ライター伊達直太/取材後記2022

仕事のご依頼、お待ちしております。ご質問、ご相談もお気軽にどうぞ。

tr>

取材後記 2022

1年の締めくくりについて 12月某日 晴れ

2022年が間もなく終わる。
街中のイルミネーションを見て多少は年末ムードを感じるのだが、10月くらいから仕事と家事に追われる日常である。師走と名付けられたこの時期、全速力で走っても締切に追いつかないまま今日に至る。
もう年末か。来年は2023年らしい。そんな感覚しかない。おそらくこのまま時間が経ち、気づけば新年になっているような気がする。
個人差はあるだろうけれど、我々のような零細フリーランスの物書き商売は世間が休んでいる時にいかに仕事をするかが生命線なので、年や月や季節の節目をあまり意識することがない。心理的にも精神的にも節目を気にしている余裕がない、といった方が実態に即している。
そのため、そういえばそろそろ、と思った頃にはクリスマスだし、今日は何日だっけと思う頃にはクリスマスが過ぎ、いよいよ世の中が年末ムードになっている。
とくにコロナ禍になってからのこの3年は、1年のうちのほとんどは家を家で過ごすようになった。花鳥風月を肌で感じる機会が著しく減って、季節の変化もよく分からなくなった。夏だなあ、暑いなあ、と思っていたら、いつの間にか冬になっている。そんな感覚である。今年の夏がどんな夏だったか何の印象も残っていないので、2022年の夏は私の中では存在していないに等しい。私はリアルタイムでは知らないが「24時間戦えますか」が流行語になったバブル期もきっとそんな感じだったのだろう(古いな)。
ふと気になって2022年の出来事をニュースサイトで振り返ってみたところ、読売新聞によると、2022年の印象的な出来事の1位は安倍元総理の暗殺、2位がワールドカップ、3位が知床の観光船の沈没事故であるらしい。以下、スポーツネタがいくつかあり、政治とコロナ禍の話が続く。
この時事ネタのラインナップを見る限りでは、スポーツにも政治にも興味がない私にとって2022年がとくに印象に残らなかった1年だったのもうなずける。唯一「そうか、それが2022年の出来事だったか……」と思うのは安倍さんの事件くらいだ。
2023年はどんな年になるのだろうか。コロナ禍はどうなるのだろか。
良い1年になってほしいと思うのだけれど、インフレだし岸田禍だし戦争もそろそろ1年になるし、いいニュースも世の中が明るくなる兆しもいまいち見えないんだよなあ。

偶然について 12月某日 晴れ

偶然は不思議なもんである。
不思議だから偶然なのかもしれないし、「そんなことあるのか」と思うくらい不思議なことのみが偶然と呼ぶに相応しいのかもしれない。
そういう定義みたいな話はどうでも良い。
過日、とあるお客さんからインタビュー仕事の依頼を受けたところ、その相手が昔の知り合いであった。どういう知り合いかというと、高校時代の後輩で、企画書をもらって「この名前って、あの子なのでは……」(昔の記憶しかないので、あえてあの子というが)と思ったら当人であった。
我々の商売はインタビューさせてもらう側であり、取材対象が有名または有能でなければ仕事で出会う機会は生まれない。その子はその要件を十分に満たしている子で、私は高校時代にその子とは何度か話したことがあり、その頃からすでに学校のアイドルのような存在で、卒業後については人づてにタレントとして活躍していることは知っていた。それから10年くらい経って、彼女はとある協会の偉い人になっていたらしい。
人は何がどう転がって、どうなるか分からないもんだ。言い換えると、昔を知っている人の印象はなかなか変わらないもので、こっちは高校生の時のイメージがあるので、急に取材対象の偉い人となると正直なところ困惑する。
私は企画書を見ているので相手が誰だか分かっている。しかし、相手はどんな物書きが現場に来るかは知らない。まさか遠い昔に接点があった人だとは思っていないだろう。コロナ禍ではマスク着用のインタビューが定着しているから、現場で会ってもこっちが身バレする可能性はほぼゼロである。
そういうわけで無事にインタビューを終えて、早々に原稿も書き終えた。仕事モードで彼女の話を真剣に聞きつつ、頭の片隅では「成長したなあ」とか感じつつ(偉そうですみません)、感想としては、遠い親戚のおじさんのような感覚で成長した後輩から色々と話を聞かせてもらう仕事はとても楽しかった。
ふと思ったのだが、30年も経てば誰もが成長する。当たり前のことだ。偉くなるし立派になる。素晴らしいことである。
そんな視点で自分を振り返ってみると、ハタチくらいから何も成長していないことに気づく。そんな反省をした偶然であった。

結婚の関係性について 12月某日 晴れ

結婚すると人生が変わる。
結婚とは他人と一緒に暮らすことを指すわけだから、人生は変わるだろう。また、ライフスタイルも変わる。例えば、結婚すると独身の時のように飲み歩いたりできなくなる。できなくはないんだろうけれど、怒られちゃうだろうからね。もめ事は避けたいじゃん。
ただ、価値観は結婚して一緒に暮らすだけでは変わらないだろうなと思っている。価値観とは、例えば、時間やお金の使い方の優先順位を決めるモノサシみたいなものだ。
世の中の離婚理由で最も多いのは性格の不一致だという。それは突き詰めれば、価値観の不一致であり、モノサシのずれである、そこは埋められないから夫婦関係がうまくいかなくなる。お互いに譲りたくないところがあり、そこを主張しても平行線なので、心の平穏のための公約数(最大公約数ではないけど)として離婚するのが実態ではないか。
言い換えれば、結婚関係が続くかどうかも公約数である。例えば、頭が良くて人にも優しい人のレベルを48だとして、あらゆることが不勉強で未成熟な人を16だとする。この2人には、1、2、4、8の公約数がある。この場合の公約数は趣味とか好きな食べ物とか大事にしたいと思うものの優先順位とかで、それが合えばお互いが理解できるし、仲良くもできる。そんなふうに考えると、算数の世界でいう高度合成数(その数字未満の数字よりも約数が最も多い数)みたいな人は同年代では最もモテるだろうなと思う。
一方、世の中には偏屈な人もいて、そういう人を私は素数的な存在だと思っている。つまり、17とか29のように約数が少ない人がいて、だから、この公約数理論(と名づけてみた)でいうところの理想像に近い48の人と出会っても、合わない。だって、公約数が1しかない。1は、例えば、弱いものには優しくするとか、ルールは守るとか、要するに社会生活をしていく上で最低限持っておく価値観である。
これは結婚がうまくいかない人のほか、未婚の人とか友達がいない人にも言えることだと思っている。高度合成数を目指そうという話ではない。自分と相手にはどんな公約数があるかという視点で考えると、相手の約数が少ないのかもしれないし、自分が高度合成数とほど遠いくらい偏屈なのではないかと気づくことがある、という話である。

ピンポン営業について 12月某日 晴れ

溜まりに溜まっている原稿をコツコツ書いていたら、家のベルが鳴った。
ちらっとモニターを見ると若い女の子だった。女の子ってのはおかしいか。20代の女性である。
私は基本的には居留守派である。ピンポン凸してくる人は誰であろうとすべて詐欺師だと思っているから、応答しない。応答してはいけないと思っているし、これから新生活を始める新社会人や学生の人にも、何より前に居留守を覚えようと伝える派である。
ただ、この時は間違えた。誰だか知らないし無視してもいいのだが、モニターを見て「もし……」と思ってしまった。「もし」とは、例えば、おかしな奴につけられていて助けを求めてきたとか、家族がどうにかなって救いの場がなくなったレオン的なこととか。そんなことを考えつつ、面倒だなあと思いながらインターフォンに出たら、フルーツ売りだった。フルーツ売りとは、要するに、そっち系の、そういう人たちが若い子たちを搾取的に使ってフルーツの行商をさせるやつである。
可愛らしい子の「フルーツ屋です」という声をモニター越しに聞いて、情けなくなった。こんだけネット社会で、まだ搾取される人がいるのか。まだ搾取しているクソ人間がいるのか。「もし」という理由で応答したお人好しの自分の不甲斐なさ。あらゆることが情けない。
世の中は良くならないね。「年末の感想がそれかよ」と我ながら思うけれども、いつになったら若い人たちが輝ける時代が来るのだろうか。
若い人は気持ちとか自信が揺らぎがちだから、そこで悪どい商売に取り込まれるのだろう。分からなくもないが、まずは自分を守ってほしい。必要以上に世の中を疑って、甘い話をする大人を疑う猜疑心を持って警戒してほしい。
そういえば今年は集狂絡みの大事件が起きた年だった。それも本質的には同じだ。信仰が悪いとは言わないけど、冷静に考えれば、あるいはちょっとネットで調べれば、集狂に搾取される一員にならずに済んだだろうに。
縁あってこの文章を読んだ人には、そういう集団に搾取されないような知見を身につけてほしい。自分には自分の人生を切り開ける能力と可能性がある。甘い話に乗っからなくても、自分には自分が理想とする人生を実現できるポテンシャルと可能性があるのだと自覚してほしい。人の家のベルを鳴らしている場合じゃない。自分の心というか思考というか、そっちのベルを鳴らしてほしいのです。

晩酌について 11月某日 晴れ

毎日、飲んでるんですか?
たまに、そう驚かれることがある。振り返ってみれば、かれこれ10年くらい毎晩飲んでいる。仕事を終わらせて、洗濯とかお皿洗いとかをして、子供を寝かせて、戸締りとか細かなこともやって、その日の締めくくりとして飲む。
まずはビールである。1本目(350ml)は「半分しか入ってなかったんじゃねえか?」と思うくらいすぐになくなるので、すぐに2本目を開ける。グビグビと飲みながら、今日やったことを振り返り、明日やることを確認し、明日もやることが多いなあと感じつつちょっと重たい気持ちになり、その重たい気持ちをビールで流し込む。
2本目もすぐに飲み終わるので、日々の反省の時間も短い。ここまででだいたい20分くらいだろうか。ぼんやりと明日の予定が見えたところで、コップを替えてウィスキーとソーダ水でハイボールを作る。そこからはチビチビと飲みながら読みかけの本を開いたりドル円を売買したりツイッターを見たり。
コップが空になったらおかわりを作り、またチビチビ飲み、またおかわりを作る。この作業は眠くなるまで続く。私はわりと色々と考える方で、子供のこと、仕事のこと、原稿の書き出しや構成、たまに社会情勢について考え、すると頭がどんどん冴えていく。日中はそれでいいのだが、夜はそのせいで眠れなくなるので、毎日お酒を飲むのは脳の動きをスローダウンする意味もあるように思う。おかげで日々ぐっすり眠れる。目覚めも良く、翌日も気持ち良く目覚め、また1日フル充電でフル稼働できる。
簡単に言えば、1本目のビールを開けることが1日単位の短期的なゴールであるということだ。それがルーティンであるので、毎日飲むの?と聞かれたら、むしろ毎日飲まないんですか? 1日のゴールはどこなんですか?と聞きたくなる。ここでいうルーティンは、別の言葉ではアル中というのかもしれないが、そういうことはあまり考えない。休肝日を作ろうかなと考えたこともあったが、そういうこともあまり考えなくなった。
ところで、私は毎年、区の健康診断を受けている。周りから見ると不摂生な生活かもしれないが、呼吸器系も循環器系も消化器系もほぼA判定だ。自分は健康であるという定性的な自己判断だけでなく、医学という賢い人たちの学問において、私は実際に健康である。強いて言うなら、肺はBで肝臓もBである。肺はタバコ、肝臓はお酒が原因だと思うが、BはだいたいAみたいなもんだ。
強靭な体に生んでくれた母親と、日々アルコール分解を頑張ってくれている肝臓に感謝しつつ、今日もそろそろ飲もうと思う。

