最後まで観てしまった私の感想は、やはり「辟易とする」であった。それを「やばい」といいかえてよいものか、今度若者に聞いてみたいと思っている。
 ところで少し前の記事であるが、イギリスの情報誌が調査したところ、世界の美術展の1日あたりの来場者数で、1位から4位までを日本の美術展が独占したそうである。たしか阿修羅展が1位であったように記憶している。あの三面六臂のたたずまいも、いまどきの日本人には「かわいい」のであろうか。それとも「やばい」のか。私は美術に明るいわけでもなければ芸術家でもないが、表現を仕事とする業界の隅っこのほうに関わるものとして、純粋に疑問に感じる。
 いずれにせよ、ほとんどのことを「かわいい」と「やばい」の二言で表現してしまう現状では、阿修羅像のように1000年を超えて崇められる芸術は誕生しないであろう。作り手の立場からみれば、「かわいい」と「やばい」で評価される世界で、全身全霊を込めてなにかをつくりあげたいという気持ちにはなれないからである。
 土が悪ければ、花は咲かない。同様に、言葉が悪ければ、芸術も育つまい。そう思えば、気の毒なのは芸術家とその卵たちである。もっとも辟易としているのは彼らかもしれない。
(4.1『ティーン』)

片付け 3月某日 晴れ

必然か偶然かわからないが、暇ができた。
我々のような商売は暇をもてあましても1円にもならないから、この暇を前向きにとらえて、やろうと思っていてやれなかったことに手を付けることにした。
その1つが、新しいマックへの移行である。
本体はじつは1カ月前に購入しており、ソフト類もそろっていたのだけれど、箱に入れたまま放置してあったのである。いくつかの原稿を同時に進めているなかで、うまいことタイミングを見計らって移行しないとデータや資料のありかがわからなくなる。新しいマックの操作方法がちがったりすると予定通りに納品できなくなる可能性もある。なにしろ私は、スケジュールを守ることをウリにして仕事をいただいてきたような節がある。マックがうまく動かない。だから原稿が遅れたというのでは困ってしまう。
じっさい、ネット環境を整えて、あらゆるデータを新しいマックに移す作業は2日で終わった。古いマックにはなかったソフトも多いのだが、こういうのはきっとこの先も使わないだろうから放っておいて当座なんにも問題はない。なんとも簡単である。やればできる。やらないから、いつまでもできない。ただ、それだけのことだ。
その勢いに乗って、もう1つ手を付けたのが書棚の整理である。
床やテーブルやサブテーブル(メーンテーブルはPC作業、サブは書き物用に使っている)に積み重なっていた本を、どうにか書棚に収納したい。ついでに資料やファイルもしまいたい。そこまで大きな書棚ではないけれど、まあ入るだろう。そんな軽い気持ちで取りかかったら、こちらも2日かかった。読みかけの本をどこにしまったかさっそく忘れたが、一応すべての本や雑誌やファイルや資料が、書棚に収まった。文庫はここ、新書はここ、単行本は背の順にこことここ、と整然と並ぶ書棚の姿は、お見せできないのが残念だが壮観である。見せてあげてもよいけれど、近いうちにまた雑然とするだろうから、それもまた残念である。なにはともあれ、やってできないことはない。
ふと、かみさんがなにをしているのか見に行ったら、同じように自分の部屋を片付けていた。あれこれ引っ張りだして、収納し直している。まったく夫婦とはおもしろいところが似るもんだと思う。ただ、散らかりようが凄まじかったので放っておくことにした。手伝ってといわれたらたまらない。
ほかにも、車を洗ったり、知人の保険を見直したり、買ったまま放置してある本を読んだり、いろいろとやりたいことはあったのだが、そこまで手が回る前にまた仕事がふえてきた。正確にいうと、たまってきた。
ということで、これから新しいマックで、整然とした書棚を眺めながら、原稿を書く。なんだか以前よりも集中して取りかかれるような気がしている。もっとも整理できたのは、PCでも書棚でもなく、自分の頭のなかだったのかもしれない。
ところで、かみさんの部屋は片付いたのだろうか。

偶像 3月某日 晴れ

壁に大きなヒビが入っていた。
取材でうかがった社長室の壁である。今回の大震災で入ったものらしい。ちょうど撮影ポイントにかかるところのヒビだったのだが、こういうものはいまの技術を駆使すれば簡単に消せる。なんなら壁の色だって白にも黒にも変えられる。
そんな話をカメラマンとしていたら、女優からはシワ消し、俳優からは髪の毛増やしのオーダーがたまにあるという。いまどきのカメラマンには、撮影技術のほかに修正技術も必要ということだ。女優、俳優、その他タレントを含むいわゆるアイドル的存在というのは、その言葉が意味する通り「偶像」という一面を持つのだとつくづく感じる。
話はそれるが、日本にはアイドルがたくさんいる。こういう国もなかなか珍しい。アメリカにもハリウッドスターに代表されるようなスターはいるが、まさかテレビ番組に出て、鼻フックを引っ掛けられたりはしない。鼻フックが基準になるかわからないが、きっと日本では「その程度」の人が好まれるのだろう。電車の中でふと見かけたりする程度の人だから親近感がわく。鼻フックを引っ掛けられたりする程度の人だから、なんだか手に届くような錯覚におちいることができる。
あるテレビ番組の街角インタビューで、学生らしき女性が
「○○(ある女性アイドル)が好き。だって、歌がうまいから」
と、答えているのを見たことがある。はたしてこの子がセリーヌ・ディオンの歌を聞いたら、いったいどう評価するのか。同じように「うまい」と評価するのか、多少なりとも差がわかるのか。
話はさらにそれて、B級グルメというものに目をむけてみると、これがはやった理由も、おそらく「その程度」だからだろう。
どこにでもいそうなアイドルとか、誰にでも真似できるようなグルメが流行っているようでは、世界に向けて本物を発信する能力が壊れていくのではないか。そんな危機感を覚えるのはきっと私だけではないはずである。

