ライター伊達直太/取材後記2017

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取材後記 2017

年末について 12月末日 晴れ

あっという間であった。
師走とはよくいったもんで、師匠クラスが走るのであるから、平民の私は全速力である。
気づけば、やらねばならぬ仕事が山積みになっている。クリスマス、年末、正月、正月旅行などに向けた準備が重なる。結果、脳みそも体もフル回転である。忘年会などの飲み会に参加しない(というか呼ばれない)のがせめてもの救いである。この上、内臓までフル回転させたらおそらく私はぶっ倒れるであろう。
新年を目前にして、今年はこんな年だったなあ、来年はこんなことしたいなあなどと耽る時間があったのはいつのことだろうか。
ちょっとだけ今年を振り返ってみたが、印象に残っていることはほとんどない。イベントごととしては旅行をしたり七五三をやったりしたわけだが、そういうことですら無理やり思い出しているところがある。
年をとるほど1年という時間の長さは相対的に短くなる。そのせいだろうと割り切って、特にこれといった思い出なく、かといって困ったことも悩んだこともなく、総じて可もなく不可もない1年を無事に過ごせたことに感謝することにしよう。
もうちょっとだけ今年を振り返ると、家庭の面ではあらゆることが順風満帆であり、仕事の面ではやりたい仕事の量を、比率的にも時間的にも増やせたことが良かったことだと思う。
風が吹けば倒れ、風邪をひいても倒れる弱小フリーランスにとって、やりたい仕事を語ることは身の程知らずであり、ましてやりたいかどうかで選り好みするなどもってのほかなのであるが、心の奥底でこういう風に稼ぎ、こんな風に暮らしたいというイメージを持っていたら、結果としてそちらの方に寄ってきた。
念ずれば通ず。おそらく、そういうことなのだと思う。
思っていることが無意識のうちに行動や言葉や原稿や人づき合いに表れる。結果、自分が変わり、周りも変わり、環境が変わり、人生が変わる。そんなメカニズムなのではないか。知らんけど。
そういうわけで、来年も与えられた家庭内外の役割を粛々とこなしつつ、心の奥底で理想を念じながら暮らそうと思う。

月間・年間収支について 12月29日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

可もなく不可もなく。
まさにそんな感じである。
大きく食らうこともなく、かといって大きく取れるわけでもなかった。
地合いがこれだけよかったのだから、大きく食らうはずはなく、大きく取れないのがおかしいのであるが、なんで取れなかったのだろうか。
理由は単純だ。ビビリだからである。
10年くらい前まで振り返れば、当時はリスクがなんたるかをよくわかっていなかったこともあり、大きく食らうこともあったが、大きく取れたことも多かった。そのやり方でいっていれば、今年はおそらく爆益で、今ごろハワイでピニャコラーダをすすっていたはずである。
ただ、リスクがなんたるかが徐々にわかってしまった。何度か致命傷を喰らい、予想外の暴落を喰らったことで、いつの間にか無理しないギャンブルになってしまった。
そうなると、もはやギャンブルと呼べないのではないかという気すらするのだが、性格は知らず知らずのうちに変わり、戦略(というほどのもんでもないが)は大きく変わっているもんである。
リスク重視のギャンブルをギャンブルと呼ぶかどうかはさておき、そう変わったことを成長と呼ぶ向きもあるのだが、私はそうは思わない。
ギャンブルに限らず、あそこでもう少し押しておけばよかったと反省したことはこれまでに何度もある。ビビって損した、遠慮してしくじったという後悔も多い。その経験が生きていないという点で、私は全然成長してないと思うのである。
成長ってなんだろう。ある方向から見れば成長であっても、別の視点から見ると退化であったりする。そう考えると、成長は単なる変化にすぎないのかもしれない。投資に絶対がないように、成長にも絶対的成長なるものはないのではないと思ったりもする。
それはそうと、今年も株、為替、仮想通貨界隈の凄腕の方々と何人もお会いすることができた。こういう縁が広がっていくことがギャンブルトレードに興じる大きな楽しみの1つである。

子供を叩くことについて 11月某日 晴れ

人は見た目が重要といわれる。
確かに見た目で判断できるところもあって、私は見た目が悪人であり、中身もそれ相応に悪人だ。
ただ、悪人ではあるのだがマトモなところもあり、例えば子供にはどんなことがあっても手を上げないという鉄の意志を持っていたりもする。
暴力反対とか無抵抗主義のような崇高な考えを持っているわけではない。
むしろ時として暴力が必要な場合があるかもしれないと思うことはあるし、相手が自分より強い場合、あるいは先に暴力をふるってきた場合に限っては、応戦やむなしであり、鈍器までなら武器を持ち出しても良いとすら思う。
ただ、子供は別である。何歳までを子供とするかにもよるが、少なくとも一般的な大人より体力的、知力的に弱い小学生以下の子供らに対しては、どういう理由があっても手を上げてはならないと思うのである。
私が幼い頃は親や学校の先生に叩かれるのが当たり前だった。私は優等生だったから叩かれたことはほぼないが、振り返ってみればその頃から、大人が子供を叩くことを嫌悪していたように思う。
言葉の商売をするようになって、なおさらその意識が強くなった。
人はなぜ暴力的になるのか。伝えたいことが伝わらず、瞬間的に許容できるストレス値を超えるからである。
では、なぜ伝えたいことが伝わらないのか。伝えたいことをうまく言語化する能力がないからだと私は思う。言語化できないから論理的に考えられず、感情的になるのである。教育や躾といった言い訳を虚構の盾にして子供を叩く人の話などを見聞きする度、子供と接する前に本でも読んだらどうかと思う。
ところで、私は夫婦円満に過ごしている方だと思うが、唯一カミさんと揉めるのがそこである。カミさんはボウズやチビをぽこぽこ叩く。その都度、私はカミさんを怒る。カミさんはカミさんなりの理由や考えがあるのだろうが、私から見れば問題の本質は言語化する能力が足りないことである。
一方で、子供を叩くんじゃねえと何度もいっているにも関わらず、現状としてあまり変化が見られないのは、自分の伝える力が足りていないからだとも思う。本でも読むか。

勉強について 11月某日 晴れ

勉強が嫌いという人は多い。
嫌いだったという人もいるし、いまだに苦手意識を持っている人もいる。
その原因について、いわゆる頭のいい人たちは義務教育段階の教育システムの問題とか教師の質とか詰め込み学習の話などを挙げることが多いが、私はそうは思っていない。そういう教育環境の中で育ってきたが、私は勉強が好きだし、できれば今も勉強だけして生きていきたいとすら思っているからである。
なんで勉強が好きだったかというと、おそらくそこが自分の得意分野であることを子供ながらに理解していたからだと思う。得意というのは言い過ぎか。苦手ではない。やっていて苦ではない。そんな風に捉えていたように思う。
昔から運動は得意ではなかった。周りのみんなと仲良くしたり、周りをまとめたりするのも、学級委員や生徒会長的な役割としてやってはいたが、楽しいと思ったことはほとんどない。テストで100点を取る。そのために勉強する。そういう目標とプロセスがなかったとしたら、私の学校生活は地獄だったはずである。
それから何十年か経って、子供がぼちぼち勉強する年になった。足し算、引き算の計算と、ひらがなの練習をするくらいであるが、嫌々やっているそぶりを見せつつも毎日続けている。計算問題で全部正解し、喜んでいる時もある。
できると嬉しい。わかると面白い。勉強って楽しい。子供に勉強させる理由はそう感じてほしいからである。スポーツの楽しさや友達と遊ぶ楽しさは、残念ながら私自身の実感が薄いので伝えられない。だからそこは幼稚園に任せる。一方、勉強が楽しいことは実感しているから、方法論としての伝え方の良し悪しはともかく、伝えることはできる。机を並べて勉強し、わからないところを教えて、丸付けをして、できた時に一緒に喜ぶ。
勉強を見る側の親が勉強嫌いだったとしたら、子供だってばかではないから「おまゆう?」と思うだろう。大事なのは、親の役目として勉強を見ることではなく、親が率先して勉強を楽しんだり、そういう姿を見せたり、勉強の時間を共有することなのだと思う。
将来的に勉強ができる子になるかはわからない。そこはあまり重要ではなく、仮にできないことがあったとしても、楽しい、好きと思う気持ちがあればどうにかなるものだ。そんなことを思いつつ、今日も横で勉強しているボウズの様子を見守っている。

月間収支について 10月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

歴史的な1ヶ月であった。
日経平均がこれでもかというくらい上がる。気づけば過去最高の連騰記録となり、バブル崩壊後の高値をつけるまでになった。
バブル期の日本がどんな様子だったかについて、私はよく知らない。当然、その頃は株も投資もやっていないわけだから今の株価は未知の世界である。
既知の常識を当てはめるなら、天井を打って落ちてくる可能性もある。
しかし、未知の世界では何がどうなるかわからない。
異常値に見えるけど、もしかしたらもっと上がるかもね。
そんな軽い気持ちでホールドしていたらお小遣いを得られた。ありがたいことである。
きっかけはいろいろあるのだろうが、大きな要因は選挙だろう。与党が勝つだろうという期待で買われ、与党が勝ってさらに買われた。
爆発のガソリンになったのは緑のおばさんと、その施策に振り回された党である。私はあのおばさんも振り回された党も好きではないし、むしろ嫌いであるが、自滅によって株価上昇に寄与してくれたのはありがたい。そういう意味では、糞も肥やしになるし愚策も何かしらの役に立つものだと思う。
それはそうと、離党とか結党とかで右往左往している人たちを眺めていると、群れないと何もできない人が多いのだなあとつくづく感じる。会社のような民間の組織においても派閥争いなどの話を聞くと、悪い意味でそういう幼稚な部分があるのだとも思う。
群れることが悪いとは思わない。AKBグループのように群れることが成功要因になることもあるとは思う。しかし、それは子供がやることであって、大人が血眼になってやることじゃねえだろうと思う。
そう思うのは、もしかしたら私が群れることを嫌い、組織的に活動することに苦手意識を持っているからかもしれない。あるいは、どの組織にも入れてもらえないフリーランスというボッチな存在であることに、潜在的にコンプレックスを感じている可能性もある。いずれにしても、ボッチな人間が小銭を稼げる商売があってよかった。これもありがたいことである。