おっさんについて 10月某日 晴れ

自分はいつからおっさんになったのか。
自己認識としてはまだ30代のおにーさんだ。20代後半の気持ちで街を歩いている時だってある。しかし、世間はそうは認めない。だってどこからどう見てもおっさんだからである。
一枚の絵の一部分が徐々に変わっていくアハ体験の動画(何ていう名前か知らないが)と同じで、自分の顔や体型を注意深く観察することはほとんどないから、知らないうちにシワができ、白髪が増えている。まだ髪があるだけマシなのかもしれない。昔と今の写真を並べてみれば、おでこと頭皮の境目も実はアハ体験しているのかもしれないが。
過日、尊敬する人は誰かと問う子供向けアンケートの結果を見た。時の人や歴史上の偉人などが並ぶ中、堂々の2位にランクインしていたのが「お母さん」であった。母は強し。精神的や肉体的に強いだけでなく子供に与える影響力も強い。そうなると「お父さん」の順位が気になるわけだが、記事に載っていたのはトップ10のみで、その中にお父さんはいなかった。満員電車に揺られ、嫌味な上司や迷惑なお客を相手にし、お小遣いを減らされ、ストレスで胃を悪くしたり髪が薄くなったりしながらも、その努力は子供たちの尊敬には結びついていないらしい。
視点を社会に向けてみても、おっさんの一般評価は決して高くない。あらゆる評価を要約すれば、大した仕事もしないくせに給料だけ無駄に高い人ということになる。かつて3K(きつい、汚い、危険)が理由で敬遠された職種があったが、おっさんは、汚い、臭い、気持ち悪い、怖い、小賢しい、毛深い、小太り、ケチ、声がでかい、口が臭いなど、あらゆるKを総なめして敬遠される。
実際には有能なおっさんもいて、そういう人がいるから経済が発展してきた。私の周りを見渡しても優秀な人ばかりだし、木村くんも福山くんも年齢的には十分におっさんだ。しかし、世間は量産型タイプのおっさんに木村くんの要素を探し出そうとはしてくれない。福山くんのように愛してもくれない。
いわゆるおっさんのイメージは見た目先行型のステレオタイプなのだが、社会のどこかには無能で高級取りのおっさんがいるのも事実で、彼らが目立つからおっさんの総合評価は下がる。「子供なら許せる」「若いから仕方がない」といった慈悲もなく、何の迷惑もかけていなかったとしても(存在そのものが迷惑と言われればそれまだだけど)、おっさん認定され、老害予備軍として警戒対象になる。
自分も知らないうちにおっさん認定されているに違いない。そう思うと恐怖しかない。せめて見た目だけでもおっさん認定を先送りすべく白髪を染めてみようか。ただ、そういう行為ですら「こざかしい」と評価されそうなんだよなあ。

生きる理由について 10月某日 晴れ

人生において自分なりの答えを見つけた方が良いと思う問いは、1つは「自分はなぜ仕事をするのか」、もう1つは「自分はなぜ生きるのか」である。
2つ目の問い、人はなぜ生きるのかについて私なりに考えた答えはとても単純である。生きているから生きる。脳死の判断は意見が分かれるが、心臓が動いている限り生きなければならない。私はそんなふうに思っている。
ツイッターなどを見ていると、トレンドのキーワードで人身事故という言葉が出てくることがある。人身事故は、広義には交通事故で人がケガをしたり命を落としたりすることを指すが、狭義には電車の飛び込み事故を指す。日本では年間で1000件ほどの鉄道人身事故が起きているらしい。その中には酔っ払って電車にぶつかったり線路に落ちたりする人もいるのだろうけれど、自殺者も少なくないのではないか。
どういう理由かは知らないが、電車に飛び込むと決意するのは異常事態だ。思考、心理、状況が普通ではない。きれいごとを言うようだが、そこまで追い詰められる前に誰かが何かをできなかったのだろうか。誰かを頼ったりできなかったのだろうか。
もし自分も周りも何もできなかったとしても、そこまで追い詰められたのには原因があるのだろう。だとしたら、誰の、どういう行動によるものなのか。どういう状況に起因しているのか。
そんなことを考えていると、人身事故だけに限らず、飛び降りも首吊りも薬物も全て含めて、一般用語として軽くくくられている事故は事件だと私は思う。自殺に追い込んだ誰かや何かを明らかにして、責任を追求するのが筋だと思う。だって人が死んだり、死にたいと思うまで追い込んでいるわけだから。
一方で、追い詰められたとしても自殺はダメだ、とも思っている。なぜなら、心臓が動いているからだ。あらゆる生き物の中で自殺をするのは人だけであるという。一部の動物で自殺っぽい動きが観察された例もあるらしいが、それは生物学的には異常行動の1つと捉えられている。
ならば、自殺をする人も異常行動だと思う。人は生き物として生存を望む欲求があるはずで、だからお腹が空いたら何か食べ、眠くなったら寝る。自殺はその対極で、人の生物的で基本的な欲求を捨て、死を選ぶという点で異常行動と言える。
自殺が起きるのは、人の脳(意識や思考)がその他の動物より高レベルだからかもしれない。ただ、いくら脳が限界だからといって、体の動きを強制的に止める権限はない。死に時は頭ではなく体が決めることだ。
なんだか話が難しくなったけれど、要するに、生きていれば嫌なこともあり、いいこともあるということだ。今日のいいことろを探し、思い出し、今日も生きていた意味と、明日も生きたいと思う理由を見つけ出す。それが頭の役割であり、それを放棄してはいけない。

仕事をする理由について2 10月某日 晴れ

仕事をする理由について、の続き。
この10年くらい、自分が仕事をする意義が不明瞭だなあと感じつつ、また、長々とその状態を気持ち悪いと感じてきた。しかし「抜苦与楽」という言葉を知ったことによってモヤが晴れた。さすがお釈迦さまである。というのが前回までの話。
私は仏教について何も知らないが、少し勉強してみたい気持ちになった。経営の神様と呼ばれた稲盛さんが仏教を熱心に勉強していた理由も分かった気がした。
その1週間くらい後のことだ。取材先となる企業について下調べしている時に、リジェネラティブという言葉を知った。日本語では「環境再生」と訳される言葉で、自然環境をよりよい状態に再生させることを目指す考え方のことだ。この言葉を知って、これこそ私が仕事を通じて実現したいことであると思った。
だいぶ前のことだが、ある本のレビューを書く機会があり、「ちょっとでいいので今の世の中を良くして、次の世代に渡す。それが先に生まれた大人の役割だと思う」といったことを書いた。それを読んだある会社の社長さんから「自分と同じ考えの若者がいて嬉しい」と書かれたハガキをいただき(当時の私は若かったのでね)、私も自分と同じ考えの社長が世の中にいることを知って嬉しく感じたことがあった。
思えば、この時に私は自分が実現したいことを言語化していた。環境関連の仕事をしようとかSDGsをやろうということではない。もちろん環境も大事であり、仕事の目的を広く捉えれば大きな意味ではSDGsにもつながるのだが、重要なのは「次の世代のために」という視点だ。私と仕事という文脈において「抜苦与楽」が「何のための仕事か」を示すものだとすれば、リジェネラティブは「誰のための仕事か」を示す。
サステナブルという言葉が広まった。持続可能性を考えてエシカルな行動を選択しようという意味である。それも大事なのだが、私はそれでは不十分だと思っている。サステナブルの考えで現状を悪化させず、維持することは大事だ。ただ、それは最低限やらなければならないことで、重要なのは現状をよくする施策を考え、実行し、そのための努力をする必要があると思う。言い換えれば、次世代が生きる世界を汚す仕事を引き受けないのは当然のこととして、現状維持にしかならない仕事も私がやる仕事ではないということだ。
物書き商売は、いつ、どういう依頼が来るか分からない受け身の商売である。そういう立場だからこそ、リジェネラティブな内容かという問いは常に頭の中に置いておかないといけない。それは仕事の面のみならず、日常生活においても同じなのだと思う。

仕事をする理由について1 10月某日 晴れ

人生において、自分なりの答えを見つけた方が良い問いが2つあると思っている。
その1つが「何のために仕事をするのか」である。この問いの正解は人それぞれで、自分なりに考えればよい。ある人は「生活のため」と答え、別の人は「楽しいから」と答える。どちらも正解で、当人が納得していればいい。全ての警察官が街の平和のために仕事をしているとは限らないし、全ての物書き商売が物書きが好きとも限らない。また、20代の時と50代の時では答えが変わることもある。「たくさん稼ぐため」と思っていた人が「誰かの役に立つため」と思うようになるといったケースだ。その変化がきっかけになって転職したりする人もいる。
年齢や経験による答えの変化には利己的から利他的になる傾向がありそうだが、もちろん利己的なままでも答えが変わらなかったとしても間違いではない。
大事なのは答えの中身ではなく、答えを持っているかどうかだろう。今、あるいは少し先の人生を見据えた時に、自分の中に答えがあると、それが仕事のモチベーションになったりする。逆に、答えがない状態だと「あの仕事がよさそうだ」「こっちの仕事の方が儲かりそうだ」などと目移りしてしまい、人生がふらつく。
そんな偉そうなことを書きつつも、私も答えがない状態で仕事をしてきた。もう少し厳密にいうと、この10年くらいの仕事の引き受け方として、その仕事によって誰かの人生が上向く可能性があり、ついでに自分にとっても勉強になるなら最高、というくらいのぼんやりとした考えしか持っていなかった。これは結構、気持ちが悪い状態だ。そもそも理由が分かっていないという状態が気持ち悪い。仕事のスタンスや引き受けるかどうかの判断軸を言語化して明確にしないと、自分が仕事に関わる意味もぼんやりする。それも気持ちが悪かった。
何のために仕事をするのかを考えるためには、そもそも仕事とは何なのかを自分なりに理解し、定義できなければならないだろう。
先日、ある企業幹部の取材で「抜苦与楽」という言葉を聞いた。元々は、苦しみを取り除き、安楽を与える仏の慈悲を意味する仏教用語であるらしい。そこに仕事の本質があると思った。仕事が発生する向こう側には困ったり悩んだり悲しんだりしている人がいる。その苦しみから解放する。同時に、ラクにする、または楽しみを与える。それが私がたどり着いた仕事とは何なのかの答えである。
また、与楽の楽はラクと楽しいと読み分けることができ、ラクは精神的、肉体的、環境的な苦痛からの解放、楽しいは娯楽などの提供を通じて人生を華やかにすることと理解できるだろう。私はどちらかというと誰かをラクにする仕事がしたい。そういう仕事を潜在的に求め、引き受け、楽しんできたのだと気づいたのだった。

満足感と充実感について 9月某日 晴れ

欲しいものがなくなった。
そんな実感を持ちつつ、日常生活が満たされているんだなあとあらためて思う。振り返ってみれば、かつては洋服を買っておしゃれを気取っていた青い春もあった。今はむしろ捨てている。おかげでクローゼットが空いた。普段着は、夏、春秋、冬の3シーズン用でそれぞれ上下2、3枚ずつ。コロナ禍以降もたまに外に出る仕事があるので、スーツやシャツなどは夏用と冬用で2着ずつ。手持ちの服はそれくらいになった。新しい服を買ってクローゼットを埋める発想が消えて、今は極限までゼロに近づけたいとすら思っている。
欲が完全になくなったわけではない。買いたいものはないが、食べたいものはある。厚揚げとかピーマンの肉詰めなんかはたまに食べたくなる。ただ「一生、厚揚げなしでいいか?」「ピーマンに肉を詰めたらだめ」と言われれば、それでも別にいいかなとも思うので、案外、食の欲求もほとんどないのかもしれない。昔はすき焼きとかしゃぶしゃぶとか焼肉とかうどんすきとか、いろいろと食べたいものがあり、それがモチベーションにもなっていたのだけれど、いつからかそういう発想も消えていた。心理学の古典ともいえるマズロー視点で見るなら、知らないうちに欲求レベルが満たされていたということなのだろう。
これは怖いことでもある。なぜなら欲求が消えるということは、その欲求が満たされることによる満足感も得られないということだからである。満足する機能がない人は何を目指せば良いかわからず迷子になる。
最近はSNSでいいねをもらったりして承認欲求を満たしたがっている人が増えているという。FIREという言葉も流行った。こういう迷子現象(と私は思っている)も日常生活に満足しちゃった人が増えたから起きるのだろう。満足要因が変わり、満足の概念が変わる。それを社会ではモノからコトへの変化と読んだり、結果重視からプロセス重視の変化と呼んだりする。私はそれを満足から充実の変化ではないかと思っている。
何かを買ったり食べたりしても満足感を実感しなくなったが(瞬間的にはうれしいけどね)、何かに集中している時は楽しさを感じる。仕事も子育ても楽しいし、こうして文章を書いていることも楽しい。そこに満足感はない。でも、充実感はある。そもそも仕事や子育てにはこれという正解がなく、これができたら満足というポイントもないわけなので、仕事や子育ての楽しさははじめから満足感ではなく充実感から生まれているのだなとも思う。人間が果たせる役割が仕事を通じた社会への貢献と子育てを通じた種の保存であるとすれば、なおさら満足ではなく充実なのだろう。だって、子供がたくさんほしい人は10人生んだって満足しないだろうからね。そして、10人育てている時の充実感はおそらく凄まじく大きい。