ご連絡 3月13日 晴れ

幾人かの関係者の方々からこのページを通じて連絡をいただいておりましたので、この場を借りて連絡させていただきます。

私を含め、仙台市内に住む家族および親戚につきましては、無事の確認が取れております。私自身につきましては、たまたま東京へ戻る東北新幹線の車内で被災したために、いくばくかの時間、車内にて身動きの取れない状況にありましたが、12日夜中に無事に家まで戻ることができました。困難きわめる状況のなかで尽力してくださったJR、および車内販売の方々、ありがとうございました。また、ご心配いただいた方々にも、お礼申し上げます。ありがとうございます。

もっとも、現地ではいまだライフラインの復旧もされておらず、混迷のなかにあります。身の安全が確認できていない方々もたくさんいらっしゃいます。
とくに電源のない状態では、携帯電話が唯一といってもよい情報源であり、また連絡ツールであります。そういう環境においては、メールの受信や通話は、携帯の電池の消耗につながり、また地域電波の混雑をもたらします。緊急の用件をのぞいて、被災地方面への通話、メールは控えていただけますようお願いいたします。

私の知りうる情報によれば、市内はまだ余震があり、辺りにはものが散乱しております。しかし、近隣と手を取り、助け合いながら、どうにか難を乗り越えていこうとしています。散々ではあっても、惨々ではない。そうはさせない。
そう強く信じて、市内のみならず、茨城県から青森県まで、広範囲に及ぶ被災者の方々の安全と健康を心よりお祈り申し上げます。
被災地域に関係者をもつみなさま、心中お察しいたします。
気を強くもって、困難を乗り越えていきたいと思います。

すき間の使い方 3月某日 晴れ

もの書きが外に出る機会といえば、たとえば取材であり、打ち合わせである。
これらは、こちらの都合で時間を決められることが少ない。相手が13時といえば、13時で了解である。それは別に構わないのだが、困ってしまうのは、1本目が14時で終わり、2本目が16時から始まるといったパターンだ。4時間くらい間が空くならばいったん事務所に戻る。しかし2時間くらいだと戻ったところでなにもできない。こういう「すき間」をうまく活用する人が、ようするに商売のうまい人なのだろうと思う。
商売のうまくない私は、ほかに思いつかないから喫茶店で時間をつぶすことになる。そのため、ついこの間まではパソコンを持ち歩いて、空き時間に原稿を書くことが多かった。
しかし喫茶店は原稿を書くのに最悪の状況である。
まず、隣のテーブルに座るカップルなりサラリーマン同士なりの会話がうるさい(もちろん彼らに罪はない)。隣で1人でコーヒーを飲んでいる人が、パソコン画面をのぞき込もうとしている気がしてならない(もちろん気がするだけである)。なにより「喫茶店にパソコンを持ち込んでまで仕事をしなければならないほど忙しいんだかんね、オレは」と、気取った感じに見られているような気がして恥ずかしい。
ちがうんです。空き時間をムダにしたくないだけなんです。ホントは忙しくなんてないんです。そう叫びたい気持ちでいっぱいになる(もちろん叫んだら追い出される)。これは精神によくない。こうしたことに気を取られるから、できあがる原稿もたいてい質が悪い(もちろんそれは私の能力のせいである)。
だから、パソコンを持ち歩かないことにした。むしろ積極的に、隣のテーブルの会話に耳を傾け、パソコンを開いている人の画面をのぞき込み、忙しさと無縁な気取らない人になることにした。
どうでもよいことだが、喫茶店などで大きな声で話している人ほど、話している内容が下劣であり、低俗である。そんな気がする。
先日は、隣に就職活動を始めたらしい大学3年生らしき男女が座った。盗み聞いたところによれば2人ともサイバーエージェントに行きたかったのだが、落ちたらしい。
「自己ピーで失敗したかんね。マジ死んだ」と、男が言う。自己ピーとは多分、自己PRのことだろう。「死んだ」割には、元気がいい。
「イーエス(きっとエントリーシートのことだろう)とか面接とか自己ピーとか、就活対策がうまい人が受かるし」と、女が言う。まあ、もっともだと思う。ただ、社会とはそういうもんだとも思う。就活対策どうこうより、まずは普段の言葉づかいに問題があるのではないか、という気がしないでもない。
今日もじつは、約1時間の「すき間」があった。やはり喫茶店に入ったところ、隣に座ったのは、25歳前後の女性2人であった。
どうやら2人とも子持ちであるらしく、見事にキューティクルがそぎ落とされた茶髪のヤンママ風である。とにかく声が大きいから、会話が逐一耳に入る。ナントカという俳優のヒゲが濃いとか、ナントカというタレントがカワイくてヤバいとか。
やがて、片方にはすでに2人の娘がいて、現在3人目を妊娠中であることがわかった。しかし、希望に反して3人目も女の子であるらしく、「もう女はいらねぇし」と言う。なんとも大きな声である。
男の子が欲しかったのだとすれば落胆する気持ちもわからないでもない。しかし、「いらねぇし」と言われて生まれてくる女の子は、母親のそういう気持ちをどういう愛情として受け取るのだろうか。店内の、野蛮で下品で大きな声が届く範囲に、子どもが欲しくてもできない人とか、不妊治療を受けている人がいるかもしれない可能性は考えないのだろうか。ワタシはワタシである。傷つく人がいてもワタシの知ったことではない。彼女はきっとそういう認識なのだろう。
こういう会話は、聞いていて苛々する。精神的にもかなりよくない。だから、じつは明日も、打ち合わせと打ち合わせのすき間が2時間あるのだが、やはりパソコンを持ち歩こうかと思っている。
ちなみに、重たいパソコンを持ち歩かずに済み、時間をむだにせず、かつ隣の他人の不快な会話で苛々せずに済むであろう効果的な解決法は1つしかない。「すき間」が生じないように、打ち合わせや取材といった仕事を詰め込むことである。
仕事、ください。