人は人、よそはよそについて 10月某日 晴れ

神経質か無神経か。
私はどちらかというと神経質な方だと思う。いまだかつてズボラだと言われたことはないし、適当だ、雑だと言われたこともない。
部屋や机の上は基本的には整理整頓である。家具類は壁に対して水平または垂直に配置されるのが望ましい。
クローゼットのシャツ類は色別にしつつ、赤系から青系にグラデーションにする。当然、ハンガーは同じもので統一されていなければならない。
手帳には予定をマメに書き込み、仕事部屋のホワイトボードには未着手の仕事と未請求の仕事を記入する。
1時間に1回はメガネを拭き、スマホの画面は毎回拭く。
外出するときにはハンカチとティッシュを持っているか3回確認し、ドアの鍵をかけたか5回確認する。
寝る前はガス台とドアの鍵を確認し、寝ていたとしてもちょっとした物音がすればすぐに起きて出どころを確認する。
私にとっては、そういう生活ぶりが落ち着くし、周りの人にもそうあってほしいと思うし、反対のことをやっている人は嫌いである。
そのような性格であるから、無神経のグループに属する人と一緒に過ごすのは割とストレスがたまる。相手が悪いというわけではない。私の性格が、私自身のストレス要因になっているということである。
仕事では相手を選ぶことができず、無神経グループの人と一緒になることもある。そのストレスに堪えられるようになったのは、10数年続けてきた中で、人は人、よそはよそ、という考え方が根付いたからだと思う。
他人の考え方や行動を変えるのは極めて難しい。これは自己啓発書などの仕事をやってきたからよくわかる。自分自身についても、性格を変えるのは至難の業だ。人は簡単には変わらないし、変えられない。ただ、付き合う人と付き合い方は変えられる。人や自分の性格や行動を変えるのと比べて、付き合う人や付き合い方を変えるのははるかに簡単である。
人間関係がストレスだと悩む人がいる。それはおそらく、難しいことをやろうとしているからだろうと思う。

月間収支について 9月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

またしても微プラであった。
時給換算すると、黙ってアルバイトした方が良いくらいの微プラである。
月の前半は北リスクでチャートが機能しなくなり、チャートしか見ていないから当然のごとく痛手を食らう。
チャートが使えないチャート族は、地図を持たない旅人と同じであるから、迷子になって当たり前だ。むやみに歩くから腹が減る。ギャンブルトレードでは腹ではなくお金が減る。
迷った時はじっとしているのが一番である。休むも相場とはよくいったもんだ。そうとわかっていても、じっとしていられないのがギャンブラーたる理由なのだろうと改めて思う。
中盤からは相場が落ち着いたのと、解散選挙の話が追い風になったので、損失分を取り戻した上、多少のお釣りをもらうことができた。
その過程で技術的に得たものもあるから、微プラでもまあよしとしよう。北リスクのような冷やし玉がなければ果てしないバブルだったかもしれないと思うと、それはそれで怖い。きっと調子に乗って買いまくり、崩壊の爆発に巻き込まれていただろう。そう考えれば微プラで満足である。微プラ、ラッキー。
それはそうと、仮想通貨のバブルが継続中である。
こういうのはギャンブルとして楽しめる(儲かるとは限らない)だけでなく、仕事になったりもする。
かくしてここ数週間で仮想通貨関連の仕事の打診をいくつか受けた。
仮想通貨の記事を作りたいのですが、詳しいですか。見知らぬ人からそんな話を受ける。
詳しいというほどじゃないですが、ぼちぼち遊んでます(儲かってるとはいってない)。なんとなくそう答える。
そんなやりとりを経て、記事作りの手伝いなどをする。引き受けるからにはそれなりに調べるので、その過程で仮想通貨事情の知識が増える。当然、仕事であるから小銭も入る。一石二鳥である。
これを一石三鳥にするのが目下の企みである。つまり、トレードの方でも儲けたいんである。

選挙について 9月某日 晴れ

選挙をやるらしい。
私はそっち方面に興味がないが、アベノミクス政治がちょっとした転機を迎えることについては思うことがないわけでもない。
ここ数年の間に、日経平均株価は倍になった。失業率も減った。
政治的なあれこれは知らない。思想的なあれこれもどうでもいい。
ただ、経済的なあれこれという点では評価できる。吹けば飛ぶフリーランス稼業の私が生きのびてこられたのも、ベースである経済状態がよかったからである。
世の中には景気が良くなったと感じないという人もいる。
左寄りが多いメディアはそういう声を嬉々として取り上げるが、それは違う。数字で見てわかる通り実際に景気は良くなっている。
良くなったと感じないのだとしたら、きっと鈍感なのだろう。あるいは、景気回復時の恩恵を受けるためのリスクを取らなかったからである。
そういう様子を見て思うのは、景気が良くなれば何もしなくてもお金が増えると思っている人が多いんだろうな、ということである。
景気が右肩上がりの時に現役時代を過ごし、左前になってから年金生活している高齢の人は、その傾向が強いのかもしれない。だとすれば、そういう人たちも含めて、全員が平等に一票ずつもつシステムは果たして理にかなっているのだろうか。
そもそもの話として、政治は未来を向いた作業であるから、未来ある若い人ほど政治の重要度は高くなる。しかし、人口動態として高齢者が多いから、高齢者層の意見が通りやすくなり、支配力も強くなる。
そう考えると、ますます現行のシステムは歪んでいると思う。そういうイビツな構造の中で、18歳から投票できるようになったことは、解決策とは程遠いけれども、政治は若い人のためにあるということを周知する1つのきっかけにはなるかもしれない。多少は若年層のボリュームが増えるだろう。
個人的には、10代や20代の人に1人20票ずつあげてもいいと思う。
相手が自分より若い場合に限り、票をあげても良いという仕組みにしたらどうだろうかとも思う。その場合、私のような無関心層から票を買い上げて、高値で政治団体に売りつける業者が出てくることは必至だろうけども。

やりたいことについて 9月某日 晴れ

戦争リスクが続いている。
ミサイルやら核実験やら、どこまで本気なのか知らんが、それ関連の話題がどうしても耳に入る。漠然とした不安や恐怖感に襲われる。
厄介なのは個人として対策できることが少ないことである。
事故や泥棒なら警戒すればいい。地震などの天災も備蓄したりできる。
しかし、ミサイルは無理だ。飛んできてから逃げるのは不可能だしあらかじめ逃げるにしてもどこに飛んでくるかわからない。
乱暴な言い方だが、頼れるものは運しかない。不安や恐怖感が漠然としているのも、対策も対応もできず、何をすればいいかわからないからなのだと思う。
そうとわかったら開き直るしかないだろう。
テールリスクではあるが、戦争が起きたことのことを想定しつつ、それまでにやりたいことをやっておいた方がいい。スティーブ・ジョブズが言った「今日が人生最後の日だったら今日やろうとしていることをやりたいか」みたいなことである。
では、私は何をしたいのか。
子供らと遊び、笑って過ごす。衣食住にはほとんどこだわらないから、それなりに美味いメシで、清潔で快適なら十分だ。仕事に関しても、命をかけてまでやりたいことはないし、行ってみたい場所はあるが、絶対に行きたいというほどのことでもない。
そう考えると、これらが全て実現している私は、今の人生にとても満足であり、やり残していることもない。死ぬまでにやりたいことが、人生の目標と同義であるとするならば、現時点で私は目標を達成しているのである。幸せなことだ。
だからといって戦争が起きても構わないというわけではない。目標が重要なのは、達成できるかどうかではなくて、達成した状態をどれだけ長く維持できるかであるから、今の私の幸せな状態を壊すかもしれない戦争は非常に困る。
守りたい幸せがある人ほど、それを失うかもしれないという不安や恐怖心も必然的に大きくなりやすい。戦争は断固として反対であるが、自分が今どれだけ幸せなのか改めて考える機会になるという点では、戦争リスクは百害あって一利くらいあるかもしれない。