時間の感覚的スピードについて 9月某日 晴れ

時間が経つのが早い。早いなあと感じるだけでなく、実際、早くなったとすら思っている。
もちろん、時間のスピードは一定であるはずなので、早く感じるのは感覚的なものだ。感覚という点では、時間の感覚についてジャネーの法則というのがある。年を取るほど感覚的に時間が早く過ぎるように感じるという話だ。
これは、理屈(というか分数)で考えると納得できる。10歳の子の1年は10分の1だから、1年は人生の10分の1だ。その1年の内容はともかく、時間的には人生においてまあまあ濃い1年ということになる。一方、40歳の1年は40分の1であるから、時間的に見てかなりシェアが小さくなる。10歳の子と1年間に経験することが同じだったとしても、10歳の4分の1くらいしか印象に残らない、ということになる。
私はまさにそれで「もう年末が近いジャネーか」と思って驚愕している。「勝手に時間を進めるんジャネー」と憤りつつ、そういうジャネーの積み重ねをジャネーの法則だとすら思っている。
9月は何かしただろうか。何かしているはずなのだが覚えていない。何もせずに過ぎた感覚さえある。その傾向はコロナ禍になってから、つまり、私が言うところのコロナバブルになってから顕著で、振り返ってみるとこの2年くらいの間、何をやってきたかよく覚えていない。
苦痛だったかというと、むしろ楽しく過ごした。とくにコロナ禍になってすぐの頃は幼稚園や学校が休みになったので、子供らと楽しく過ごした日々は今もいい思い出になっている。仕事の面でも私はかなり恵まれていて、仕事をくれるお客さんは気心が知れたいい人しかいないし、そういう仲間的な人が紹介してくれる人もいい人ばかりである。
そういう環境だから、やることに追われる大変さはあるが、実は楽しい。欲を言えば、ボウズの勉強も手伝いたいし、ムスメと公園で遊びたいし、お酒を飲みながら積ん読(読もうと思って買ったけど詰んである書籍)を解消したい。
でも、それはやっぱりつまらないんだな。子供らと過ごす時間が最も楽しいわけだけど、そこはフリーランスなので意外とできているし、それ以外のことに時間を使うのであれば、少なくとも今は、のんびり読書したりするよりも、驚異的なスピードに追われながら仕事に勤しむが楽しい。

結婚する理由について2

私は純愛派である。
純愛をどう定義するかが難しいのだけれど、育ち方は悪かったのだが、育ちは良かった私は、愛という感情が世の中と人生を変えるというような、そういうピュアさを心のどこかで持ち合わせている。
余談だけど、ディズニーは夢の国と言われているわけだが、私は愛の国だと思っている。ミッキーとミニーはずっとカップルだ。ドナルドダックとドナルド系の女の子(名前は知らないが)もずっと仲良しだ。そりゃあ、たまにケンカすることはあるだろう。でも、関係性は変わらない。だってお互いを愛しているから。
その様子を側から見ている安心感がディズニーの強さだと思っている。なぜデズニーリゾートが数あるアミューズメントパークの中で不動の人気を得ているのか。そこには愛が下支えする安心感と安定感があるからだと思う。また、ディズニーランドでもディズニーシーでも、一歩踏み入れてから帰るまでずっと楽しいのは、アトラクションの作り方からスタッフ(キャスト)の対応まで含め、常にどこかに愛があるからだと思っている。愛は不変だ。そう感じさせてくれる雰囲気がディズニーリゾートを構成している、という話。
話を戻して、結婚に至る要素は何なのか。私は、情と恩と縁だと思っている。例えば、ディズニーとゲストを結びつけている要素は愛情という情だ。恩については、日本人は恩を返すので、そこで関係性が深くなって結婚に至るケースもあると思う。縁は、たまたま同級生だった、同期だった、同郷だった、お隣さんだった、といったことで。そういう縁がきっかけになり、そこから結婚に繋がったりもする(らしい)。
逆にいえば、情と恩と縁が薄れると結婚はうまくいかなくなる。情という点では愛情が薄れたり、別の人への愛情が大きくなったり。恩は、恩を返したと思った時だったり。縁は、縁を作ってくれた人と疎遠になったり、別の人と縁を感じる機会があったり。
私は基本的には結婚は愛だと思っているタイプだが、一方で、それだけではうまくいかないことも常々実感している。愛、恩、縁は、どれか1つあれば結婚する理由になるけれども、どれか1つだけでは結婚生活を長続きさせる力が不足するんだろうね。

結婚する理由について1 9月某日 晴れ

人はなぜ結婚するのか。
これは案外、不思議で深いテーマかもしれない。制度としての結婚(婚姻制度)は、国内においては、その基盤となる戸籍制度ができた明治時代ごろにできたわけだが、慣習的な意味での結婚は大昔からあり、並行して海外諸国にも存在していた。その形は今とは違って、一夫多妻制を採る国があったり、日本においても本妻と側室がいた時代があったが、男女のペアが家族となって二人三脚(一夫多妻の場合はn人n脚)で家や子供を守るという生き方はおそらく人間の歴史の始まりまで遡る。このペアリングの慣習がなければ人はどこかで途絶えていたはずだからである。
ペアを作る理由を子供的なピュアな発想で考えれば、愛があるからであり、好きなもの同士だからである。ただ、それだけならカップルで良いわけで、家や子供を守るといった目的にはつながらない。世の中には好きではない人と結婚する人もいるし、政略結婚のように当人の意思や感情とは別世界でペアリングが行われることもある。話題になっている宗教儀式としての結婚もそういう世界観の1つだろう。そこは下手に触れると怖いから触れないが、好きだから一緒になるという感情ありきの結婚の他に、何か別の目的のために一緒になるという目的や機能ありきの結婚もあるのが現実だろう。
機能ありきの結婚は、例えば、男が稼ぎ女性が家を守る結婚が当てはまるだろう。これはお互いの不得意な部分を補完し合うもので、男は家事が苦手だからその部分を妻に任せ、女性は家庭環境の面で出産や子育てをする役割があり、働こうにも給料が低い、勤め口が少ないといった社会環境的も難しかったので、その部分は男に任せた。この補完関係によって夫婦は完全体となって家や子供を守る。ほんの数十年前まで、それが結婚のスタンダードな形だった。
今はどうかというと、共働きで家事分担の世の中である。これはハードルが高い。仕事も家事もそれなりにこなす能力が求められるからだ。機能的結婚では家事が苦手、働くのが難しいといった理由が正当化された。家事が苦手でもたくさん稼げばいい夫になり、稼ぎがなくても家や子供をきちんと守ればいい妻になれた。今はそうはならない。家事が苦手なことも稼ぎが低いことも、男女の性差に関係なく結婚できない理由になり、言い訳とみなされる。
どちらが良いかではなく、結婚の中身が変わったという話。ということで、もう1本、このテーマをつづける。

少子化について 8月某日 晴れ

2022年上半期に生まれた子供の数が過去最低水準であるらしい。
うちには子供がいて、ご近所付き合いも必然的に子供がいる人が多くなるので少子化と言われてもピンとこないのだけど、世の中全体では子供が減っている。子供が減れば老人の数は割合的に増えるから少子高齢化ということになる。老人が多いほど老人向けの制度や政策が優先され、ますます結婚や出産の適齢期の層は子供を持たない、または、その前段階として結婚しないことを選ぶようになる。
これは深刻な問題だ。人がいなければ国は成り立たないわけで、特に若い人は生産人口であるから、少子化が進むほど国は衰退する。
この悪循環から抜け出すアイデアはいくつかあるが、実現性がない。例えば、老人が全権力を手放せばいい。年金を減らして医療負担は大きくして、そこで生まれるお金を子育て支援に使う。子育てにかかる生活費や学費を支援すれば子供を生もうと思う夫婦も増えるだろう。アメリカは、大学の奨学金をチャラにする方針を掲げたという。奨学金はほとんどの場合は借金であり、返済が生活の負担になる問題を解決するということで、要するに、士農工商の時代にあった徳政令のようなものだ。それはそれでお金を貸している層にはデメリットがあるが、少子化を食い止める効果は見込めそうだ。だって、以来、日本の人口は1億超まで増え続けたわけだからね。アメリカが永遠に強いのは、そういう政策を現代においても遠慮なく実行するからなのである。
ならば、日本も同じことを今やればいいと思うのだけど、それはできない。できないというか、やらないから実現性がない。やらない理由の1つは老人主権の社会であるからで、彼らにメリットがないことを、彼らがやるはずがない。このようにして悪循環は続く。世代が1、2巡して老人が減るか、時間主義の観点、つまり先が短い老人よりも未来ある若者を優先した方がいいと誰かが言い出すまで、子供は減り続け、国力は衰え続ける。
大人の責任とは何か。次の世代のために、社会環境をちょっとでもよくしてバトンを渡すことだと私は思っている。少子化というと、若い世代の意欲や覚悟に原因があるように言う人がいるが、それはまったく違うし責任転嫁であろう。真の原因は大人や老人であり、身勝手で自分主体の考え方により、子供を生みたい、育てたいと思う環境を壊しているのせいである。

利他について 8月某日 晴れ

(ここをいきなり読むと何の話?となるので、百聞は一見にしかずについて(2つ前)と、百聞は一見にしかずについて2(1つ前)から読んでみてください)

皇は、日常的にはあまり使わない漢字だ。
漢書においては「百幸は一皇にしかず」、つまり、自分のために100の幸せを手にするのと、人のために1つ何かすること(皇)は同じ、という意味を持つらしい。要するに、利他である。利他思考の究極が、天皇、皇室、皇帝などと称される人たちのありようだと言えるし、他人の幸せに貢献する人こそ尊敬に値するのだと表している字なのだと私は解釈している。
利他というと、その気高さになんとなく身構えてしまうが、実は多くの人が心の底では他人のために何かしたいと思っていて、ただ、何をすれば良いかわからず、きっかけがないと感じているのだと思っている。そう考えるとSDGsが注目される理由もわかる。SDGsの17の目標は、感覚的な概念である皇を、社会課題の整理という形で細分化、言語化、明確化したものであるからだ。
17の目標が示す社会課題は、日本のように豊かな国で暮らしている人にとっては、自分にとっての困り事ではなく当事者でもない。飢餓や貧困といってもリアルに感じない人が大半だろうし、教育制度もあるし安全な水とトイレもある。その反面、恵まれた環境で生きてはいるのだが、ストレスを抱えている人も多い。先進国の中で日本の自殺率が高いこともその表れと言える。
ストレス要因はいろいろとあるのだろうけれど、利他的な思考や活動が少ないことが1つではないかと思っている。生活水準などがある程度満たされると、利己的な思考では、次に何をすれば良いかがわからなくなる。目標を見失う。それが生きる限界を意識させ、ストレスを生み、死に結びつけるのではないか。他人のためと考えることは、その限界を取っ払う。人は本質的には誰かの役に立ち、喜ばれたいと考える生き物である(たまに徹底して利己的な人もいるが)。だからこそ、利他的な活動は生きがいに通じるし、自己肯定感を高めることになり、ストレス緩和と自殺の抑制にもつながるのではないか。
1日1粒のサプリメントとか1日1杯の青汁とか、心身ともに健康的に生きるノウハウは色々あるが、案外、一日一善が効果的なのではないかと思っている。「百幸は一皇にしかず」は良い言葉だが、皇が字面として高貴すぎる。私のような庶民には「百幸は一善にしかず」がわかりやすくて馴染みやすい。

百聞は一見にしかずについて2 8月某日 晴れ

(ここをいきなり読むよりも、1つ前の「百聞は一見にしかずについて1」から読んでいただいた方が話わかりやすいです)