原稿を聞く 3月某日 晴れ

私は「そこそこ」の人間である、と自分で思っている。
決して頭がよいわけではない。性格も器量もまあまあである。協調性はない。付き合いも悪い方だから会社員には不向きだ。人に好かれやすいわけでもないし、記憶力は非道い。口下手であり、その割には口が悪い。さらに悪いのが目で、メガネがなければどこへも行けない。もの書きという商売がなかったら、私はなにをしていただろう。考えるだけでおそろしい。
別に謙虚な男を気取っているわけではない。謙虚さを心がける美学ですら、いまいち持ち合わせていない。つまり、その程度に「そこそこ」ということである。
フリーランスや起業家には自信家が多いといわれる。この場合の自信とは精神的に折れないための自己防衛である。自信家というポーズをとることで心が支えられることもあるように思うが、一方では「自分は自信をもつほどのものではない」ということを認識しておかないと商売は続かない。自信家であるかどうかを問わず、市場に売れるのは能力だからである。
「他人の芸を見て、あいつは下手だなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。同じくらいだと思ったら、かなり上。うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っている」
だいぶ昔のことになるけれど、古今亭志ん生氏の本にそうあった。私はこの考え方が好きだ。自己評価というのは、ついつい甘め、高めに働くことを、知っておくのは大切だ。
そういうわけで「そこそこの私」なのだが、そのなかでは、耳がまあよいほうではないかと思っている。音楽をやっていたせいかもしれないし、目が悪いから、その代わりに耳がよくなったのかもしれない。日々、ラジオを聞きながら仕事をしているから鍛えられたのかもしれない。とにかく、耳には割と自信がある。じっさい、話を聞き間違えることは滅多にない。台所にいても、リビングから漏れ聞こえてくるテレビの音を聞いて、カミさんがなんの番組を見ているかがわかる。街中には高周波の音を出すネズミよけ装置を使っているところがあるが、その音(というか、不快な周波数)ですら、私は聞こえる。こういうケースでは得しているとはいえないが、とにかく私は、自分の目で見たものよりも、聞こえたことを信じる。それが私の「自己防衛としての自信」でもある。
なんでこんなことをつらつらと書いているかといえば、「ライターって書くことが好きで、文章がうまいんでしょう」と、いわれるからである。たまにこのサイトからも、ライターになるにはどんなトレーニングをすればよいかと聞くメールが届く。人それぞれだと思うが、私の場合、もの書きとして食べてこられたのは耳のおかげだと思う。
人は、目で原稿を追っている時でも、頭のなかでは「聞こえない声」を出して原稿を読んでいるはずだ。そして、その音を聞いている。その音に耳を傾けた時に、つっかかるところや変な調子を感じたら、それはきっと書き直した方がよい。逆に、リズムや音感が心地よければ(たとえば声に出して読みたいとか、誰かに言いたいとかね)、それは読み手の頭のなかにスムーズに入っていく。その意味で、人は原稿を読んでいるのではない。聞いているのだ。だから私は、どんな原稿もぶつぶついいながら音読する。原稿を聞いてみることで、調子の良し悪しがわかるからである。上手に文章を書きたいという方、原稿の音を意識してみてはいかがでしょうか。