月間収支について 8月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

微プラである。
それ以上でも、それ以下でもない。
今月は夏休みモードで、手数がとても少なかった。いつもの月の10分の1くらいであり、結果的に全て1週間ちょいのスイングになった。
それが良かったんだろうなと思う。
どうせ夏枯れ相場で上がらないし、という一種の諦めみたいなものもあって、買おうかなと思ってはやめ、売ろうかなと思ってはやめる(つまり何もしない)を繰り返していたら微プラになった。
尚、微プラで終わることができたのは、買いどころを間違えた低位株をこっそりナンピンしていたところ、月末になって急に上がり、悶絶含み損が含み益に変わったのが大きい。
普段ならとっくに損切っている。でも、やる気がなかったので放置していたら助かった。要するに運が良かったということであり、私は相変わらず運には恵まれている。
一方で、こっそり利益になっているものもある。仮想通貨である。
トレンドフォロー気味で買っているこっちの買い持ちは、平均が@25万くらいで、8月末の時点で@50万円であるから、短期で2倍になった。
もっと買っておけば、というタラレバはあるが、微プラでもなんとなく満足感があるのはそっちでそこそこのプラスになっているからだろう。
これについても、いつもならもっと早い段階で利益確定していただろう。でも、なんとなく放置していたら儲かった。これも運である。
それにしても、たかだか数ヶ月で倍になるとは恐ろしい。
この先どう動くかは知らんが、円やドルの値動きなどと比べると、これを通貨と呼ぶのはどうかとも思う。
先月まで1万円だったものが今月2万円になったりしたら世の中はパニックになるだろう。それが当たり前のように起きるのが仮想通貨であり、そういうギャンブル性の高いところが非常に私の好みである。

心身の健康について 8月某日 晴れ

一種の職業病なのかもしれない。
とある本の担当がうつになり、とある雑誌の担当がうつになった。ここ1年ほどの間に、である。
うつというとITエンジニア系や教員が患うようなイメージがある。しかし出版関係にも多い。私が関わったことがある人に限っても、少なくとも10人は患っている。
そのまま異業種や地方に行った人もいるから、その後どうなったのかは知らない。あの人、この人のことを思い返してみると、真面目な人が多かったようにも思う。その点で、性格的にはエンジニアや教員と共通するのだろう。
私は割と真面目な方である。しかし、彼らはもっと真面目なのだろう。あるいは真面目の種類が違うのかもしれない。
働き方という点から考えると、こういうのも一種の職業リスクなのだろうとあらためて思う。というのは、大手企業の場合は例えば休養が取れたりして病気を治すことができるが、吹けば飛ぶフリーランス商売の私は病気にかかったと同時に詰むからである。
仕事ができなくなり、お金がなくなる。家族が困り、その様子を見てさらにプレッシャーを感じる。フリーランス商売は、いとも簡単にそういう負のスパイラルに入るだろう。
経済的な保障もなければ物書きとして復帰できる保証もない。あまり意識しないが、実は破産と紙一重のところで商売をしている。
個人事業は体が資本であり、精神的に健康であることも同じくらい大切だ。過度な真面目さに疾病の一因があるのだとすれば、ほどよく不真面目であることが長く商売を続けていくための自己管理とも言える。
体の健康については、区の健康診断があるので、気が向いた時に受診する。酒とタバコから離れたことがない不摂生な日々を送っているが、結果はいつもオールAだ。親とDNAに感謝である。
心の健康についてはその手の健康診断がないので、暇つぶしを兼ねてネットのセフルチェックをやってみた。結果は「問題ありません」であった。
私は真面目だから気をつけなければと思い、破産の可能性まで考えていたが、全くいらぬ心配であった。

年寄りについて 8月某日 晴れ

なぜに年寄りは不機嫌なのだろうか。
不機嫌な表情に見えるだけの人もいるのだろうが、実際に不機嫌で、周囲の他人などに強く当たっている人もいる。
高齢化は大きな課題で、年金や医療費を含む経済的な問題も重要なのであるが、私はそれよりも不機嫌な人が増えることを懸念する。それがもっとも身近な老害であるとも思う。
そう思うのは、職業柄、日中街中をウロウロしているからかもしれない。
子供らと散歩に行ったり夕飯の買い物に行ったりする。そういう時に不機嫌な老人を頻繁に目にする。
何でそんなに高圧的なのか。なぜにそんなに偉そうなのか。
横柄な年寄りは、見ていて気分が良いものではなく、子供の教育にも悪い。
もう少し物の言い方なり、他人との接し方があるだろう。
年齢差別だエイジズムだという人もいるだろうが、私はそういう線引きをしたいわけではない。
子供らしさ、男らしさ、女性らしさ、日本人らしさというものがあり、それが人の魅力を引き立てる要素であると思うから、年寄りは年寄りらしくあった方がいいと思うのである。
そもそもの話として、愛想よくしておいて損はない。ニコニコしていれば周りに人が寄ってくる。力を貸してくれる人や助けてくれる人も増える。
些細なことであるが、それも1つの処世術だ。私のような未熟者ですらそんなことはわかる。
一方、私よりはるかに人生経験が豊富であるはずの不機嫌なジジイや偉そうなババアにそれがわからないのはなぜなのか。
自分は自分のみの力で生きているのであり、他人の力など借りなくても立派に生きてきたのだと思っているからだろう。それは悲しく寂しい勘違いだ。
自力で生きているという意識が、例えば高飛車な口調や高圧的な態度として表に出るから、周りはこいつに力を貸す必要はないだろうと思う。勝手にしなさい、と見捨てたくなる。
そうやってお互いの距離が広がっていくことが悲しく寂しい。他人をどうこう言える立場ではないが、私はそういう年寄りにはならないようにしようと思うのである。

月間収支について 7月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

煽り屋が元気だ。
煽り屋とは、この株がいいよ、上がるよと宣伝し、信じた人たちを飛びつかせ、株価をつり上げる人たちの通称である。
ビジネスモデルはシンプルだ。煽る前に安値で大量に買っておく。飛びつかせて株価が上がったところで売る。株の利益は買値と売値の差額であるから、当然の結果として煽り屋が儲かる。中には実際には売買せず、煽りの部分だけを担当して報酬をもらっている人もいるらしい。
私は投資界隈の端っこの方でおこぼれをありがたく頂戴しているだけの身分だから、真相は知らん。風の噂なのかもしれないし、火のないところに煙は立たないのかもしれん。
人が何をして稼ごうとその人の勝手であるから、私は煽り屋についてどうも思わないし、どうこういう立場でもない。
ただ、不誠実だとは感じる。
私が過去にお会いしたことがある投資家や関係者は、一様に真面目であり、投資やトレードと真剣に向き合っている。そういう人たちから見れば、煽り屋は場を乱す原因である。迷惑と感じている人もいるし、不快感を表している人もいる。
一方で、自由な市場とはつまり公共の場であるから、場を乱している当人が自覚しているかどうかに関係なく、周りに迷惑をかける人も自由に出入りする。電車や街中や公園といった公共の場においても、招かれざる客は常にいる。そう考えれば、健全な市場というものは、コンセプトはよくわかるが実現が難しい。そういう側面も現実として受け入れなければならないのかもしれない。
一つそこに解決策があるとすれば、モラルを高めることなのだろう。
スポーツの世界にスポーツマンシップがあるように相場にもトレーダーシップのようなものが必要だと私は思う。正々堂々と勝負する。実力でぶつかって結果を受け入れる。実力が足りなければ努力する。
そういう意識や姿勢を高めるという点で、端っこの方でおこぼれを頂戴している私にも、何かしらできることがあるのかもしれないと思う。
そんなことを考えつつ、とても高貴な目線で取り組んだ7月のトレードは微損で終了した。なんでやねん。

暇について 7月某日 晴れ

やることがいっぱいだ。
そう感じていた日々が幻だったんじゃねえかと思うくらい暇である。
急いでやることもなく、やるべきことはやってしまったし、そもそもやることが少ない。ボウズの幼稚園がなければ旅行でもしていただろう。
弱小フリーランスとしてはやることがないのは致命的であるが、例年のことなので今さら危機感はない。例年のことなのに手持ち無沙汰になるのは、趣味とかそういうものがないからだろう。
釣りでもやるか。釣りはもともと、仕事がない武士が暇つぶしに始めたものであるらしい。
魚を取ることが目的なら網で効率よくとった方がいい。わざわざ竿一本でやるのは、目的が魚ではなく暇つぶしであるからだという。本当かどうかは知らない。でも気持ちはわかる。
私は物書き商売においては貴重な締め切りを守るタイプでもあるから、暇となれば次々にやることをやる。
あれもやっちまおう。こっちも片付けちまおう。
そう思って先を急ぎたがるのは時間主義者だからだと思う。
だから暇になってもぼーっとすることができない。おかげで連載については年末の分まで片付いてしまった。もっと先まで進めてもいいのだが、連載が終わったりしたら無駄になるから区切りのいいところで止める。ぼーっとすることも含めて、無駄なことはしたくない。私は時間主義者であると同時に損得勘定で動くせこい人間なのである。
こういう性格がまずいのは、ジジイになってからなのだと思う。ジジイは毎日が暇だろうし、生きているだけでコツコツ損していくからである。
子供らを連れて公園で遊んでいると、日の高いうちからベンチで談笑している老人の集団をよく見かける。果たして自分はそういう日常を楽しめるだろうか。全く自信がない。一般的には暇がストレス解消になるのだろうが、私には暇がストレスそのものである。
お金を貯めるのは、いつか使うためである。時間はどうか。日々せっせと時間を切り詰めているが、そうやって生まれた時間を私は何に使うのだろう。もしかしたら目的のない貯金をしているのかもしれない。