人のために何かをする。
これは言わずもがな大事なことで、どれくらい大事かというと、「百聞は一見にしかず」からの一連で考えると、人のために何かをすることは、1ついい話を聞くことの1兆倍の価値がある。
なんで1兆倍かというと、1つ前のコラムを見て計算してもらえれば分かると思うが、100回聞くことが1回見ることと同じ、100回見ることが1回考えることと同じ……と計算していくと、1回人のために何かをすることは、人のために何かをした人がいるらしい、といった話を1兆回聞くのと同じ、ということになる。
これが実は興味深くて、学ぶ側ではなく教える側から考えると教育体系のステージが見えてくる。
わかりやすいのが子育てである。
百見は一見にしかず、の聞かせる部分。これは幼児への読み聞かせと同じだ。会社なら、後輩や部下に「これはこう」「あれはこう」と口頭で教えるようなもんである。
次は、見せる。子育てで言うなら散歩であり旅行である。現物を見せる。すると、100回聞かせることなく1回で見て覚える。
その次は、考える。そして、行動させる、と続く。これは子育てで言うと習い事みたいなものだ。自分で難しさを経験して、そこで学びを得る。山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」にも通じる。させてみるのは行動である。
行動の次は結果だ。これは子供にとっては水泳やそろばんの級が上がるようなもので、教える側としてはどれくらい寄り添い、サポートできるかが重要だろう。コンサルタント商売はこの辺りで稼いでいる気がする。結果を出せるように寄り添いながら指導するのが彼らの役割だからである。
そして結果は幸せにつながっていく。子育てでは、幸は達成感を得ることや努力する価値を身をもって理解することになるだろう。受験はこのあたりの話かもしれない。受験は、子供ながらに人生をかけて本気で取り組む人生で大きなイベントだ。それが合格という結果につながることで「頑張ってきて良かった」と思う。幸せを実感する。そういう経験ができる子供は幸せだと思うし、教える立場である親としては、子供の幸せが自分の幸せとほぼイコールであるから、これは嬉しい。そのためのサポートにも十分な価値がある。
その達成感を実感させて、皇である。人のために何かをする尊さを理解してもらう。それは家庭教育や学校の道徳で学んでいるはずで、ただ、幸を目指してきた過程ではなかなか自分中心から他人主体にはなれないかもしれない。そこがきっと社会課題だと思っている。ただ、その先もまた長くなりそうなので、もう1つだけ続く。

百聞は一見にしかずについて1 8月某日 晴れ

百聞は一見にしかず。
誰もが知っている格言だ。100回聞くのと1回見るのは同じという意味で、漢書の「趙充国伝」に「百聞不如一見」とある(らしい)。らしい、というのは、その漢書を見たことがないから。つまり、これも百聞は一見にしかずの一例である。
それはそうと、この格言には後世になって続文がついた。その内容は以下のように続く。
百見不如一考。百見は一考にしかず。100回見るのと1回考えるのは同じ。
百考不如一行。百考は一行にしかず。100回見るのと1回行動するのと同じ。
百行不如一効。百行は一効にしかず。100回行動するのと1回結果を出すのと同じ。(効ではなく果という説もあり)
百効不如一幸。百効は一幸にしかず。100回結果を出すのと1回幸せになるのは同じ。
百幸不如一皇。百幸は一皇にしかず。100回幸せを感じるのと1回人のために何かをするのと同じ。
これは非常に深くて、私はこれを自分の人生訓にしたいと思っている。私はぼんやりと、なんとなくだが、人の役に立ちたいと思っている。本心としてそう思って生きているし、そこに生きる価値があると思っている。そのぼやけた思いと生き方を言語化しているのがこの一連の文章である。
この話は、ある取材を通じて優秀な社長さんから聞いた話である。話をしながら思わず唸ってしまった。どれだけの人が百聞は一見にしかずのステージで止まっていることか。1回見たから理解した。そう思って、その先に進まない人はたくさんいる。そこでわかったつもりになっている。そうじゃない。だって、その先には、考、行、結果、幸せ、人のため、といったステージがあるのだから。
ネット社会の今は、聞いたり見たりは簡単にできる。そこは落とし穴だ。分かった気がして考えなくなる。そこで先に進めなくなる。もうちょっと賢い人は、あれこれ考えるなら行動しようという。それは理屈としてはわかるけれども、その価値を定量的に示しているのもこの一連だと思う。
自分は今、どのステージで仕事に取り組んでいるのか。単に行動しているだけか、自分の幸せを追求しているだけか、あるいは誰かのことを考えているのか。
そこを掘り下げるのは自分の成長という意味でも大事だし、実は子供や後輩や部下を育てる話にも共通するように思う。その内容は次回。

宗教問題について 7月某日 晴れ

史上最悪レベルの暗殺事件が起きて、宗教が注目されている。
私はそもそもそっち系を色メガネで見ていて、いまだによく理解していない。かつてアメリカに住んでいた時、週1で教会に通う友達を見ながら、そういう世界観もあるのね、と思った。小窓越しに自分の罪を告白して、それで許される世界観があると知り、それってどういう仕組みなんだろうと不思議に思ったし、今も不思議だと思っている。
信心深いことを悪くいっているわけではない。信仰は自由だ。これは大事なことで、私自身、自分や子供らは目に見えない力で守られているような気がしているし、守っていてほしいと思っている。守られていることに感謝もしているし、なんなら、ご先祖はもちろん、そこら辺で浮遊している幽霊的な存在があるのだとすれば、私の背後に乗っかって一緒に楽しもうじゃないか、と思う。この数年はコロナ禍だが、毎年のお墓参りは欠かさない。子供らと神社に行って、お賽銭を出してお参り、お願いをすることもある。
では、お賽銭を出してお参りする人と、私財を投げ打って教祖様やら教会とやらにお布施する人の違いは何なのか。私は自信の有無なのだと思っている。
私はお墓や拝殿に向かってお願いをしたり誓いを立てたりするが、頼るのは自分だと思っている。仮に「お金持ちになりたいです」とお願いするとして、お願いしたからお金持ちになれるとは思わないし、お金持ちになれるように自分で努力しなければならないと考える。自分ならやれる、自力で自分の願いを叶えられると思っている。つまり、自信がある。または、お願いや誓いを立てることで、自分がやらなければならないことが明確になり、そこで自信が湧く。そういう機会としてお墓参りや神社への参拝は大事だとも思う。
一方、自信がない人はおそらく頼る。自信がないということは、自力ではできないと思っているか、自力でやることを放棄している。だから、ご先祖様、神様、教祖様がなんとかしてくれると考えてしまう。
はっきり言えば、そんなことはあり得ない。でも、自信がないから他力本願になる。そこで思考停止に陥る。
そこにつけ込むのが集狂(宗教)である。つくづく最低の仕組みだなあと思う。

自信について 7月某日 晴れ

私は自他共に認める自信家である。
自信は、自分を信じる、と書いて自信であり、会社勤めをせずに自力でやる、などと考えるフリーランス勢は基本的に自信家だ。事業家はその延長線上にある。
心理的にも経済的にも厳しい時期があるのがフリーの常識であり、それを乗り越えられるとすれば、俺にはできる、俺なら乗り越えらえるという自信がある人だけであり、そうでなければとっくに勤め人に戻っているだろう。あるいは、どこか頭のネジが外れていて、どうにかなるだろうと楽観的に捉える人が残っているのかもしれない。
いずれにしても、メンタルが強い。メンタルとはつまり脳であるから、脳の回路的に物事の良い面だけ見るようにできているのか、ピンチで落ち込まない仕組みになっているのか、何も考えていないのか。そういう脳がどうやって作られるのかというと、育ってきた環境や生活環境の影響も大きいと思っている。
子供の頃から親や先生に「君はダメだ」「君にはできない」と言われて続けてきたらどうなるだろう。子供は「自分にはできない」と思い込む。暗示のような効果が出るし、親や先生は子供が信頼している相手だから、その人がいう「ダメ」や「できない」は子供の心に深く刻まれる。
これは社会人でも同じだ。私は会社員経験がないので想像だけれども、上司や先輩に「ダメ」や「できない」と言われ続けたら新社会人は心が折れる。もしかしたらダメではなくできるのかもしれないが自信を失う。
その反対に「いいね」「できるはず」と言われ続けたらどうだろう。自信過剰になってしまう可能性はあるけれども、自分を信じていろんなことに果敢に挑戦できるようになる。どういう苦境でも「自分にはできる」と考えられるようなメンタルが強い人が育つ。そういう人が会社を作り、過去にない商品や技術を生み出し、世の中を変える。
子育ても人を育てることも、要するにそういうことなのだと思っている。飯を食わせることが育てることではない。自信を育てることが人を育てることである。
ごく稀に、「ダメ」「できない」と言われ続けても、自分にはできると思い込める人もいるが、それはレアケースで、普通はそうはならない。私は多分、そのレアケース。それが分かっているから、「ダメ」「できない」は禁句にしている。

限界とロボットについて 7月某日 晴れ

この10年くらい、ずっと走り続けてきた気がする。
特にコロナ禍になってからの3年は、ワンオペ度合いが増したこともあってか、走るというよりはダッシュである。
先週何をしたか。覚えていない。先月何をしたか。思い出せない。去年の今頃は何をしていたか。思い出せる気がしない。要するに、目の前の仕事、家事、子育てばかりルーティン的にやってきたので、日々の思い出の蓄積がない。1つ1つ噛み締める余裕がなくて、ただただ時間が過ぎていく。これがジャネーの法則というものか。多分違う。私が対応可能なキャパシティ(容量)があって、それが満杯か、ちょっと溢れている。
キャパシティってどうやったら広がるのだろうか。PCの後付けHDみたいに、容量を増やせる時代はいずれ来るのだろうか。さらに言えば、HDなんかより私が欲しいのはパーマンに出てくるコピーロボットである。いくらやることが多かろうと、私が2人いればどうってことはない。業務量が減るだけでなく、空いた時間で別の事業について考えられる。
それを世の中ではAIというはずである。私のような物書き商売は、感性と人柄で仕事の8割くらいが成立している。私の感性や人柄が優れている、という話ではない。残りの2割をきちんとやっていると、感性や人柄を磨いたり発揮する余裕が出るという話。つまり、その2割をAIに頼れたなら、8割の集中力も増すでしょう。物書き商売はアナログな業務が非常に多いから、AIまで行かなくても、その1つ2つ手前のデジタル化でも差は出る。
何の話だったか。コピーロボットがほしいという話。
よく考えると、コピーロボットができたとして、子供らと楽しく遊ぶ記憶は俺ではなくロボットに蓄積されるんだろうなあ。俺(生身)は仕事尽くしで、俺(コピー)は子育ての楽しいこと尽くし。それは嫌だし、それをある種の乗っ取りというなら、子育て観点のシンギュラリティはそこで発生する。
そういうどうでも良い話も含めて、最近、自分がロボットだったらいいなあと思う。不死身だし、感情に揺さぶられないし、体力無限だし、老いないし。ロボットとは結局人間が作り出す理想の人間なんだろうな。

最悪の事件について 7月某日 晴れ

相場の昼休み、昼ごはんを食べつつTwitterを見ていた時のことだ。
衝撃的なニュースが飛び込んできた。平和な日本の日常において銃撃なんてことがあるのだろうか。フェイクニュースかなと思ったし、フェイクニュースであってほしい。そんな気持ちで動向を見守りつつ、一方では腹立たしさが湧き上がり、一方では虚しさが広がった。
容体が気になりながらも、家の用事をしたり仕事をしたり子供らのお迎えとか習い事に送ったりとか色々やりながら、ふと落ち着いてどうなったか見てみたら、訃報だった。
以来、すっかり力が抜けてしまった。怒りも悲しみも感情的にはいろいろ交錯するのだけれど、交錯しすぎて対処できない。そんな感覚である。感情があっちこっち飛ぶので、脳がそれを察知して思考停止にしたのかもしれない。
私はノンポリだし、ポリティカルアパシーな世の中で良いとすら思っているから、政局も選挙で誰が勝とうとも気にならない。自民党が圧勝しようが辛勝であろうがどちらでもよく、強いて言うなら、東北勢にとって最大の害悪である民主党とその残党どもが退廃していくことが確認できれば十分である。選挙とは、私にとってはその確認作業でしかない。
ただ、この話はそこに終始しない。民主主義がどうこうとか、暴力がどうこうとか、そういう理屈は関係ない。世代で語るのは良くないし好きでもないが、私の年齢の前後にとっては、アベノミクスとはつまり日本経済であり、復興と未来の象徴である。昨日まではそうであったはずなのだ。
私が今、株関連の仕事をしているのも、市場で投機しているのも、日々楽しく生きていられるのも、少なからずアベノミクスのおかげである。国難に止まらず、世界難とも言えるコロナ禍の最悪期を耐え切れたのも、アベノマスクだと揶揄されながらも、当時の状況で最大限の努力と判断をしてくれたおかげである。他にも挙げればキリがないが、このような実績がなければ日本はもしかしたらとっくに沈没していたのではないか。沈没させる側で一生懸命だったのは新聞やテレビといったオールドメディアで、ただ、その話をしたところで文字数の無駄なのでしない。
アベノミクス、最高でした。おかげで今日も無事に生きています。明日からも生きていけます。安倍さん、本当にありがとうございました。