究極の質問と、究極の回答 3月某日 晴れ

「究極の質問」というのが流行ったことがあった。
性格の悪い美人と、性格のよいブス、どちらを選ぶか、といったものである。思い返してみれば、なんともつまらない遊びである。
集客施設や接客サービス業の分野では、顧客満足度を高めるためにアンケートを行っているところが多い。「味はいかがでしたか?」「店員の態度はいかがでしたか?」といったことを聞くアンケートだ。
その質問をつくる上で、じつは究極の質問というのがある。
「当社(や、当社の商品・サービス)を、友人や同僚にすすめたいと思いますか?」という質問である。
答えるのは簡単だ。回答が5点満点(5が最高、1が最低)なら、「ぜひすすめたい」と思えば5だし、「絶対にすすめたくない」なら1である。少なくとも、性格の悪い美人と性格のよいブスの2択から選ぶときよりも悩まないだろう。
「当社」の立場からみると、顧客のなかにどれくらい「当社」をすすめてくれるプロモーター的ファンがいるのかがわかる。同時に、1や2をつけた人を数えることで、どれくらいの批判者がいるのかもわかる。ようするにこの質問は、「当社」が自身の評判と潜在的な宣伝効果、批判される可能性を推し量ることができるという点で究極の質問であるというわけだ。ちなみに、1〜5と回答した人それぞれの割合を出して、推奨者のネット(正味)を算出して、その数値を高めていくというのが基本戦略となる。まあ、そのあたりの細かい手順は、集客施設や接客サービス業に関わる人以外には直接的には関係がないから、ここでは説明は省くことにする。
こうしたアンケートでは、回答の選択肢に「ふつう」を含むケースが多い。「ふつう」に似た選択肢には「どちらでもない」もあるし、「わからない」や「それ以外」や「その他」という選択肢もある。
これはあくまで私個人の話かもしれないが、レストランやゴルフ場でのアンケートでも、車検のサービスから保険の資料請求の対応に関するアンケートでも、私の回答はそのほとんどが「ふつう」である。「とてもよい」に丸をつけるほど感動しやすい人間でもないし、「とても悪い」ならアンケートに協力するはずがないし、そんなことを考えていくと「ふつう」に行き着くからである。ネットで資料を取り寄せただけで「スタッフの態度」は評価できないから、こういうのも「ふつう」に落ち着くことになる。「よかった」のか「悪かった」のか考えるのが面倒くさくて、気づけば機械的に「ふつう」に丸をつけていることもある。私に限らず、日本人にはそもそも「ふつう」を安全地帯と捉え、そこに集まってくる傾向があるようにも思う。
アンケートで顧客の感想を聞きたい「当社」にとっては、これは曲者といえるだろう。ならば、いっそのこと「ふつう」のない回答にしたらどうか。「とてもよい」「おいしい」などの「よい群」と、「悪い」「改善を求む」などの「悪い群」に分けて、回答者に「ふつう」という逃げ道を与えない。ようするに、「究極の回答用紙」にしてしまうわけだ。本気で顧客の感想を聞きたいなら、そこまで踏み込んで、顧客とがっぷり四つ組んでもよいのではないか。「ふつう」がない回答用紙をみて、「お、この店は本気だな」と感じる顧客もいるような気がしないでもない。
なにはともあれ、たいして顧客の感想を聞きたいと思っていない「当社」のアンケートに、面倒くさいからという理由で顧客が「ふつう」に丸をして返すというやり取りが、紙という点でも、「当社」と顧客の手間と時間という点でもムダである。そんなムダなやり取りが「ふつう」に行われていることが、「ふつう」ではないことに気づくのが大事なのかもしれない。

年齢とはなにか 3月某日 晴れ

「年を取った」と感じるのはどんな時か。
一般に、高校野球児が自分より年下であることにはたと気づいたときに、男は年を取ったと感じることが多いらしい。私は高校野球にあまり興味をもっていないから、その瞬間はこなかった。プロ野球についても、一線で活躍している選手はたいてい自分と同じ年かそれ以下だが、プロ野球もそこまで真剣にみていないから、とくになんとも思わない。私は年齢よりも若く見られることが多い。その理由は、年を取ったと実感した経験が少ないせいかもしれない。
先月から、ある企業の採用サイトづくりに関わっている。実際に働いている人を取材して、その仕事の魅力などをサイト内で紹介するというものである。取材する相手は、だいたい自分と同じ年くらいの方々なのだが、名刺を交換してみると、相手の名刺には担当課長とか課長代理とか、あるいは課長とか、そういった肩書きがついている。なるほど、私の年というのは世間で長のつく役職につく年なのか。そう気づいたときに、多少なりとも年を取ったと感じた。まあ、だからといってなにが変わるわけでもないのだが。
知り合いが数人集まると、40歳までに課長になりたいとか、20代の子と話が合わなくなったとか、なにかしら年齢の呪縛と戦っていることがよくわかる。年下の後輩に先に出世された。そんな愚痴もよくきく。一方では、たとえば2歳になる子どもが歩いたとか、うちは1歳でおむつが取れたとか、そういう話も耳に入る。人が年齢という〝ものさし〟で測られる実態は、すでにこのころから始まっているらしい。始めているのは誰か。年齢の呪縛と戦っている当人である。よくも悪くも、年功序列という考え方が、ある種の年齢の呪縛であることももはや明らかだろう。アメリカにはこういう意識がないわけではないけれど、薄い。なにしろ学校に飛び級がある。優秀ならティーンエイジャーが大学生になれる。
「28歳からのリアル」「35歳からのリアル」といった本を書いていると、年齢が、数ある〝ものさし〟の1つに過ぎないということがよくわかる。人生戦略という意味では28歳くらいで考えておいた方がよいことや、準備しておいた方がよいことがあるのは事実だが、29歳でそれを始めてもじつはなにひとつ遅くない。27歳で始めている人がいれば、それはそれですばらしい。年齢とはつまり、その程度に重要であるというものである。
携わっている採用サイトは、これから社会人になる新卒の人たちが見るものである。今後どういう活躍をするかはわからないが、先輩後輩というつまらない関係とか、何歳までにどうだとか、そういう小さな〝ものさし〟に囚われず、大胆に活躍してもらいたいと思う。ちなみに私は、今月また1つ年を取る。もちろん、年齢という〝ものさし〟に囚われるつもりも、年を取ったことでなにかを変えるつもりもないが、プレゼントやおごり酒はありがたくちょうだいするつもりである。「いやあ、年取っちゃいましたよ」なんて頭をかきながら。