選挙とメディアについて 7月某日 晴れ

いつの間にか終わっていたらしい。
知らないうちに選挙が始まり、気づいたら終わっていた。
私はそっち方面に関心がなく興味もない。投票にも行かない。だからかもしれないが、選挙カーがうるさくてたまらん。何党とは言わないが、投票よろしくお願いしますと家の電話にかけてくるのも勘弁しほしい。
向こうも商売だからワイワイやらなければならないという事情は察するものの、もう少し穏やかに、上品に、できれば他人の迷惑を考えてできないものだろうかと思う。
自分にとっての主張は、誰かにとっては騒音である。自分の信念を貫くことは、誰かにとっては思想の押し付けである。
そういう視点で世の中を俯瞰することが政治なんではないかと思う。そう考えなければ世の中をよくすることなどできないのではないかとも思う。だから結局、政治は政治家の自己実現に過ぎないのだと思う。よく知らんけど。
よく知らないついでに行ってしまうと、この党が大勝するのかという意外性もあった。
メディアの影響が大きのだろうと思う。
若い人の投票率は低い。ということは投票しているのは年齢層が高い人たちだ。彼らがどんなメディアと接しているかというとテレビや新聞などマスメディアである。そしてマスメディアは基本的に左寄りである。風が吹いて桶屋が儲かるみたいな話になるが、そういう背景があって与党が弱くなり、相対的に野党や新党が強くなり、今回のような結果になるのだと思う。
ネット界隈では右寄りの人が多く、そういう人たちをネトウヨと呼ぶ。一方、既存メディアは左寄りが多く、それをテレサヨというらしい。
私は右でも左でもどちらでもいいと思うし、どこの党も応援しない。
ただ、言葉を扱う物書き商売としては、テレサヨという言葉は興味深いし、実態を捉えていると思う。こういう言葉が流行語になったりしたらよいとも思う。
そう思ったのだが、そういえば流行語大賞を選んでいる団体も左寄りだったっけと思い出した。
思想というものはいろいろなところにはびこっていて、なかなかたちが悪い。一歩距離を置くのが良いと思うし、個人的には3歩くらい距離を置きたい。

税金について 7月某日 晴れ

もろもろ支払いが終わった。
もろもろとはつまり税金や年金であり、拙宅に限ったことではないのだろうが3月から7月くらいに色々と引かれる。出費という点ではうちはこの連打がダメージであるため、この時期を無事に乗り越えられるかどうかが大事だったりする。
何気なく自動車税の額を見て、高けえなと思った。気になって調べて見たら、エコカーは安く、非エコカーは高いという設定に変わっていたらしい。新しい車は安く、古い車は高いという濃淡も付いていた。
どうりで高いはずである。拙宅の車は非エコカーの古い車だからである。
そのことについて、私はイマイチ納得がいかない。
新しい車の方が環境負荷が小さいのは知っている。排気ガスありきで考えるならハイブリッド車や電気自動車のユーザーに税金面でのインセンティブをつけても構わない。
でも、環境負荷の全体像を考えると、例えば新車を作る際にも負荷がかかるだろう。乗り換えるということは古い車を処分するということでもあるわけだから、その部分でも負荷がかかる。
その点の評価はどうなっているのか。勿体無いという日本の古き良き価値観に照らせば、古い車に長く乗ることにも何かしらのインセンティブを与えて良いのではないかと思うわけである。
賢い人たちが計算して設定しているのだから、現状の税率が税収面でも経済面でもおそらく最も効果が高いのだろう。新車を減税する。乗り換える人が増える。メーカーが儲かる。関連会社も儲かる。法人税が取れる。そんな感じだろうか。
それでもやはり表面的だと思う。排ガス原理主義だとも思う。
全ての人に平等な税制はあり得ない。だとしたら、個人としてはその枠組みの中で最も有利に生きるための方法を考えなければならない。
巷のマネー本などを開くと、税制優遇を生かそう、こうすれば節税になるといったテーマの記事がうんざりするほど載っている。
そういうものに踊らされていると目先の一万円は浮くけど、その裏でもっと大事で価値があることが見えなくなりそうな気がしてならない。

月間収支について 6月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

コツコツドカンという言葉をご存知だろうか。
コツコツと利益を重ねている時に、ドカンと大きな損失を出し、スタート地点、あるいはもっと手前のマイナスに戻るという最も嫌な事象の1つである。
私はそれを年に2回くらい食らう。食らった時にはリスク管理の甘さを痛感し、こうすれば避けられたよなと反省もするのだが、その意識が甘くて長続きしないからたまに食らうのである。
今年のそれは今月であった。
6月は全体的にバブルであり、その恩恵を多少受けつつコツコツととれていたのだが、最後に大きく食らってマイナス地点まで送り返された。すごろくの振り出しに戻るより厳しい。謎のバイオ株を大量に抱えていたのが原因である。
それはそれでいいとして(いいのかよ)、開示が出た翌日の朝一で損切らなければならない時に使っている口座がDDoS攻撃とやらで繋がらなくなった。原因については後で知ったことで、知ったところで興味もない。繋がったのは30分後くらいで、傷口に塩をすり込まれた損失を淡々と確定しつつ、DDoSってなんだろうね、と思った次第である。
直近の相場には、ミサイルがあり、トランプスキャンダルがあり、為替とも乖離した状態でずっと株高であった。そういうリスクも当然考えなければいけないのだけれど、ツールが動かないというリスクも重要だ。
これはカブコムに限ったことではなく、昨年は松井が動かなくなったことがあった。どのツールにもリスクはあるのだ。
いわゆる分散投資の考え方で銘柄を分散することに私はあまり意味を感じないが、持っている株を複数の口座に分散することは、使える資金を常に確保しておくという点も含めて結構大事だろうと思う。ドカンがあるかもしれない臭い株を持つ場合は特に大事なのだろう。
最初から臭い株を持たなければいいという考えもあるけども、リスクとらないと最初からやらない方がいいし、ドカンコツコツ(ドカンととってコツコツ損切る理想的なパターン)の実現もできないだろうから、それはここでは脇におく。
さて、気分を変えて年の後半も頑張ろう。

残念なことについて 6月某日 晴れ

朝の9時くらいであった。
どっさり溜まっている仕事をやるかと思いつつ、とりあえず株で遊んでからにしようと決めて間もなく、ツイッターで訃報の予兆らしきものを見つけてしまった。
人生で一番泣いた日。そう書かれたブログが更新されたという内容だった。
それから色々と考え込んでしまった。
子供を残して旅立たねばならぬ気持ちはいったいどれほど辛いか。母親を失った子供がどれだけ悲しいか。少し考えただけで心が潰れる。普段の私は心がない冷血冷酷そのものであるが、この知らせはこたえた。上の子がうちと同じ年だから、どこかに勝手な親近感があり、こっそり応援していたからかもしれない。
人生は不公平だ。そんなことはわかっている。
無慈悲であり残酷でもある。それもわかっている。
わかってはいるが、辛すぎる現実である。
私ですらそう感じるのだから、当事者の辛さや悲しみは想像すらできない。
それを興味本位でほじくるメディアは相変わらずクズであると思うが、それすらも正直なところ、どうでもいい。
世界で一番大切だと感じる何かを手にするということは、世界で一番大切だと感じる何かをいつか手放さなければならないということの裏返しでもある。
一番嬉しいことは、つまり一番悲しいことにもなる。そういう振れ幅の大きいリスクを、我々はあまり考えることなくとっている。当たり前の日常は、突発的な非日常になる。
そういうどうでもいいことを考え、自分で自分の意識をなるべく感情と遠いところに持っていくことでどうにか平静を保つことができたが、それでもやっぱり残念に思う気持ちは抑えられず、涙で値動きがよく見えないので株で遊ぶのもやめた。
母親がいない子育ては大変だと思う。
これからも勝手な親近感を持って、こっそり応援していきたい。

人への興味について 6月某日 晴れ

私はあまり人に興味がない。
取材させていただく相手については興味を持つし、それなりに色々調べたりもするのだが、それも取材という機会があってやることだから、機会がなければおそらく興味を持たないだろうと思う。
なんで興味を持たないのかというと、他人と接することで不愉快に感じるリスクが嫌だからである。イラっとすると精神的にもパフォーマンス的にもよくない。それなら最初からこじんまりとした人間関係の中に収まっている方がよいし、少なくとも私には合っている。
生活も人間関係もミニマルがよい。そういう思いが年々強くなっている。
だから私のラインには2人しかやり取りする相手がおらず、飲み会に誘われたのは確か3年前のことであった。誰かお友達になってくれませんか。
それはそれで寂しく虚しいのかもしれないが、それでもやっぱり私はこじんまりがいい。
そう思うのは、見ず知らずの人と接すると、全盛期のイチローを超えるくらいの打率でイラっとするからである。
過日、ある人からメールで仕事の依頼があった。こういう企画があるから頼みたい。とりあえず企画内容を添付するから、読んだ上で引き受けるかどう返信せよ、というような内容である。
大変恐縮だが丁重にお断り申し上げた。
依頼内容のメールが長文すぎて読む気がしなかったし、添付を送りつけてくるところもどうかと思ったからである。引き受けたら、きっと後々さらにイラっとするだろう。それなら最初から断る。我ながら偉くなったもんだと思うが、自己防衛という点でこういう案件は避けるのが正解なのだ。
物書き商売としてそういう姿勢はどうなのか、と指摘する人もいる。
人とつながることで仕事が広がる。人脈が重要だ。自分で世界を狭めてどうする。そういったお叱りも受けかねない。
しかし、現状として私はそれなりに食えているのでその手のご指摘は不要である。ありがたく聞き流す。
人脈は作るものではなく勝手に生まれるものだと私は思う。人に対する興味も同じで、興味を持つのではなくて興味が勝手に湧くものなのである。