バブル前夜について 6月某日 晴れ

インフレである。
私は物心ついた時から世の中がデフレであったから、物価が上がるよ、上がっているよ、と言われても、想像はつくが実感が湧かない。インフレは、分かりやすく言えば、100均とユニクロとファミレスと回転寿司がない世界である。そう考えると、なおさら実感が湧かない。だって、私の日常は100均とユニクロとファミレスと回転寿司で成り立っているのだから。
日本においてインフレが問題視される根本的な原因は、過去30年くらいにわたるデフレだったからだろう。30年もデフレが続けば、マグロ2貫は100円で、Tシャツは1000円という値頃感が染み付いている。それがいきなり倍化したら、諸外国感覚ではまだまだ安い水準だったとしても、生活者感覚では高いと感じる。マグロ2貫が100円kら200円になったとして、それはたかだか100円の話なのだが、慣れというのは恐ろしいもので、高いと感じるし買いたくなくなってしまうだろう。
直近で日本がインフレだったのはバブル経済期である。この時はあらゆる資産が値上がりした。今では1000万円もしない郊外の家が1億円で飛ぶように売れて、しかも買う人がたくさんいたため物価が跳ね上がって、それがバブル経済につながった。
冷静に考えれば、1000万円の家を1億円で買う人は異常である。しかし、理屈としては異常でも、現実には売れていた。ここが面白いとこである。1000万円の家を1億円で買う人がいる。バブルとはそういうものである。
歴史は繰り返すといったのはマルクスだったか。もっと古来に哲学者がそのようなことを言ったという記憶もある。数十年ぶりのインフレが、数十年ぶりのバブルを生もうとしている。実際には給料が上がらないと正真正銘のバブルにはならないけれども、地価や物価はすでに上がっている。
それは言い換えれば、ババ抜きの始まりでもある。ある人は1000万円の家を1億円で売る。ババを引くのは、ここで買う人である。だって、本来は1000万円の家なのだから。1億で買った家を1000万円で売る人の姿も目に浮かぶ。高値で買って安値で売るのは、株の世界で私がよくやっていることである。

インフレについて 6月某日 晴れ

アメリカは歴史的なインフレ率であるらしい。
その率は8%らしいが、実質的には13%くらい、という話もある。物価が短期で1割上がるということは、手取りが1割減るようなものである。日本食だからという理由と円安ドル高だからということもあるのだが、誰かのツイートで、アメリカのラーメンは3千円で、サバ味噌定食は5000円であると読んだ。日本国内だと900円くらいだろうか。ラーメン1杯900円も個人的には高いと思う(し、頼まないと思うわけだ)が、3000円と聞くと、それはそれでネタとして食べてみたい気はする。そうやって謎に高いものが売れる状況をバブルと呼んだりもする。
インフレって何だろう。ちょっとお勉強の話になるが、インフレはモノの価値が上がりお金の価値が下がるという状態。生活者視点で言うと、月給が30万円だとして、家賃や食費などの生活費に25万円使っている人は毎月5万円ずつ貯金できる。インフレになると、生活費が30万円に増えるので貯金できなくなる。雑な説明だが、私はそう解釈している。
もちろん、給料も30万円から35万円に増えれば5万円貯金できるという点では変わらない。インフレはお金の価値が下がるわけだから、5万円の貯金は、金額的には従来通りだが、その価値は下がる。かつては5万円で買えたものが、今は7万円になっていたりする。
今はその1つ前の段階で、物価が上がっているけど給料は据え置き。生活費が5万円増え、一方、月給が30万円もまま。これは生活者的には結構厳しくて、なんでそうなったかというと政治でありロシアである。
もうちょっと掘り下げると、重要なのは、労働の価値が低下することだと思っている。物価が上がって給料水準が上がらなければ労働の価値は下がる。働月給30万円の価値があった労働が25万円相当と評価されるようなものだ。これは労働の搾取という見方ができる。生活費は上がっているわけだから、給料が上がらない限り暮らしぶりは貧しくなる。これって石川啄木先生の「はたらけどはたらけど、なおわが暮らし楽にならざり」の世界に向かっている可能性もあるわけで。
コロナ禍になって2年くらい言い続けていることだが、私はコロナバブルが続いている。それはそれでありがたいとしか言いようがないのだが、ふと労働価値が下がっていると考えると、この忙しさは何なのよと思う時もある。忙しい割に貯金が増えないわけである。

怒ることについて 5月某日 晴れ

ろくなニュースがない。
私はテレビとか新聞を見る習慣がないので、もっぱらネット不快なニュースを流し読みするだけなのだが、それでも、あちこちで事件が起きているように感じるし、世の中にはクズ人間しかいないような気さえして辟易としてしまう。
不思議なもので、私の周りはすこぶる平和だ。誰もトラブらず、トラブルに巻き込まれることもない。でも、それって実は不思議ではない。私が見る不快なニュースなんてたかだか1日10件くらいだから、1億2000万人が住む日本では1200分の1という極小の確率であるし、70億人が住む世界で見ればテールリスクのようなもんだ。確率的には、世界のどこかでパンダの赤ちゃんが生まれた、というニュースくらい、嫌で不快で辟易とするニュースも他人事と見ていて良い程度の他人事ということである。
Twitterをよく見ている。ここもニュースに対する世界観は似ていて、日々、どこかで誰かが何かに怒っている。正直なところ、そんなに怒ってどうするの、と思う。斜に構えるわけではなく、そこまで怒ることなのか、と思ってしまう。
これは日常生活でもある感覚なのかもしれない。目の前にすごく怒っている人がいると、同じくらい怒りを感じていたとしても、自分の怒りは表に出しづらくなる。すでに別の人が思いっきり怒っている姿を見ることによって、俺が怒る必要もないか、と思ってしまう。わかりやすく言えば、醒める。
そこがもしかしたらオールドメディアの新聞やテレビとニューメディアのSNSの違いかもしれない。オールドメディアは一方的な報道だから、どこで誰が怒っているかわからない。津々浦々で、きっとテレビの前では、こうでもない、ああでもないと怒っている人がいる。言い方を変えると怒り醸成装置である。
その点、SNSは誰がどこでどれくらい怒っているかが見える。個人的には、誰かがすごく怒っているから、俺は別にいいやと思う。ニュースそのものは腹立たしいんだけど、醒める。怒りの沈静装置になる。
この違いは実は大事だと思っている。だって、人生を楽しく過ごすためには怒りのような負の感情は少ない方がいいわけだから。
いつだったか、母親が言っていたことがある。テレビばっかり見ていると馬鹿になる。それはそうだと思うとともに、ニュースを見ていちいち不快になるのであれば、テレビばっかり見ていると不幸になるだろうなあと思う。

老いについて 5月某日 晴れ

10年ぶりくらいに取引先の人と再会する機会があった。
久しぶりであり、お互いにどう過ごしてきたか色々雑談しようと思ったのだが、そういう話になる前に、私の頭を見て「髪。。。」となった。10年前の私のイメージと程遠い白髪のおじさんを見て閉口した、という話。
この話、面白くないかもしれない。でも、続けちゃおう。
人間は常に老いている。人間を頭と体に分けるとすれば、頭については、例えば忘れっぽくなるとかボケるといったことが起きる。何歳から脳の力が低下するかわからないが、脳は鍛えられるというのが一般論で、だから書店には脳を鍛える方法を書いた本がたくさんある。
一方、体は一方通行で老いる。体はダブつき、持久力は下がり、筋力も下がり、代謝も落ちる。トレーニングによって筋肉はつくかもしれない。しかし、髪などは鍛えようがない。さらに言えば、一般論として、ストレスとか疲れとか悩みとかが白髪を増やすと言われるけれども、周知の通り、私はストレスもないし疲れることをしていないし悩みすらない。強いて言えば、白髪が急増したことがストレスであり悩みである。
私はもともと猫毛で白髪になりやすい。かつては白髪を見つける度に根元から切ってもらっていた時期もある。今はそれすらも難しい。根元からカットしたら、きっと毛量が半分以下になる。
私はどこかで、自分は老いないと思っていた。老いるのが嫌なのではなくて、老いることと自分が無関係だと思っていた節がある。
世の中には不老不死を求める人が多いが、その理由がわかった。私は、不死は嫌だと思うが、不老は手に入れたい。この半年くらいの老化がスピード感ありすぎて、老いる現実を理解できないままでいる。
それは言い換えれば、今までは頭の成長スピードの方が体の成長(老いの)スピードよりか早かったということである。わかりやすく言えば名探偵コナンである。早熟とも言えるし、いい意味でジャニーズなどアイドルもこのパターンである。一方で、頭の成長スピードを上回って体が老いているのが今である。それをなんと言うんだろうと考えたら、今のところ老害という言葉しか思い浮かばない。

感謝について 5月某日 晴れ

良いの反対は悪い、美味しいの反対はマズい。
反対語は色々とあって、光と影、行くと帰る、金持ちと貧乏、株高と株安など、世の中のあらゆることに反対語があり、ペアの関係で存在している。
もちろんペアの相手がない言葉もある。例えば、名詞には反対語がない。これは当たり前で、タケノコの反対語もパソコンの反対語もない。そんなことをぼんやり考えていて、ふと「ありがとう」の反対語は何なのだろうと思った。怒りなら許し、笑いなら退屈、悲しみなら癒しみたいな、そういうハマる言葉があるのではないか、と思ったわけである。
そんなことを考えていたら、過日、取材相手の方と話をしていて、偶然にもその答えを教えてもらった。その答えとは「当たり前」。感謝の気持ちがなくなると、自分が享受しているあらゆることを「やってもらって当たり前」と思うようになる、ということである。
これは唸った。物書き商売をやっていてよかったと思った。私は取材で色々な人と会い、色々な話の中で発見とか学びを得ているわけだが、感謝の反対は当たり前、という考えは、多分、マザーテレサさんが言った、愛の反対は無関心、と同じくらいのインパクトがあった。
その視点で世の中を見渡してみると、「やってもらって当たり前」と何の疑いもなく考え、行動している人が多いことに気づく。つまり、感謝の気持ちがない人たちである。
私はいろんなタイプの人を許容するし、自分で言うのもおかしいが、それなりにうまく人と付き合える。むしろ自分と考え方や価値観などが違う人と出会うことで、そういう人もいるのか、面白いなあと感じるタイプである。ただ、ほぼ唯一と言っていいくらい苦手なのが、感謝の気持ちがない人である。それはきっと潜在的に嫌悪感があって、ここだけの話、過去に縁を切った友人も、付き合っていてお別れした女性も、そのほとんどが感謝しない人か、できない人だった。感謝せず、当たり前と思うタイプの人と、感謝の気持ちを大事にしたい私がペアになれるはずがなかったんである。
そんな過去を思い出しつつ、最近の自分を省みてみれば、感謝の気持ちを忘れていることも多い。仕事があることも、子供らと楽しく毎日を過ごせていることも、決して当たり前と思ってはいけない。そんなふうに自戒した今日この頃です。