知り合いと出会う可能性 2月某日 晴れ

手持ちの名刺がなくなった。
新たに発注するついでに、さて、どれくらいの期間でどれくらいの数の名刺を配ったのか計算してみたら、私は1年に100枚くらいの名刺を配っているらしい。名刺を渡す相手は初対面の人だけだから、取材などのインタビューで、あるいは新規の仕事の打ち合わせなどで、年に100名ずつ知り合いが増えていることになる。この商売をはじめて今年で11年目になるということは、これまでにだいたい1000名の人と知り合ったということだ。
そんなにいるのか、という気もするし、そんなものか、という気もする。
東京都の人口は、だいたい1300万人であるという。すると、ふとすれ違った人が知り合い(=仕事を通じて名刺交換をしたことがある人)である可能性は、1万3000分の1だ。数字的にみれば、めったに起きる確率ではない。どうりで街中で知り合いと会わないわけである。ふらっと出かけた地方で知り合いと出会ったのなら、その確率はほぼ奇跡といってもよい。出会った知り合いが美人の女性なら、一晩共にして祝うべきかもしれない。1万3000分の1とは、それくらい起こりえない確率だ。
積極的に人が集まる場所に出向けば、知り合いに会う可能性は高くなるだろう。棚のトビラを開く回数を増やせば、ぼたもちを見つける可能性が高くなるのと同じ理屈だ。
たとえば山手線は、私の数え間違いでなければ11両編成である。1両あたりの定員が150名だとすると、1編成に1650人が乗っている。そのなかに混じって(もちろん、実際にではなく計算上の設定の話)東京から東京まで1周してみると、途中で降りる人、乗る人によって乗客が2回入れ替わるとして、約5000人が乗り込んでくる。なんとなく、知り合いに会う確率に近づいてきた。理屈では、3周する間、乗り降りしてくる人を含めて全員を観察していれば、そのなかに1人は知り合いがいるということになる。もちろん実際に試してみる気はないが、3周する間に美人の女性の知り合いと出会ったなら、やはり一晩共にして祝うべきかもしれない。
私は過去に、街中で知り合いに出会った経験が一度しかない。それは学生のころからの知り合いだったが、後に先にもそれ一度である。一方、私の友人は、ちょくちょく知り合いに出会うという。この間どこどこ駅で誰誰に会ったよ。そういう話をよく聞く。人の行動は、年齢や仕事や生活環境に影響されるから(たとえば若者は繁華街の安い飲み屋に行くし、サラリーマンは新橋で飲むし、ゴールデンウィークに混み合う街はいつも決まっている)、もしかしたら友人が知り合いと出会う回数が多い背景には、そういったバイアスがかかっているのかもしれない。なにはともあれ、知り合いに出会うことが多いということは、それだけ誰かに見られている可能性も高いということだ。それもある意味では気持ちが悪い。おちおち山手線で居眠りもできない。
そういったことをひと通り考えたが、とくに画期的なことも、何かの役に立ちそうなアイデアも浮かばなかったので、とりあえず慣例に倣って今回も300枚の名刺を発注することにする。多分3年くらいでなくなる。それまでに、一度は街中で知り合いと出会ってみたいものである。

文字と原稿と方言 2月某日 晴れ

なにをいまさら、と思わないこともないが、ごくたまに「原稿」をつくる作業がむずかしいと感じることがある。
たとえば先日は、山形弁の人に取材をし、その話を記事にするという仕事を受けた。現場にて彼女は、終始、山形弁であらゆることに答えてくれた。
通常、インタビュー原稿というのは当人の言葉をそのまま使う。せいぜい「食べれる」とか「使ってる」といった「ら抜き」「い抜き」表現などを、「食べられる」「使っている」と直す程度である。しかしながら、彼女はほとんどの言葉を山形弁で話す。「んだべっす」とか「しゃねがっす?」といった当人の言葉は、そのまま原稿にしても大半の人に意味が通じない。そのため、ある程度までこちらで書き加えたり、言い回しを変えたりしなければならない。すると、厳密な意味で、その原稿は彼女の言葉ではなくなる。方言を標準語に直すことで、別人の言葉に読み取れる可能性も生まれる。
そう考えていけば、どんな人の言葉であっても、原稿で表されている以上は、そこにフィクション性が含まれていることがわかるだろう。
歴史上の人物の名言などは、そのほとんどがフィクションであると私は思っている。「和を以て貴しとする」とは聖徳太子の言葉だ(と、いわれている)が、そこに関西弁の匂いがしないのは不思議ではないか。徳川家康は「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し」といったらしいが(ホントに言ったのかどうかも、なんだか怪しく感じてきた)、その原型は名古屋弁だったのではあるまいか。方言を含む言葉を、一般の人に通じにくいという理由などによりこちらの裁量で手を加えれば、その時点でそれはフィクションである。「ノンフィクション」と銘打った映画やテレビ番組や書籍などが、たとえば悲惨さが伝わりやすくなるよう工夫したり、重厚感を伝えようと演出した瞬間に「ノンフィクション」というタイトルのフィクションになるのと同じだ。それは現実かもしれないが、真実ではない。インタビュー原稿が真実に忠実であるべきだとすれば、それは「わかりやすい原稿をつくること」と相反する性質をもつ場合があり、したがって、私はいまさらながら原稿をつくる作業がむずかしいと感じるわけである。
言葉で表現できることには限界がある。それは、物書き商売として知っておくべき大事なことだと思う。限界があるからこそ、できるだけ限界に近づきたいと思う。それがきっと原稿の質、わかりやすくいえば表現力を高めるからである。業界を広く見渡しても、方言に明るい学者はいるが、方言を使いこなす物書きは見当たらない。その分野の限界を目指してみるのもおもしろいかもしれない。