思い込みについて 6月某日 晴れ

思い込みは怖い。
素直で謙虚な人は思い込みなどないのかもしれないが、そこそこ頭が良い人や、頭が良くないくせに自分は頭が良いのだと思っている私のようなタイプはいろんなことを知っているつもりで、間違っているか実は知らないことが多い。
ちなみに頭が良くないくせに自分は頭が良いのだと思っているのも思い込みであり、これはかなり恥ずかしいことである。
フィッシング詐欺というものがある。
私はその語感からfishingであると思い、顧客情報を釣るという意味なのだろうと思っていた。でも、実際はphishingである。
文字で食べている人としてこういう間違いは極めて恥ずかしい。幸い、誰かに指摘されたわけではなく、夜な夜な1人でサイバー系のアメドラを見ている時に間違いに気づくことができたので恥ずかし固めの刑には処されなかったが、こういう単純なものほど思い込みが発生しやすいのかもしれない。
転じて言えば、わかりやすく、理解しやすいことほど嘘くさいし危ないということだ。
人はわかりやすい結論を求める。白か黒、良いと悪い、ブスか美人か。そういう二極論で物事を理解しようとする傾向があるということである。
なぜそうなるかというと、その方が楽だからだ。明確な答えのないグレーな問題を抱えていると気持ち悪い。面倒な問題ほど、早く結論を出し、思考から取り除きたいと思う。だから多少強引かもしれないなと感じたとしても、決着をつける。
でも、どこか強引な論理があるから、間違えたり、間違いを正解と思い込んだりする。それで恥をかくのだ。恥かいて済めばよいが、問題の本質を見誤ったり、安易に解決するくせがついたりすることもある。
世界で一番わかりやすいなんとかとか、物知り風のおじさんが噛み砕いて説明してくれる本とか番組が人気があるのも、世間が二極論を好むからだろう。
その手の情報は、たいてい強引な論理から結論に至る。だから、娯楽やゴシップ情報なのだと割り切って楽しむのが正解であり、そこに楽しさを感じない場合は見る価値がない。情報としての価値もないので、安易に信じるなどもってのほかである。
もちろん、これも私の思い込みである。

バブルについて 5月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

バブルである。
為替はもたもたしているが株価は高い。
いずれ乖離が埋まりそうな気もするのだが、今のところは株価だけ強く、セルインメイもなく、あっちこっちでバブっている。
特に最近感じるのは、ミサイル発射があったりテロが起きたりしても株価がほぼ動じないということである。
いつからこんなに強くなったのか。
彼らが経済的混乱を目的に悪事を働いているのだとしたら、さぞかしもどかしく感じていることだろう。ザマアミロである。
平和が一番である。正義は勝つ。
逆に言うと、勝てないということは正義ではないということであるから、バブルに乗れていない私は実は正義ではないのかもしれない。
5月はちょっとお小遣いが取れた程度であった。それはそれで感謝するのだが、もう少し勝てたはずという反省の方がはるかに大きい。
誰か勝ち方教えてくれませんかね。
それはさておき、世間がバブってきているということで、私のところに再び投資関連の仕事が増えている。
どこでどうやって調べているのか知らないが、見ず知らずの出版社や編集プロダクションから連絡がくる。
株では儲からないけど、株関連の仕事で儲かる。
こういうのもバブルの恩恵なのだろう。
靴磨きの少年の話に重ねるなら、これも一種のフラグなのかもしれない。
そう思うから、私はますます警戒するし、だからバブルに全然乗れない。
バブルというのは、先頭切ってばかになった人がもっとも楽しめる状態のことだ。性格的に私には向いていないが、諦めたら永遠に儲からない。
なので、新しいことに挑戦するという意味で、ダブル・オア・ナッシングで攻めるお金を作った。そのための口座も振り分けた。
これで日経2万円からのバブルに乗ろう。
ナッシングになる気しかしないが。

錯覚について 5月某日 晴れ

パレイドリアを知っているだろうか。
カレードリアではない。パレイドリアである。
例えばホワイトボードに丸い磁石がくっついている。
それが逆三角形に並んでいると、普段はなんとも思わないが、ふと顔に見えたりする。それである。
一時期、私はそれが頻発していたことがある。
歩いているときは雲の形、運転しているときは前の車のテールランプ、シンクの蛇口と水栓、3つ口のコンロなど、それらが笑顔に見えたり怒った顔に見えたりしていた。
自慢ではないが、後ろ指さされる生き方をしてきた。
だから、誰かに見られている、狙われている、呪われているという潜在意識があったのかもしれない。
そういうことは全く気にならないが、なぜ顔に見えるのかは気になったので、調べてみたらパレイドリアにたどり着いた。シミュラクラ現象とも言うらしい。舌を噛みそうな名である。
自動的に顔と認識するとはなんとも不思議な機能である。脳は私の体の一部であるが、全く使いこなせていないのだと改めて思う。
話は変わるが、心霊写真というものもこれが原因である。
苦悶する女の顔に見えたり、恨めしく誘う老人の影に見えたりするのは、そう見えるだけであって、そうではない。
霧や影やちょっとした光の加減などを、脳が勝手に顔なりなんなりと認識しているのである。
そう断言するのは、私が怪奇現象を信じないからである。厳密に言えば、少しでも信じると出くわしそうでおっかないので、そんなものはないと決めつけているからである。
霊やお化けの類が苦手という人は、ぜひパレイドリアなのだと頭の片隅に入れておくと余計な恐怖心にとりつかれなくて済むはずである。
夏になると心霊番組が増える。誰がなんのために作っているのか知らないが、全くたちの悪い冗談である。

小旅行について 5月某日 晴れ

沖縄である。
ボウズが海というものを認識できるようになり、チビにもそれなりの認識力が出てきたので、実に10年ぶりくらいに沖縄旅行をすることにした。
旅行前日まで仕事が山積みで、旅行日と重なる日に取材依頼も来ていたが、そういうことは関係ない。
弱小フリーランスにとって、休日は実質的な損失であり、依頼を断るのはクライアントへの謀反でもあるわけだが、10年ぶりならバチも当たらないだろう。
そう割り切って「沖縄に行くぞ」と家族に伝えた。
家族サービスではない。自分サービスである。
天気予報によれば沖縄は梅雨のさなかで雨マークの連続であったが、私は極度の晴れ男であるから晴れるに決まっているのであり、実際、晴れた。
かくして家族は喜び、自分も満足し、あっというまに数日がすぎ、あと3日でいいからいたかったと偲んでいるところである。
振り返ってみれば、しっかり仕事から離れたのは相当前のことである。
全くPCを触らず、メールも見ずに過ごしたのも、もしかしたら独立して初めてのことではないか。
遊びみたいな仕事じゃねえか、と言われればそれまでだが、遊ぶにしたって環境は大事だ。日常を離れるほどよいアイデアも湧くという。
沖縄で妙案を思いついてわけではないが、頭は十分にリフレッシュした。
子供らが寝たあとで、夜な夜な波の音を聴きながら、ホテルのベランダでシークワサーサワーなんか飲みながらぼんやりするという環境を、私はどこかで求めていたのであり、必要としていたのである。
日本人は働き者だと言われる。実際、そうだと思う。
真面目だから働く人もいれば、心配性だから働く人もいる。いずれにしても働き者であり、働きすぎのところもある。私もそういうタイプである。
でも、そうまでして働く理由が本当にあるのだろうか。
理由なく働いているとしたら、それほど馬鹿らしいことはない。
私が働く理由はなんだろうか。
そういう疑問が浮かんでしまった以上、じっくり答えを探すべく、早々にまた沖縄へ戻らなければなるまい。

携帯について 5月某日 晴れ

21年の付き合いであった。
ふと思い立ち、携帯キャリアを乗り換えることにした。
なんで最初にドコモにしたか。そんなことは忘れた。
なぜ21年も続いたのか。なんとなく、であろう。
変えてもいいし、変えなくてもいい。私にとってのドコモは常にそういう存在だった。
変えようと思ったのは、スマホを落としてガラスが割れたからである。
交換してもいいのだがお金がかかる。調べたところ1万円くらいかかるという。完全かつ純粋な損失であり無駄な出費である。
私は損得勘定で生きているから、こういう損をすると夜も眠れない。
1万円がどうこうではなく、損したという事実に耐えられないのである。
そこで妙案が浮かぶ。格安スマホにすればいいと気づいたのである。
ざっくり計算したところ、キャリアを変えると月5000円くらい浮く。つまり1万円の修理費は2ヶ月で補填でき、スマホを落っことしたという私のミスが帳消しになるのである。
しかも、3ヶ月目以降は得になる。どんどん得する。
損して得するとはまさにこのことであろう。
スマホを落っことしたというミスは、もはやミスではなくファインプレーですらある。
手続きは簡単だった。ショップに行かなくても新しいスマホが送られてくる。乗り換えに必要な予約番号みたいものもネットで取れる。
乗り換え作業が難しいと思っている人は多いと思う。しかし、別に難しくはなかった。
携帯などを乗り換える際に生じる、面倒くさそう、難しそう、できなさそうといった心理的な障壁をスイッチングコストという。
人は感情で動くので、その壁の前で躊躇することが多いのだが、一歩踏み出せば乗り越えるのは簡単で、見返りとして得することが多い。
面倒くさがるのは損である。
なんとなく、で続けるのも損である。