気合いと根性について 4月某日 晴れ

気合いと根性はいまだに根強い価値観である。
部活はこの2つで成り立っているし、大人になっても、職種で言えば営業(昔ながらの)もそうだし、業界的には不動産とか飲食とか商社とかもその匂いを残しているし、出版や執筆もそうである。自分自身も気合と根性である。
気合いと根性はそれなりに大事だ。我々のようなフリーランス商売は、常識を超えた量の仕事を短期間でこなさなければならない時がある。引き受けられない量なら断ればいい、と思うかもしれないが、我々は恩とか義理が大事な商売であるがゆえ、安易に「忙しいので無理です」とも言えないわけで、だからたまに常識を越えることがあり、気合いで乗り切り根性で耐え切らなければならない時が来る。最近はそういう状況になる機会が減ったが、年に1、2回はある。
振り返ってみると、過去にはそういう機会が年に5、6回はあった。2ヶ月に1回のペースで修羅場が来るイメージである。それでも案外平気だったのは若くて体力があったからだろう。あとはITである。物書き商売はIT化が遅れている旧態依然とした商売であるが、最近は少なからずITが普及してきた。例えば、取材や打ち合わせはリモートが増えたし、取材の音声も自動でテキスト化できるようになった。おかげで気合いと根性で乗り切らなければならない場面が減って、その結果、徹夜する夜は以前の半分以下になったし、年々弱っているはずの体力でもどうにかなっている。そういう点で、ある程度ラクさせてくれるようになったITには感謝しかない。
どんな商売も、最終的には気合いと根性だと思っている。ただ、最初から最後まで気合いと根性だけではどうにもならない。武器が少なすぎる。武器とは、例えばITなどによる合理化や効率化とかであり、一般的に、年をとるほど「経験則でどうにかなる」「ITなんぞに頼らなくても大丈夫」と思う人が増えるのだが、それは全く逆で、老いるからこそITのような合理化の仕組みに頼る必要がある。
IT化のような取り組みと気合いや根性のような精神論は、プラスとマイナスみたいな関係性に捉えられがちがだが、そうではない。組み見合わせることが大事。気合いがいらないことはITに任せて、残りを気合いで乗り切る。この2つの組み合わせというか棲み分けというか、その塩梅がこれからのフリーランスの生き残りにおいて重要なポイントだと思っている。私はまだまだ気合いで乗り切っているところが多いわけだけれども。

投資の持続可能性について 4月某日 晴れ

たまには株の話。
私は、ほぼ毎日株を売買する。ただ、いわゆるデイトレであり、今日買って今日売るか、買った翌日の朝に売るトレードがほとんどで、売買する会社が何をしている会社か、ほとんど知らない。何をしているかもあまり気にならない。
そういう投資に抵抗感や違和感や嫌悪感を持つ人もいるかもしれないが、投資することと投資先を知ることは必ずしもイコールではない、と思っている。それは投資とトレードの違いかもしれないし、投資と投機の違いなのかもしれないが、個人的に、そこに何の違和感もないのは、私がパチンコ出身だからだろう。パチンコやパチスロが特徴的なのは、パチンコは釘、パチスロは設定が変わるため、今日出た台が明日も出るとは限らないということだ。そういう世界に馴染んだせいもあって、株の値動きもそんな視点で見ている。昨日上がった株が今日は暴落しても、そういうもんと思う。設定が変わったな、くらいの感覚である。また、何をしている会社か調べ、そこに可能性や将来性を見つけたとしても、それって今の経営方針であって、明日はどうなっているかわかんないよね、と思う。だから、会社や事業そのものにもあまり興味が湧かない。
自己分析として私が会社員に向いていないと思うのは、そこに原因がある。尊敬できる経営者が切り盛りする会社でも、明日にはその経営者が交代するかもしれない。企業には理念やイデオロギーがあって、それが世代を超えて受け継がれていくのだろうし、だからホンダとかソニーは強いのだろう。ただ、それはごく一部の企業だとも思っていて、世の中には、創業当初とは全く違う方針で事業に参入し、迷走している企業がいくつもある。
世の中のサラリーマンの多くは、生活のためやお金のために働くのだという。私はサラリーマン経験がないが、その気持ちは分かる。会社や経営者の思想に共感して入った会社で思想に共感できなくなった場合、仕事をする理由は、おそらく生活とかお金に向かうだろうと思うからである。
何の話か。株の話だった。今月も損切りが多い。気兼ねなく損切りできるのは、その株の値動きには興味があっても、事業内容や戦略は知らないし、固執してもいないからだろう。株価が下がっても決算が悪くても何のストレスもない。
ただ、最近はどの株も恐ろしいくらいに下がる岸田禍なので、損切りが多すぎることと、全然儲からないことにストレスを感じるのだが。

感謝について 4月某日 晴れ

持続可能性は普遍的なテーマである。
あらゆることに関連するから話題が色々と広がる。心理学的には現状維持バイアスとか、経済学的には人口減少の話とか、実はあらゆることがサステナブルかどうかを問われているような気がしている。
それはそれとして、商売と持続可能性という点で考えてみると、物書き商売は持続可能性が低い。私が知っているだけでも、フリーランスをやめて会社員に戻った人はたくさんいるし、フリーランスになって、その後の音信が途絶えている人もいる。そういう業界であることを踏まえれば、なんだかんだ20年超に渡ってフリーの物書き商売をさせてもらっている現状はありがたいことである。
どういう因果で20年超になったかは分からない。運としか言いようがない。
1つ言えることがあるとすれば、私の実力ではないということだ。
物書き商売をやっていて思うのは、あまりにも文章力がない場合は別だけど、実力はそれほど大きな問題ではないということだ。80点くらいの文章が書けるのであれば、あとはその力を評価する人がいるかどうかである。
たまたま私の周りには、私が書く文章を気に入ってくれている人がいる。インタビューのやり方なのか文章なのか分からないが、いいねと思って発注してくれる人がいて、リピートしてくれる人がいる。そういう人に恵まれたという点で、20年超に渡って商売を持続できている理由は実力ではなく人である。突き詰めれば、そういう人との出会いに恵まれたのは運であるから、だから、運としか言いようがない。
では、どうやったら運が良くなるかというと、そんなことは分からない。ただ、最近ある方と話をしていて心に刺さった言葉があった。それは、感謝の対義語は当たり前、という言葉である。
世の中には横柄な人がいる。例えば、コンビニとか飲食店に行くと、そんな横柄な言い方するのかよ、と驚くくらい、お客様は神様なのだと勘違いした無礼で品のない振る舞いをする人を見かける。なんでそうなるかというと、店員さんへの感謝がないから。言い換えれば、ペコペコされて当たり前という感覚があるから。つまり、感謝の対義語は当たり前。そういう態度の人は、周りに人が集まらないだろうと思うし、万人に寛容な私(←)ですら、男として、親として、人として、そういう人には近づきたくないから、触れないでおこうと思う。
そう考えれば、物書き商売の持続可能性が低いことも感謝である。それが分かっているから、私は仕事をいただけることを当たり前と思わないし、思ったこともない。それが感謝の気持ちを持つことにつながり、対人関係をよくし、仕事が増える一因にもなっているのではないかな、と最近思っている。

商売の持続可能性について 4月某日 晴れ

持続可能性についての続き。
商売の組み立て方が変わった気がしている。最初にそう思ったのは、サブスクが普及し始めた時である。サブスクは、定期購入の仕組みとしては昔からあるが、それが急に注目されるようになった背景が気になっていた。
これは事業者側の視点から見るとわかる。サブスクは、会員制などの囲い込み制度も含めて、長期で収入が安定する。つまり収益性という点で持続可能性が高く、そこにサステナビリティ時代の新たな事業価値があり、時流の変化の中で事業の組み立て方も変わった、ということである。
決算書の視点から見ると、売上と利益を見るPL的な思考から、経営の安定性を見るBSや、現金の流れを重視するCFの思考に変わっているのかもしれない。
従来の経営は、今期の売上額と前期比との増減に注目してきた。期間内にたくさん稼ぎ、たくさん残すのが正解で、前期比でマイナスになりそうであれば決算前に駆け込みで売上を作った。巷でよく目にする決算セールは、その典型例。
これは収益を単年で考える思考で、サステナブルではない。決算直前で追い込まれる経営や営業が辛いし、決算後は再び1から売上を積み上げなければならない。そのプロセスに多くの人が漠然とした疑問を抱いているところにSDGsがきて、単年の売上ではなく、来期以降も見据えて、売上、資産、現金が増加していくプロセスがいいのではないか、という流れになってきた。サブスクはまさにそれで、期中の売上は少ないが、翌年以降の売上が確保できる。
ここで難しいのは、サブスク的な商売なら生き延びられるかというと、そうでもない。定期購読の代表的存在である新聞は年々購読部数が下がっている。サブスクテレビのNetflixは好調だけど、強制サブスクのNHKは厳しい。NetflixとNHKの明暗を分けている要素はコンテンツの質だろう。つまり、サブスク的な持続可能性を実現する大前提として、消費者がお金を払いたいと思う価値を提供しないといけない。それが実は持続可能性の鍵で、サブスク動向に関係なく、おそらく数百年前から変わっていないし、数百年後も変わらないのだと思う。
物書き商売の持続可能性、ということを一時期よく考えたけれど、以上のような考察から、生き延びるために重要なのは原稿の質を高めることであり、そのための努力が不可欠であることがわかった。そろそろ真面目に仕事をしようと思う。

家計の持続可能性について 3月某日 晴れ

SDGsのS。サステナブル。サステナビリティ。持続可能性。
一般的には、持続可能性というと環境の話になるが、私はどちらかというと経済的な持続可能性のほうがソソられる。例えば、給料制で働いている会社員は給持続可能性が高い。安定的な収入があり、金額は基本的には増えていく。これは羨ましい。参考までに、私の今月の収入は、先月の約1割である。フリーランスの物書き商売は、持続可能性という点で最弱だと思う。
それはさておき、金額も大事ではあるが、価値も見る必要があるだろう。例えば、岸田政治は会社員の給料引き上げ方針なので、月給が30万円から40万円になるかもしれない。これは大きな増収だ。ただ、価値はどうか。今の円安トレンドで考えると、円安傾向の対ドルベースでは、実は10万円の増額ではない。4月以降は食料品や生活用品が値上がりし、「あれ、給料10万増えたはずなのに、お金が……」となる未来が待っているかもしれず、インフレを加味すると、増額はとても少ないかもしれず、もしかしたら減額かもしれない、という話。
こういう話は、今どきの言葉でいえば金融リテラシーやマネーリテラシーということになり、リテラシーが高い人たちは「現預金ではダメ」「投資しましょう」という論調になる。
興味深いのは、30年前は全く逆の現象が起きていたことである。当時は、預金や貯金で年5%くらいの利息がつき、株の値上がりや配当なんてほとんどなかった。つまり、当時は、働く、稼ぐ、預金する、という方法が最も効率的で、多くの人が、言われるまでもなく、その方法を実践していた。この「言われるまでもなく」というところが大事。去年の話だけれども、マネックス証券さんの松本さんから話を聞く機会があり、一般市民のリテラシーは高い、とおっしゃっていた。その根拠は、失われた30年に突入する際、つまり、バブル崩壊の直前直後に、銀行や証券界隈が現金以外の資産を買い越した一方で、一般市民は逆に資産を現金化し、その後の円高とデフレで資産価値を上げたところまで含めて、正しいアセットロケーションをした、ということ。その結果は周知の通りで、つまり、日本人はリテラシーが低いと言われるが、実はそんなことはなくて、お金の嗅覚が優れている。いくつもの銀行が消えた一方で家計がしぶとく耐えた過去も、株安円安の岸田禍で一般家庭のダメージが小さいように感じられる現在も、一般市民のマネーリテラシーが高く、経済的な持続可能性が高い。のかもしれない。