値上がり対策 2月某日 晴れ

コーヒーが値上がりしているらしい。
ほかにも、油とか砂糖とか小麦粉とか、いわゆる生活に密着している食べものが値上がり傾向にある。生活に密着しているものが値上がりすると、世間はにわかにパニックになる。パニックになるとニュースなどで取り上げられる機会が増え、一方で、私のところに質問が来たりする。
「コーヒーが値上がりしているのですが、家計的な対策としてはどうすればよいですか?」
ある記者さんから聞かれて、初めて値上がりしていることを知った。知り合いに確認してみたら、たしかに10%ほど値上がりしているという。ならば、私の答えは簡単である。コーヒーを飲まなければいい。紅茶でもお茶でも、飲み物はほかにたくさんある。わざわざ値上がりしているコーヒーを飲まなければならない理由が見当たらない。まさかコーヒーを飲まなければ死んでしまうという人もいないはずである。買う人が減れば、価格はやがて下がる。需要と供給のバランスで決まる価格とは、そもそもそういうメカニズムのはずである。
しかし、こういう答えはすこぶる受けがよくない。答えが短すぎて記事にならないからである。したがって、質問は「ガソリンも上がっていますが」とつづくことになる。これもいわれて気づいたことだが、たしかに値上がりしているような気がする。
ガソリンについては、実はいつも疑問に感じていることがある。なぜ満タンにする必要があるのか、ということである。
スタンドのない地域に住んでいるなら、まあ理由は分かる。いちいち補給に出かけるのが面倒だからである。遠出する場合にも、やはり満タンにした方が時間効率はよい。
しかし、近所を走るだけの用事でつねに満タンにするのはどうか。ガソリン自体に重量があることを踏まえれば、満タンに近いほど重さが増し、燃費が悪くなる。一週間分の食料を担いで近所を歩き回るようなものである。腹が減るに決まっている。そういうムダが大嫌いだから、私は満タンに入れた試しがない。
そこまで答えてあらためて気づいたのだが、世の中には、大量に買うほど単価が安くなるものがある。たとえばコーヒーも、100グラムのパックよりも、1キロの袋の方が単価は安いはずである。コーヒーショップなどで頼む場合も、SサイズよりもLサイズの方が、1ミリリットルあたりの単価は安い。なぜガソリンにはその方式が取り入れられないのか。入れれば入れるほど単価が安くなるなら、満タン派への転向もやぶさかではない。

スカイツリー 2月某日 晴れ

打ち合わせに行く途中、スカイツリーを見た。
車で出かけるときには、たいていツリーの脇を通る。通らなければならない。久しぶりに見たら、ずいぶんと高くなっていた。自立式の電波塔としては世界一になったという。写真を撮っている人がいれば、どうやらそれ目当ての観光バスも出ているらしい。ツリーに目を取られて、観光客を轢いたりしないよう気をつけなければならない。
名所ができることは喜ばしい。
そこに人が集うことも望ましいと思う。
しかし一方で、かねてから不思議に思っていることがある。なにを愚痴りたいのかと言えば、なぜ地上デジタル放送になるための負担を、視聴者が支払わなければならないのか、ということである。ある調査によれば、テレビの買い替えなどを含む地デジ以降に関わる負担は平均で20万円を超えるそうである。その負担を拒めば、ある時期からテレビが映らなくなり、情報難民になる。そもそも誰が地デジ化を希望したのか。私は別に希望していない。安藤優子氏の顔が鮮明でなくても、石川遼選手の打球が多少見づらくても、別に困らないからである。
もっとも反対するのも疲れるから、ウチはとうに地デジを受信している。そのための料金も着実に取られている。しかし、ではどんな番組が増えて、どんなことをやっているのか確かめてみれば、アニマルプラネットは喜々として見ているが、あとはおそらく放映料が格安であろう韓流ドラマと、テレビ局の収入源となる通販番組ばかりである。そんなもののために全国民が負担を強いられるというのは、少し考えればおかしいことがわかる。それを当然だとテレビ局の人たちが考えるのであれば、私はいよいよアニマルプラネットしか見ない。官僚や政治家をやり玉に上げながら、既得権がどうこうとテレビのニュースはいう。じゃあ自分はどうなのさ。シカみたいなぬいぐるみがテレビに出てくる度に、いつもそう思う。