月間収支について 4月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

戦争リスクである。
今さら思うことなのだが、トランプ大統領は、実質的に何もしていないのに株価をぶち上げるという偉業を成し遂げた人物である。その反動があるのかもしれない。最近になって何かし始めたら、ピタリと上昇が止まった。米国は止まっているが、日本は下がっている。これもおかしな現象である。
どういうわけか、この手のリスクにはしっかりと付き合わされるので、今月も出だしこそ好調だったが、しっかり利益を削られた。放っておけばたいていは戻るので、スイングの方は無傷であり、ラッキーパンチが当たってプラスも出ているが、短期が地獄で、やればやるほどお金が減る。じゃあ、やらなければいい。追証アラートが鳴りかけて、ようやくそう気づいた次第である。
ところで、世間一般では、そろそろ投資をやった方が良い、みたいな話がよく出ている。ロジックとしては、こんな感じだ。預金しても利息はつかない。年金不安もある。だから自分のお金は自分で増やさなければいけない。だから投資なのである。まあ、わからなくはない。
でも本当にそうなのだろうか。年金問題などがあって将来が不安なのはわかる。ただ、投資をしたからといってその不安が消えるわけではない。むしろ、新たな不安を抱え込むことにもなる。戦争リスクはその1つで、持ち越している銘柄が下落するのではないかという不安が新たに生まれる。夜中にNYが暴落したらどうするか。為替が暴れたらどうなるか。そういう不安は、投資をしなければ無縁でいられたはずのものなのである。
不安だから投資するというロジックに違和感があるのは、将来の不安とお金の不安を同列で語っているところだろう。あるいは、投資をすれば誰でも簡単に確実に儲かるという前提で話が進んでいるところかもしれない。
個人的な見解として、投資は、不安を戦略的かつロジカルに解消したい考える人間的かつノーマルな思考の人には向いていないと思う。逆に、不安が増え、あらゆる変化に敏感になり、楽観と悲観が頭の中で混じり合い、その結果として、何だか生きている実感が湧いちゃう、というマゾヒスティックまたは変態気質の人には向いていると思う。私はそのタイプである。投資は不安をなくすものではなく、不安を前向きに楽しむ手段であると最近よく思う。

結論ありきについて 4月某日 晴れ

好きな揚げ物はなんですか。
いつだったか忘れたが、そう聞かれたことがある。男女数人で飲んでいた時のことだ。私の答えは、厚揚げであった。なぜなら私は豆腐が好きであり、揚げ物も好きであり、厚揚げはその2つを合わせた最高の食いもんだと心の底から思っているからである。
しかし、その場の反応は「そうじゃなくてさ」みたいな感じであった。要するに、メジャーかつポピュラーな揚げ物を挙げなさいということである。だったら最初から、唐揚げと天ぷらはどっちが好きか、と聞いてくれればよい。
こういうやり取りを、結論ありきという。時間の無駄だ。
飲み屋でよくあるどうでもいい会話に難癖つけるのもどうかと思うのだが、こういう無駄なやり取りは仕事でもよく起きるのではないか。
なぜ会議がつまらないのか。その理由を掘り下げていくと、結論ありきの話し合いに付き合わされる疲労感があるからだろう。私はあまり会議などに参加せず、あとで結果だけ教えてちょうだいと頼むずるい人間だから、そういう徒労感を感じることは稀であるが、それでもゼロではない。会議は全員のコンセンサスを得て1つの結論に達する場であるような錯覚に陥るが、そうではない。誰かが決めた結論に納得したり、させられたりする場なのだと私は思っている。
取材も似たようなところがある。取材に向けた質問を準備するプロセスとして、こう答えるだろう、こう考えているだろうという結論を想定するからだ。それに合わせて質問を作る。結果、誘導尋問のようになってしまうこともある。もちろん、こちらが想定していなかった答えが返ってくることもあるわけで、そういう取材がいい取材と言ってもいい。そう考えると、世の中に溢れている記事や報道の中で、いい取材をしたものが実は少なく、ほとんどのものは読んだり見たりする必要がないということもわかるのではないだろうか。
ちなみに厚揚げの会の時は一瞬白けたが、まもなくして「私は辛子蓮根」という女性が現れ「私はサーターアンダギー」という女性も現れ、私を含む3人で意気投合した。3人で二次会に行き、三次会もした。思い出すだけで鼻血が出そうなその夜の結末は、結論ありきではないからこそ実現したことわけである。昨夜、辛子蓮根を食べて、ふとあの夜のことを思い出した。念のため書いておくが、結婚する前の話である。

個人情報について 4月某日 晴れ

世代なのかもしれない。
私の周りには、私よりひと周りくらい若い人が多い。世代区分でいうと平成生まれであり、ゆとり世代と呼ばれたりもする。
ちなみに、私の周りにいる彼らや彼女たちは、いわゆるゆとり世代に見られるような抜けたところがなく、一様にしっかりしている。自分が20代後半だったころとは比べ物にならず、全員ではないけれど、ちゃんとしている。ゆとりはダメといった通説は「最近の若いもんは」と同じくらい俗説であり、嘘であるとつくづく思う。
それはさておき、彼らと雑談していて感じるのは、自分のプライベートな事情を割と色々と喋るということである。趣味や生活パターンなどについてだけでなく、もっと深いことについてまで私によく話す。
例えば、給料がいくらである、こんな方法で運用をしている、貯蓄がいくらあるといったことを話す。あるいは、彼氏または彼女がいる、週末に泊まりに行く、同棲中であるといったことも話す。
そうなんだ、と話を聞く一方で、初対面のおじさん(=私)にあまりそういうことまで話さない方がいいんじゃねえか、と思う。
私が彼らと仕事をする場合、大半は誰かの紹介であるから、もしかしたら初対面という意識が薄いのかもしれない。それでもやっぱり他人は他人である。
自分が20代だった頃を振り返ってみると、そういう話を誰かにした覚えはまったくない。今でも、自分に関することはほとんど話さない。
その差は何だろうと考えたのだが、よくわからなかったので世代なのかもしれないと思っている。彼らが色々な面でしっかりしているからこそ、その部分がゆるく感じられ、違和感を覚えたりもする。
個人情報は、今は価値ある情報である。誰の、どんな情報に価値があるかはわからないが、自分や家族や資産を守るのと同じように、自分に関する情報も守った方が良いと私は思う。SNSなどで無意識に個人情報をばら撒いている人もいるが、それも危ないと思った方が良い。誰が誰を裏切るかわからない世の中である。個人情報が漏れて不愉快なことや危ない目に遇うこともある。
住みづらい世の中である。そういう世の中にしたのは誰か。私を含む上の世代である。そういうわけで、彼らにはちょっとすまないなと思っている。

月間収支について 3月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

三歩進んで二歩下がる。
人生を広く浅く考えると、大体そんなところに収束するのだと思う。三歩進み、さらに二歩進めるのはごく一部の天才のみができることだろうし、三歩進んで四歩下がるなら最初の一歩目を踏み出さない方がいい。
そんなことを思いつつ、今月の収支は三歩進んで三歩下がった。つまり、1、2、3月と積み重ねてきたものが消えて、1月のスタートラインに戻ったということである。
ネガティブに考えると、3ヶ月何やってたのということになる。この3ヶ月は何だったの、にもなる。
ただ、そう考えても仕方がないので、こういう時はポジティブに捉えるしかない。すなわち、四歩下がらなくてよかったね、である。
データを見よう。日経平均を見ると、大発会が19,298円からで、3月末が18,909円である。2%ほどのマイナスであるから、現時点でトントンなら指数よりは上である。そう考えれば気持ちも多少は上向く。突き詰めて考えれば、2%損しなかったということは、2%得したと言えなくもないわけだから、これは良いことなのだと思い込むこともできる。思い込むことにしよう。
再び人生を広く浅く考えると、大事なのは思い込みなのだと思う。私が物書き商売をやっているのも、これなら食っていけそうだという根拠のない思い込みによるものだ。それで16年くらい続いてきたのだから、相場もあと何年かすれば、それなりに形になるだろう。
トレードは短期だが目線は長期である。遠いところにある美しい景色を見ていると、足元の泥汚れが目に入らずに済む。そういう目線の切り替えを、私は現実逃避の第一歩としてよく使う。苛立つことがあったり、ショックなことがあったり、目の前のやるべきことが山積みになって詰んだと感じたり、三歩進んだのに二歩以上下がって愕然としている時などに、ぜひおすすめしたい手段である。