1年の節目について 3月某日 晴れ

3月になったら、いろいろやろう。
そう思っていて、やりたいこと、やらなければならないことがいくつも頭に浮かんでいた。ところが、気づけば3月になっている。なぜもこう時間が経つのが早いのか。
この時期にいつも思うのは、今年こそ確定申告を早く終わらせよう、ということである。いつも思うということは、いつもできていないということである。案の定、今年もまだ何も手をつけていない。
私は自分で確定申告する。書類を作って送るまでに1日か2日かかかるが、フリーランスになった時からずっと自分でやっている。
たまに、同業者や似た業種の人に、税理士さんに頼めばとアドバイスを受ける。たしかに、その方が楽だ。税理士さんに頼んで1、2日空けば、仕事も進むし、子供らと遊ぶ時間も作れる。
しかし、自分でやる意味もある。その1つは、自分の仕事の振り返りができることだ。
3月になって1年を振り返ると気には、1年前の4月とか5月に単発で引き受けた仕事についてはほぼ忘れている。源泉徴収額が書かれている支払い調書が送られてきたのを見て、これは何の仕事だっけ、こんな会社からお仕事いただいたっけ、と思うことも多い。
税理士さんにお願いすると、そういう振り返りはできない。どういう縁で仕事をいただいたか、単発で終わり、2回目、3回目に繋がらなかった理由は何か、といったことに考えが及ばない。これは、自分の改善点や修正点を把握するという点でもったいないことだと思う。
逆も然りで、1年を通じて収入を振り返ると、どの会社からたくさんお金をもらったかがわかる。それを知ることで感謝できるし、リピートが多いということは自分のどこかが気に入られているということだから、それを知ることも大事だ。
確定申告をする際には、そういう振り返りをいちいちやっている。だから時間がかかるのだが、来年の方針とか戦略を考えるためには過去を踏まえなければならない。そのために確定申告は重要であり、税理士さんに任せる方がラクだったとしても、自分でやろうと思う。まだ、やっていないけれども。
ところで、私は3月生まれなので年齢的な区切りとして1つ老いる。3.11を経験したことで人生観が変わったので、来年の3.11まで全力で行くぞと決意を改めるという点で、精神的な区切りも3月である。そして、経済的には確定申告で去年を振り返る。厳密には、申告する分は昨年の12月末までの収支だが、振り返るという点では3月だから、そこが心機一転のタイミングになる。
一般的には「一年の計は元旦にあり」で、お正月にいろいろと振り返ったり、次の目標を立てたりすることが多いのかもしれない。しかし、私の場合、肉体的にも精神的にも経済的にも3月が区切りやすい。3月になったらいろいろやろうと思うのも、色々な個人的理由で、「一年の計は3月にあり」となっているからかもしれない。

11年経ったことについて 3月11日 晴れ

11年が経った。
人が常に新しいものに興味を示す生き物であるとすれば、11年前の震災について語られる機会が減っていくのは仕方がないことだと思っている。自分の周りを見ても、震災の年に生まれた長男は当時の状況を知らないし、長女は生まれてもいないわけだから話のしようがない。そういう世代に向けて震災の辛苦を語り継ぐのが大人の役目であり、振り返りと考えるきっかけを与えるのがメディアの役目であると思っているけれど、今年はロシアが荒れている。メディア的に、視聴率的に美味しいのは過去の思い出より鮮度が高い旬のトラブルである。
愚かな人は経験に学び、賢い人は歴史に学ぶ、という論がある。ビスマルクの言葉だったと思う。
自分で経験してみなければわからない。経験してみてようやくわかった。それは愚かな人のやり方。賢い人は、わざわざ自分で経験してみなくても、他人が経験した事実、つまり歴史を知ることで知見を得る、という意味である。
これは意外と深い。例えば、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」は、他人に危害を及ぼすような人は愚かな人であり、愚かな人には、同じ目にあわせて、どういう気持ちになるかわからせるという原則を指す。これも要するに、愚かな人は経験させて学ぶしかない、という前提に立っている。
偉そうなことを言うつもりはなくて、私は自分が愚者の部類だと思っている。震災についてあれこれ言うのも、私が、ど真ん中ではないけれど、それなりに被害を受けた1人だからである。つまり、経験から学んだ。もし何の被害もなく、震災についてメディアなどで知っただけだったとしたら、私はここまで震災について考えることはなかったと思う。実際、その20年前には神戸で震災が起きているわけだが、私は当事者ではないし、歴史から学べる賢者でもないので、3.11に見舞われるまで震災について深く考えることがなかった。
実際に経験するのが最も学びになる。それは事実だと思う。
ただ、震災のようなものは経験しないほうがいいに決まっている。だからこそ、私は愚者の1人として、年に1回くらいではあるけれど、震災の危険性と防災の大事さを伝えたいと思っている。一般的には、学びとは愚者が賢者から学ぶわけだが、経験者である愚者が説得力を持って賢者に伝えられることもある。備蓄したり、避難場所を決めたり、家具などの転倒防止を考えるなど、防災対策はきちんとやっておきましょう。

眠れない夜について 3月某日 晴れ

また大きな地震が起きた。
東北で震度6強。東京は4強くらいで、それなりに揺れた。
ただ、それなりには揺れたけれども、それなりであったから、寝かしつけたばかりだった子供らは起きることなく、緊急地震速報(あの音はいつ聞いても怖い)も鳴ることなく、久しぶりに揺れたなあ、くらいの感想で終わった。
実家がある仙台では、部屋の中のものが倒れたり落ちたりして大変だったようだ。ただ、現地の人の捉え方もそれなりであったようで、震災を経験しているからそれほどショックは大きくなかったらしい。そういえば、3.11の時はまだ祖母が健在で、ひと通り落ち着いた頃に大丈夫だったかと聞いたところ、戦争を経験しているからたいしたことない、と言っていたのを思い出した。
ストレスやパニックへの耐性という点で、人は経験で強くなる。東北の高齢者は最強だなと思った。東北魂は、私の血にも流れている、はずである。
11年前と違うのは、親がLINEをやるようになって、状況がすぐにわかるようになったことだ。当時は電話がつながらずに不安が膨らんだが、今回はメールやSNSで連絡できる。これからの老人世代は自分を含めネットとスマホを使い慣れた世代だから、電話1本でしかつながっていない人は減っているわけだし、3.11の時のように連絡不能になるようなケースは減っていくのだろう。
言い換えれば、マスメディアはいよいよ不要であるということだ。とくに震災のような非常時において、マスメディアが果たせる役目は非常に小さい。
地震が起きて、親族にメッセージを送ったりTwitterを見て情報を読んだりしたのち、久しぶりにテレビをつけた。何か有益な情報があるかな、と思ったからである。しかし、1、2時間ほど見て、いくつかチャンネルを回してみたけれど、得られる情報は既知のものばかりである。5分前に放映済みの情報を繰り返すだけで、そもそもが二次情報のメディアだから仕方がないけれども、それにしても何の更新もなく、義理的、義務的に地震の番組を垂れ流しているだけ。
あんなもの、誰の役に立つのだろうか。そもそも電気が止まったエリアではテレビがつかないし、スマホは充電さえあれば停電関係なく情報を入手し続けられるわけで、そう考えると、ますます緊急情報の発信役としてのテレビ番組の価値はないな、と思う。公共性があるから、という理由でお金を取るテレビ局もあるけれど、若い人が払いたがらないのも頷ける。SNSのように、テレビより有益で役に立つ情報を、無料で早く入手できるメディアがあるのだから、テレビ番組にお金を払う必要はないと思って当然である。
テレビが悪いということではない。ドラマとかお笑い番組とかは、私は興味ないから見ないけれど、きっと面白い。ただ、情報の発信源という点での価値とランクは低い。かつてのテレビは生活に欠かせない情報源だったかもしれない。今はYouTubeやネットフリックスと同様に、趣味で見るものなのだなあ、というようなことを、地震後の緊張で眠れない中で考えていました。

勝負について その2 2月某日 晴れ

勝負ごとが嫌い、という話の続き。
私は誰かと勝負する対人の勝負が嫌いであり苦手である。その理由は3つあり、そのうちの2つは前回書いたので、3つめの理由。
3つ目の理由は、勝負して勝った時に、相手が気の毒に思えてしまうから。その感情が嫌なのだ。
例えば、会社の中で誰かと部長の座を争うとする。私は、前述の通り、勝負するとなったら勝つためにあらゆる準備をするので、おそらく勝つ。部長になる。
しかし、本心としては、部長になることなどどうでもいいと思っている。どうでもいいと思っている私が、勝負に勝って、部長になる。
一方で、負けた人は人生をかけて部長になりたいと思っていたかもしれない。そういうことを考えるから、勝ったとしても全然嬉しくないし、むしろ、ごめんね……という気持ちになる。それが嫌なのだ。
何を言ってんだ、こいつ。そう思う人もいるだろう。
私自身、自分が勝負を嫌う理由を整理したつもりなのだが、いざ文章にすると、何言ってんだ俺、と思う。
ただ、それなりに筋も通るのである。
例えば、私はパチスロや株は大好物である。嬉々として挑む。なぜなら、それは誰かとの勝負ではないからである。負ける恥ずかしさもないし、誰かに嫌な感情を抱く相手もいないし、負けた人に申し訳ないと思う気持ちも生まれない。だから、そういう勝負は気兼ねなく挑める。とても心地いい。
また、私はフリーランスの物書き商売だから、出世争いとか成績争いとかは無縁である。これも実に心地いい。
私の座右の銘は「勝つまでやれば負けません」である。実際、そう思う。負けても再挑戦すればいいし、諦めなければいつかは勝てる、と思う。
ただ、今の自分を内観してみると、「勝つまでやれば負けません」というよりは「勝負しなければ負けません」に近いかもしれない。フリーの商売は自分との戦いであり、誰かとの戦いではない。私のような性格の人には転職だと思う。
ところで、ロシアがウクライナに軍事侵攻し、戦争が始まった。
全く関係ないことのように思えるだろうけど、勝負に関する私のどうでもいい話と戦争の話は実はリンクする。これも勝負の話なのだ。
戦争を仕掛ける人はどういう人か。
勝つことだけ考えて、負けた時のことは考えていない。
勝つために、勝率が少しでも高くなるように、相手の不幸を願う。
負けた相手の感情を考えない。
この3点において、私とは全く逆である。だから、私は戦争する人が理解できないし、もっと日常的なところで、ケンカする人も理解できない。
もちろん、受験とか出世争いのように、誰も傷つけることなく行われている勝負についてはなんとも思わない。むしろ、私にはできない勝負の世界を渡り歩いているわけだから、受験生の子たちも会社員の方も経営者の方もすごいなあと思う
でも、戦争はそうじゃない。人が死ぬ。
だから、私は戦争には反対である。
戦争する人を理解しないし、理解する気もないし、認めない。

勝負について その1 2月某日 晴れ

勝負ごとが嫌いだ。
私を知る人たちは「嘘つけ」「勝負ごとが大好物だろう」というかもしれない。
違うんである。ここでいう勝負は、ギャンブルとかの勝負ではなくて、対人の勝負の話。つまり、誰かと戦う勝負。
私はそれが苦手で、それを避けて生きて続けている、という話である。
あらためて、誰かと勝負するのがなぜ嫌なのか考えてみた。
結果、3つの理由が思い浮かんだ。
1つは、勝ってしまうからである。
生意気に聞こえるだろうけども、大抵のことなら、私は勝つ。なぜなら、勝負する、勝負しなければならないと決まったら、私は案外真面目だし、負けず嫌いのところもあるので、勝つための準備や練習をするから。
例えば、相手が毎日100回素振りするなら、私は105回くらい素振りする。勝敗は、そういう小さな差の積み重ねで決まるところが大きいし、私はそのことを知っているから、勝つと決めたら勝つための準備をする。だから勝つ。
これが実は問題。勝つならいいじゃないか、という人もいるけれど、そうじゃない。勝つとわかっていると、勝たないといけない。勝たないといけない状態で負けると、かなり落ち込む。しかも恥ずかしい。
これは、リスク、リワードのバランスで考えると非常に不利だ。勝っても当たり前という評価だし、負けたらなんでだ、ということになる。そう考えると、勝負する意味がない。価値もない。だから、私は勝負が嫌なのだ。
2つ目の理由は、相手に対して嫌な感情を持ってしまうから。
例えば、絶対に負けられない勝負となった時、相手に対して「負けろ」と思う人は多いと思う。その気持ちが行き過ぎて、勝負前にケガしたりお腹を壊したりすることを望んだり、彼女に振られてメンタルを壊してしまえと祈ったりする人もいるかもしれない。これは、人として最低である。最低なのだ。そして、私は器が小さい人間だから、勝負が差し迫ってきたら、きっとそういう最低の思考になる。そうなる自分が嫌だし、そうなりたくないから、勝負をしたくないのである。
3つ目。これも多くの人に共感してもらえると思う。
ただ、文字量が限界になったので、次回に続く。
(2回に分けるような話でもない気はするが)