増税議論 1月某日 晴れ

デフレとは「モノあまり、カネ足りず」のことである。
「モノあまり、カネ足りず」だから、「モノ減らし」か「カネ増やし」が解決策となりうるはずである。あたり前のことだけれど、そこがわかっていなのではないかと感じることが、世の中ではよく起きる。消費税の増税がそのひとつである。
増税するとどうなるか。たとえば、消費税5%が10%になれば、105円だったものが110円になる。しかし、消費者が持つカネの量は同じだから、購買力は95.45%に落ちる。つまり「カネ足りず」が促進されて、「モノあまり」に通じる。
増税直前は、おそらく「もうすぐ消費税が上がるから」ということで、かけ込み需要が生まれる。しかし、それは一時的なものに過ぎない。「需要の先食い」が根本的な解決策にならないことは、家電やエコカーのエコポイントで実証済みである。すると、デフレから脱却するためには、減税がじつは有効であることがわかってくる。支払う税金が減れば、その分だけ手元のカネが増え、購買力が高まるからである。市場に出回っているモノが減って、「モノあまり、カネ足りず」の状態が軽減される。
それでも世間には「増税はやむを得ない」という空気が漂っていることが不思議だ。ある調査によれば、将来的な消費税の増税に賛成、もしくはやむを得ないと答えている人は50%を超える。いずれ大幅な増税をしなければならない。減税はありえない。そういう前提で話が進むニュースを見ていると、本当にデフレに対応しようという気があるのか疑ってしまう。
ところで、今年は卯年である。論拠と呼ぶにはとぼしすぎることを承知でいえば、株式相場は卯年と相性がよい。1949年に再開して以来の東証の歴史を参照してみても、卯年に株価が跳ね上がったことが多い。相場格言にも「辰巳天井、午尻下がり、未辛抱、申酉騒ぐ、戌笑う、亥固まる、子繁栄、丑つまずき、寅千里を走り、卯跳ねる」とある。
神頼みしたところでよいことは起きないが、まあ、まだ年初だし、ものごとを楽観的に捉えるのもたまには悪くない。増税やむなしの風潮が見直されることを期待したい。

田舎にあって都会にないもの 1月某日 晴れ

都会には、田舎にはあたり前にあるものが、ない。
たとえば、土がむき出しの地面がない。目に入るところはコンクリートで埋めてしまうためである。だから、野草がない。また、電車の時刻表を調べてから家を出るという習慣も都会にはない。原発もない。星空もないが、これは〝見えない〟というべきか。
知っている人は知っているし、知らない人にとってはどうでもよいことだが、わが家(と事務所)は都会のなかにある。まわりはコンクリートである。2分歩けばコンビニがある。しかし、都会のそれだから、正月だろうが夜中だろうが欲しいモノが手に入る環境はあるが、駐車場は〝ない〟。そういう環境で生きていると、それがあたり前だと思うようになる。先日、もうひとつ都会にないものに気がついた。野良犬である。気づいたきっかけは、ゴルフ場に行く途中の田舎道で、野良犬が車にはねられて死んでいるのを見たことである。
なぜ都会に野良犬がいないのか。いまさら狂犬病対策で保健所がパトロールしているわけでもあるまい。国内では、ネパールで犬に噛まれた青年が帰国後に発病した1件(1970年)を除けば、1957年から発生0件である。ようするに、食べものも寝床もあるけれど、野良犬が繁殖できない。所有者のわからないものは不審物であり、徹底的に排除する。それが都会という社会である。
犬がいないせいか、猫は街中で元気がよい。さきほども駅から家まで歩く間に2匹の猫とすれちがった。もっとも、それらが野良かといえばかなりあやしい。1匹は立派なペルシャ風であった。あんなオシャレ風情が〝自然〟に産まれる社会とは、ほとんど人間の新生児が服を着て産まれてくるようなものである。もう1匹は十分に太っていた。おそらく去勢した雄だからだろう。もちろん、ちらりと見ただけだから雄かどうかはわからない。先日、美人のモデルさんがテレビに出ていると思ったら、じつは男性であった。30年以上も見ている人間ですらその雄雌がわからないのだから、猫の雄雌なんかわかるはずがない。猫との付き合いは10年を超えるが、10年でわかることはたかが知れている。
ニュースを見ていたら、イノシシやサルが出て困っている人がいるという。そういえば秋口にはクマが出てニュースになった。都会を少し離れた場所の話である。どうやらその辺りにも野良犬はいないらしい。犬がいれば、イノシシやサルは逃げるはずだからである。
なにかが増えた場合の影響は、じつはそこまで大きくない。影響が想像できるからである。しかし、なにかがなくなった場合の影響は未知である。よい影響もあれば、悪い影響もある。世の中にはなくしてよいものもあれば、だめなものもあるはずだが、それがつまりわからない。ゆとり教育制度によって学習指導要領から「なくなったもの」は、日本の学力低下という影響をもたらした。それがあらかじめわかっていれば、ゆとり教育なんて実施しない。ソ連がなくなったら、アメリカの一強体制になった。そのさきでアフガン戦争が起きて、リーマンショックが起きた。がんが不治の病でなくなったら、年金問題が出てきた。近所付き合いがなくなったら、SNSができた。
「なくせ」というのは、じつはかんたんである。あるものを「なくす」わけだから、それが〝自然〟でないことは、少し考えてみればわかる。おかげで喫煙所もなくなった。では、「なくせ」という場合に、なくなった場合の影響に対する責任は伴わないのか。不出来な社員がいなくなればよい。そういう声をよく耳にする。そういう人が、じつは不出来な社員との相対評価で、いまの自分の価値を確定できていることを忘れる。いらない。だから、なくそう。戦争の背景には、そういう考え方がある気もする。排除よりも共存。たまにはそんなアプローチで考えてみる必要がある。