システムについて 3月某日 晴れ

私はシステム信者である。
何事もシステム化するのが良いと思っていて、システムの完成度が高いほど感動する。機械やITに詳しいわけではないが、私の仕事が滞りなく進んでいるのも、誰かが考えたPCやネットワークといったシステムのおかげである。それらをいくらかのお金で自由に使える環境は、個人的に非常にコストパフォーマンスがいい。手書き原稿を出版社に持ち込む時代であったなら、仮に物書き商売の適性があったとしても別のことをしていたと思う。
ところで、システムというのは機械類に限ったことではない。人やモノが動いたりするのもシステムであるし、人の体もシステムである。AがB地点に動き、Cが連動する。AがBになると、CがDになる。そういう仕組みがシステムであり、その流れに無駄がなく、スピード感があるほど素晴らしい。
そこで最近よく考えるのが、原稿を書くという作業をどうやったらシステマティックにできるかということである。
原稿書きのような作業は、ある部分で芸術性を含んでしまうため、手順をシステムに落とし込むのが難しい。結果、作業が属人的になる。大量生産もできない。
それは一部の人にとってはいいことだ。属人的だから個性が出せるし、大量生産できないから希少価値が高まる。個性と希少価値は、いずれも名声を呼び、地位を作り、お金を産む要素である。私のような弱小で適当なフリーランサーの次元でも、ちょくちょくと仕事が舞い込むのは、私にしかできないことがあると評価されるからだ(実際にはそんなこともないのだが)。
ただ、私はその点にあまり価値を感じない。個性と希少価値を高めて名声、地位、お金を得るよりも、個性と希少価値が下がっても良いので、システム化を進め、生産効率を高め、時間という副産物を得たいと考えるためである。
社会全般では、例えば接客はマニュアルを捨てて個人の裁量でおもてなしを考えるというトレンドがある。会社内においても個人が資格取得などを通じてスキルや価値を高めようというトレンドがある。つまり個性と希少価値である。
そういう流れに乗って自己研鑽する人は偉いと思う。でも、それってレッドオーシャンだとも思う。だから私は、持て余すくらいの時間を生み出して、誰もいない海でのんびり過ごしたい。つまりは怠け者なのである。

未来について 3月11日 晴れ

動物と人間の違いは何か。
ある学者によれば、未来を描けることであるという。
動物は目の前のことに対応する能力が優れている。だから餌を見つけたら追いかけて食べる。そうやって強い種が生き残ってきた。ただ、これから起きることを想像したり予想することはできない。
本当にできないのかは知らない。ただ、うちにいた猫や近所のカラスなどを見ても、確かに未来を考えて行動している様子はない。今を生きている。そんな印象だ。対応は得意だが対策はできない。そう言い換えてもよいかもしれない。
組織においてもこれが大事である。というのは、こういう会社にしよう、こういう風に世の中を変えようという未来を描くことで、共感する人が集まり、組織になるからである。未来を具体的、かつ強く共感できているほど強い組織になる。スポーツチームや家族も組織の一種であるから、同じことが言えると思う。
あるいは、そういう共感があるかどうかが組織と群れの違いなのかもしれない。
動物は、複数で追いかけた方が獲物を捕まえやすい時などに群れをなす。腹一杯になったら解散し、また腹が減った時に群れる。そこにあるのは目先のメリットであり、未来のメリットではない。
そういう理由で群れる動物的な人間もいる。悪例で言えば、いじめがその1つだ。名の通った会社でいじめのようなことが起きるのも、群れている人が刹那的であり、未来を描くという人間らしさを持ち合わせていないからなのだろう。
ちなみにフリーランス商売は組織に属していない。その都度、都合が良い相手と組み、浮利を得る。そういう意味で動物的だ。よくよく自分を掘り下げてみると、私にはこういう仕事をしよう、こんな風に社会に貢献しようといった考えがまるでない。今日食べる餌にフォーカスする今のやり方で、果たしてどこまで生き残れるのだろうか。甚だ不安である。

震災から6年が経った。今年は仕事が立て込んだため、日帰りで訪れた。街を一周し、美しく復活を成し遂げた光景を見て帰ってきた。こういう復興ができたのも、街と人が作る組織が機能したからであり、その根底に未来を描く力があったからだと思う。人間の、人間だからこそ持つ能力は、つくづく素晴らしいものである。

学歴について 3月某日 晴れ

援助交際が社会問題として注目されていた時期があった。
今でも問題であることに変わりはないが、その手のニュースをよく耳にした時期がある。10年くらい前か、もっと前のことかもしれない。
社会的には問題なのだろうが、私には直接的には関係ない。そういう年頃の娘もいないし、まさか自分が買う側になることもない。一方で、ひとつ印象に残ったことがある。ネットで見かけた文言だったと思う。高校生が売春をするようになったのではなく、売春婦が高校に行くようになったというものだ。目の前の現実を実態通りに見ていると思った。
それから10年くらい経って、最近、とある女子大生のツイートが話題になっていることを知った。性に関するえげつないツイートが中心で、その内容は、えげつない性格の私ですら嫌悪感を覚えるようなものだ。マスメディアは下世話だから、こういうものを好んで取り上げる。相変わらず救いようがない。
それはさておき、それを見て売春婦の高学歴化がさらに進んだのだなと思った。ツイートの主が売春をしているかどうかは知らないが、性を売り物にするという点では同じである。
大半の人が高校に通い、半分くらいの人が大学に行く現状は、先進国の教育水準という点では評価されることなのかもしれない。でも、その裏側では、学問を必要としない人の高学歴化が進んでいる。大学の価値ってなんだろう。
有名大学における強姦事件についても同じことが言えるだろう。何が起きているかというと、強姦魔という犯罪者の高学歴化である。大学生にもなって善悪の区別がつかないのか。そう言う人もいる。そうではない。善悪の区別がつかない人が、大学に通える時代になったということなのである。
まだまだ先の話ではあるが、自分の子供たちもやがて学校に通う。その時、果たして大学とか学歴の価値がどうなっているのだろうか。
学校の話に限らないが、大衆化すれば陳腐化する。今の流れを踏まえるなら、大学と学歴はさらに陳腐化する。学費はあまり変わらないからコストパフォーマンスは落ちる。そのことを多くの人が認識すると学歴ベースで機能する社会がドラスティックに変わる。それは個人的には望ましい変化である。
だって、みんないい加減、飽きたでしょう?

月間収支について 2月末日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

天井っぽい雰囲気がする。
感覚でしかないのだけど、感覚で売買しているギャンブルトレードなので、持ち越しは控え、もっぱら飛び乗り・飛び降りのデイトレのみである。
細かく手数料がかかる点を除けば、デイトレは旨味が大きいと思う。イメージ的には、大底で買い、綺麗な上昇トレンドに乗り、反落しはじめたところで抜けるのが理想なのだけど、ちょこちょこイベントがあるので上下に動くし、根がチキンでこらえ性がないため、すぐに売りたくなってしまう。スイングで勝てるようになりたいのだが、現状として技術と性格がついていかない。さらに最近は買い煽り商売の人たちの影響が大きいから、それがノイズになってホールドしづらい。
そんなこんなで(どんな?)、やりやすい方法に逃げていったら短期になった。
ギャンブルと考えれば、私にとっては元々はパチンコの延長であり、収支が1日で完結することにも慣れているから、そういう面で馴染みやすいのもあるのだと思う。
一方で、新しいことにも挑戦していきたいので、分散投資も検証中である。ただ、銘柄は分散しない。A株とB株に分けたところで、相場全体が下がればだいたい両方下がるから、あまり意味がないと思うからである。
だから、銘柄は分けないけど時間を分ける。口座も分ける。メインで使ってきた口座を短期だけにして、お金とポジションを別口座に移す。そっちは長めで持つことにして、基本的には残高管理しかしない。まだ完全には配分できていないけど、短期、信用のスイング、現物の中期に分散しようかな。
どういう市場の時に、どういう持ち方が一番儲かる(損しない)かも、時間を分散すれば見えてくるのではないかと思う。
他にも色々と検証したい方法があるので、順次やっていこう。
2月は少しお金が増えた。新しいことをはじめるなら、お金がある時にやる方が良いはずなので、とりあえず来月も何かに挑戦できるくらいの余裕を作りたい。

取材という仕事について 2月某日 晴れ

仕事で仙台へ行く機会があった。
あちこち行くのは珍しくなく、今年もすでに大阪や名古屋に行っているわけだが、仙台は縁もゆかりもある場所なので、それはそれで別である。
そして、これがまた微妙なのであるが、取材先というのが父親がお世話になっている会社であった。奇遇なのだが、そんな奇遇はいらない。相手が自分の素性をなんとなくでも知っている(かもしれない)と、非常に仕事がしづらいのである。取材相手が父親でなかっただけ、まだマシなのかもしれない。
ライターは不思議な商売であり、取材は不思議な作業だ。
取材相手のほとんどは初対面である。
私は相手のことを知っている。事前に調べるからだ。
しかし、相手は私のことを知らない。見ず知らずの男であり、再び会う可能性も低い。
そういう関係性でありながら、相手はしっかり自分や会社のことを話してくれる。ありがたいことである。
そう思うから、こちらも無礼のないようにはするのだが、不躾な奴だと思われてる可能性がないわけではない。友達でも仲間でもなく、数分前まで知り合いでもなかった人が、人生の転機や今後の目標といったプライベートなことをズケズケと聞いていくことがそもそも不躾であろう。
社長インタビューなどは、時代が違えば、名もなき町民が武将に質問をするようなものだ。場合によっては打ち首もありうる。今の今まで胴体と頭がくっついていることが奇跡ではないか。
私は物書き商売をしていく中で、そういう意識はどこかで持っておきたいと思っている。他人のことはどうでも良いが、直撃や突撃でスキャンダラスな記事を書くライターなりジャーナリストなる人たちに、そこはかとなく嫌悪感を持つのも理由はおそらくそこである。
物書き商売にも色々あるが、私には今与えられている仕事が向いているし、時に父親とニアミスする可能性があり、これからも知人とニアミスしたりニアミスで済まなかったりする可能性もあるのだが、それでもやっぱり恵まれている。
そんなことを考えつつ、無事に取材を終え、実家に顔を見せ、帰路についた。向こうでご馳走になった名取産のセリ鍋が極めて美味であった。