親ガチャについて 2月某日 晴れ

親ガチャという言葉がある。
子供は親を選べない。親がどうしようもない人間だった場合に、「こんな家に生まれちゃったオレ/ワタシって不幸だよね」というような話。
確かに、不幸なのだ。例えば、虐待をするような親のもとに生まれた場合、子供は逃げ道がない。何千分の1か、何万分の1かわからないけれど、そういう家に生まれたのは不幸でしかないし、親ガチャ失敗は言い得て妙だし、どうにもできない現状があるとすれば、それを想像するだけで胸が痛い。
一方で、最近は親ガチャという言葉が一人歩きを始めていて、おそらく理解力が低い一部のメディアのせいでそうなっているんだろうけど、経済力とか学力がない親の元に生まれることが、親ガチャ外れた、という議論になりつつある。
そこで、たまには真面目な話をしよう。
あのな、子供たちよ。そういう視点で「親ガチャがイマイチ」だと思うのだとしたら、ごちゃごちゃ言う前に自分でなんとかしなさい。
「うちの親は貧乏だから」というのであれば、君が頑張ってお金持ちになりなさい。「うちの親は無学」というのであれば、君が頑張って勉強するのです。
人のせいにすんな。親のせいにすんな。
カースト制度がある国と違って、日本は自由だ。今どき、士農工商もない。
なんでもできる。なんでもできるのだから、あとは、やるか、やらないか。
誰かのせいにし始めたら、自分には何のプラスにもならない。時流に流されて人のせいにしている人は、20年、30年後に、「親ガチャ外れた」って言われる側の人間になっているだろう。
それより情けないと思うのは、親である。子供に「親ガチャはずれ」と言われている親のほう。
しっかりしてくれ。もっとできることがあるだろう。
「貧乏だから」と言われるならもっと稼げばいいし、「学力が」と言われるなら勉強すればいいし。
「子供は好き勝手言うもんだ」みたいなニヒリズムはいらない。「子供は何もわかってない」みたいなシニシズムもいらない。
かっこいい親になろう。「親ガチャあたり」と、言われなかったとしても、思われる親になろう、と、僕は今日思いました。

2月の短さについて 2月某日 晴れ

2月の短さよ。
過去に100万回くらい言ってきたことなのだが、2月は短い。もはやそれがスタンダードになっているけれども、今年から祝日が2日に増えた。天皇誕生日であるらしい。それなら、仕方がない。おめでとうございますとしかいうより仕方がないのだが。
それはそうと、コロナバブルがありがたいのは、売上面で嬉しいということもあるのだが、1つ1つの仕事の質も良くなるということである。
一般的に、量と質はトレードオフで、量をこなそうと思うと質が下がり、質を追求すると量は稼げない。100円ショップの商品は、たくさん売れるけれども質はそれなりで、ブランド品は、質はいいけれど数は出ない、みたいな話。
ところが、バブルはそのジレンマを超越する。100円ショップとブランドショップで言うと、世の中がバブっているので低品質なものは排除されて、それなりの品質があれば数も出る。つまり、いくら100円でも、これはお金の無駄だと評価されるものは消える。
一方で、今は90年前後のバブルとは違って、貧しい状態でのバブルであるから、価格帯が高い分野においても、この品質で、さすがにこれは高い、と評価されるような、高さと希少性だけを売りにしているような商品は消える。例えば、予約が取れないことがウリだったレストランとかは、予約が取れるようになってプレミアがなくなり、ネームバリューだけでお客さんが集まっていたホテルなども、質実剛健というか節約主義というか、そういうご時世においてコスパが悪いと評価されるようになっている。
その結果として、どこに需要が集まるかというと、中間。それなりに良さそう、という水準で、激安ではないけれども品質がそこそこいいところであり、例えばユニクロとかケンタッキーとかがそんな水準にあって、物書き商売で言えば、たまたま私はその辺りにいるのだと自己評価している。おかげで、売上が増えて、仕事の質も良くなっている。
そういう背景を考えると、コロナバブルはもうちょい続くかもしれない。私はフリーになって今年で22年目になり、浮利を追わないというか、安売りしないというか、そんな方針がようやく時代とマッチしてきた感じがしている。やることが多い。だからこそ、もう1回言っておきたいのだが、2月は短い。

コロナバブルについて 1月某日 晴れ

今年もすでにやることが多い。
ありがたいことである。
コロナ禍になって2年になるが、コロナバブルはまだ続くらしい。
このバブルがありがたいのは、仕事の量が増えて、売上面で嬉しいということもあるのだが、1つ1つの仕事の質も良くなるということである。
一般的に、量と質はトレードオフの関係にあって、量をこなそうと思うと質が下がり、質を追求すると量は稼げない。100円ショップの商品はたくさん売れるけれども質はそれなりで、ブランド品は質はいいけれど数は出ない、みたいな話。
ところが、バブルはそのジレンマを超越する。
世の中がバブって品質重視に傾くため、低品質なものは排除される。つまり、いくら100円でも、これはお金の無駄だと評価されるものは消える。
一方で、価格帯が高い分野も、この品質で、さすがにこれは高い、と評価されるような、高さと希少性だけを売りにしているような商品は消える。それはコロナ禍の影響もあって、例えば、予約が取れないことがウリだったレストランとかは予約が取れるようになってプレミアがなくなって、ネームバリューだけでお客さんが集まっていたホテルなども、質実剛健というか節約主義というか、そういうご時世においてコスパが悪いと評価されるようになっている。
これは考えてみれば当たり前のことで、政府の補助金がついたりして世の中が豊かになったから、安さのみ重視する「安かろう悪かろう」の商品は淘汰されるし、一方で、ネットで色々安く買える時代では、消費者の消費リテラシーが高くなるから「高かろう良かろう」も敬遠される。
どこに需要が集まるかというと、その中間。「それなりに良さそう」という水準で、激安ではないけれども品質がそこそこいいところであり、個人的な感覚だけど、ユニクロとかケンタッキーとかトヨタとかがそんな水準にあって、物書き商売で言えば、たまたま私はその辺りにいるのだと自己評価している。その結果として、売上が増えて、仕事の質も良くなっている。
そういう背景を考えると、コロナバブルはもうちょい続くかもしれない。ならば、今年も限界まで流れに乗ってみる。
私のような弱小フリーランスは、流れに身を任せるのが得策である。

フリーランスの収入について1 1月某日 晴れ

フリーって大変でしょう。
たまにそう言われることがあるのだが、私のような物書き商売については、全然大変だとは思っていない。
大変だろうなあと思うのは、現場があって売り上げが立っているフリーの人。コロナ禍で現場が圧倒的に減っている中では、私にとって身近な職種で言うと、カメラマンとかイベンターとかは大変だろうなと思う。
過日、久しぶりに現場仕事があって、久しぶりに顔見知りのカメラマンと会った。最初に思ったのは、元気そうで何よりだということ。だって、現場がなければ収入がなくなることも十分にあり得るからね。
その人は、もともと能力が高いこともあって、収入は激減したけど、どうにか堪えていると言っていた。
そう考えると、自宅に篭れる物書き商売は恵まれている。イラストレーターとか編集者も割と近くて、現場がなくなってもリモートで仕事ができるから、収入が激減するようなことはない。むしろ、リモートが増えるほど移動時間が減るなどして仕事の効率は上がるので、誰と仕事をするか、どこまで引き受けるかといった個人差はあるだろうけれども、私を含めて、仕事の量が増えたという人は多いはずである。
参考までに、昨年の私の休日は計5日だった。356日のうち360日は仕事をしていたということになる。これがコロナバブルである。
一般的な会社員の出社日数が250日くらいであるらしいから、私は1.5倍くらい働いたわけなので、一般的な会社員よりも収入が多くても誰も文句は言わないだろうと思う。これがフリーの収入の実態である。働いたら、働いた分だけ収入が増える(税金とか保険料とかも増えるから手取りはそんなに増えないけれどね)。
逆に、現状のカメラマンのように、自分の意思に関係なく、働く機会が減ったら収入も減る。
私は、たまたま去年は仕事が多かったが、いつ、何時、何かが起きて、収入が激減するかわからない。そう考えると、「フリーって大変」ということではない。フリーって運だよね、が正解なのだと思う。

納期を守ることについて 1月某日 晴れ

毎年、年の初めに目標を立てる。
今年の目標は3つで、子供らの勉強と遊びに付き合うこと、子供らに病気やけがをさせないこと、納期を守ることである。
はじめの2つはさておき、3つ目の、納期を守る。
これは、フリーになってから常に守ってきたことであり、フリーで食っていけるかもしれないと思った理由の1つでもある。
もう何十年も前の話なのだが、私はかつて仕事を発注する側で、その時に一番困ったのは、納期を守らない人が多いことだった。当時の私は若造だったから、先輩であるフリーの人たちになめられていたのだろうとも思うが、とにかく締め切りを守らない人ばかり。締め切りが近づくと、毎月のように、どうですか、まだですか、いつですか、みたいな連絡をして、散々時間を無駄にした。
あらためて考えると、私が時間主義者になったのも、約束を守らない人を信用しなくなったのも、この時の経験がかなり影響しているように思う。
そんな経験を逆手にとって、これだけ締め切りを守らない人がいるなら、締め切りを守る人なら仕事が重宝されるんじゃないだろか、と考えたのが、フリーになると決めた理由の1つ。
安直ではあるが、間違ってはいなかったと思う。だって、そこから20年ちょいにわたって、これという才能もない私がフリーで仕事を続けてこられた理由は、納期を守るということ以外に特に思いつかないのである。
ところが、人間というのは怖い。気を抜くと調子に乗る。
昨年、いつもよりもたくさん仕事をいただいた私は、何回か納期を守れなかったことがあった。厳密には、納期を超えてしまいそうだと分かった時に連絡をして「あと1週間おなしゃす」と伝えてはいるので、了承済みではあるのだが、相手の予定や約束したスケジュールを乱すという点では、私の頭痛の種だった人たちとほぼ同罪。
幸い、私は人に恵まれている。周りの人たちは、多少の遅れは融通を利かせてくれる人ばかりである。しかし、甘えたら終わりである。甘えによって失職した人を何人も見ている。
そんな自戒を込めて、今年はあらためて納期厳守を目標にした。
初心忘れるべからず。

一年と一歩目のはじまりについて 1月某日 晴れ

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年は挑戦意欲が湧く。
ニヒルに考えれば、カレンダー的には、12月31日が1月1日に変わるだけの話なのだけど、そこに大きな節目があるせいか、今年はこれをやる、今年こそこれを頑張ろう、といった気持ちになれる。
これって結構大事。だって人間は気持ちや意識で行動が変わる生き物だから。
さて、今年は何をやろうか。おかげさまで、フリーランスになって21年が経つ。もはや記憶が曖昧だが、計算してみると、たしかフリーになったのが1月だった記憶があるので、今月から22年目。あと2年で人生のちょうど半分がフリーランスということになる。
私は飽きっぽい人間なのであらゆることが三日坊主だが、まさか今の仕事が自分の半生に至るとは思ってもみなかった。
好きなことは続く。続くからもっと好きになる。
そんなかっこいいことを言うつもりはないけれども、何かに挑戦したいと思っている若い人たちは、念ずれば通ずというか、継続は力なりというか、続けられそうであれば、とりあえず挑戦してみたらいいんじゃないか。
何かに挑戦することについて、一般的には一歩目を踏み出す勇気が大事、といわれるけども、私はそうは思っていない。一歩目は勢いがあれば踏み出せる。それよりも大事なのは、二歩目三歩目。つまり、続けていくこと。歩みを止めないこと。それってつまり持続性でありSDGsかもしれない。二歩目三歩目が続かない挑戦は、一歩目をうまく踏み出してもうまくいかないだろうし、二歩目三歩目が続きそうであるならば、一歩目をどの方向に踏み出そうが、そんなことはたいした問題ではなくて、後からいくらでも修正できると思う。
これは若い人に限ったことではなくて、私のような中年にも言えることだ。
今年は一歩目を躊躇せず、やりたいことをやってみよう。実際、やってみたいことはいくつもある。問題は、その気持ちが時間と共に薄れることだ。
そういう自分の欠点も含めて、今年はもうちょっと頑張ろう。
そんなふうに思う新年の始まりである。

● HOME ● 本&雑誌の仕事情報 ● パンフ&ネット仕事情報 ● プロフィール ●
● 取材後記 ●
202120202019201820172016201520142013201220112010200920082007
 ● このページのTOPへ ●

ライター 伊達直太

メール:jackonizka@w-date.jp
仕事のご依頼、お待ちしております。
ライターや編集者志望の人もどうぞお気軽に。

http://www.w-date.jp

Copyright(c) 2022 Naota Date. All rights reserved.