年収が下がる原因 1月某日 晴れ

年収が2割下がったとしたら、家計はどう組み立てればよいのか。
そんな取材を受けた。どうするもなにも、家計を作り直さなければならない。現在の収入が600万円なら、480万円ほどでまわる家計に作り直す。そういう意識をもつことが第一歩じゃないですか。そんなことを答えたように思う。あとは記者が有能だから、きちんした原稿にしてくれる。最近、こういう仕事が増えた。楽をしているようで、なんだか恐縮である。
ひととおり答えたところで、小さな疑問。そもそも「年収が2割下がる」という設定はどこからきているのか。根拠は「現実」にあるらしい。
サラリーマンの平均収入を調べてみると、10年前から12%ほど下がり続けている(1999年から2009年)。なるほど、年収2割減はじつは身近なものらしい。また、従業員100人以上の会社で働く人の収入は、その20%がボーナスである。収入に対するボーナスの割合は大企業ほど大きく、5000人以上の会社で29%、資本金10億円以上の企業で28%に達する(いずれも男性の場合)。ボーナスが大きくカットされれば、まさしくそれは年収が2割下がった世界だ。
そういえば、政権与党のマニフェストには公務員の人件費を2割カットするというものがあった。「果たされない約束」にいちいちつっこむのも手間だが、公務員の給与は、世間の給与とリンクすべきだと私は思う。「民」を知らずに「官」や「公」は務まらないからである。公務員の給与は、サラリーマンの平均給与と同額にしたらどうか。そんなことを思う。
政治家の給与は、もっとシビアでよい。はたせなかったマニフェストひとつにつき給与を1割ずつカットするのはどうか。10個マニフェストを掲げて、1つも達成できなければ給与は0にする。それでもやりたい。街を変えたい。国を変えたい。そういう人なら、仮に役に立たなくても、税金のムダにはならない。おそらく世間は文句を言わないし、そもそも言う筋合いがない。
給与が減っても生活水準が下がらないよう、民間企業は努力している。安く買えるものをつくり、そのための知恵を絞りつづけている。その成果として得る利益から、たとえば法人税のような仕組みを利用して、「官」がわけ前を取っていく。ようするに、民が努力し、官がその足を引っぱる。その構図が変わらない限り、年収が2割下がるというシナリオは時間の問題か。私は給与を全額国に返還します。そういう政治家は出てこないものか。

英語はホントに必要か 1月某日 晴れ

英語ができない役員は2年以内にクビにする。
企業における英語の公用化を、いつかどこかの企業がやるだろうとは思っていたが、そのさきがけは楽天だった。そしてユニクロが続いた。約半年前のことである。
冷静に考えれば、実務の効率化という点ではあまり意味がないだろう。使える単語が減れば、思考能力と処理能力が落ちるはずだからである。ようするに、右利きの人が左手で文字を書くようなものである。また、10年もすれば、携帯サイズの翻訳機がきっとできる。わざわざ英語を学ばなくても翻訳機の登場を待てばよい。優先順位の高い「やるべきこと」は、英語の勉強のほかにたくさんある。
そんなことは、きっと楽天もユニクロもわかっている。では、なぜあえて英語か。まったくの予想だけれど、従業員の危機感と勉強意欲を高めたいのではないか。通常の仕事以外のことはやらない。自分をレベルアップしていくことに能動的でない。そういう人はいらない。そんなメッセージが感じられる。あるいは「英語を学ぼう」といわれ、いわれるがまま英会話スクールに通ってしまう人を、将来の幹部候補から除外する算段かもしれない。英語ができればそれでよい。そう思っている人は、近いうちにクビにする。そういう経営方針に、やがてシフトしていくのではないか。
日本は古くから「読み・書き・そろばん」を教育と教養の基礎としてきた。もっとも、文字が読め、文字が書け、計算ができればよいという意味ではない。「読み」は理解力、「書き」は表現力、「そろばん」は論理的思考といいかえることができるからだ。その意味で、英語ができるということは、すなわち英語で書かれた文書を理解し、英語で表現できるということを意味する。そこで「そろばん」が抜け落ちる。「読み」が理解力、「書き」が表現力という点で、これら2つは「主観」の能力だろう。一方、「そろばん」は論理的思考であり、つまり「客観」である。計算機やエクセルを使いこなせるという狭義の「そろばん」ではなく、ものごとを客観的にとらえ、分析する、あるいは組み立てられるかどうか。そこがじつは問われるのではないか。実務としての計算は機械で十分である。しかし、計算のアルゴリズム自体は、人が作らなければならない。私が経営者なら、そういう「そろばん」ができる人が欲しい。じっさい、今年4月入社の新卒の内定率は、文系の学生が45.9%、理系の学生が67.8%であったという。機械にできることを、人間がやってもしょうがない。他の人のほうがうまくできることを、わざわざ自分がやる意味も小さい。そこにビジネスマンとして生き抜いていくためのヒントがあるように思うのだが。

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ライター 伊達直太

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