節酒について 2月某日 晴れ

多分、2014年のクリスマスくらいからだと思う。
クリスマスなので酒を飲み、そのまま正月に突入し、あれよあれよという間に季節が過ぎ、また年末と年始がきて、さらにまた1年経った。
この間、私は毎日酒を飲んだ。ざっと計算して700日以上ぶっ続けである。
何か理由があったわけではなく、単なる惰性である。
月火水木金土日と、飲む理由はいくらでも見つかるものだ。バラクーダの曲で、毎月酒が飲めるという内容のものがあるが、それと同じである。昨日飲んだのなら、今日飲まない理由はなく、明日飲まない理由もない。もしかしたら健康診断の前日だけ飲まなかったかもしれないが、果たして健康診断を受けたかどうかもよく覚えていない。飲んでいるから忘れるのである。
そこでふと思い立ち、今年から土日と祝日以外に飲むのをやめることにした。
ぶっ続けで飲んでいたとはいえ、私はアル中ではないから、飲まなかったとしても別に問題はない。実際、なんの変化もストレスもなく、さっさと一月が過ぎた。惰性とはつまりそういうことである。理由なき浪費といっても良い。
ただ、これは実はすごいことなのだ。
酒代という生活コストの一部がだいたい半分になるからである。
どんなものであれコストや経費を半分にするのは至難のわざである。しかし、酒は惰性をどうにかするだけで半分になる。しかも、これまではランニングコスト(だと自分は思っていた)ものであるから、経年で効果が積み重なる。私の場合は、そもそも飲んでいた量が多いせいもあるが、年25万円くらいになる。
アル中ではないことが大前提ではあるが、ストレスなくセーブできるなら、やる価値はあるだろうし、なぜ今までやらなかったのか不思議なくらいである。下戸の人はさぞかし貯金があるのだろうとも思う。
今年は個人的な目標の1つとして生まれて初めての節約に挑戦中である。
すでに達成できた気もするが、一方では惰性を止めることが楽しく、他にやめられるもんはないかと探してもいる。
タバコはどうか。それは無理だ。
ただ、小耳に挟んだニュースによるとレストランや飲み屋が完全禁煙に向かう可能性があるらしいので、タバコは減らないだろうが、外食する機会は減り、結果として節約になるかもしれない。

怒ることについて 1月某日 晴れ

私は基本的には優しい父親である。
仕事柄、一緒に過ごせる時間も多いので、よく遊ぶし、そこらへ連れ回すのもほぼ日課であり、飯も作るし、風呂も一緒に入るし、寝る前の本も読む。
それはそれで、こっちが楽しんでやっていることだから良いのだが、世の中の父親がたいていそうであるように、ここぞという時に怒るのも私の役目である。
普段はカミさんが怒る。だいたいそれで効果があるが、どうにもならない時は私が怒る。仕事をしていると、たまにリビングから「言うこと聞かないならお父さんに言うよ」と、カミさんが言っているのが聞こえる。それなりの効果があるらしく、子供らはそれでおとなしくなる。メリハリという点では、それが一番機能しやすい家庭内の力関係なのだろう。
でも、たまに思うのだが、それって子供目線で見たらどうなのだろうか。
普段は非常に優しい。しかし、時に非常に怖い。その振れ幅が大きい。
見ようによっては情緒不安定な人である。
大人の社会にも、たまにそういう人がいる。ニコニコしているなあと思ったら、急に怒り出すような人である。そういう人は、私は怖いからあまり近づかない。子供も同じような感覚を持っているとしたら、父親はつかみどころがない危ないやつに見えるのではないか。
本音を言えば、私はあまり怒りたくない。そもそも揉め事とか喧嘩が嫌いであるし、仕事も常に事なかれ主義である。気性も荒くないし、どういう状況であれみんな仲良くが一番だとも思っているし、怒り慣れていないから、たかが子供がしたことに強く言いすぎているのではないかという不安がいつもある。
そのうち私が何か言っても聞かなくなる時が来るのだろう。
そのうちはいつなのか。5年後かもしれないし10年後かもしれない。長げえ。
子供の誕生は、同時に親の誕生でもあるという。
子供が子供なりに強くなろうと思っている一方、親は親で自分の弱いところをちょくちょく実感する。「自分は弱いなあ」と認識できることが、もしかしたら親や大人であるということなのかもしれない。
俺は大人だ、強いのだと思っている人が、当人が気づいていないだけで、実は子供なのであるという意味で。

それなりについて 1月某日 晴れ

ある人と雑談している中で、将来何をしたいのかと聞かれた。
いい歳こいて将来も何もないような気はするが、それはさておき、言われてみて気づいたのだが、私には具体的にこれをしたいというものがない。こういう風に暮らしたいという生き方のイメージはあるが、じゃあ何をするかと聞かれると答えに詰まる。
やることそのものは何でもいい。
やりたいこともないし、やりたくないこともない。
結果としてイメージ通りに生きられるのであれば、やるべきことはその都度わかるはずだろう。それを淡々とやる。やらなくていいことはやらない。その程度にしか考えていない。
そういう考え方が自分にとっては当たり前だから、たまに「これをやりたい」「これをやる」と意気込んでいる人を見ると、すげぇなあと思うと同時に違和感もある。
社会的には、目指すところがない人はなんとなく肩身がせまい。とりあえず動いていないとケツを叩かれる。
私はそれが好きではない。社会から一歩引いているのも、そのせいである。
そんなに踏ん張って動かなくても、それなりで十分な時もあるだろう。
そんなことをよく思う。そう思うのは、いい歳こいてモラトリアム的な感覚が抜けていないのかもしれない。
さて、1月も終わりである。
例によって10月くらいからやることが増え、クリスマスとかお正月といったイベントも重なり、気づけば年が明けて、今に至る。
この数ヶ月、自分が何をしたかよく覚えていない。
それでも、それなりに仕事も家も回っているということは、覚えていないけれども、それなりのことはしたのだと思う。
それなりは大事である。無理に流れを変えようとするよりも、流れに任せた方が良い結果が出ることも多い、と、いい歳こいて改めて思う。

人生観について 1月某日 晴れ

人には人生観が変わる時があるらしい。
それは例えば、誰かとの出会いや別れかもしれないし、仕事とか日常でのちょっとした出来事かもしれない。
きっかけがなんにせよ、変わるということは大事だから、そういう機会は貴重だ。良いこと、悪いことあるだろうが、変わるタイミングでちゃんと変わった方が良い。私はそう思う。
私の場合は震災と子供である。奇しくもこの2つは同じ年に起きた。震災が3月。子供が生まれたのが7月。一方で死について考え、もう一方で生について考え、仕事が劇的に暇だったこともあって色々と考えていたら、2011年3月10日までの自分はどこかへ綺麗に消えていた。
人生観というと大げさなのかもしれないが、要するに価値観とか損得勘定の変化であるから、脳の回路の再構築である。例えば、今まで一番前にあった優先事項が、ある時から最後尾にいく。優先順位のランキングにすら入っていなかったことが、ある時からトッププライオリティの1つになる。
脳をOSと捉えれば、OSの更新というよりは、macからwinへの乗り換えといったようなイメージである。
そんなことはどうでも良いのだが、こういう仕事をしていると、たまに自分には理解できない価値観で動いている人と会うことがある。優先順位の基準が全然見えない人と会うこともある。
その都度、不可解な人だと思うのだが、そういう人にもそうなったきっかけがあるはずなのだ。つまり人生観を構築する材料となったことである。
それが何なのか考えたり想像したりすることが、その人の話を理解したり、その人の目線でゴースト的に原稿を書く上で実は最も有効で近道でもあるのではないかと最近思う。

月間収支について 1月某日 晴れ
(ギャンブルの話ですので嫌いな方はスルーしてください)

なかなか勝てないもんである。
今月は幸先よく大発会から連勝し、途中では割と大きなプラスも抱えていたのだが、終わってみたらマイナスである。
1月に負けたのは何年ぶりだろうか。出鼻をくじかれ、それでやる気が萎えることはないのだが、過去の成績を見る限り、1月のプラスで2月から5月くらいまでのマイナスに耐えていたようなところがあるから、このままいくと下方一直線になりかねない。それは危ないので時間軸を変えて2月から挑むことにする。1月に限って言えば、スイングのヤラレがでかい。だから、短くするか、長くする。多分それで余計なマイナスは減るはずである。
それはそうと、昨年はFXの負けが足を引っ張った。
ヘッジで持っている側面もあるのだが、そうは言っても無駄な保険料を払っているようなもので、ここも直していかないといけない。
そう思って、今月から為替もよく見ている。ノイズが少ない分だけ株よりもつかみやすい気がするが、たまに暴れてボラティリティが出るので、逆指が入れられない。延長戦は辞さないが、夜な夜な起きているわけにもいかない。つまり、これも時間軸の設定が難しい。
うまくいくかどうかは別として、早々にやり方を決めて、実践しよう。私は飲み込みが良いようではなく、年々悪くなってもいる。やりながらというか痛い目を見ながら学ぶのが、コストはかかるが最も早い。
わからないことだらけの相場の中で、唯一分かっているのがそれである。

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ライター 伊達直太

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